2004年11月21日(日) ☆「新選組!」第四十六回
今回はオールスター登場で、ある意味では、京と江戸のシリーズのお別れ回であるかもしれない。というのは、かりに今後生きているとしても、今回を限りに出なくなる主要キャラクターが、かなりいると思われるからだ。試みに列挙すれば、八木家の人々、とくにひではわざわざ男装を復活させている。他にはまさ。山南も編成表上の名として出てくるし、お孝は良順先生のナースのまま消えて行きそうだ*。近藤周斎も回想の形で登場し、臨終が描かれる。またそれ以外の江戸の人物といえども、ふでもつねもたまも、甲陽鎮撫隊以降のドラマにおいては、殆ど出演の機会はないだろう。松平容保も同様だ*。
だから考えてみれば、今回あたりから、すでにカーテンコールをやっているようなものでもあるともいえるだろう。
*行きませんでしたね。(2005年2月21日補記)
*みんな、けっこうピンポイントでいい役を張っていましたね。(2005年2月21日補記)
Avant-Title で佐々木様、早くも撃たれる。
第一幕では、京都の別れをこもごも描く。戦は惨敗、新選組も局長の篭る大坂城へ撤退する。その中で、土方はじめ幹部連は京都へと戻る。これは当然、京都時代のそれぞれのドラマの平仄をつけるためだ。土方は山崎を斥候役に、斎藤を護衛に引き連れる。
その頃、大坂城では、瀕死の佐々木が近藤に手を取られ、「徳川家のことはお主に託した」と言いつつ息を引き取る。またもや近藤は、古い時代の店仕舞い役を「託され」てしまうわけだ。ちなみに、どうやら次回においては、勝海舟(今回、容保に新選組のことを評して「タダの時代遅れの剣術屋」と言い放っていた)にそれを押しつけられそうだ。
一方京都の屯所では、土方が敗戦処理のため機密書類を焼却中。その書類は、山南の言いつけで尾形が克明に記し続けたものなのだ。「残しといてもだれが喜ぶ」と言いながら書類を一通、懐に忍ばせる土方。それを斎藤がちゃんと見ている。
本願寺寺侍、西村兼文登場。「新選組の行末、見届けさしてもらいます」と土方に餞別を差し出す。推測するに、燃え残りの書類の束はこの人が手に入れ、それらも資料にして後に新選組について記述したという余韻を持たせたものだろう。このドラマでは「私はだれの味方でもない」と言っているが、歴史的には新政府よりの心情の持ち主だったはずだ。まあいずれにせよ、クールなキャラクターのこの人も、いわば
The last bow だ。
薩摩兵が充満して脱出のタイミングを失った土方たちに、八木為三郎が助け船を出す。源之丞は激励し、雅夫人は弁当を渡し、房吉を案内につけて裏路地から送り出す。見送る源之丞に、為三郎が問う。「あの人たち、何か悪いことしたん?」源之丞「な〜んも、してへん」たとえ稗史であっても、だれかがそのことを語らねばならぬということだ。この感動的なシーンをもって、このドラマでは八木家に告別。
舞台は変わって、左之助とまさの別れを描く。いつもどおりのコミカルな遣り取りの後、左之助は、もし自分がお尋ね者になったら「海を渡って清国へ行く、山賊になる」と答えるが、この科白もまた、そうした伝説を残す「死に損ね」左之助に対する三谷幸喜からの、オマージュとしての告別の辞なのだろう。
おそのは最も悲惨。永倉が立ち寄ると、薩摩兵に家は略奪されており、おそのは永倉の腕の中で「宇八郎様……」といって事切れる。次回以降、永倉と芳賀宜道の靖共隊エピソードが出るかどうかは分からないが、こうしてそのことも想起させつつ、悲しい別れを描く。
慣れ親しんだ登場人物が、こうして、せわしなく舞台から去って行く。
第二幕では、大坂城内と土方たちの逃避行とを、交互に描く。
