新選組! 雑文コーナー

その六

DVD 『新選組! 完全版』 によるレビュー

2005年9月3日

☆はじめに
 2004年放映のNHK大河ドラマ「新選組!」。三谷幸喜脚本によるこの作品は、私にとってはじめて触れた三谷劇であり、ついに最終回まで観通したほどの面白さと深さを持った番組だった。強靭に紡がれるストーリー、本道を踏み外さない作劇法、それを支える役者の演技、熱意と試みに溢れた演出、そしてそれらの背景にひそかに、しかし一貫して流れる作者の主張……。こうしたものが綯い交ぜとなって、この優れたドラマは作られている。
 ただし、その魅力に気づき、捉えられ、引き込まれ、はては新選組ゆかりの地のフィールドワークも加えた感想と考察を克明に記すに至るまでには、私としてもそれなりの経過を辿ったようにも思う。
 そこであらためてこのコーナーに集積された雑文を読み直してみると、当初は第一回について、日記コーナーに「土曜の昼の再放送に観るには害がない」くらいの冷たいことをただ書いているのみで(しかもなぜ大河ドラマを観ようと思ったか、あるいは観るに至ったかはもう覚えていない)、それから第五回まではまったく言及がない。それが第六回になって突如三谷幸喜の作劇の面白さに目覚め、伏線だの、象徴だの、隠喩だのに着目して、じっくり番組を見始める。だがそれでも、記録としては、なお断片的感想に留まったままである。
 そしてその状態がしばらく経過した後、ついに本格的に考察を書き始めるのが、どうやら第十七回からのようなのだ。そこでこのレビューも、おおむねそのあたりまでを補い充実させることとして、それ以降については、最初に番組を視聴したときの生き生きした同時進行感や臨場感を生かすために、明らかな錯誤、思い違い、また不完全な引用部分などを修正するに止めておこう。
 

2005年9月4日

☆新選組! 第一回 黒船が来た
 DVDであらためて観直すと、この回がすでに、最終回に至るまでのあらゆる回のエピソードの伏線となっていることが見て取れて、今更ながら驚嘆する。
 まずは元治元年、京の町での浪士取締りのシークェンス、オールスター登場の場面から。
 ここでまず、このドラマにおける新選組のすべてを語っておこうという構想だったのだろうが、三谷幸喜はこれについて、脚本を書き続けていくうちに組や隊士の性格が変わってきてしまったので、まずはイメージビデオとして見て欲しい、と語っているようだ。確かにそうかもしれないし、ドラマも作者も変化成長するわけだから、当初の枠に押し込めておく必要もない。
 実は白状すれば、私はこの第一回をまともに通して観るのは、これが初めてである。昨年のドラマ開始のときは、近藤と土方が龍馬に誘われて、佐久間象山の黒船視察一行に加わるところからテレビを点けたのだった。だから私は、以後の諸回を観ていくさいに、この「イメージビデオ」の印象には、まったく左右されていないのだ。その点からは、もうこのドラマの一部始終を知ってからこの部分を観て論評するのは、かならずしもフェアではないだろう。とはいえ、逆にそうした新鮮な立場から観ると、私にはこの部分は、三谷幸喜が言うほどには、後の部分と乖離はしていないように思われるのである。あの有名な沖田発言(「返り血のつかない斬り方を編み出したんですよ」)すらも、池田屋喀血(結局血がつくわけだ)以前のこととすれば、性格設定としても十分に許容の範囲内だろう。
 
 さて舞台は、突入の前段から始まる。桂小五郎立ち回り先の情報をつかみ、周囲に監察が潜み、あらかじめ準備してあった隊服に着替え、得物を手に取る。このあたり、池田屋襲撃を彷彿。土方はメークが違い、島田はほぼそのまま、また観柳斎は眼鏡が異なる(後の形の方がいい)。山崎、沖田(ここで問題発言)、源さん、浅野、河合と、ずっと後に活躍する面々も含めて顔見せをする。香取扮する近藤は、メークこそ総髪であるものの、収録が重なった後日に比して、まだまだ面魂が甘い。
 軍議に遅れて現われる山南。すべてに遅れを取る山南の運命は、すでにここで語られる。かれひとり隊服の羽織を着ないというのも、その象徴だろう。沈着冷静な永倉、剛毅な道化の左之助、間の抜けた末弟キャラクターとしての平助が、次々に紹介される。そして斎藤が、後の不精髭姿とは対照的に極めて美男に描かれて、この時点ではいまだ完全には人物像が決定されていないことを物語る。要するにここは、人形振りによる大序の段、とでもいったところか。
 場面は転じて、長州側の軍議。穏健派としての桂が描写され、幾松が登場するうちに新選組が突入し、予告編で飽きるほど観た、例の殺陣シーンとなる。発言どおりに返り血を浴びずに浪士を斬る沖田、からくり仕掛けの床の間に身を隠して逃げる桂、勇と幾松の対決とたたみかける。菊川玲がひとり芝居の調子が生硬で、このドラマの女優陣のなかで、なぜ彼女だけが必ずしも高い評価を得られなかったのかが、はやくも理解できる。また逃亡する桂の姿を目撃しながら怯む監察役浅野も、通説どおりの一貫したキャラクターとして現われる。
 剣戟の舞台は、さらに加茂の河原に移る。怪力の島田、左之助の鑓、敵を鋒打で倒す永倉、容赦のない斎藤と、それぞれに役どころを披露する。そして一件の収束後、山南の言う「戸板を三枚、敵のために。そこまでが我等の仕事」という台詞は、いかにも頭で考えるかれらしい性格を示すためのものだ。
 島原の深雪太夫のサービスショットを挟み(優香はただ素直に演じている)、「いざ!!!」の凱旋パレード。報告を受け上機嫌の会津容保侯と、後に活躍する広沢様、それに勘定方の河合も登場。これだけすでに総出演であったのかと、あらためて驚く。
 そうして場面は、この「イメージビデオ」の終局の部分にあたる、伏見寺田屋での龍馬、お登勢、おりょうの会話となる。おりょう「近藤勇を知ってるんでしょ」龍馬「江戸に居ったころは…」。そこでお登勢、おりょうの両人がこもごも「勇伝説」を尋ね始めると、龍馬の「そやニャア…」という、ナラタージュともつかない回想の嘆声とともに、舞台は大序から第一段目、十年前の江戸へと転換していくのである。
 
 場面は江戸のとある茶店。島崎勝太が商家の娘に、土方との別れ話を持ち出している(当の歳三は、はやくも別の娘に色目を使っている)。勇「(歳三は)必ずなにかを成し遂げる男なんです」これは三谷幸喜が近藤に言わせた預言なのだ。娘「叩かせてください、一発! (でも)あの人はダメ」「ハイ ドウゾ!」と顔を差し出す勇。人の替わりとなり、犠牲となって頬をはたかれるこの勇の姿は、当然、幕府の身代わりとなって斬首される最終回の近藤の運命を暗示する以外の何ものでもないだろう。現実の土方が奉公先の娘と色恋沙汰を起こしていることはよく知られたエピソードだが、そこに近藤を介在させることによって、三谷幸喜は演劇的に壮大な伏線を張ったというわけだ。
 橋の上の会話でふたりの不安定な青春を描写し、次は蕎麦屋での一件。歳三「(島崎勝太の新しい名前である近藤勇の「勇」は)勇み足の勇だろう」これも一種の預言と取れる。そこに桂小五郎が登場し、蕎麦に関する薀蓄を垂れる。善意ではあるのだが(勇「悪い男じゃないんだが」)、自分の知識の披瀝に夢中になって人の感情を害していることに気づかない、頭のいい人間にありがちな、あの高慢で狷介なキャラクター。しかしここでの蕎麦談義は、後の京での潜伏場面において、桂が夜泣き饂飩屋に化けたさいの台詞「作り方を知らん!」に繋がるのかと思うと、ああエリート描写としては一貫していたのか、と感心させられる。
 いわれなく奢られた蕎麦代を返さんと桂を追う、まっすぐな勇。桂「では出世払ということで……」これも預言的台詞だが、勇ははたして将来、桂に意趣を返せるのか否か。一触即発のそのとき、舫ってある舟で昼寝していた龍馬が、両者に割って入る。その生涯の最期まで仲介役として終始する龍馬の歴史的立場が、ここで一挙に象徴的に示される。「(桂を)いつか殺す!」と力む土方に、「日本人どうし刀フリ回して、どうするつもりゼ」と龍馬はたしなめ、二人を浦賀の黒船見学へと誘うのだ。
 さて舞台は試衛館。近藤周助先生の稽古姿、子役時代の沖田惣次郎、実直な源さんの姿が描かれ、厳格な養母ふでと快活な沖田みつも登場する。黒船の瓦版に見入る勇の背後にふざけて忍び寄り、竹刀で頭を一撃するみつ(彼女はその後も浪士組に同行できないことに怒って勇を叩いている)。そこに庭で薪を割る沖田のショットが入るが、これらは考えてみると、いずれも勇の処刑のメタファーなのではないか。
 みつに黒船来航の解説をする攘夷派の近藤。勇「イクサになる」みつ「ヤダ……」「怖い世の中……」これは当然、戊辰戦争直前の、みつとその夫林太郎の台詞「戦争はいやだな……」に繋がっていくものだろう。
 翌早朝、勇は歳三に「黒船に乗り込む、とにかく何かする」と、閉塞状況を打ち破りたい気持ちを表わす。この二人の青年は、とにかく目の前に立ちふさがるものから脱出したいのだ。そして佐久間象山との出会いが来る。象山先生につけられる仇名のうち、土方の「木綿豆腐」はともかく、近藤の「鬼瓦」は、今後の近藤の行末を象徴するものだから聞き逃せない。タイトルバックの鬼瓦もそこに由来するし、思えば近藤の、そして日本の運命を変える黒船の船尾は、あの勇が見入っていた瓦版によれば「鬼の顔」をしていたではないか。
 鬼が来て、鬼になる。この意味合いについては、最後に触れる。
 茶店で一服して団子を頬張りつつ、龍馬は故国土佐の桎梏に近い身分制度、「上士と郷士」について近藤に語る。実は龍馬は、近藤ときわめて酷似した境遇なのだということが、これで巧みに説明される。同じ出自、同じ理想、同じ(ただし表面上は正反対に見える)活躍、同じ死に方。ここにも三谷幸喜の主張がある。
 象山先生に呼ばれる近藤と土方。二十一歳だと言う近藤に、佐久間象山は、人生の過ごし方について、十年刻みで説諭する。「最初の十年は自分のこと、次の十年は家族のこと、二十代は国のこと、三十代では日本のこと、そして四十代では世界のことを考えよ、いまは将来正しい判断ができるように蓄積せよ」と。このことばが存外に哀しい響きを持つのは、近藤勇が四十代までは生きなかったことを我々が知っているから、そして三十代の近藤が「正しい判断」をしたかどうかということこそが、このドラマの主題(これが
「誠の心」だ)であることを知っているからなのだ。
 浦賀沖に停泊する黒船は、DVDで鮮明に観ても、粗が出ず見事。こうしたパースペクティブは、CG合成ならではだ。勇は佐久間象山に尋ねる。「アイツラのいちばん大事なものは」象山「フラフ」勇「旗を奪う」……そう、いちばん大事なものは「旗」。つまり
「誠の旗」ではないか。
 磯に散乱するゴミ(近代環境汚染の象徴)に関する皮肉の後、近藤と土方はコルクを拾う(「戦利品だ」)。これは二人の青春的結合の象徴として、最終回まで扱われる。一方、崖の上では龍馬と桂が述懐する。龍馬「乗ってみたい、世界の海に出たいゼヨ」桂「暗澹たる思い、行末が不安」佐久間象山は桂に対して「小さい小さい」と笑い、黒船に向け小船で漕ぎ出さんとする近藤と土方を見下ろしながら論評する。「むやみに受け入れる者(龍馬のこと)、日本の殻に閉じこもる者(攘夷派近藤のこと、しかしかれの乗る小船、すなわち幕藩日本はすぐに水船となり、あまつさえ黒船の号砲一発で震えあがって丸裸で抱き合う情けなさだ)、それに対して、開国後十分に力をつけ、奴等(星条旗がはためく)にあらためてケンカを売る、それが真の攘夷だ」だが桂は、なおも不安なのだ。そして史実上の木戸孝允も、死ぬまで不安を抱いていた。
 こうして、通常枠よりも十分間長尺だった第一回の幕は閉じられ、一年間に亙る大河ドラマの幕が、あらためて上がるのである
 
