新選組! 雑文コーナー
その四
山南はこのドラマをたしかに引っ張ったと思います。
2004年8月22日(日) ☆「新選組!」第三十三回 明里がぐずぐずしなかったら山南は逃げおおせたか、と考えるのは無意味だろう。いずれにせよ山南はそれによる遅延を受け入れるわけだし、所詮は天命であるという設定だ。それに、どのみち明里はもう、身請けして助けてある(まあこのあたりも山南の独善、と悪く言えないこともないが、それをも明里は許すのだ)。 それはともかく、話をドラマ本筋に戻せば、自らを時代の祭壇の犠牲に捧げて新選組を(それが実現されてもされ得なくても)再生させんとする山南の決意は、もはや固い。大津での沖田の説得にも(「みんな疲れてますよ」というのは、山南の言わんとする文脈とは微妙にずれているわけで、このあたり沖田の人生経験の浅さを際立たせて巧みだ)耳を貸さず、結局沖田は「お湯入ってきます」という形で諦めさせられる。このあたりの運びも、じつにうまい。 なぜ山南は、自分の命を犠牲に差し出そうと思うのか。 号泣する土方の肩を近藤が抱き寄せる場面は泣かせた。ついに自分の手で、取り返しのつかない時点まで突き進んでしまって、いざそうなったときの喪失感と索漠感は、いくら「避けては通れぬ道」とはいえ、さすがの土方にも想像がつかなかったというわけで、それを優しい土方の部分が後悔する。そうした哀しみを、山本耕史がじつにうまく出していた。あの号泣が、これまでの歩みに対する、すべての別れを告げていた。 さらば堺山南。 後は、「新選組!」における甲子太郎について書いておかねばならない。というのも、次回からは油小路に向って伊東・平助ラウンドになるわけで、かれが山南の代わりとしての存在感を作れるか否かが、今後のドラマ作りの勝負になると思われるからだ。 蛇足: 来週は、この山南切腹の余波で龍馬と勇が訣別し、また平助の心も離れはじめる、ということになりそうだ。つねさんは京へ上るのだろうか。 |
日付が前後しました
2004年9月1日(水) ☆会津小旅行 喜多方に別れを告げて西行し、山都町へ向う。ここは蕎麦の名所。喜多方から30分も走ると、そこはもう山里。稲が実り、蕎麦の花が咲いている。山都町のさらに奥に一の木という集落があり、ここの「やま仙」という蕎麦屋に入る。農家がそのまま蕎麦屋になっていて、客はわれわれのみ。蕎麦ももちろんうまいが、山菜の煮付と蕎麦つゆの味付けが、およそ東北の山村のイメージとは遠く離れてゆかしくて、むしろそちらの方が印象的だった。 冬季閉鎖の狭い国道を通ってふたたび喜多方へ降りて、会津若松へ向う。ここはあまりにも有名なので詳細は省略。飯盛山の白虎隊記念館、天寧寺の近藤勇墓所、そして鶴ヶ城を見学してタイムアップ。帰りは会津田島に出て夕食、そこから台風余波の風雨をついて川治〜鬼怒川〜今市〜小山〜国道4号線というルートで帰宅したのだった。 あとは感じたことだけ書いておく。 会津支援隊 終わりに、ここへ来て、あらためて
decent
ということばについて、やはり「守節殉義」というのがいちばん近いのではないか、と考えたしだいである。大江健三郎がどういうニュアンスと文脈でこのことばを使ったかはもう忘れたが、結局は「誠」ということなのではないか。 |
9月中、旅行と調査のため、しばらく日本を離れます。
次回以降の感想は、ちょっと不定期になります。
2004年10月24日(日)
[うまく作った!] 上手い! お見事! としか言いようのない出来。 ドラマは大政奉還という激動を背景に、目立たぬカラス二羽、大石と周平の試合という小さな波と、それが引き金となる沖田の病臥/戦線離脱の欠かせないエピソードを絡ませながら、大政奉還の発案者である龍馬の死を描く。不吉なカラスとその鳴声がBGMだ。お孝のときだけそれが鳩になるのも、またうまい。糸井重里なら、必ずここに着目することだろう。 蛇足: 付記: |
さらば平助、甲子太郎
2004年11月2日(火) ☆「新選組!」第四十三回 まずドラマの前半で、伊東は岩倉に、まるで道化であるかのごとくに手ひどく扱われる。というのも、薩長と岩倉はもはや自分たちの政治的思惑でしか動いていないので、いまさら正論などはかえって邪魔なだけなのだ。そのため、すでに甲子太郎の顔を見知っているにもかかわらず、岩倉はいかにも嫌味な公卿らしく、彼我の力関係というものを伊東に存分に見せつけ、思い知らせる。 残るは平助のドラマ。まずとにかく、勘太郎が歌舞伎役者の本領(大首絵のままの顔)を存分に発揮して、目の覚めるような芝居を見せたことは特記しておかねばならないだろう。また演出の方も、勘太郎の思うように、敢えて古典的でいいから演じさせたに違いない。 蛇足: |
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