新選組! 雑文コーナー

その一

●大河「新選組!」および歴史的新選組に関する雑文です。

●最初の頃の辛口批評から、ずいぶん好意的になっていることに驚きます。

●歴然とした過誤および錯誤については、そのつど訂補していきます。

 

 

2004年1月17日(土)

☆新選組! 初感想
 NHK「新選組!」の出だしはなかなか好調だと思う。いきなり坂本龍馬桂小五郎を、近藤勇土方歳三にぶつけるのは乱暴だが、所詮オールスター総出演のバラエティと割りきってしまえばいい。三谷幸喜は40代だと思うが、それで若い役者をそれらしく動かすすべをわきまえているのだろう。土曜の昼の再放送に観るには害がない。
 ただひとつ面白かったのは、石坂浩二の佐久間象山が、ペリー艦隊を眺めながら、「まずは開国し、欧米と同等の力をつけ、それからあらためてケンカを売る、それが真の攘夷だ」というセリフだ。
 これは佐久間象山の思想であることは確かのようだが、これが相当説得力を持って聞こえてしまうというのは、戦後60年、ナショナリズムがあらためて、澎湃として一般化しつつあるということなのだろう。
 

 

2004年2月15日

☆新選組! 第六回
 ヒュースケンが、自分のマントを羽織った土方歳三に「よくお似合いです」と言う場面。
 あれはつまり、土方の運命を暗示しているわけだ。土方は函館で戦死する直前、洋装で写真を撮っている。これが土方のイメージを決定づけていることは周知の通りで、五稜郭のミスター土方祭りは、必ずあの格好で登場する。また、マントはつねに「死」のメタファーでもある。
 つまりヒュースケンは、死人が狂言回しとして登場したようなもので(わざわざ「今は助かったが、私はいずれ斬られる」と予言めいたセリフを言う)、いわば土方の死に様を予告する役回りとして、三谷幸喜が出したというわけだ。
 実は私にこのシーンの意味がなぜわかったかというと(「やっぱり猫が好き」以来の三谷ファンである妻はわからなかった)、アベル・ガンスの名作映画「ナポレオン」を思い出したからだ。
「ナポレオン」では、幼年学校においてコルシカ人ということで差別されいじめられる少年ナポレオンが、自分が可愛がっていた鷲(これがもう皇帝のメタファーで、子供が鷲を飼うという設定も凄まじい)を逃がされて泣き崩れる。その背中に、同情した賄い頭がそっとマントを着せかける。蝋燭に照らされたそのシルエットが壁に大きく映ると、それは皇帝ナポレオンなのだ。そしてそこに鷲が戻ってくる。
 異国の貧乏貴族から身を立て、フランス皇帝にまで出世するナポレオンの一生を一瞬にして暗示(明示?)するこのシーンは、土方とは逆だが、作劇法としては同一だ。
 私はかつてNHKホールで「ナポレオン」が上映されたとき、このシーンのところで、映画を観て初めて滂沱と涙を流したことを覚えている。
 だからこの土方ヒュースケンのシーンで、ぴんと来たのだ。ははあ、これは三谷幸喜の、アベル・ガンスの本歌取り、オマージュだな、と。
 三谷幸喜、いまさら言うのもきっとなんなのだろうが、ただ者ではないぞ。
 

 

2004年2月15日

☆新選組サイト
 新選組を取り上げたサイトにも、さまざまなものがあって面白い。たとえば、「新選組はテロ集団だ、NHKは不見識の骨頂だ、9.11被害者が見たらなんと思うだろう」とか、「あれは新選組漫画執筆25年のプロである私から見たら、ただの絵のうまい同人誌作品、要するにプロのものではない」とか。
 要するに、新選組は、賢治と同じで、宗教的崇拝の対象なのだ。みな、自分の見たい新選組しか見ないのだ。それでもって、他人が表現したり解釈したりした新選組のことは反発し拒否する。するとこんどは、そうした崇拝対象あるいは崇拝現象を断固打倒粉砕せねば気が済まないやからも現われて……。とどのつまりは、宗教戦争だ。
 だいたい、近藤勇と坂本龍馬が知り合いだなんて荒唐無稽を、だれが信じるというのだ。そんなこと承知の上で観ているのではないか。2ちゃんねる風に言えば、「ネタ」だ。少年ナポレオンが鷲を飼っているのと同じだ。鞍馬天狗をごろうじろ
 史実は史実、ドラマはドラマだ。それより荒唐無稽を、どんどん引っ張って面白く見せてしまう三谷幸喜のドラマトゥルギーこそ大したものだ。俳優は手の内に入っていてうまく動いているし、大河ドラマなどというものを、久しぶりに面白く観ている。要は、早坂暁の「天下御免」や、それへのオマージュと思しき三谷幸喜自身の「龍馬におまかせ!」と同様に見ておけばいいのだ。
 ただし、ナショナリスティックなメッセージをずいぶん語っているなとは、たしかに思う。
 こんなに大っぴらに盛り込めるようになったとは、やはり時代ということなのだろう。
 