 
私は「新選組!」を観続けていくうちに、このドラマにおける近藤勇が(ということはつまり三谷幸喜が)理想として目指した「武士」とは、旧弊な封建武士ではなくて、やがて来るべき四民平等の世の中にあって市民的な高いモラルを持ちつつ社会を率いていく、そうしたジェントルマン的存在としての概念だったのではないか、それこそが「誠の旗」に象徴されているのではないかと考えるに至り、このコーナー中でも、折に触れてそのことを記してきたつもりだ。
 そうした視点からこの第一回を振り返ると、「天然理心流入門」でもない、「養子縁組」でもない、「四代目襲名」でもない、さらには「浪士組結成」でもなくて、まさに「黒船が来た」というところから、ドラマ「新選組!」とその中の近藤勇の歩みが、なぜ始まらねばならなかったのかということについての理由が、あらためてよく理解できるようにも思われる。
 つまり、共和的市民道徳の具備具現というのは、実像はどうあれ、まさにアメリカ合衆国が理想とした/するところのものであり、黒船来航というのは、まさにその理想の、日本への導入の象徴でもある。
 そしてその黒船に翻っているのは、「いちばん大事な」「フラフ」すなわち星条旗であり、そこには合衆国の理想が象徴されている。

 そう考えてみると、新選組のモラルの象徴たる「誠の旗」とは、きわめて興味深いことながら、まさに「星条旗」に他ならないではないか。同質・等価のもの以外ではあり得ないではないか。のみならず更に言うならば、真の開国、真の攘夷を行なう新時代の日本人として、その星条旗を超克する(これが勇の台詞「旗を奪う」ということの真の意味だ)のもまた、「誠の旗」をして以外にはあり得ないのである。
 
他方、先にも述べたように、瓦版の黒船の船尾には「鬼の顔」があった。
 新時代の象徴は、日本にとってはきわめて厳しい「鬼の顔」をしてやってくる。それに触発されて動き出す近藤勇は、佐久間象山から「鬼瓦」と名付けられ、新選組局長として「鬼」になる。それは、黒船同様、新時代の先触れ、魁(この字にも「鬼」が入っている!)であり、同時にその役割(季節や時代を無理やり開く)を果たした後は、皆から疎まれ憎まれ逐われる、そうした存在でもあるのだ。「新選組!」が、黒船から始まらねばならぬ所以である。
 こう考えてくると、この第一回は、じつに深い意味を持っているではないか。そして、この「新選組!」というドラマもまた。
 

 

2005年9月9日

☆新選組! 第二回 多摩の誇りとは
 今回は、第一回に比して、嵐の前の静かなプレリュード(もちろん小さな波はあるが)といった趣の回である。舞台はもっぱら、近藤と土方の故郷である多摩の地で、かれらにゆかりの多摩の人々を総出演させることによって、両名の人となりの背景を説明する。もちろん、「おれたちは多摩の百姓」(勇)という、このドラマにおけるあっさりした規定ではあまりに物足りないのは事実であり、専門家、また好事の人から見ればさまざま異論も当然出るだろうが、幕末の多摩について、たとえ簡単でも触れた作品などそうはないので、さまざまな歴史意識を抱くためのきっかけと考えれば、それなりに有意義ではある。
 ちなみに、登場人物の辿る運命を、こうした地域特性から説き出したものとして、私は、海音寺潮五郎原作による、平将門を描いた同じくNHK大河ドラマ「風と雲と虹と」を思い出す。考えてみれば、平将門も、近藤勇も、「公家に差別される武家」「武士に差別される郷士」という点では同質であり、功名を求めて京に上り、挫折し、逆賊の汚名を被せられて非命に死ぬというところも、またまったく同じなのだ。長年の大河ドラマファンと自認する三谷幸喜であるからには、この「風と雲と虹と」を必ずや観たことはあるだろうし、あの山本直純の名調子のメロディをバックに坂東の土を耕す(平安中期の武家は開拓農民の chieftain でしかなく、貴族の傭兵としてその身分は低いのだ)、加藤剛扮する将門の汗臭い姿を、私同様に印象深く覚えているに違いない。そして自由と解放とを夢見て立ち上がり、ついに敗れる将門のイメージが、「新選組!」において、「
誠の武士」たることに見果てぬ夢を見る近藤、そして蝦夷「共和国」のために最後まで戦う土方のなかに、通奏低音のようにつねに響いていると考えていけないわけはないだろう。
 また「多摩の誇り」という題名は、劇中における土方の兄為次郎の台詞から来ているが、その題のとおり、今回のドラマは、盲目の風流人為次郎を養うだけの財力のある土方一族、またそれに連なる大名主下佐藤家(ここでは簡単に佐藤家とのみ描かれるが)、同じく小島家、近藤の剣の才能を伸ばすだけの家計も家格も備えていた宮川家、さらには架空ではあるが同じく富裕な養蚕農家として描かれる捨助の実家滝本家といった、まさに地域の誇りを持つにふさわしい多摩の豪農豪商層を、われわれの眼前に紹介してくれる。しかも新選組ファン、あるいは演劇ファンにとっては、それに加えて"Introducing 永倉 and 左之助"という嬉しい部分までつけられているサービス振りである。
 ところで、近世から幕末の多摩については、大石学『新選組 最後の武士の実像』(中公新書1773、2004年11月25日)に、要を得た解説がある。それ以外に、新選組との関わりについては、佐藤c『聞きがき新選組 新装版』(新人物往来社、2003年3月11日)、佐藤文明『多摩の風土が産んだ志士たち 新選組』(イラスト・ふなびきかずこ、現代書館【イラスト版オリジナル】FOR BEGINNERS シリーズ96、2003年12月25日)、神津陽『新選組 多摩党の虚実 土方歳三・日野宿・佐藤彦五郎』(彩流社、2004年9月10日)など、それぞれに興味深い。またウェブサイトとしては、長年町田の自由民権資料館学芸員を勤められた鶴巻孝雄先生のサイト「鶴巻孝雄研究室」
http://www006.upp.so-net.ne.jp/tsuru-hp/index.htm が、最も克明で信頼に足るものだろう。
 ちなみに、鶴川にある私の研究室(丘の上の5階)からは、いくつも連なる丘陵を越えて、はるかにみなとみらいを眺めることができて、高い建物もニュータウンもなかった昔、「きぬのみち」沿いに栄えた多摩の人々にとって、開港場横浜は、小高い入会の丘の上に登ればすぐに指呼の間に望める、案外に身近な距離感を持っていたのではないかと思わせる。つまり草深いと思われている幕末多摩は、じつは直接に海外に対して開かれていたのであって、そのことは八王子片倉にある紡績豪農の館跡に作られた「きぬのみち資料館」に残されている英語練習帳などを見ると、如実に理解できるのである。こうした多摩に関する考察については、他にも「
雑文その一 14.☆自由民権資料館」および「雑文その三 35.☆『多摩の風土が産んだ志士たち 新選組』紹介」の部分を参照されたい。