大坂城では、将軍がすでに東帰したことを永井から告げられて(「もはや我等に勝ち目はない」)近藤は愕然とする。一方、行軍する薩摩の兵士から身を隠しつつ小休止する土方に、「(懐に隠して)何を持ってきた……」と問う斎藤。「何でも見ているんだな」(このドラマにおける新選組の語り部なのだから当然だ。第二十二回の感想参照)と苦笑しながら土方が取り出したのは、二年前の新選組全盛期の編成表だ。山南の名も、甲子太郎の名も見える。自嘲しながらその紙をやぶこうとする土方に、「取っておけ。新選組は、あんたが作ったんだ」と斎藤は言う。これは三谷幸喜が土方ならぬ「山本耕史」に対して言ったものと、観ていた私には感じられたところだ。
脱出のための獣道を見つけてきたと報告する山崎に、薩摩兵が「チェスト!」と斬りつける。応急手当はしたものの、案内役を失い途方に暮れる土方と斎藤の許に、あまりに都合よく捨助が現われ(「呼ばれもしねえのに現われるのが捨助さまよ!」)、寺田屋に導く(「腐れ縁でも縁だからな」とこれで土方と和解)。最初に響いてくる「逝んどくりやす!」というお登勢の科白は、最初は一瞬、新選組に対して発せられたのかとどきりとするが、すぐにそうではなくて薩摩の巡察隊に言われたものと分かる。かつての新選組対薩長の図式の、まるで逆のシーン。こういう出番を用意して、これでお登勢(そこから想起される龍馬)にも敬意を表しつつ、別れを告げたわけだ。
場面は戻って大坂城。前回の予言通り負傷者で満員になった部屋の中で、松本良順の「ナース」として甲斐甲斐しく立ち働くお孝と、治療が後回しにされている沖田と近藤。良順は近藤を呼んで、船で江戸へ戻ろうと誘う。仲間がいる、とためらう近藤に対して、鳥羽伏見では激戦で、はたして何人残れたか……と良順が首をかしげるまさにそこに尾形が駆け寄り、幹部たちの帰還を告げる。この場面、本庄宿にて部屋割りに途方に暮れる近藤の許に仲間が笑いながら集まってきた、あの温かくも懐かしいシーンを思い起こさせた。
こうして二つのストーリーは収斂し、大坂城での相談に移る。「江戸へ帰る」という近藤にただひとり不服な土方。捨助が部屋に戻ってきて近藤に礼を言われ、虚勢を張って「あばよ!」と寅さんばりに手を振るのだが、江戸への帰還の話を聞いて「ソウナノ?」と突然頼りなげな表情に変わり、沖田の「捨助さんももういいでしょう、帰りましょうよ」という言葉に渡りに船と「カエル!」とニコニコ顔で坐りなおす、ここはほとんど渥美清の演技のパロディだ。またこの「カエル!」は、近藤と土方が第四十回で叫んだ「カエレ!」に対応していることは明らかだろう。
土方は憤然と席を立ち、「オレは帰らない、ここに残る」「オレはかっちゃんを大名にするために来た」「ここで帰れば負けだ」と近藤に言う。これに対して近藤は「オレたちは負けない、勝機は我等にある、勝つために帰るのだ」と説き伏せ、土方もその気になるのだが、もちろんここでの土方には、大勢の命を奪いまた失い、どの面を下げて故郷へ戻れるという後悔自責の念があるがゆえに、こんな風に悪びれて言うわけだろう。しかし土方は近藤のことを心から信じきっている/信じようとしているから、近藤が「勝てる」といえばそれを素直に受けとめ、気持ちを切り替える。むしろ自分のことばを信じられなくなるのは、近藤の方だろう。
天保山へと向う敗残の新選組に、悪意に満ちた視線が沿道から投げかけられる。捨助だけがついに新選組の一員になれたという喜びを無邪気に表わすが、島田には観衆の投げた石が当たり、沖田の乗った荷車を周平とともに押す大石は回りを睨めつける(このときの根本慎太郎の表情はいい)。京都へ入ったときとはなんという違いだろう。あのときは上手から下手へと、こんどは下手から上手へと方向が逆の描写で希望と失意とを示し、また東への退却を象徴する。ただ左之助のみは、行きも帰りも不屈の快活さだ。