 

2004年2月22日(日)

☆新選組! 第七回
 うまく役者を手の内に入れて動かしている。まあ三谷版「獅子の時代」(加藤剛も菅原文太も若かった)、男の愛の物語だ。ということは、つまり「若き獅子達」の本歌取りというわけだ。マーロン・ブランドーとモントゴメリー・クリフト。それにしても、まったくモンティは、可哀相な役しかやらない。
 しかし、「ここより永遠に」とか、こうした二次大戦ものを観ると、「プライベート・ライアン」なんかディズニー映画だ。
 

 

2004年3月11日(木)

☆越生梅見、近藤と土方
 この日は母を連れてドライブ。越生梅林に梅を見に行き、それから小川町に出て、そこの「忠七めし」(ここは山岡鉄舟ゆかりの店)か「女郎うなぎ」(江戸の女郎が伝えた味という)に寄ろうかと思っていたのだが、気が変わって、白石峠を越えて秩父に降り、さらに雁坂峠を越えて塩山に出ることとした。どうせ渋滞に巻き込まれるのだし、すこし時間を稼いで空いてから東京に戻ればよい。
 勝沼インターから中央道に入り、談合坂サービスエリアで夕食。新選組キャンペーンを打っていて驚く。高井戸から甲府までの間のSA、PAが、それぞれ趣向を凝らしているらしい売店には新選組グッズのコーナーが特設され、壬生浪士にちなんで京都の名産や菓子なども置かれていた。レストランでも特別メニューがあり、私は「誠御膳」というセットを食べた。
 それでも新発見があり、甲陽鎮撫隊として甲府に向かう途中、新選組は
犬目宿に泊まっていたことを知った。それにしても、そんなに悠々と泊まりを重ねて行っていれば、官軍との甲府入城競争に負けるのは、初めから判り切ったようなものだと思うのに。
 石川PAにも寄る。ここは日野、高幡不動の近く。そのためか、ここのグッズは、専ら土方に偏る。郷土自慢なのだろうか。可笑しなものだ。
 そういえば、今年の大河ドラマに合わせたイベント実施に際しても、日野(土方郷里)と調布(近藤出身地)は、それぞれの思惑から主導権争いをして、結局は別々にやることになったと聞く。市町村合併が叫ばれる時代だというのに、いまさらそんなつばぜり合いを、しかも同じ新選組の仲間内でしているとは、恐れ入る。
 いっそこのさい、甲州街道沿い、みないちどきにやれば、コストも安く、規模もずっと大きく、共存共栄でやれただろうに。
 ぜんたい、御一新後、何年経ったというのだ。いまだにそんな狭量な地域意識だとしたら、薩長土肥に負けたのも当然だと言われても、とうてい反論はできないだろう。
これはどうやら、猿橋宿に泊まった本隊の後続部隊だったようだ。(2005年2月20日加筆)
 

 

2004年3月12日(金)

☆腐女子(?)サイト?
 ここしばらく、新選組が面白くなっているので、子母澤寛の新選組三部作を全部読んでしまった。やっぱり多摩繋がりとか、ジェントリー階級を形成しきれなかった幕末郷士・豪農・豪商といった観点で見るのが面白い。土佐勤皇党もそんなものだろう。同じことを夢見ながら正反対に行ってしまった人びとだ。しかし結局、どちらも没落だ。民族社会全体主義が早く来すぎたのだ。
 ところで、「新選組!」とか出演俳優とかでグーグリングすると、男子禁制の「腐女子」サイト(こんな用語を初めて知った、センスあるなあ)が星の数ほど出てきて、山本歳三とか、堺敬助とかについて、熱く語っているのだ。それがまた、鋭く、光っていて、知識も愛情も皮肉もあり、結構冷静なところもあって、文章も面白いのだ。
 