 さて舞台は安政四年(1857年)、調布の宮川家。近藤は多摩への出稽古の徒次、里帰りしているという設定。宮川勇五郎が登場して、勇とその兄宮川音五郎に、拳骨を口に入れる芸をねだり、史実の近藤勇の特技を、ここで香取慎吾にサービスさせる。これあるがゆえに近藤役を香取慎吾に当てたという、まことしやかな話もあるほどだ。他方、音五郎役の阿南健治もまた、「竜馬におまかせ!」で近藤勇に扮したこともあり、やはり口に拳固が入って適役だ。宮川勇五郎は音五郎の子であり、長じて板橋における近藤の処刑の目撃者となる。後に近藤の娘たまと結婚し、子母澤寛に対する語り部となる人物だから、そのあたりを知っていると、この場面はにやりとする。また近藤に従って出稽古について来た沖田みつが姿を見せる。どこにでも現われるみつだが、ここで子供と遊ぶ姿は、総集編たる「新選組!スペシャル」のナレーター役として、導入部で子供たちの遊ぶ姿を眺めるシーンの原型となるのだろう。
 次に勇の回るのは、日野の名主をつとめる佐藤彦五郎の屋敷。その妻であるのぶは浅田美代子が演じているが、「赤い風船」の拙いアイドルの記憶しかない私には、こんなにいい味を出す女優になっているというのが、まず驚きだ。
 佐藤家の道場で、近在の農民に、近藤は天然理心流の太い木剣で素振りをさせる。厳しい稽古に耐えるよう心構えを説く勇に、「いくさと言われても……」と実感なくぼやく若い衆たち。ところが「いくさ」はもう目前なのだ。そしてその「いくさ」は自由民権運動や武相困民党はおろか、じつは日米戦争敗戦による小作農地解放まで続くのだ。
 薬の行商の合間にやはりたまたま佐藤家に立ち寄っている、のぶの実弟である土方歳三は、町人姿に身をやつし、稽古風景を見ながら「剣を執っても百姓は百姓だ」と鬱屈している。
 そこに小野路の名主、小島鹿之助が尋ねてくる。こうして近藤・佐藤・小島の義兄弟が集結し、多摩の主要メンバーが舞台に上がる。この三者の会話のなかで、時代相が簡にして要を得ながら解説される。それは開国による多摩養蚕農家の富裕化と地域経済の発展ということであり、他方でそうした変化に伴なう社会的動揺と治安の悪化であって、そうした豪農のひとつである滝本家を狙う盗賊が出没し、近藤はその警護役を依頼されることとなる。
 滝本家に向け出発した勇、歳、みつの三人は、まず歳三の持つ薬を渡すために、土方の兄である土方為次郎の家に寄る。かつての土方役である栗塚旭についてはいまさら言うことはないが、ここで為次郎が多摩の地域特性について解説するなかで「多摩の誇り」という言葉を発し、それは近藤はじめ試衛館一統からなる新選組が、最後まで佐幕としての立場を貫くことの大前提となるし、さらには後代の多摩壮士の運命までを伏線として語るのである。
 他方、遊びに長けた風流人であったという実在の土方為次郎のキャラクターも巧みに生かされていて、ドラマの為次郎は、盲目であるという立場を生かしてちゃっかりみつの顔に触り、「目の見えないことをこれほど後悔したことはありません」などと上手におだてて嬉しがらせる。指先で触れるだけで美人か否かわかるというほどの経験ある遊び人だという、ここはなかなか洒落たシーンでもあり、のみならず盲目ならではの神秘的感受性をそれとなく示すこの一幕は、ドラマ終盤での為次郎の予言の場面をいっそう引き立てるための伏線ともなっている。
 滝本家に到着すると、どら息子の捨助が勇に纏わりついてうるさがられる。勇を慕い、認めてもらいたいあまりに勘違いな不始末をしでかす捨助のキャラクターが、はやここに顕われる。その勘違いのひとつとして、宿場で用心棒を拾ってきた捨助。それが武者修行の素浪人、永倉新八だ。「多摩のことは多摩の人間で……」とためらう近藤に対して、「兵の数は多いに越したことはない」と答える土方は、すでに参謀としての役を果たしている。また、これまで人を斬ったことがないし、斬りたくないので木剣を使うと話す勇に対して、永倉は「仲間が目の前で斬られてもですか」と問うが、これはすぐ後の場面に響いてくる。近藤・土方より若い十九歳のくせに、すでに老成した永倉のキャラクターは、今後も一貫している。グッさんは「二の線」(三谷による)をじつにそれらしく演じて、コマーシャルでお馴染みの、あのひょうきんさのかけらも見せぬ。それでいて、スタジオではつねに皆を笑わせて雰囲気を盛り上げたという。才能のある役者だ。
 捨助のもてなしについ飲み過ごして寝入った夜、賊が蔵を襲う。捨助の不手際による乱戦のなか、勇は賊の鉄砲で右腕を撃たれるが、これは鳥羽街道での高台寺党による狙撃の運命を予告するものだろう。また木剣を飛ばされて窮地に陥った土方を見て、近藤はついに刀を抜き、賊を斬り倒す。はじめて人を斬った勇は「殺すつもりはなかった……」と手を合わせる。
 ところが、ショックの覚めやらぬ近藤を置いて、参謀歳三は早くも気を取り直して、最後に残った賊の一人を見つけ出す。それがたまたま一味に加わった風来坊の原田左之助で、口が卑しく独立不羈で奔放の性格設定は、かれの場合もすでに確立している。そしてまさに永倉と左之助とが渡り合わんとしたその瞬間、「(左之助の口許に)飯粒がついてるぞ」と声を発して両者の気勢を削ぐ勇もまた、剣客・リーダーとしての片鱗を見せるのである。
 一方、捨助は「お前が鉄砲を撃ち損じたせいでこの騒ぎとなり、しかも首領を取り逃がした」と永倉にとっちめられる。捨助が不名誉を挽回できるのは、はたしていつの日だろうか。それとも、ついに(あの風車のごとく)空回りのままで終わるのだろうか。結末を知っている今だからこそ、こうした深読みもできるのである。
 翌日、井戸端で「落ちないもんだな、血の匂いってのは」と述懐する近藤の台詞は、まるで「マクベス」を思わせるが、まだ悪夢を振り払えない勇に対して腹を立てた土方は、お前の良心がとがめるのは結構だが、「イイのか、オレが死んでも」とつっかかる。一仕事を済ませ、みつを江戸へ返した後も、なおもそのことにこだわりを残したまま、ふたたび為次郎宅に寄った土方は、兄に「こいつは(武士になったくせに)人を斬ったことを悔やんでいる」と訴える。それに対して為次郎は、万事呑みこんだ風流人(ということはカウンセリングの達人でもあるだろう)らしく、「刀の前では人は平等、生きたいという思い、生きのびようとする差にすぎない」と勇の気持ちを楽にする。そうして家の軒先、煌煌たる月の光の下で、ドラマ序盤の白眉とも言うべき、あの為次郎の預言的台詞が出る。「近藤さん、風が変わりはじめていますよ。世の中に、これまでとは違った、新しい風が吹きはじめている、岩をも揺るがす」そこに浪士たちによる天誅のシーンが被さり、幕府の支配体制が揺らぎ始めていることが示される。「もう間もなく、あなたのその剣が求められるときが必ずやってきます。風に乗るにせよ逆らうにせよ、いったんあなたの剣が抜き放たれたら、鞘に収まる閑はない」そして歳三へ「お前は(近藤さんを)知恵で支えろ、二人の刀でこの時代と切り結ぶのだ」と。ホメーロスのように、盲人の詩的霊感の形をとって、このドラマのすべてを言い表わす。三谷幸喜は、まさに最適の人物に、最適の台詞を語らせたものだ。
 舞台の終局、街道筋で、将軍に謁見するため籠に乗り江戸城に向かうハリスの姿を、ふたりは垣間見る。あの有名な現代台詞「鼻デカ!」の場面だ。天狗の面がイメージとして被さる。
 そうして分かれ道の辻で、薬の行商に出る歳三と、江戸の道場へ戻る勇の、別れの場面になる。「オレたちは違う道を歩き出したんだ」と、まさに分かれ道そのままの台詞を吐く歳三、しかしその手はそのことばとは裏腹に懐中のコルクを取り出し、二人がしっかりと結ばれていることを示す。そして最後に、遠ざかりかけた近藤が「家の道場に来ないか、一緒になにかデカいことやろうぜ」と呼びかけると、歳三が「考えとく」と答える場面で、今回の幕は閉じられるのである。
蛇足:
●今回はロケ(房総の村にて、ここは昔行ったことがあるが、なかなか風情のある施設で、地域相としても下総と多摩ならさほど違和感がない)も多いので、遠景ショットがよく撮れていた。
 

 

2005年10月10日

☆新選組! 第三回 母は家出する
 これは小品ではあるが、このドラマに一貫して流れる基本テーマがすでにはっきりと示される。それはすなわち、「新選組は武士になりたかった百姓である」という通説をいかにも踏まえているように見せながら、じつは「
誠の心」に対する三谷幸喜の視点(新解釈といってもいいだろう)を、しっかりと打出しているところである。
 そのテーマ/視点は、例によって息もつかせぬ展開の中、三つの筋が絡み合いながら同時進行する形で語られる。
 まず主要な筋は、近藤勇に関するもの。橋本左内や坂本龍馬と接して日本の大局に触れるチャンスを掴みかけながら、見合い話や義母との不和などといった家庭の些事に振り回される姿を描くことによって、〈時代の蚊帳の外に置かれつつ、なおも「
誠の武士」への苦闘を続ける〉かれの宿命を表現する。
 第二の筋は、勇の義母近藤ふでにまつわるもの。武家の女性としての誇りに満ち、つねに陰険に勇にあたるふでであるが、そこにはじつは、勇と同じく百姓の出自を持つというふでなりの負い目と、それを克服せんとする苦しみが隠されていたのであるということが明かされ、ここにもまた
誠の武士」の姿とはなにかというテーマが語られる。
 そして第三の筋は、土方歳三をめぐるものである。前回、町人として生きることを選択したかに見えた土方であるが、売薬稼業の一手としての道場荒らしに失敗して身分の壁をあらためて思い知り、武士になることを思い定める。ドラマの中の土方自身、この時点ではなお明瞭に意識はしていないかもしれないが、かれの目指す武士の姿というのも、世襲の境遇に寄りかかり、差別意識に満ちた、旧来の封建武士でないことは明白だろう。そして、それが
誠の武士であることも。

 さて今回は、安政四年(1854年)8月14日と日付が入る。土佐へ帰国する龍馬と出会ったは、しるこ屋で橋本左内に紹介される。時代の最先端をいく龍馬と左内の二人による、情勢の解説。日本が揺れ動きつつある中、改革派の筆頭、福井藩の英明である左内には尾行がついている。二人の話が、まるきり呑み込めない近藤。一方、歳三とひも爺は、そんな時代とはまったく関わらぬ、冴えない薬行商。ここで第二の筋が絡み始める。
 試衛館での勇と龍馬。肴を探すも、なにも見つけられない勇。自分探しをしても、なにも出てこないことを象徴する。ここの「冷蔵庫」ショット、しかも上から下へと戸棚をあさる勇の視線に合わせて移動するカメラワークは洒落ている。そこにふでによる叱責が飛び、第三の筋が始まる。
 さらにそこに、尾行をまいた橋本左内が加わって、龍馬と天下国家の話を始める。息詰まる思いで近藤はそれを聞くのに、幼い沖田惣次郎とお守りの源さんの闖入で妨げられる。「若さっていいもんですね」思わず述懐する左内。「あの人は若くないんですけれど……」と呆れ顔で源さんのことを言う勇。この道場だけは、いつに変わらぬのんきな時間が流れている。
 気を取り直す勇に、ふたたび左内が「呼んでますよ」と義父周助を指し示す。こうして近藤は、いつも時代の蚊帳の外に置かれるのだ。呼ばれた勇に、周助は見合い話を持ちかける。もちろん勇はなんのことやら知らされていない。ここでも勇は蚊帳の外扱い。しかもふでは「私は不承知です!!」と叫び、夫と諍いになる
 土方が来訪し、石田散薬を分けていく一方、ふでは家出。門前に待ちうける隠密たちを蹴散らし、結果的に左内を救う可笑しさ。周助「もう戻って来ネエヨ」左内が帰り、龍馬も帰る。このドラマの中だけで実現した、龍馬と勇との立ち合い。勇は勝ち、龍馬は「七つに品川の橋のたもとゼヨ」と言い残して別れる。
「オレは愕いた、(あの人たちは)進む道を分かっている、日本の行き先を真剣に考えている」と刺激を受ける勇。だが歳三は「オレには関わりネエ話」と払いのける。たしかにかれには、日本の行末など最後まで関係ない。関係あるのは、機会を平等に与えられんがための壁の突破、ただそれだけなのだ。だが実は、それこそが、日本の来るべき「行末」とつながっているわけなのだが。このあたり、三谷脚本は、史実の土方像を、かなりうまく咀嚼してドラマの中に生かしていると思う。
 勇の縁談は、その間にも進行中。渋る勇に「(好きな人がいるのか、)誰なんでい」と迫る周助。ここに、勇の初恋の対象らしき沖田みつが顔を出して絡んでくるところが、定石どおりで可笑しい。ドラマ中盤の息抜き場面。
 舞台は転じて、縁日の場面。源さん、みつ、惣次郎。龍馬もさりげなく横に立って、惣次郎の投げ矢を見ている。見事な当てっぷりに、剣術の天才をそれとなく象徴。
 ここからはしばらく、歳三とひも爺のストーリーとなる。売上を増やすために、土方が道場破りをして門人を打ち負かした後、ひも爺が薬を売りつけるという算段。首尾よくいったと思いきや、ひも爺が跡をつけられ、ふたりは若い武家たちに散々の目に合う。殴られ倒れている歳三に、同じく倒れているひも爺が「忘れろ」と言う。「(オレは)殴られるとき、女のことを考えていた」「オレたち百姓があいつらと渡り合うときには、これしかネエんだ」
「違う!」と叫ぶ土方。惨めさが倍加する。これが土方の回心、転機となるのだ。
 ストーリーは第二の筋に戻り、ふでの友人の家に、ふでを迎えに行く近藤父子の姿が描かれる。巷にいかにもいそうなアッパーミドルクラスの意地悪マダムにちくちくとやられる勇の姿は、三谷の苦い経験を描いたものだろうか。こうした人物描写の、皮肉とユーモアでくるんだ的確さには、いつも感心させられる。
「覆水盆に還らず」のギャグの後(これは元来中国古典では、太公望がその妻に対してやった仕打ちで、それがここでは逆に、女から男に向かってなされていて、しかも近藤周助はそれを理解できずに聞き違える、というところがミソだ)、ふでの恨み言が勇に対して炸裂する。
「私がなにを怒っているか」「あなたですよ」「御自分をなんだと思っているのですか」「人には出自というものがあります、自分の辿ってきた道を消し去ることはできない」そして決定的かつ強烈な侮蔑のことば「身の程を知りなさい、宮川勝五郎!」が来る。だがこれらの科白は、ふでの自分自身に対する諦めと戒めのことばでもあるのだ。
「ひとつだけお聞かせ下さい、母上は私のことがお嫌いですか」
「言わずもがな!」と言い放つふで。自分を受け入れないふでが、勇を受け入れられるはずもないのだ。
 場面は品川で勇を待つ龍馬に変わる。家内のトラブルに巻き込まれている勇の事情など知る由もなく、雷鳴の中を出立する龍馬。時代は轟きはじめているのに、それに伴ない進んでいくことのできない勇の運命が、ここでも示される。ちなみに龍馬は、縁日で買ったとおぼしき風車を手にしているが、このドラマの中で、風車はつねに死のメタファーとして表わされている
 さて意地悪マダムは一方では世間知にも長けていて、近藤周助は「お願いします」と彼女に仲立ちを頼らざるを得ない。「この辺で手を打っておけば」「息子苛めもいい加減に……」「あなただって下総の百姓」という科白で、初めてふでもまた百姓身分の出身であることが明かされ、ふでの次の科白「だから(苦労した自分に引き比べ、武家の娘ととんとん拍子に縁組などして簡単に成り上がっていく勇が)憎い、そう易々と武士にさせるものか」という心からの叫びが生きてくる。このあたり、ベテラン勢が楽しみながら演技をしていることが覗われる。
 ドラマの終局、打ち身の痕も痛々しい土方が試衛館に転げこんでくる。自分の散薬を使え、と勧める勇に「あれ効かネエんだ」という、史話を知っている者ならにやりとする楽屋落ち。歳三は真剣になって「カッちゃん、オレに剣を教えてくれ、入門させてくれ」と訴える。「オレは武士になりたい」と。
 ところが勇はふでから侮辱されたことをきっかけに、単なる武士への向上心から、もう一段止揚された境地に至っている。それでまるで、前回の歳三と立場を逆転させたような言葉を吐くのだ。「オレたちは所詮多摩の百姓、それがこの世の中」「だから決めたんだ、俺は武士よりも武士らしくなってみせる、武士の心を持った百姓になってみせる」そして畳み掛けるように土方に引導を渡す。「侍にはなれないぞ」しかしそれに対して、歳三もこう応えるのだ。「侍らしくはなれない、どっちみち同じことだ」と。
 武士から百姓への回心を遂げる近藤と、百姓から武士への回心を遂げる土方。しかし両者の目指す究極の姿は同一なのだ。それは「侍 ─ 封建武士」ではなく、「
誠の心」を持った「人間」なのである。
 そして二人はそのために、血を吐くような鍛錬を開始するのである。
蛇足:
●この回の香取慎吾の表情はビビッドでなかなかいい。
●橋本左内、ハンサムだし、この回だけではもったいなかった。
 

