新選組! 雑文コーナー

その五

これは大沼沈山添削以前のオリジナルでして(朝日新聞2004年9月17日東京面)

 

2004年11月7日(日)

☆「新選組!」第四十四回
 来週の鳥羽伏見(源さんの死)というひとつのクライマックスに向けて、静かな回。
「日本なんて変えんでもよかったんや」(お龍)
「坂本さんのいちばん恐れていた所へ日本は向っている」(勇)
 これが今回の主眼ともなるメッセージ
 それ以外は、おおむね筋書きというか通説どおりに、坦坦と進行する。

 今回くらいで、香取慎吾はほぼ近藤勇になりきったようだ。ここに至るまで、一年かかったわけだ。糸井重里も指摘しているが、役者の変化と成長が見られる、類いまれなドラマ

 ドラマは二日分を一回で。
 まずは王政復古から。「そんなものはお見通しだ」という慶喜のことを「それもどうか分からん」と疑い、薩摩に対する怒りを募らせる容保すでに中枢において権威が崩壊しつつあるという兆候を、ここで早くも描写しておく。
 王政復古に関する情勢解説役は、近藤尾形のふたりが担う。尾形「徳川家が大名でなくなるのです」「薩摩は喧嘩を仕掛けている」「戦がしたいのです」
 ここに沖田お孝が闖入し、機転の利くお孝と子供扱いの沖田のスラップスティックによるサイドストーリーが、メインストーリーを縫うように進行して、最後の近藤狙撃のシーンへと収斂する平助も退場したいま、病臥する沖田はふたたび可憐さを取り戻して、試衛館一統から子供扱いされる存在へと戻っている(土方「新選組のことより自分の体のことを心配しろ」)。
 浅葱羽織の近藤局長筒ッポダンブクロの長州との出会いにより、世がひっくり返らんとする京の状況を描写、源さんは「一寸先は闇とはよく言ったものですな」と述懐すると、土方は「源さんも老けたな、愚痴が多くなった」と笑うが、これは次週の源さんの運命を暗示する。だが、その一方で土方もまた死を覚悟し、隊士たちに落ち延びるための仕度金を分配する(「たまにはオレも仏の副長と呼ばれたい」)。
 二条城近藤は、戦争を避けたい広沢小森から、こもごも掻き口説かれる。
 広沢「会津藩を救ってくれ」「戦になれば矢面に立たされるのは我等だ」「力を藉してくれ」
 小森「おぬしだけが頼り」「すべては会津藩のため」「殿を思う心はそなたと変わりはせんのじゃ」
 同じく戦は避けたい近藤、しかし封建武士として目先のことしか見ていない会津の重臣たちとは、その理由は違うのだ。それは将軍の御前における近藤と佐々木との論争のなかで、いっそう明確になる。佐々木「勝てば済む」近藤「上様を逆賊になさるおつもりか」
 近藤容保に語る。「ここは御辛抱くださいませ、正義は我等にござります。最後は必ず天は我等に味方する」
 ところがそうは行かないのだ、この鎮魂的ドラマの中を除いては。

 慶喜は「血の気の多い者を集め」て、大坂城へ入ることに決定し、近藤に二条城を守ることを命じる。
 慶喜「戦わねばならぬときは力を藉してくれるか」「勝てるか」
 近藤「戦で負けたことはございませぬ」
 慶喜「そのことばが聞きたかった」

 誠の人
として、近藤は結局巻き込まれる。ところが、もはやこの時点での新選組は「新遊撃隊御雇」となり、ふたたび見廻組よりも格下の、浪士組と大して変わらぬ扱いに落ちてしまい、せっかくの直参旗本の身分的根拠は消滅しているのであって、そのあたりを近藤のボディガードを勤める島田は(どうせ元の身分になるならば誇り高さを残す)「新選組のままでいたい」「オレ、他にいる場所がないんで」と近藤に訴える。「私もだ」とつぶやく近藤。
 御一新ともなれば、町道場の主として生きられるかどうかも怪しいのだ。
 一方、もっとも過激と見ていた近藤が意外にも開戦慎重派の筆頭であるということを知って意表をつかれた薩摩は、御陵衛士の残党に近藤暗殺を焚きつける

 こうしてクライマックスのお膳立てを整えておいて、あとは新選組内部の描写が淡々と進行する。
 左之助とまさの別れのシーンは通説をうまくアレンジしたもので(実際は第二子のときの話)、心温まるスラップスティック。まだ見ぬ子供の名を「茂」とつけるのは、左之助によれば、浪士組入洛のきっかけを作ってくれた前将軍家茂への好意の現われ。だがそこからは、まさも指摘するように、好意こそあれ敬意や尊厳といった旧体制の価値観は、すでに新選組左之助からも失われているということが示され、この場面もまた、移り変わる時代というものを象徴する
 近藤別宅で療養する沖田(鴨居に掛けてあるかれの羽織の紐をさりげなく背中に回してあるのは、最も人口に膾炙しているイメージへのオマージュだろう)への人参持参ギャグ斎藤から(「(名称も効能も)知らないもの持ってこないでください」)。しかし律儀で純粋な ─これも
「誠」斎藤は、高直な生薬を、分配金の中から大枚をはたいて沖田のために購入したことは間違いないのである。その斎藤に対して尊敬と羨望の気持ちを表出する沖田は、あたかも沖田に対して同様の心持を打ち明けた平助を思わせ、純真な青年に戻った沖田を待つ、避け得ぬ運命を暗示する。
 その斎藤は、帰り際、お孝戸締りと逃げ道の仕度のことをアドバイスして姿を消す。