 

2004年3月14日(日)

☆新選組! 第十回
 京都へ行きたい沖田が月代を剃って近藤にアピールする。永倉が「京都で沖田の剣がどのくらいの働きをするかを見たい」と言うと、山南「私も沖田君の剣がかならず役に立つときがあると思います」と言う。
 これが当然、山南の最期を暗示していることは、直ちにわかる。なぜならば、脱走した山南を大津の宿から連れ帰り、切腹の際に介錯を勤めるのは、ほかならぬ沖田だからだ。
 三谷幸喜も人が悪い。
 

 

2004年3月20日(土)

☆「土方歳三義豊」
 函館撮影の土方の写真を見ているうちに、頭の中に絵のイメージが浮かんだ。
 それで描いたのが、
「土方歳三義豊」だ。
 世に新選組愛好サイトは多いが、その末席の末席を汚すこととなろうとは思わなかった。
 だいたいは土方のあの有名な写真をもとにして、それ以外にも、リボルバー拳銃や、刀の下げ緒などについて調べることも、同時に楽しみながら描いた。
 こういうとき、ネットはまことに便利なものだ。お蔭で、拳銃は正確に描けた。下げ緒の方はわからない。函館の土方は洋装だから、刀もサーベル風に吊り下げさせたのだ。
 ポーズはどこかナポレオン風、しかしイメージとしては、映画「グローリー」の、マシュー・ブロデリック扮する若き北軍指揮官だ。これが突撃の前に記者会見をしたりして、なかなかよいのだ。最後は斃れてしまうのだが。だからなおさら土方イメージだ。
 絵にはまだ不満があるが、まあアップする。足が太すぎて前に出すぎて見えたり、手が短かったり。要するにデッサンとバランスが狂っているのだが、人間の目というのは必ずしもデッサンで見ているわけでもないので、つまり見たいところを強調して見るので、これでいいかとも思う。
「こりゃ違う!」と怒る人が多いことは、賢治の場合と同様だろう。とくに新選組は思い入れがあるだろうから。
 

 

2004年3月21日(日)

☆高幡不動、「新選組フェスタ in 日野」
 昼から気が向いて、多摩と新選組のフィールドワークに乗り出す。

 まずは土方探索ということで、高幡不動からはじめる。
 小田急、井の頭、京王と乗り継いで、やっと高幡不動到着。多摩川の段丘崖、湧水のあるところに作られた、恐らく縄文期にまで遡る、古くからの宗教的聖地だと思う。今も参詣者多く、護摩供養を行い、一味違う霊地の雰囲気を持っている。
 もちろん今年は「新選組!」タイアップで、それでなくとも土方ファンは多いので、駅前から参道は、ここを先途とばかりに
誠の旗をたなびかせているし、新選組グッズを売りまくっている。
 駅前の観光案内所でパンフレットを貰い、まず参詣。日曜日ということもあってか、古物の市が立って賑やか。門前の「開運蕎麦」で遅い昼食。それから歩いて万願寺というところに設けられた「新選組フェスタ in 日野」の会場へ。
 大河ドラマ館、「土方と写真」コーナー、土方資料館、グッズや食べ物売店、それからどういうわけかリトルホース触れ合い広場など(よく慣れた、人の腰ぐらいの高さの小さな馬。ニュージーランドで盲導馬、介護馬として役に立っているらしい)。大河ドラマ館を見ている間に、特設舞台でやっていた天然理心流演武が終わってしまい残念。
 とにかく日野は何から何まで土方、土方、土方一色。どこに行っても、あの肖像写真から逃れられない。きっとこれで調布へ行ったら、今度は近藤、近藤、近藤なのだろう
 しかしこれだけ持ち上げられ、地元をも潤して、新選組も以て瞑すべきだろう。
 その後は、多摩モノレールに乗って南下。多摩センターで京王線に乗り換え、橋本から横浜線で新横浜、地下鉄で横浜、さらに長い乗り換え道を通って、みなとみらい線で中華街に出た。これはじつは、多摩から横浜へ通じていた、生糸生産輸出の、幕末「きぬのみち」を辿ったわけだ。
 中華街で食事の後、東横線直通で中目黒まで行き、それからタクシーで帰宅。