三大キャラクター登場す

2005年10月16日

☆新選組! 第四回 天地ひっくり返る
 桜田門外の変を目撃した近藤勇が心を揺り動かされる。とはいうものの、作品そのものは、山南敬助、芹澤鴨、斎藤一を導入・紹介するためのお膳立て、辻褄合わせとしてのみ構成されている観があり、全篇の中では最も低調に属する回ではなかったろうか。だからおそらくこのあたりで、マスコミの批判がここを先途と集中したのだろう。ちょうど序盤の、ドラマが最も走り出して離陸せねばならないところでのこのもたつき方では、もう失敗は決まったようなものだ、などというように。また通常の大河ファンもついにしびれを切らせたというか愛想を尽かし、場合によったら「腐女子」の中にすらも、少々失望して去って行った人たちがいたかもしれない。
 ところが次の第五回、そして第六回あたりでスピード、切れ味、作劇の妙が爆発し、私も含め、多くの人間がはたと目覚めるに至るわけだ。だが、これをしも三谷幸喜の仕掛けだというのは、いささか穿ちすぎかもしれないとも思う。

 さて劇の構成はやや複雑で、視点の移動も目まぐるしく、展開が珍しくゆとりに欠ける。稽古の束脩を溜めている広岡という武士を尋ねる近藤と、同じくその広岡から借金を取り立てるためにやってきた斎藤とが出合い、さらに二人は広岡の事情を知るらしい芹澤鴨の隠れ家へと導かれる。一方、試衛館道場には龍馬の同門である山南が来訪し、未来のライバル土方と運命の出会いをする。そうして、時代の動きなどにはあまり関わりのない斎藤と土方が舞台から退いた後、この二つのストーリーは、桜田門外で暗殺された井伊大老、襲撃して倒れた広岡、そしてそれとともにひっくり返る「時代」を見詰める近藤、山南、鴨の姿で収斂するのである。

 舞台は試衛館から始まる。居候(沖田、源さん、土方)が増えて手許不如意なことが、おかずの目刺の数によって表現され、しかも弟子の数も少なく困っていることが説明される。他にも、事情通の源さんから、ふでは近藤周助の九番目の妻であることが明かされ、養子の勇はたまげ、軟派の土方も「負けた…」とつぶやくなど、貧乏道場のユーモラスな風景が描写されるが、この序盤の舞台立てが、後のストーリーの伏線となる。
 場面は、門人を増やすための、周助、勇、歳三三者の話し合い。お前は容赦なく叩きすぎるからいけない、と勇を諌める周助。「人は負けたと思ったときに何かを学ぶ、(たとえ師範といえども)ぎりぎりのところで勝つことが大事」と。圧倒的に叩きのめしてしまっては、負けたという自覚、それをリカバーしようと発奮する心、つまり向上心すら生まれる余地がないということだろう。その一方で周助は「勝った勝負は人を奢らせる」
とも述べる。それに対して「誠意を持てば」と言う勇に、周助は、お前はいつも真ん中すぎると、その生き方を気遣うのだ。一見頼りないが人生の達人である近藤周助を、青大将以来の名バイプレーヤー田中邦衛が、はまり役として楽しそうに演じる。
これはこのたび日光旅行をして知ったが、東照権現様のことばなのだ。三谷幸喜、流石だ。(2005年11月10日補記)
 奉公の経験もあり、経営感覚を持つ参謀としての意見を求められた歳三は、「方針を根本から変えねば、まず教えるターゲットを町人とし、必要な宣伝もする」と言う。この科白で、もはや身分制度の崩壊した幕末という時代が、それとなく説明される。
 そのためにはまずは資金をというわけで、さしあたり、稽古代を溜めている門人から取り立てようということとなり、まずリストアップされるのが、広岡子之次郎という浪人。 ちょうど縁談の先方の一家との顔合わせの日に当たり、勇は取り立てを口実に、これ幸いと逃げ出す。勇の未来の花嫁を覗こうとして障子が外れ、中庭に転げ落ちそうになる、みつ・惣次郎・源さん。
 勇は広岡の長屋へ行くも不在。そこに勇を広岡と勘違いした借金取りの山口(斎藤)が襲いかかる。一の目つきは、このときたいそう悪い
 そのころ、試衛館には北辰一刀流の山南敬助が訪ねてくる。他流試合に来たと勘違いした大先生周助は尻込みし、一方「お玉が池を倒せば名が上がる(評判を聞いて門人も増える)」と皮算用する土方。しかし師範代は不在。
 じっと待ち続ける山南。常に傍流に置かれながら、内に不屈の自負心を秘めた山南のキャラクターは、すでにここにおいて確立されている。思えば、このときの堺雅人扮する山南の姿の美しさと、頬に浮かぶ不思議な笑みに魅了されて、一挙に山南ファンになった視聴者や腐女子も多かったのではないだろうか。少なくとも、私はそうだった。この日本でも、じつに端倪すべからざる若い役者が出てきたものだという感慨を催したものだ。これなら安心して俳優たちの演技を見ていられるという信頼感、そしてこうした俳優たちを選んでいるなら、その人たちが支えるドラマもまた面白くなるに違いない、という期待感を、まさに堺雅人の山南敬助が、一瞬にして醸成してくれたのだ。
「オレは表に立つのは苦手」と自認する黒幕土方は、そこで対戦相手として惣次郎に白羽の矢を立て、「試合に来たのではない、近藤に会いに来たのだ」といって帰りかける山南を挑発する。ここで振り向く山南の姿が、また惚れ惚れするほど格好よい。以後のドラマで続く、土方と山南の掛け合い、鍔ぜり合いは、ここから始まる。
 舞台はふたたび近藤・一・広岡の姿。居酒屋「瓢箪」へ。店名が、このドラマの鴨を象徴している。話し合いの間にも、斎藤は別の借金取りの仕事を片づける。金は明日払いますという広岡に、「(金のことより)私はあなたが来てくれるだけで……」と本末転倒の人格者勇、「ダメだ、明日何がある、何故金が入る」とドライな一。広岡「私を信じてください」勇「信じてやりませんか」一「ダメだ」
 試衛館では沖田と山南が立ち合い、沖田は手もなくひねられる。しきたりとしては当然、幾許かの礼を添えてお引取り願わねばならない。落ち込む沖田、弟の敵討ちとばかりに薙刀を持ち出すみつ、それを押し止める源さん。そして皮算用が外れて「どうすんだヨ!」と土方を睨む大先生。道場は大騒ぎだ。土方はいまいましげな顔をしながらも「負けて学ぶからいいでしょう」と、最前の周助の言葉を巧みに使って逃げ、万事は師範代が戻ってからということで、またもや周助は口車に乗せられる。
 瓢箪では、厠を借りることを口実にして広岡は姿を消す。これは「鴻門の会」の引用か。それを手引きした、店の雇われ主人兼ヒモの芹澤鴨が、ニヒルに登場する。佐藤浩市は、余裕の演技。鴨は、勇と一に鯉のあらいを食わせる。「噛め」「もっと噛め」「飲み込め」「鯉は噛むほど味が出る」これはなにかの象徴か、伏線か、それとも広岡を逃がす時間稼ぎか、私にはよくわからない。ともかく、広岡の肩代わりをして一に借金を返した鴨は、「明日の朝、楽しみにしてろ。天地がひっくり返る」と謎めいた言葉を残す。
 勇は試衛館に戻り、山南と立ち合って勝つ。みつの酌を受けながら山南は、同門の龍馬から手紙で近藤を紹介されたこと、また沖田の剣筋や、天然理心流についてや(「三月以内に戦となれば、ためらわず天然理心流に入門するでしょう」)、広岡失踪の理由の推測などを、流暢に話しまくる。評論家、解説役としての面目躍如。熱心に聞く勇の姿に、同じ知恵袋としていささかの嫉妬心を刺激され苦りきった歳三は、「しゃべりすぎる男は好かん」と席を立つ。もちろん、将来に禍根を残す「副長s」の確執の始まりだ。
 そしてドラマの終局、「安政七年(1860年)三月三日」とテロップが入り、桜田門外の変当日の朝となる。知らせを聞いて駆けつけた勇は、雪の中、まだ血の臭いも新しい、凄惨な暗殺の現場を目撃する。そこにやはり蓑笠を着た山南が近づき、話しかける。「天地がひっくり返りましたね、これで日本は変わります。歴史が動き出す瞬間に、われわれはいま立ち合っている。ここに転がっているのは一介の浪人、名もなき侍なのです。われわれと同じ同じ若者が身を犠牲にして歴史を動かした」
 いささか激した山南。しかしこの山南の感激は、北京大学留学中に、一九八九年天安門事件の始めから終わりまで立ち会った私には、十分共感の行くものだ。思えば、天安門事件、東欧革命、ソビエト崩壊、湾岸戦争と、前世紀の終わりはまさに「天地がひっくり返った」のだったし、三谷幸喜もまた、同時代の青年としてこの激動を共有したはずだ。その三谷にとって、幕末の青年にこうした科白を語らせるのは、さしたる困難も、また違和感もなかったことだろうと思われるのである。
 最後の場面、広岡を探し、屋敷の門前で血に染まって倒れたその屍を見出した勇には、広岡との稽古の思い出がよみがえる。目蓋を閉じさせて合掌する勇の背後から「どけどけーっ」と声が上がり、酒を詰めた瓢箪を肩にした鴨が現われ、酒を噴いて清めるなり、「尽忠報国の士、あっぱれなり!」と叫ぶ。この科白は、最終回において近藤勇の処刑の場で原田左之助が叫ぶことにより、身を犠牲にして時代を動かした人間に、官軍も賊軍もないことを象徴するものとなるだろう。そしてドラマは、雪の中、足を踏ん張って立つ鴨の姿で閉じられるのである。
蛇足:
●山南はいつも腕組み、そして振り向く。外(現実)を排して見ていない心理の象徴。
●桜田門外の剣戟のシーン、じつはDVDでコマ送りの巻き戻しで観ると、真っ白いフラッシュが挿入されている。これは不朽の名画「駅馬車」で、リンゴー・キッドの決闘の場面において、拳銃の発射の瞬間を強調するために、ジョン・フォード監督が白いコマを挿入したという伝説と同様のテクニックを用いたもので、この場合は剣の一閃を強調したものだろう。
●実在の試衛館は、けっこう隆盛だったという説もある。
 