荷車の上の沖田に、男装に復した八木ひでが呼びかける。「誰?」と問うお孝に対し、沖田は「昔の友人だ」と答える。
こうしてひでにもわざわざ思い出の出番を用意し、ついにこの場面を一期として、新選組は江戸へと戻って行くのである。
第三幕の舞台は、江戸と富士山丸。江戸城では勝海舟が、容保兄弟の面前で慶喜を嫌味たっぷりに直諫する(慶喜「他に手はなかった」勝「そうでしょうとも、こんなマズイ手は他にございません」「京の替わりに江戸が(これから)丸焼けでございます」)。しかし、小劇場の元祖でもあり王でもある野田秀樹を前にしては、文学座中堅の今井朋彦もさぞやりにくかったことだろう。
「錦旗などこちらが手に入れればいい」と近藤と同じことを述べる勝のことばに、「まだ間に合う」「自分の家臣も残っているし、新選組がいる、近藤勇がいる」とこもごも希望を託す容保兄弟。だがすでに会津も新選組も撤退の最中なのだ。それを見透かしたように勝海舟は、「もう間に合わない、あやつらになど、もはや時代の波を止めることなどできはしない!」と言い放つ。
夜の富士山丸の甲板では、近藤と土方が語り合う。土方「もう刀と槍の時代は終わりだ、オレたちも考え直さねえといけねえぞ」と再び述懐。土方は近代化をして、もう一戦するつもりなのだ。だが土方にそう心を決めさせた当の近藤は「そんな時代になったか」と浮かぬ顔。沖田が船室から現われて、山南、平助、源さんを回想する。これも一種のカーテンコールだろう。「まだまだこれからだ」と土方は自らを鼓舞し、周斎先生(つまり田中邦衛)の真似をして笑わせる。
そこに、ついに話題の人物登場。自分の旗艦に「乗り遅れた」不運な榎本武揚だ。洋装で洋酒をラッパ飲みする姿に、土方は「日本人か……?」と訝しむ。「洋服……カッコいいですね」とすっかり純真さを取り戻した沖田が微笑むと、土方は負けじと「オレだったらもっと似合う」と言って榎本に「その服、どこで手に入れました」と問いかける。もちろん土方は「刀や槍の時代」から「洋服の時代」へと「考え直す」わけだし、この場面がもっぱら土方と榎本との絡みなのは、後の函館での両者の関係を考えるならば当然の設定だろう。実はここで、もしかして榎本違いの対馬守と近藤との有名な会話(「お恥ずかしいがやはり家族と再会できると思うと嬉しい」「文武に秀でていても家族の情がなければ禽獣と同じだ」)を強引にこちらに持ってきて草g剛と香取慎吾とを話させるのかと思ったりしていたのだが、さすがにSMAP同士を直接突き合わせることはしなかったわけだ。
場面は船室に移ると、そこには瀕死の山崎が寝ており、尾関、島田、尾形と話している。「(江戸で)まだ隊士を集めるそうだ」と言う島田に、「私は新選組は解散すると踏んでいる、もう居場所はどこにもない、それは近藤さんもわかっているはず」と悲観する尾形。山南に「託された」記録者としての役割が、その記録とともに烏有に帰した空しさも手伝ってのことかもしれない。いささかざらついた気分のまま「山崎君、ひざ掛けを一枚投げてくれないか」と尾形が頼むと、山崎は「自分でやって下さい」と断る。それはもちろん負傷しているからでもあるが、他方では新選組に身を捧げた山崎として、突き放したようなものの言い方をした尾形に対する、ささやかな異議申し立てもあっただろう。なんでも「喜んで」と引き受けていた山崎が「断るのは初めてだなあ」と島田が山崎を見やると、かれはすでに事切れているのだ。
星明かりに波が砕ける、暗い海面。水葬シーンがなくとも、十分に悲しい。
さて江戸城では、万策尽きた慶喜のことをふたたび勝が追いつめ、寛永寺に恭順謹慎させる。「恭順という形を見せておいて待ち伏せ逆襲する」「これ以上内戦をして外国に侮られぬよう」というのが、その戦略と理由だ。