 ちょっとした小旅行となったが、収穫も多かった。
 今度は調布遠征かな……。
 

 

2004年4月3日(土)

☆ちょうふ新選組フェスタ、深大寺
 午後から小田急〜京王線と乗り継いで、調布へ行く。
 ずいぶん調布で下車する人が多いと思ったら、そこからまた各停に乗り換えて、隣りの西調布のスタジアムまで行くサッカーファンだった。
 こちらは新選組探訪だ。
 調布の駅前は北・南とも狭く雑然としていて、人と車の行き違いにも苦労する。おまけに自転車も多い。日曜だからかもしれないが商店街は店を閉じ、さびれた印象。30分もかからないし、みな新宿へ出てしまうのではないか。インフラ整備の必要性を、切に感じる。甲州街道のあたりには、もと農家のような広大な敷地もなお残る。
 小田急バスに乗り、「ちょうふ新選組フェスタ」を開催している神代植物公園まで。やっていることは、日野の「新選組フェスタ in 日野」とほとんど同じ。向うが土方中心なら、こちらの公式キャラクターは「イサミくん」だ。しかし中身は池田屋騒動ばかりが話の中心で、ここは調布なのだから、地元多摩と新選組の関わりとか、多摩の産品販売とか、もっとじっくりやれば地域にとっても有益なのにな、とつくづく思う。新選組を京都に取られっぱなしの必要はないだろう。ここで、近藤勇愛用のどくろの刺繍入り稽古着風のTシャツを買った。ただしこれも中国製。
 ところで調布では、なぜ
誠の旗の色がの組み合わせなのか不思議だったが、調布にフランチャイズを持つFC東京のチームカラーだということが、ここに来て初めてわかった。
 神代植物公園は、ちょうど桜が満開で、多くの散策客が訪れていた。桃の花がまた多彩で美しく、「桃源郷」ということばが残るのもかくやと思われた。深大寺にも参詣客が多く、参道の店も賑わっていた。
 ここも水が豊かな地で、だから名物蕎麦などもあるわけだ。建立は奈良朝に遡るが、その遠い起源はおそらく高幡不動と同じく、武蔵野台地の段丘崖に開かれた縄文時代以来の水場であり聖地であったのだろう。参道の横の池には御不動様(暴風雨神ルドラに由来)が祭られているし、深大寺の祭神である深沙大王は沙悟浄、つまり河童で水神でもある
 しかし花木を愛で、聖地に参詣し、こういう人たちばかりなら、テロなんて起こりそうもないのに。
 年年歳歳こうした風潮が盛んになっているというのは、思えば50年代〜70年代がおかしな時代だったということかもしれない、と妻と語り合った。敗戦で価値観ゼロになり、そのまま高度経済成長・開発に突入した30年間だったということだ。
 さて戻りはバスで吉祥寺に出て軽く一杯、井の頭線で渋谷というコースで帰った。
 

 

2004年4月4日(日)

☆新選組! 第十三回
 はや多摩シリーズが終了して、ついに次回からは京都だ。
 中山道の旅を、たった一日のエピソードで済ますとはすごい芹澤鴨の焚火騒動を軸に、道中殆どの逸話の要素をぶちこんである。
 今回は山南が久しぶりに活躍したが(村上との角突き合い、ここでの堺山南の演技と、これにからむ山本土方のセリフに対して、腐女子の評価は高い)、これも子母澤寛の新選組始末記に基いている。それから、永倉新八が珍しく軽薄なところを見せて土方が苦い顔をするシーンがあるが、これは後の、鳥羽伏見の敗走後、品川に上陸した永倉たちが江戸帰着後に深川洲崎の遊郭で暴れ、土方に叱責される、というエピソードを踏まえての伏線だろう。
『週刊新潮』によれば視聴率低迷で、評判も悪いらしいが、ふだん大河ドラマなど観もしない人間がこうして面白がって観ているケースもあるのだ。俳優たちも楽しそうにやっているし。
 それから思い出したので書きとめておくのだが、、何回か前、試衛館の面々が京都へ行くという話を聞いて憤然としたおみつさんが「なぜ私を連れて行かないの!」と近藤を竹刀で殴った後、「婦女子の組はないの?」と叫ぶ。
 これは明らかに、腐女子サイトへの、三谷幸喜のサービスないしは楽屋落ちだろう。
 