 

2005年11月2日

☆新選組! 第五回 婚礼の日に
 主要出演者が出揃う。とはいえ、いまはまだ「布石」の段階。トム・クランシーの受け売りでしかないが、戦争の大部分というのは、戦闘ではなく、偵察と部隊配置だという。これが適切ならば、まず負けることはないのだそうだ。「新選組!」も、大河と称するドラマなだけに、悠々と、また滔滔と、適切な位置に適切な人物を配していく。
 
 今回は、近藤勇の婚礼の一日を描くメインストーリーに、山口(斎藤)一の逃亡劇が随所に絡み、その二つの流れは
「己の幸せのみを考えて生きられない」という、勇の(新妻つねに向けての決意表明としての)ことばのなかに、テーマとして集約される。それは斎藤を庇い持参金を差し出すつね、義の心に目覚める斎藤、そして勇と鴨の対決といった場面に、とくによく示される。また、自分の意ではなく潮に巻き込まれ、しかしそれに誠実に相対していく近藤勇の姿は、この回にも一貫している。
 まず序幕は、一が追われるシーンからで、サスペンス仕立てで緊張感が走る。ところが場面は一転して、長閑きわまりない試衛館の婚礼の朝となる。日付は一八六〇(安政七)年三月二十九日。もう酒の入っている佐藤彦五郎、調布からの長途の埃を叩く勇の兄、宮川音五郎など、土臭い多摩の人々も集まってくる。合間にちらちらと斎藤の逃亡場面が入り、この二つの筋がどのように交わるのか、期待を持たせる。
 その間にも婚礼の仕度は進み、他の道場の祝儀が少ないことを気に病む土方、余興に天然理心流の型を披露しようと準備する沖田などの姿が紹介される。みつに「あいつが好きなのはあんただ」と土方は指摘し、みつの弟の沖田も「そうだと思う」とすでに洞察している。「またまた〜」と受け流すみつだが、もちろんそのことは余裕を持って十分にわかっている。二年生の主将に対する先輩の女子マネージャーといった役どころ。
 受付を買って出ている山南。山南は善意なのだが、どうしても頭/観念/準備されたことばでものを言う評論家スタイルが抜けず、それがまるで空虚な世辞のように思えてどうしても鼻につく土方は、「山南さん、思ってもないこと言わない方がいいゼ」と早くも一発見舞う。
 川向こうの伊東道場から、沖田の友人という設定で藤堂平助が祝辞を伝えに現われ、観客に顔見せをしていく。試合で沖田に手もなくひねられた、という科白で、その風采とともに、つねに沖田より劣位に置かれる今後の平助の立ち位置を示す。とはいえ中村勘太郎は歌舞伎俳優だから、いつも絵に描いたような気持ちのいい姿
 固めの杯も済んだが実感の湧かぬ勇は、みつと話すなかで、「自分の生きる道がどんどん決められているみたいで、それが怖い」「時代が動いているのに、こんなことをしていていいのか」と焦慮感を漏らす。もちろんそれが得手勝手にしか聞こえぬみつは、「じゃああなたは何がしたいの」と聞くが、勇は「それがわからない」(この部分の香取慎吾の科白回しは大げさで生硬だが、それがかえって初々しいからアイドルは得だ)としか答えられない。それだからみつは「素敵な人生じゃない、道場主で一生終わってもいいじゃない」と思いやり深く諭すのだが、ここでの近藤には、そんなことは当然判らない突拍子の無いようでいて、じつは人生の真実を本能的に知っている、この賢明な沖田みつというキャラクター(共学の公立高校の女子生徒などにときに見られるタイプ)を、沢口靖子はたいへん魅力的に演じている
 時間は進み、みつの夫の沖田林太郎が善良だが無能な人間として紹介され、同じく誠実な源さんは「結婚は背後を固めて打って出ること」と勇を励まし、カウンセラー役をそれとなく果たす。ちなみに、史実では沖田林太郎は千人同心井上家の出で、源さんとは同族にあたり、無能どころか新徴組としてずいぶん鳴らしたはずだ。もちろん、ドラマではみつを男勝りにしゃきしゃき活躍させるために、林太郎を引き立て役として対照的な道化にしてあることは言うまでもない。
 ついに傷ついた斎藤が闖入源さんが意外な手練の技で取り押さえる。驚く山南「お前は何者だ、奉公人と思っていた」してやったりとばかりに土方が「(勇の)兄弟子だ」と教える。いかにも公子然としたこの山南の科白が、かれの人物像を示して効果的だ。一方勇は、新妻つね「この時代、己の幸せのみを考えて生きられない」から一道場主として留まるつもりはない、と言い渡す。わかっているのかわかっていないのか、判然としないつね。だがこの人、意外な出来物であることが、すぐに判明する。
「己の幸せのみを考えて生きられない」証拠はただちに顕われる。人を斬って追われる斎藤を逃がそうとして、なけなしの金さえ渡そうとする勇。そこに黙って現われたつねが、持参金の五両を差し出すのだ。夫の生き方に対する、無言の、全面的な支持
 手負いの狼のような目をしていた斎藤が、婚礼だと知ったとたんに「おめでとうございます」としおらしくなり、渡された金に「一生忘れません」と頭を下げる。その義理堅さで、腐女子から「わんこ」と呼ばれる所以だが、近藤の人間性に、自分の飢えた人間性の根本のところで触れた斎藤一、無口ながらもこのドラマの「真の語り部」として振る舞う斎藤一の立ち位置が、ここで早くも定まる。
 余談だが、ドラマの次回で試衛館一統に加わる永倉新八は、このドラマでは年少ながら老成した剣客として現われ、斎藤よりははるかによく喋り、浪士/隊士の意中をしばしば代弁する。近藤に対しても、「あなたは素直で幼すぎる」などと分析し、新選組時代には堂々と批判まで行ない、甲陽鎮撫隊ではついに袂を別つ(「近藤さんの悪口を言えるのは俺だけだ」in 最終回)。つまり三谷幸喜は、ドラマの中の永倉を、表面上の観察者/語り部として、まさに斎藤と表裏の関係で配置しているのである(「永倉さんは間違っている!」in 第四十七回)。実在の永倉が、斎藤とほとんど同年まで長生し、沈黙を守った斎藤とは対照的に新聞記者の取材にも応え、石碑を建立するなど新選組の顕彰に動いた現実の語り部であったことを考え合わせると、三谷のこの両人の設定は絶妙だ

2004年6月7日(日)新選組!雑文その二 第二十二回感想、また2004年11月29日(月)新選組!雑文その五 第四十七回感想を参照せよ。
 舞台は披露宴に進み、「呼ばれもしないで現われる」捨助が尾頭付きの鯛とともに乱入、佐藤彦五郎は浮かれて顰蹙を買い、音五郎・勇兄弟の饅頭食い競争なども出ていよいよ座が乱れかけたところに、もったいぶった桂小五郎が登場する。玄関番の山南に角樽を渡しながら桂「北辰一刀流免許皆伝のあなた(山南)がなぜこんな田舎道場に」山南「この若先生が気にかかりまして」気取った言い方をしながらも、何を/何に揺り動かされていくのか、かれ自身にもいまだ「わからない」のだ。
 小意地が悪く、場の雰囲気をあえていささか無視する狷介なエリートの桂は、なくもがなの時勢の解説をして一同を煙に巻く。真剣に聴くのは勇のみ。「飲みましょう」と得意げに仕切る桂に、しかし大人物の来訪を喜んだ周助先生は、宴の締めの祝辞を頼んでしまう。ところがすでに祝辞は、土方が小島鹿之助に依頼してあるのだ。面子がつぶれてふてくされる小島に、土方はよんどころなく「桂さんには大締めを」と苦しい言訳をする。それにさらに臍を曲げて、祝辞の覚えを書いた紙をくしゃくしゃに丸めて放り投げる、寄場名主の小島鹿之助。このギャグは、ずっと後の、甲陽鎮撫隊多摩凱旋のときに、うら悲しくも引用されることとなる
それにしても、酒癖が悪く妻ののぶに頭をはたかれる佐藤彦五郎といい、多摩の治安を預か年る寄場名主で近藤勇の義兄弟の二人は、実物よりはほんとうに軽くコミカルに描かれる。宴会好きな、地方自治体のひょうきんな議員さんといったノリだ。
2004年11月29日(月)新選組!雑文その五 第四十七回感想を参照せよ。
 場面はますます盛り上がり、宴会は沖田惣二郎の剣術披露で頂点に達せんとするとき、カタストロフが訪れる着物を血に染めた斎藤一が、亡霊のように現われるのだ。色を失う一座に、「あのお方は夫の友人です!」というつねの声が響き渡り、二つのストーリーは収斂する
 斎藤の処置を巡って紛糾する一同。人を殺めたお尋ね者は引き渡せという土方、それに対し「あいつは悪人じゃない!」「俺を頼ってきた、
士(さむらい)はそういうものだ」とつっぱねる近藤は、やはり「座に(血で)みそがついた、直ちに引き渡しなさい」と命ずる義母ふでに、おそらく生涯初めてというくらいの勢いで「このことについては口を出さないでください!」と声を荒げる。不甲斐ないほど従順だったこれまでの勇からの決然たる変貌に、ふでは目を見張る。しかしこれは、ひとつの転機として、必ずしも忌まわしいことではないのだ。
 やがて役人と捕り手が繰り込み、玄関で押し問答となる。「血の痕がある」と役人が言うと素早く捨助の鼻を殴って鼻血を出させるみつ、砂埃がと言うとすかさず「それは私でしょう」と袴の埃を叩く宮川音五郎頂点へと向かって畳み掛けるギャグ。そうして申し開きも叶わず、ついに音五郎が連行されようとするところで舞台はクライマックスを迎えると、そこにあたかもデウス・エクス・マキナのごとく「それまで!」と桂の声が響く。そして桂(幕府などとうから見下している)の権威で役人は追い払われて、「さ、飲みなおしましょう」と桂が取り持つ中、一座の中央には気絶した捨助の足が、長々と伸びているのだ。
 終局は、宴もお開きとなった後、斎藤を逃がす算段の場面から始まる。「命に代えてあなたを逃がす」と言う勇、慙愧に駆られる斎藤に対して「(いまさら遅い、)お前を逃がさない限りおれたちも無事ではいられないんだ」と割りきる実際家土方。「座興としてはなかなか、若先生と奥様には感心」と相変わらず斜に構えて能弁の山南に「あんたの話はいい」とぴしゃりとやる歳三、どうも山南は、いましばらくは不遜のままのようだ。
 勇と一とは、夜の瓢箪へと向かう。新見錦が不吉な姿を見せる中、例の五両を渡して高飛びの手順の打ち合わせ。「もしおれが断ったら」と問う鴨に、「断らないと信じていた、だがもしも断ったら、そのときはこの飲み屋の情報を奉行所へ売ると脅すつもりでした」とためらいためらい語る勇。世間を知らない、まっすぐな人間の無鉄砲な怖さというものだ。そのあたりの機微を知り抜く鴨は、正直どきっとしながらも一方では呆れ、かつ感心して思わず吹き出すのだ。いわば高校運動部の主将が、やくざの世界にちょっぴり触れたというような感じ。思えば、こういうシチュエーションは、オリンピック前の青春映画にならいくらでもあっただろうし、「じゃりン子チエ」の漫画家はるき悦巳もまた、佳作「日の出食堂の青春」にほろ苦く描いているところだ。そして博覧強記で脚本巧者の三谷幸喜が、こうしたものを「本歌取り」していないはずはあり得ないだろう。
 さてドラマの終幕は、すべての人が退場した後の、試衛館母屋での若夫婦の会話。勇「マアこんな感じです」つまり「己の幸せのみを考えて生きられない」から、いつでもこんなドタバタになってしまうということだ。だがそのドタバタは、この後見る間に、みつのほのかな希望(「道場主のままで素敵じゃない」)を裏切り、幕府にも日本にも巻き込まれる、大騒動に発展していってしまうのだ。
 だが今はまだそんな予兆も無く、ふたりがぎこちなく杯を交わす姿で、この傑作の幕は、おだやかに閉じられるのである。