このことを容保から聞いた近藤は怒る。「幕府はすでに朝敵の汚名を着ている、それを晴らすには戦って勝つしかない、ここで恭順しても臣下の不満は収まらず、かえって戦が長引く」から、「一丸として戦うしかない、戦って戦って戦うのです、それ以外に早く戦を終わらす手はない!」
佐久間象山の薫陶を受けた者として、同じく内戦を避けたい勝と近藤。だがその方法は正反対になってしまっている。しかしその方向は、あるいは今後、案外一致するのかもしれない。そしてそれは、来週の三谷脚本を見るまではわからない。
容保は近藤に言う。「もう決まったことだ、徳川の時代は、名実ともに終わったのだ」
近藤は叫ぶ。「死んだ者の気持ちはどうなるのですか、上様と帝に心血を注がれてきた殿のお気持ちは……。殿!!!」
松平容保は崩れるように坐りこんで袴をつかみ、無念の表情でつぶやく。「余は悔しい……」
おそらくこれで、容保もまた、このドラマから退場するのだろう*。「悔しい」という恨みの気持ちをわれわれに伝えたままに。だからここは、能で言うところの「後世弔うてたべ」なのだ。
*退場しませんでした。むしろ最終回では、「(京に晒される)近藤の首を奪え!」と、わくわくする希望を残しました。とはいえここは演劇的には「後世弔うてたべ」であることには変わりないとは思います。(2005年2月21日補記)
さて終幕は、試衛館。近藤周斎は回想での登場となる。病床でふでに手を取られ、つねに看取られて臨終かと思いきや、しょぼしょぼと目を開けて、案外にはっきりした口調で「それから……」とふたたび話し出す。実質二度死ぬ可笑しさで、こちらの心を明るく救う。「俺の倅は誠の武士だ」と断言しておきながら「そこの所を、うまくまとめてくれ」などとまた落としたのち、「幸せもんだ!」と笑って大往生。
位牌に線香を接ぐ健気なたまを背後に、土間の座敷で語る近藤とつね。「今思えば、父上はいちばん幸せなときに亡くなられた」「あれから三月で幕府はなくなった、朝敵となった」「わたしはあなたが帰ってきてくれたということでいいのです」つねを抱き寄せる近藤。
そうして終わりは、軒先で空を見上げる近藤に、ふでが「おつとめ、ご苦労様でございました」と手をつく場面で、ほのぼのと悲しく閉じられるのである。
蛇足:
●品川釜屋や深川洲崎遊郭のエピソードは、とうてい織り込めないだろう。
●さて、あと三回。勝沼、流山、板橋、と、一回ずつか?
●予告編で、ちらりと後ろ姿の見えた洋装土方。
第四十六回補遺(11月27日再放送収観後記す)
一.富士山丸船上での土方の科白「刀を振りまわす武士はイラネエってことだ」もちろん武士そのものが不必要になったと言っているのではない。新時代の武士=「誠のモラル」を持った人間は必要なのだ。要らないのは、狭い封建身分的了見に縛られた旧体制武士ということだ。そのためにも土方は「オレたちもこれから考え直さないとイケネエな」と言うのだ。
二.近藤周斎の臨終の科白「そのあたりのこと、うまくまとめてくれ」これはつまり、近世幕末史上の近藤勇に対する評価を、従来のそれではなく、「うまくまとめてくれ」=
revise してくれ、という脚本家からのメッセージとも取れる。
このように見てくると、「新選組!」は、見直すほどに滋味が出てくる、深い意味を含んだドラマであるといえよう。だから同時にそれが一方で「説明不足」「つながりが判らない」という評価としても現われてくるわけだ。
たしかに、一度観て判らない、というのでは大河としての役割は果たしていないし、また万人向けでもないかもしれない。
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