 

2004年4月14日(水)

☆スタジオパーク見学
 月曜日のことだが、にわか「新選組!」ファンとなった母(勇および左之助贔屓)を連れ、NHK放送センタースタジオパークを見学。三十余年前の中学生の頃、通学コースだったのでしきりと寄り道したものだが、いまや時代は変わり、入場料200円徴収されるのに一驚。
 期待はしていなかったが、幸運にも「新選組!」収録中。スタジオを上から見下ろすと、セットの屋根の向うに隊服がちらちらと見える。見学コースからは収録カメラの映像をリアルタイムでモニターできるので、沖田、島田、斎藤、藤堂、それに八木ひでのシーンだとわかる。だいぶん先のシーンなのだろう。裏方さん、アシスタント、エキストラ、その他スタッフが必要に応じて動き、俳優たちはシーン作りに余念なく、ときどきは談笑する光景がモニターに映し出される。
 オダギリジョーだけが話に加わることもなく役に没入しているようだったのが印象的。斎藤一の役どころがもともと暗いからかもしれない。
 藤堂平助役の中村勘太郎は、演技に入る前の顔はじつにハンサムで、きりりといい男だ。あの頼りなげな猿のようなきょとんとした表情は、まったく藤堂平助の性格を表わすために芝居で作っているということがわかって、さすが歌舞伎俳優と、あらためて感心したことだった。
 

 

2004年4月24日(土)

☆新選組! 第十五回
 明日日曜日になればもう第十六回になる。今日は再放送。
 この作品は純然たる舞台仕立てで、なおかつ過去の名作名画に対するオマージュから成っているので、いわゆる大河ファンとか歴史好きなどの人の評価は低いだろう。しかし観る人が観ると、可笑しいということを越えて面白いのだ。前にも書いたが、鞍馬天狗を歴史と違うと言って非難するのが的外れであるのと同様であって(しかも鞍馬天狗の原作者である大仏次郎といえば、ビクトル・ユーゴーに比すべき大歴史家・大小説家だ)、その点ではシェークスピアやワーグナーだって同じことだろう

 今回は芹澤・近藤一派の独立宣言を軸に、池田だの殿内だのといった狂言回しが相変わらず絡んで展開する。それぞれのキャラクターの持つ歴史的実像を過不足なく生かして取り込み、飽きさせない。しかも将来の伏線もちゃんと張ってある。たとえば近藤清河を斬ろうとしていると早合点して「近藤さん、あなたらしくもない」と批判する永倉(かれはいつも自分だけのテーマを抱えている)、それに芹澤の刃から清河を救おうとする近藤に対して「嘘吐き野郎をやっつけるのは悪いこととは思わねえがな」と楯を突く左之助思えば近藤に忌憚のない意見を述べるのはつねにかれらのみであって、これはかれらがのちにしばしば近藤を非難し、また勝沼から敗走してから、この二人と近藤とが論争してついに袂を別かつという未来を暗示しているわけだ。
 ドラマは山南の苦悩、近藤・芹澤派の脱退、清河と近藤の対決と進んで、雨中の京の町における清河追っかけ劇のクライマックスへとなだれ込む。
 向うはあっちの角、こちらはこっちの角と行き違うところは、まるでマルクス兄弟やピンク・パンサーの一場面を観ているようだ。しかもそこに祐天×大村の仇討追いかけが同時進行しつつ、さらには火事騒ぎが絡んで、事態はもはや統制不可能な混沌状態に沸騰した次の瞬間、場面は一転して終局が訪れる。そこでは、山南を騙して試衛館一統を窮地に追い込んだ悪玉トリックスター清河は、まさにそれがために近藤たちに新たな運命を切り開いてくれた「恩人」となるのだ。
 そして火事も雨も収まった(つまり動揺が去って決心がついたことの象徴)京の夜空に、沖田が「清河さ〜ん、ありがと〜う」と叫んで、浄化が来るのである。
 まさに演劇の常道ではないか。
 

 

2004年4月29日(木)