蛇足:
● Amazon のDVDレビュー欄などを読んだところによれば、この回で「組!」に目覚め、それで第六回からビデオに録りはじめたという人が多かったようだ。→
この部分参照。
●一の借りたこの五両が、後の「寺田屋大騒動」で、勇を妙な窮地に追い込むのだ。そこまでの伏線として、当然三谷は考えていたわけだろう。
 

 

2005年11月4日
 
☆新選組! 第六回 ヒュースケン逃げろ
 新選組! というこのドラマを深読みする面白さにはたと気付き、初めて長々と感想を書いたのが、この第六回だった。異人ヒュースケンの登場という華やかな要素も、それに与っておそらく力があったろうとも思われる。ともかく、私にとっては記念すべき回なので、そのときどういうことを記したか、あらためて部分的に引用しておきたい。
 
“ ヒュースケンが、自分のマントを羽織った土方歳三に「よくお似合いです」と言う場面。
 あれはつまり、土方の運命を暗示しているわけだ。土方は函館で戦死する直前、洋装で写真を撮っている。これが土方のイメージを決定づけていることは周知の通りで、五稜郭のミスター土方祭りは、必ずあの格好で登場する。また、マントはつねに「死」のメタファーでもある。
 つまりヒュースケンは、死人が狂言回しとして登場したようなもので(わざわざ「今は助かったが、私はいずれ斬られる」と予言めいたセリフを言う)、いわば土方の死に様を予告する役回りとして、三谷幸喜が出したというわけだ。”

2004年2月15日 雑文その一 ☆新選組! 第六回より)
 
 それでは、一年と九箇月になんなんとする時間を閲して、ここにあらためてレビューをしてみよう。
 ドラマの日付は一八六〇年(萬延元年)九月三十日となっている。ヒュースケン暗殺は十二月五日のことなので、かれに残された時間は、あと二箇月という時点での話となる。
 序幕は、勇と歳三と周助が、府中六所宮における天然理心流扁額奉納記念興行に出発する場面から始まる。姑ふでに叱られながらも自分のペースと位置を確立していくつねに、小姑的存在のみつが太鼓判を押す(「あんたなら大丈夫だわ」)。勇の世話役を奪われて、いささか残念な面持ち。府中では興行も成功し、首尾よく手にした収入を分配しながら、小島鹿之助が公武合体などの時流を説明する。一方、市ヶ谷試衛館では、留守の沖田に対してインテリ山南が時勢を解説しようとするが、ともに行動できる大人として勇に認めてもらいたく、それゆえ剣の道ひとすじの沖田には、難しい時代の動きなど、所詮理解の範疇の外だ(「よくわかりませんよ」)。
 だがここでの山南の役割は、解説役というよりもむしろ板付として、尊皇攘夷の風潮がはびこる中で「異国人も斬られる……」と、視聴者に本編の始終を予告することにあるのである。
 
 じつは舞台の本筋は、この扁額奉納興行という大イベントの後、勇と歳三の遭遇する、ある事件に置かれる。
 府中からの帰り道、たまたま休んだ茶店で卵が買い占められているところから、異人ヒュースケンとその妾お富の噂を聞き込む、勇と歳三。女と来ればたちまち興味津々の土方は、渋る近藤を引っ張ってその家を覗きに行くが、いきなり怪しげな浪人たちに捕われてしまう。あわや危機一髪の瞬間、二人の前に現われたのは、旧知の永倉浪人たちは清河八郎の配下の薩摩人で、永倉とその友人市川宇八郎は食い詰めた揚句、異人成敗の助っ人として雇われていたのだった。
 事情を聞いた近藤は、たちまちいつもの無鉄砲な義侠心を発揮する。「稼がねば生きていけない」と言う永倉に、「あなたの剣が泣く、闇討ちは卑怯、残念です」と食い下がり、なおも喧嘩別れの帰り道、諦めきれずに「武士は卑怯な真似をしてはイカンのだ、とくに永倉さんはイカンのだ」と言い出して、襲撃に先んじて警告を発すべく、妾宅へと来たるヒュースケンを待ち受ける
 ちなみにこの「とくに永倉さんは」という科白は、まるで季布の一諾とでも云うべき、互いの気性を分かり合った同士としてのもので、それは最終回の永倉の(近藤さんを悪く言えるのは)俺だけだ」という科白と、遠く離れて照応する。またこの二つの場面において共に傍らにいるのが、まったくそうした機微を理解しない浅薄な市川宇八郎=芳賀宜道であるというのも、出来過ぎといえば出来過ぎな設定だ。
 馬に乗ってやってくるヒュースケンを近藤は止めて、事情を説明する。「なぜ(嫌いな異国人である)私を助ける」と尋ねるヒュースケンに、近藤は「卑怯なことは嫌いだ」と応える。「あなたは
誠の士(さむらい)だ」と賞賛するヒュースケン。じつは「新選組!」を通して、「誠」ということばが出るのはここが初めてで、そしてこのことばが他ならぬ米国通訳ヒュースケンから発せられているということこそが、このドラマの鍵なのだということに、くれぐれも留意しておかなくてはならない。
 とはいえヒュースケンは近藤に「私が助かったとして、残った女性はどうなる」、見殺しにするのは卑怯ではないかと切返して、近藤はぐっと詰まる。「武士よりも武士らしい」心、「己の幸せのみを考えて生きられない」心の持ち主は、異国人の中にもいるのだ。いやそんな心性を持っているところからすると、定めて「お前日本人だろ」と突っ込む土方の科白は、川平慈英ヒュースケンに対する傑作楽屋落ち
 しかしそうは言っても、黒船来航までは平穏だった日本をこんなに引っかき回したのは、やはりお前たちにっくき異人だ。だが武力ではとうていかなわない。それで近藤は土下座して、「早く日本から立ち去ってください」と頼む。「トシ、お前も早く!」と急かされて「お願いしマース」と気のないお辞儀をする土方。
 ヒュースケンは嘆息し、「この国はなぜ殻に閉じこもるのか」「井の中の蛙大海を知らず」ではいけない、この美しい国を世界に知らしめたい、「もっと自信を持ちなさい!」と長広舌を振るう。そしてピストルに弾は込めていない、刀を銃で撃てるか、私の国にも武士道はあると誇りを示す。
 駆け戻った近藤は、永倉一味の説得にかかる。「(ヒュースケンは)ワリとイイ奴」「あれは
誠の士(さむらい)だ」「血の通った人間、心から日本を愛している、われわれ以上に」と。そして「日本の女を手込めにして居るのだぞ」という難詰に対しては「ある国への愛を表現するのに最適の方法は、そこの女を好きになることではないですか」と抗弁する。ところでこの科白、なにか典拠がありそうな気もする。
「私はあなた(永倉)を救いたい、大勢で金目当て、そんなことをして欲しくない」必死の近藤に、世間のあらを食って生きてきた永倉も、さすがに辟易しほだされる。「近藤さん、あなたはあまりにまっすぐ、あまりに幼い。だから心に突き刺さる」この人の天真爛漫な愚直さを見守り、十全に輝かせてやらねば。後に近藤勇の使徒となる永倉の、回心の瞬間だ。
 舞台はクライマックスを迎える。ヒュースケンに襲いかかろうとする薩摩侍、「私の問題だ」とサーベルを抜くヒュースケンを制して示現流と切り結ぶ天然理心流の土方、「気が変わってこちらにつく」とのっそり進み出る永倉。勝負はついたが、市川宇八郎だけはなおも「俺は十両欲しい!」と打ちかかり、てもなく近藤に撥ね飛ばされて、こうして永倉を除く三人は、ほうほうの体で逃げて行く。
「素晴らしいものを見せてもらった、日本の武士は世界一強い」と感激するヒュースケンに、近藤は自信を取り戻した笑顔で、「井の中の蛙大海を知らず」には後がある、それは「されど空の高さを知る」だと教えるのだ。
 どこまでも高い空、
羽織と同じ青い色の空に、これから近藤と新選組は飛翔していくのだ。
 舞台は終局。買い占めた卵を使って、習い覚えた洋食を焼くお富の背後から、マント姿のヒュースケンがそっと抱きしめる……と思えば、マントを羽織っていたのは土方で、この悪戯は「異人の抱いた女」に対する好奇心満々の土方への、ヒュースケンからのちょっとした返礼なのだ。
 満足してマントを返す土方に、ヒュースケンが「とてもよくお似合いです」と言う。「どこで買える」「どこでも買えるようになりますよ」日本の、また土方の運命を示す預言的な科白が続き、最初に述べたように、ここで私ははたと観劇の妙味に目覚めるのだ。
 そしてヒュースケンの最後の預言が来る。「たぶん私は死ぬ、しかし後悔はしない、この国の土になれることを神に感謝したい」と。
 こうして永倉を試衛館の客分に迎え、ドラマの幕は閉じられるのである。
 
 さてこのようにあらためて観なおすと、今回のヒュースケンの役回りは、単に昨年私が見て取ったような土方の先触れどころではない、より深いものを持っていると思われる。
 それというのも、ヒュースケンは近藤との会話の中で日本を語るさいに、金魚だの蛙だのとさまざまな例を持ち出すが、ドラマ最終回、土壇場で処刑を待つ近藤が、順繰りに目と心に刻み付けていくものどもは、まさにこれと照応しているのである。しかも近藤が見上げる高い空、それこそはかれ自身がヒュースケンに言った「されど空の高さを知る」の空なのだ(だからその空に永遠に飛躍する蛙として近藤を捉え、(次に何をしようか)という気組みで最後の科白「トシ……」を吐いたと述べる香取慎吾の感覚は、極めて鋭いのだ)。
 そこで話をまとめれば、要するに近藤が最後に想起するのはヒュースケンとの邂逅の体験なのであり、そのヒュースケンとは、最初に近藤のことを
「誠の武士」と呼び、みずからもまた dicent な gentleman として振舞う人物なのである。人は己を知る者を知る。ヒュースケンは近藤の資質を見出し、近藤もまた、ヒュースケンをおのれの鏡像として認識する。
 こうして
dicent=誠の心gentleman=誠の武士という図式が成立し、これはすなわち第一回で考察した星条旗が誠の旗であることと同様になって、このドラマの背後に隠れるモチーフの存在が、この回でもふたたび明らかになったと、私は考えているのである。
 
蛇足:
●清河役白井さん、ちらっと登場、やはりいい。
 

 