☆自由民権資料館
 連休の初日、町田にある自由民権資料館を訪ねた。ちょうど家永三郎コレクション展の初日で、それも併せて見られたのは幸運だった。
 多摩の自由民権運動は実に広い裾野を持っていて、江戸後期の養蚕業の勃興を背景とした豪農豪商層に支えられ、かれらの政治的発言権要求とともに高まるが、新政府財閥による独占資本近代化によって没落していく中でかれらは次第に二極分解し、没落組はかつ利権にたかりかつ過激化する多摩壮士になり、最終的には武相困民党一揆の中で敗北する。また没落しなかったブルジョワ・インテリたちも、結局は徳富蘇峰のごとく、頭山満のごとく、民権から国粋へ、大陸進出へと豹変していくのである。
 これらすべては、日本に健全ジェントリー階層やブルジョワ階層が育たなかったことに原因があると私は思うのだが、トロツキーも指摘しているように、そんな「弾力的保守主義の生成」などは所詮、世界中に植民地を持ったイギリスだけに許された贅沢だったのかもしれない。

 面白いのは、近藤勇の義兄弟で天然理心流を学んだ大名主小島鹿之助もまた民権伸張になにがしかの理解を持っていたことで、また困民党一揆を解決するための融資処理を行なった地域財閥はどうやら土方の一族であったらしく、もしかれらが幕末にあのような最期を遂げずに生き残っていたとしたら、近藤は案外自由民権の活動家に、また土方は地域実業家になっていたかもしれないとも思うのである。
 しかし結局のところ、自由民権運動の失敗後、没落階層は右は国権主義となり、左は自然主義・労農主義となり、さらに下の階層は皇道派軍人としての出世に活路を求めるか、あるいは農本主義を奉じて満蒙開拓に望みを托して、みな失敗。かといって薩長藩閥・財閥の支配層も、やっぱり国の舵取りを誤まって敗戦に突き進むというわけで、要するにこの「日本近代双六」の上がりは、どのルートを通っても、所詮は「破滅」に行きつくという、なんだか絶望的な話である
 そしてこの中に、加藤完治も、石原莞爾も、宮澤賢治も、私が興味を持った人物はみんなみんないるわけで、元民権家の徳富蘇峰、頭山満などは私の本務校の発祥に、浅からぬ縁を持っている。さらには母校の先輩である中野正剛もまた、民権家から議会主義者、そうしてリベラル全体主義者へという軌跡を辿っていく。
 そしてどうやらこのコンテクストの最初の方に、多摩と天然理心流も、しっかりと織り込まれてくるらしいのだ。
 右だの左だのと、戦後民主主義者による浅薄な分類など、この当時の理解には、何の役にも立たなかったといえよう。
 自由民権資料館で、ますますそうした構想に対する確信が持てるようになった。
 

 

2004年4月30日(金)

☆山南敬助
「山南敬助知信」を描く。
 土方に次ぐ新選組ものだが、同時に初の江戸武家ものなのだ。これまで長い間歴史イラストを描いてきて、中には平安・鎌倉のものまであるのに、室町以降、江戸期までのものがぽっかり抜け落ちている。興味がなかったというのが正直なところだが、新選組となればこの分野に踏み込まざるを得ない。
 堺雅人扮する山南敬助は、山本耕史演ずる土方に次いで腐女子の憧れキャラクターのようだが、じっさい美形で芝居もなかなかうまいのだから、こちらも観ていてつい力が入る。懸命に時代について行こうとしてつねに裏切られ、ついには悲劇的最後を遂げる山南の雰囲気を、よく出しているといえよう。
 細かい突っ込みは腐女子サイトにまかすとして(そっちの方がはるかに優れている)、通常では、新選組を脱走した責めを負って切腹したとされている山南の最期についても、さまざま異説や解釈があるようだ。
 三谷幸喜がそのどれを取るかというのも楽しみだが、私としては、負傷や病気によって次第に活動ができなくなった山南が、自分が浪士組に引き込んだも同然の近藤を十分にサポートできないことに自責の念を持ち苦悩して自ら死を選ぶ、というやつにしてもらいたい。土方も山南をむしろ好いていたという説もあるようだし、願わくば試衛館の仲間は、最後まで麗しい間柄でいてほしいものだ
 

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