2005年11月7日
 
☆新選組! 第七回 祝四代目襲名
 主要人物のキャラクターが、ほぼ定まってくる。また、軽佻だが直情で善良な名脇役、望月亀弥太が introduce される。
 
 舞台の幕開けは、土佐勤王党の会合場面から。武市半平太・望月亀弥太登場、武市はあまり熱意のない龍馬に、土佐の同士を募るための血判状を托す
 打って変わってのどかな朝風来坊の左之助の寝ぼけ顔が、その気分を強調する。一八六一年(文久元年)八月二十七日は、前回からはや一年経っていることを示す。
 ここから導入部分。府中六所宮での襲名披露試合が進行していく。平助も現われ加勢。試合の前の打ち合わせで、山南に「守りにつけ」と命ずる土方。兵法にも明るい山南は「攻めるに如かず」とここでは土方を黙らせるが、これからほとんどの場面で常に留守を強いられる山南の姿が、はやくもここにある。勝手に祝い酒を振舞う捨助が邪魔な半端者扱いを受けるのもいつもどおり、左之助もいつのまにか飛び入りし、これ以後左之助と永倉は、つねに二人一組の相互補完的キャラクターとして行動していく
 試合は江戸組が多摩組を圧倒、周助の嘆声「スゲーなあいつら」は後年の浪士組〜新選組を暗示するし、また池田屋事件のさいに見物の捨助が発する奇声「スゲー!」にもつながる
 これを見兼ねた総大将近藤は、陣太鼓役の塾頭沖田を投入、沖田は天才振りを発揮して永倉と平助を電光石火に撃破し、そしてとうとう、かつてひねられた相手である山南を打ち負かす。額のかわらけを割られて、よく成長したなと言わんばかりの山南、顔を輝かせる沖田。この場面にはじつは、予告編で紹介されているように、タイミングが合わずに何度もNGを出した後にようやく成功したという、藤原竜也と堺雅人の裏話もあるわけだ。
 
 結局合戦は多摩組の逆転勝利となり、舞台は中盤の展開部分、府中宿へと移る。まずは宴会から締め出されている、沖田と平助の年少コンビの会話。「沖田さんがうらやましい」平助は最後まで変わらずこの思いを抱き続けるそれに答える沖田の科白もつねに同じで、(たとえ総司と改名したって)「悩みはある、子供扱いだ」
 
 ところで「新選組!」では、沖田は平助が劣等感を抱く対象として、このように間接的に描き出される/浮かび上がらせられる場合も多く、これは第二十七回のエピソード(沖田に化けて茶屋遊びをし、勇に諭され励まされる)や、第三十九回の感動的場面(沖田に痛めつけられる周平を泣きながら庇う)、それに第四十回の両人の別れの場面に至るまで一貫するものであるから見逃せない。
 ちなみに、本ドラマにおいては、三谷幸喜は沖田の扱いをどうするか、もっとも苦慮したように思われる。というより有り体に申せば、三谷幸喜の唯一の設定し損ないが、この沖田なのである。
 それが証拠に、沖田のキャラクターの特徴的な部分は、みな他のメンバーが分け取りにしてしまう。剣の天才としては斎藤がいる。マスコットとしては平助、後には周平がいる。気楽さならば、原田がいる。単純な正義感の持ち主なら、大石がいる。純真さという面で見れば、平助はもっと純真だ。またたとえ鴨とお梅に翻弄されたからと言って、それ以後かれが人生観を変えたようにも思われず、むしろ変わった部分は勇に取られている。「大人になりたい」がために右往左往してついに倒れるといっても、新選組の隊士のほとんどが、勇も含めて、結局そうした存在ではないか。
 とはいえ、その身にまつわってきたフィクションを剥ぎ取っていくと、実在の沖田はまことに没個性な人物になってしまうという不利な点もあることは否めない。三谷幸喜はもちろんそうした先人の貼りつけた虚飾などは使いたくないだろうし、そうかといって一番組組長の沖田を出さないわけにもいかない。ごく最近(2005年11月現在)でも、あるブログでは、「組!」の沖田についてひとしきり話題となっていたというのも、かれの人物設定におけるこうした致命的欠陥、というよりも間接的に描くしかない難しさにあるかもしれない。雑文 その五 69☆新選組! 第四十九回(最終回)の考察の
この部分をも参照されたい。
 結局のところ私が思うに、沖田という人物は、近藤との師弟関係という文脈中に置いてのみ扱うにはいいのだが、このドラマの如き群像劇の登場人物としてはきわめて印象が薄くなるか、あるいは決定的に浮いてしまうのである。

 
 閑話休題。府中宿に話を戻すと、宿場女を揚げて騒ぐ宴席が描写され、いつの間にやら紛れ込んだ左之助がはしゃぎ、朴念仁の山南は振られ、勇は一つ覚えの髑髏を描いている。ここに一瞬市ヶ谷試衛館の情景が挿入され、「どうせ帰りは明日、男なんてみんな同じ」というふでに「あの人はそんなことはありません」と答えつつ、つねは稽古着に髑髏を刺繍しているその背後に縁起の飾り物としてか、鬼瓦の置き物が置かれているのが見え、ともに魔除けである髑髏と鬼瓦とを重ね合わせて、勇を象徴する(鬼瓦が僻邪であることについては、
雑文 その三 37☆最後に死ぬのは……?の考察、また雑文 その五 69☆新選組! 第四十九回(最終回)の考察、また雑文 その六 6-01☆新選組! 第一回 黒船が来たの考察を、ともに参照せよ)。
 宴席はさらに進み、みつまでが騒ぎに加わっている。そこに周助が、勇に講武所教授の口がかかっていることを披露する。これは桂小五郎(狷介だが人の評価はできるのだ)から松平主税介への紹介で、身分は直参。いくら「武士より武士らしい百姓」とは言っていても、目の前に本式の武士身分がぶら下がって、勇も悪い気がするはずはない。しかし暗い顔になった土方は、そっと席を外す。
 ここで土方の描写に行く前に、もうひとつ面白い小起伏が挿入される。すなわち左之助の加入のエピソードだ。祝いの献杯を差し出された周助が「誰だ?」と訝り、永倉が「思い出した!」と叫ぶ。かつての雇われ用心棒対雇われ夜盗の面白さ。そして勇に対しても傍若無人に「あんたのことなんか今すぐにはわかりゃしねえよ、だがここにいる連中見たらわかる」「決めたぜ、客人になってやる」と言い放つこの場の人々に共有されている、分け隔てない信じ合ったつながりを、不羈奔放な左之助は見て取るのだ。そしてそのつながりはじつは近藤というただ一点に集中しているのだが、しかし新選組が隆盛になった後、その近藤に(そして土方に)権威主義による統率という面が見えたそのとき、すなわち左之助が近藤のことを「わかった」ときから、かれの心はしだいに乖離してゆく。そしてとうとう、甲陽鎮撫隊での脱退訣別(このドラマでは)という悲劇を迎えるのだ。その意味からも、この左之助加入の場面とかれの性格描写は、ドラマ全体の重大な伏線を成しているのである。
 さて宿屋の暗い庭先では、土方がひとり物思いに沈んでいる。そこに周助が現われる。飛躍していく勇とおのれとのあまりの対比に打ちのめされ、「カッちゃんに俺はもういらない、剣は沖田、頭は山南がいる」と弱音を吐き訴える土方。それに対して周助は、「山南の知識は書物からのもの、お前には生きた知恵がある。勇は一人で悩みすぎる、倅の力になってやってくれ」と励ますのだ。恐らく生涯初めて人から評価され、頼りにされたであろう、このドラマの土方。かれに新たな自信を与え、未来の姿勢/行き方を決めたのは、じつは近藤周助という、人情に長けた「大きな父」なのだ。
 この場面は土方と近藤の会話につながり、「俺はいつまでたっても同じ所にいる」と土方がかこつと、近藤は「俺だって」「時代が動こうとしているのにこのままでいいのか」と答えるが、土方は「俺に言わせりゃゼイタクな悩みだ」と切って捨てる。時代の大きな飛躍に較べれば、古い時代の身分制度に基く小さな出世など、相対的には無いも同然だが、地べたを這いまわっている土方からすれば、そんな見方は到底納得できない。かれはこれから、つねに実際的なアドバイス、ときには苦言を呈する毒舌家としての役割をこなして行くことになるのだ。
 
 いよいよ舞台はクライマックス、変転の場面に移行する。龍馬と亀弥太(「亀と呼んでください」)が宿屋に来訪するのだ(ということは、龍馬は甲州路をとるつもりなのか、それとも小金井から北上して中山道に出るつもりか)。二人は勇と土方に土佐勤王党の血判書を見せながら、攘夷について熱っぽく語る。乗せられた勇「あなたがうらやましい、私も加えてください」龍馬「多摩勤王党でも作ったら」これは後の自由民権運動を視野に入れた楽屋落ちだが、なかなか含蓄のある科白。思えば日本のどの地域でも、豪農、豪商、下士、草莽はみな勤王をスローガンに政治参加を目指し、そうして「夜明け前」に描かれる如く、薩長藩閥政府に使い捨てられていくわけだから。
 ところが亀がつい調子に乗って血気に逸り、異国人は皆殺しだと口走ったものだから、すでにヒュースケン(この時点ではすでに死んでいる)を知った近藤としては、持ち前の正義感からしても、黙っていられなくなる。「皆殺しはどうでしょうか」「異人も血の通った人間、追い払えばいい、殺さなくとも」「坂本さんは、こんな奴らの仲間になってもいいのか」この一本気さは、永倉を説得したときとまったく同様だ。鼻白む亀。決まり悪げな龍馬に、すっかり冷静さと自信を取り戻した実際的観察家の土方が追い討ちをかける。「坂本さん、黒船ではしゃいでいたのは誰だ」「アンタは勢いに流されているだけ、図星だろう何かをやらねばとは思っているが、それが何かはいまだ定まらない、そうした点ではここの龍馬は近藤とさして変わらない。そこを土方は慧眼に突くのだ。黙ってしまった龍馬「坂本さん、なにヘコンドルです?」と土佐方言でいぶかしむ三宅弘城亀の演技はじつにうまい。 ここに立ち聞きを見つかったみつと捨助が加わり、場面は一挙に破局のドタバタへと駆け上がる。揉み合いの中で血判状を掏り取る捨助、それを奪い返そうとする亀、立ちふさがる勇。龍馬「お前んでは太刀打ちできぬ、ワシが相手じゃ」(亀と近藤は、後に池田屋で再び立ち合うことになるが、そのときも全く相手にならない)
 抜刀して撃ち合う龍馬と勇(香取慎吾は江口洋介並みに上背があるようだ)。だが龍馬はすぐに刀を納め(「ヤメじゃヤメじゃ、さすがは天然理心流宗家、こんなところで命は落としたくない」)、血判状を見事に二つに破いてしまう。
 去って行く二人を見ながらみつが「血判状などまた書き直せる」と指摘すると、土方が「そんなことは百も承知」「この人(勇のこと)は、坂本が土佐勤王党に加わって何か始めだしたのが嬉しかったから見逃した」と、ふたたび両者を見切るのだ。
「飲みなおそう」と近藤が言って、一場の嵐は過ぎ去る。
 
 終幕は、翌日の市ヶ谷試衛館。ふでは周助の襟の匂いをかぎ、源さんも白粉の匂いに叱り飛ばされる。「男はみんな同じ」「(井戸端で)洗ってきましょうか」決まり悪げな勇。失望と悲しみに目を見張りながらも、つねは「これお使いください」と、夜なべで刺繍した髑髏の稽古着を勇に差し出す。感激した勇は、あらためて妻に対するいとおしみを湧き上がらせつつ、稽古着をつねの肩に着せかける。これからはつねもまた、近藤の魔除けとして、かけがえのない存在となるのである。
 

 

2005年12月22日
 
☆新選組! 第八回 どうなる日本
 非常に筋の錯綜した一回。大きく見ると前半と後半に分かれていて、前半は後々の回のための伏線張りと人物の性格設定とに費やされ、「どうなる日本」という表題に関わる本筋は、劇のクライマックスに凝縮して置かれる。とはいえ、この表題は近藤の科白として序盤と終局に登場することできちんと平仄がついているし、その近藤の問題意識はそもそも山南に起因するものであるというあたりが、やはり後の回の伏線を成しているのである。
 
 時は文久二年(1862年)5月29日、ところは江戸。土方の見合い話にからみ、多摩の情景も挿入される。さらには伊東大蔵佐々木只三郎松平主税之介といった曲者キャラクターたちが紹介される。
 舞台は試衛館、食客たちのお国振りを示す納豆談義から賑やかにはじまる。そこに藤堂平助が登場し、近藤は嬉しげに「藤堂さんじゃないですか」と、もう一膳食事を仕度させる。一度婚礼祝いの口上を述べに来ただけの自分を、勇が覚えてくれていたということに感激する平助。これが今回のサブストーリーのひとつの鍵となる。一方、梁山泊化していく道場のありさまに渋い顔をするふでに対して、つねは「食客とはいざとなったら命も投げ打つものです……と何かで読みました」と、それとなく教養を示しながらやりこめる。しだいに刀自の地位が入れ替わりつつあるようだ。
 序幕が終わり、劇は前半部に入る。ここにいくつかちりばめられた伏線の中で、最も重要な意味合いを持つのが、すぐに描写される山南の行動だ。
 寺田屋事件を引き合いに出しながら騒然たる時勢を解説する山南の話を聞いて、近藤は「いったいこの国はどうなるんだ……」と歎くここぞとばかりにその機を捕え、山南は近藤に『日本外史』を贈呈してその気を引き、そろそろと本題に持ち込んでいく。清河八郎を御存知ですか」北辰一刀流の同門・先輩であり、同時に尊皇攘夷の虎尾の会の指導者でもある清河と一度会ってくれ、と山南は近藤をたきつけ、懸命に自分と同じ理想の道に引き込もうとするのだ。だが近藤は清河がヒュースケン暗殺の黒幕であることを知っており、そうしたやり方には、当然のことながら批判的だ。さらには講武所教授就任の話も目前にあるわけで、いまひとつ気乗りのしない近藤の前に、この山南の試みはひとまず頓挫する
 次に語られるサブストーリーは、平助の移籍問題。もともと沖田と試衛館に憧れている平助は、近藤が名前を覚えてくれていたというだけで、道場を変えることを決断する。それというのも、川向こうの伊東先生は、平助のことを「そこのお前」とか「左から二番目」とかしか呼んでくれないからだ。沖田「近藤先生は近所の犬の名前さえ覚えている」落胆する平助「私は犬以下か……」
 近藤は講武所詣でで不在となるため、平助の身柄の受け取りに出向く塾頭沖田は、永倉に近藤のふりをさせて連れて行こうというつもり。しかし世間ずれした永倉は「こういうことはまっすぐにやらねば」と駆け引きに対する自信は満々だ。「オレ行ってやろうか」と枕絵を見ながら言う、なんでもやりたい左之助のことを誰も相手にしない短い一幕は、第四十回における高台寺党分裂のとき「なぜオレを誘わネエかなあ」とぼやく左之助の姿に、遠くその影を落としている。
 ここからは、平助問題と講武所問題とが交互に挿入され、しかもそこに多摩の土方見合い問題まで挟まれて、いささか展開が目まぐるしい。
 まず講武所に面接を受けに行く勇に、周斎先生がまいないの包みを持たせる場面。勇がはっと気がつくと、掛け軸が消えている。門出を送るつねに、「いくさじゃないんだから」と苦笑し(真の「いくさ」は京都で待っている)、生まれる子供の名前は「多摩に因んで男ならたまお、女ならたま」と言いつつ、勇は出かけて行く。
 伊東道場では大蔵先生と加納鷲雄(早くもここで登場していたのか)が、移籍交渉の相手となっている。平助の譲渡を突っぱねる伊東に向かって、ぬけぬけとした顔で「こちらの塾頭とそちらの代表と立ち合って決めましょう」と提案する永倉。コメディアンのグッさんがその片鱗も見せずに真面目に人を食った演技をすれば、コミカルな二枚目半が持ち味の谷原章介もまた、冷酷狷介な美形の役どころを巧みに演じる。
 一方、日野の佐藤家では、渋る土方にのぶが見合いの話を押しつける。ちなみにこの場面は千葉県立「房総の村」でのロケで、この民家はかつて下総で実際に使われていた豪農の屋敷を見学用の施設として移築したもので、いまも寝起きとまではいかないものの、限りなくそれに近い形で(農作物の栽培、収穫、保存など)、かつての日常生活文化を生きた姿で復元公開しているものだ。この秋に訪れたばかりなので、あらためて馴染み深い。
 次に舞台は、市ヶ谷試衛館でのみつとつねの会話、それに左之助とふでの絡みの場面となるが、ここでふでが捨ててしまえと文句をつけるのが、土方が置き放しにしている石田散薬の薬箪笥で、これが後の本編に重要な役割を果たす小道具となるので見逃せない。
 さて芝居は観客に容赦無くずんずん進行し、講武所へと移る。松平主税之介と佐々木只三郎が登場し、ニヒルな佐々木只三郎は、虚飾に寄りかかる松平主税之介や講武所の実態にじつは絶望しきっていて、近藤に「講武所にはあまり多くを期待しない方がいい」とアドバイスする。道場を覗いた近藤が見たものは、若い旗本武士たちのたるみきった姿。意外な思いの近藤の背後から佐々木は「これが実情です」「心を失っている」と吐き捨てる。
 このように、このドラマにおける佐々木只三郎(井原剛志ははまり役だ)は、幕府の限界をとうに見切ってはいても忠実な幕臣としてのスタンスを失うことを潔しとはせずに、旧弊な武士身分/生き方にあえて殉じていき、そのことによって近藤勇をさらに引き立たせるという、なかなか渋い役どころを担うのだ。後にかれが江戸で清河八郎を斬る使命を引き受けるのも、清河が幕府を騙してまんまと手玉に取ったのを怒ってだし、またもっと後に京都で坂本龍馬を斬るときは、龍馬が大政奉還を実現させて幕臣の権威と存在意義を雲散霧消させてしまったことに対して怒りを抱いてのことだ。そうした佐々木の性格設定も、すでにここでなされている。

第三十二回補遺も参照せよ。また第三十六回にも典型的な佐々木像が描写される。
 場面はまたもや川向こうの伊東道場に戻り、沖田が加納を打ち負かす。驚いて目を見張る伊東大蔵。とたんに今度は多摩の見合いの場面に転じ、顔を上げたお琴の美貌に土方が目を見張る
 なぜこんなに目まぐるしいのかというと、それは「一目惚れ」ということを対比させんがためだ。というのも、次の瞬間、舞台はふたたび伊東道場となって、伊東大蔵はこう言うのだ。「(平助の)代わりにキミをいただく、いずれは尊皇攘夷のために京へ上る、そういう若者を探していた」と。それに対して沖田がすかさず狙い澄ましたように「私は名前も覚えない人の所へは行きたくありません」と一発皮肉を見舞うと、伊東大蔵は意外なことに「沖田総司」と応えるつまり伊東は、すぐに名前を覚えるほどに沖田の才能に一目惚れしてしまったというわけだ。この「惚れる」というのが、小さいながら本編のサブテーマであり、上にも述べたように、土方はお琴に惚れ、伊東は沖田に惚れる。またこの劇の順序からすれば、そもそも平助が近藤に惚れている。さらに言うならば、じつは山南もまた近藤にとうから惚れているのだが、最初の二者の単刀直入振りに比して、山南はいかにもこうしたことに無様なインテリらしく、本などを渡して相手の気を引こうとするというところがまさにかれのキャラクターを表わしていて、しかもそれはたしかに、京での明里とのやり取りにまで、はるかに響いているようだ。
 話を戻して、もちろん沖田がこんな申し出に同意するはずもなく拒否すると、伊東は「この話はここまで!」と席を蹴ろうとするが、そこに割って入るのが加納鷲雄である。「それはいけません先生、いさぎよく約束は守るべき」いさぎよく、卑怯なことを嫌う、誠実な人間としての加納の人物像もまた早くもこの時点で確立され、近藤狙撃のときにも、また流山でのクライマックスのときにも一貫する。
 とまれこうして平助は、「身柄貸し出し」という形ながら、首尾よく試衛館への移籍がかなうこととなるのである。
 一方、土方は河原でお琴に「オレは嫁を貰うつもりはない」と格好をつけるが、それは妻帯できるほどに将来の展望が開けていないからでもあるし、また同時に妻帯してしまって将来を制約されたくないからでもある。「自信の無さ」と「野心」という、青春期に同居する相矛盾する二つの思いは、男にとっては普遍的な記憶だろう。だが女にそんな気持ちが通じるはずもなく、「私が嫌いならそうおっしゃって下さい」と歎き訴えるお琴の襟足につい目を奪われた土方は、「嫌いだから言っているのではない」「お琴さんはいい匂いがする……」などと言いながら、とうとう自制心を失う。ところで、お琴役の田丸麻紀は、出番こそ少ないが、同じくチョイ役の幾松菊川玲よりははるかにいい
 さてここまでが長い前半部で、ここからドラマは突如後半の本筋に入り、しかも一気に、かつ急速に展開していく。
 試衛館に戻った勇の許に、信州松本藩士である伊藤軍兵衛が訪ねてくる。松本藩はエゲレス公使館警備に当たっており、浪士の不穏な動きが伝えられる中、もし戦闘となったさいの特効治療薬として石田散薬を買いたいというのである。どうやら行商時代の土方が、勝手に試衛館を代理店に仕立てていたらしいという設定で、これでドラマ前半の、土方置き土産の薬箪笥という小道具が生きてくる。
 薬の運び役は勇と源さん、それに原田。みつはいつも通り、勝手に一行に加わる。ひとり反対のふで(「母上は攘夷派ですか」)は「みんな私を目の仇にして!」と怒るが、そこに意気揚揚と戻ってきた沖田・永倉・平助の姿に、「(食客が)マダ増えるか!」とさらに怒りを募らせる。
 公使館への道のり、「(異人どもの傍若無人には攘夷浪士ならずとも往生する、)まだ私がエゲレス人を殺して腹を切った方が……」とひとりごちる伊藤軍兵衛は、すでに狂気を孕んでいる。空を見上げる源さん「一雨きますか」勇「雨の匂いだ」これはもちろん、血の雨が降ることのメタファーだ。
 公使館へ着いた四人が聞いたのは、「軍兵衛は責任の重さに神経を病み、任を離れていて、扱いに困っている」という意外な知らせ。要領を得ず帰ろうとするところに、イギリス水兵が二人入ってくる。かれらとたちまち意気投合するみつと左之助、おっかなびっくりの源さん、渋い顔の勇。一方、軍兵衛はノイローゼが嵩じ、ついに耐えられなくなる。
 イギリス水兵からシャンペンを振舞われ、例のコルクは酒の蓋だったのかと謎が解けて喜ぶ勇、左之助の故郷伊予の金毘羅様の歌も出るなど、場はしだいに打ち解けていく。「見知らぬ国に来て、苦労も多いだろうな」と源さんに言う勇の述懐は、後の浪士組〜新選組の京での労苦を暗示する。
 そしてクライマックス、ついに伊藤軍兵衛が乱入し、止めに入る近藤たちの努力も空しく、二人の水兵は軍兵衛の槍の穂先に貫かれる。攘夷ですらない、意味のない犠牲。降りしきる雨の中、石畳に倒れた水兵の体を抱き、勇は絶叫する。「この国はいったい、どうなっていくんだ……!」
 

以下準備中