 二条城へ馳せ参じた近藤率いる新選組を待っていたのは、権高く封建的な水戸藩による侮蔑の叱責だ。「(今日の事態を招くにあたって大きな責任のある新選組など)我等にとっては獅子身中の虫だ!」
 もちろんこれを一喝してやり込める近藤一睨みで震えあがらせて扇をとり落とさせる隊士たち、そしてその扇を拾って渡してやりながら「よろしければ、命の遣り取りの仕方、お教えしますぜ」と侮辱し返す土方だが、もし世が世なら、いくら直参身分といえども、御三家のひとつ水戸家の家中に対して、こんな大きな態度に出られるはずもない。つまり、じつはもはや新選組からしても権威はこうして下克上的にひっくり返っていて、時代の流れは抗うべくもないのだということが、この場面で表わされているのである。
 永井の命により伏見へ向う新選組「結成以来、最も大きな仕事」と檄を飛ばす土方だがそれを任されたまさにその瞬間に、かれらの拠り所とする権威は消滅してしまっているという事実が、この場面においてもまた、観る者に哀しくもはっきりと伝わってくるのである。
誠の心は行き場を失い迷走し、名声を上げるチャンスも遠ざかる。

 日付は変わって、別宅を訪れた土方は(ここでも人参ギャグあり)、お孝沖田の安全を託す。一方、二条城では、永井近藤に、江戸でも薩摩が暗躍をしていることを伝える。近藤「なんとしても戦に持ち込みたいようですね」そして近藤永井「新遊撃隊の名、お返ししたい」と申し出る。
 二条城を出た近藤は、龍馬の仇と狙うお龍の襲撃をかわしてお多福で説得し、甲子太郎に続いて、見事に回心させる。このあたりじつにありそうな場面で、なおかつ香取近藤はそうとう本気の演技、このドラマの近藤のカリスマ的大きさを、十分に出していたように思う。そうして、ここで語られるのが、今回感想の冒頭に掲げたメッセージ的科白なのである。戊辰戦争と西南戦争という内戦を経て、対等な国際ビジネスではなく軍事対決への道を歩んだ近代日本は、まさに龍馬にとって、そして近藤にとって、さらには日本国にとって、もっとも避けたかった姿であっただろうということを、三谷幸喜はおそらくここで訴えかけているのである。

 さて最後にドラマは、沖田とお孝のサイドストーリーと、近藤襲撃のメインストーリーとを、御陵衛士たちによって収斂させる近藤別宅に踏み込む御陵衛士をお孝が撃退する逸話子母澤寛が語っているし、阿部十郎の回想によればその目的は沖田だったというので(伊東成郎『新選組は京都で何をしていたか』KTC中央出版、2003.10、269頁)、まさにそれを取り入れている。ここでお孝が沖田を抜け穴に突き落とし、沖田が「病人なんだから……」と抗弁するシーンは、これまで強がってきた沖田が、お孝に心を開いた結果、すでに純真さを取り戻している(斎藤に対する表白を想起されたい)ことを表わしていて、可笑しいとともに痛々しい。あるいは三谷脚本では、かの有名な「沖田氏縁者」に、このお孝を宛てるのかもしれない。
 そうして「オレたちはこれからも新選組だ」と島田を喜ばせる馬上の近藤が狙撃され、肩口から血を溢れさせて前のめりに倒れかかるシーンで、今回の幕は閉じられるのである。

蛇足:
●香取慎吾は熱演。とくに狙撃されてから倒れかかるまで、演出とカメラも含め、手振りといい顔の変化といい、なかなかよかった。狙撃後の乱闘や逃走や、また奉行所へ走り込む場面など、なくてもむしろその方がよかったかも知れない(観たくはあったが)
●大石、今回はなかなかいい面魂だった。ちなみに、大石役根本慎太郎のサイトは、糸井重里のサイト(名前こそ出していないが、そうだとみて間違いないだろう)に紹介されたとたんに、アクセス数が跳ね上がったらしい。
 

 

2004年11月16日(火)

☆「新選組!」第四十五回  「源さんの死」
 涙滂沱。山南のときよりも泣かされた。
 ドラマは、先週の近藤襲撃の直後から始まる。馬を走らせ、奉行所の廊下を「大した傷ではない」と顔色ひとつ変えずに歩いて行くシーンは、今回の方に組み入れた。
「敵討ちだ」と逸る幹部の面々。永倉は当然だが、とくに斎藤。それを止める源さん。「私の腕では治し切れない、腕が挙がらなくなるかも」と言う山崎に「治せなかったらてめえ切腹だ!」と本気の土方というか山本耕史)。
「大坂城には松本良順先生が居られます」ということで、近藤沖田を同道することになる。これで近藤は第一線を外れてしまう。自分を最大限に生かさねばならない、まさにその時に限って何もできない、置いてきぼりの近藤。このドラマでは、いつもそうなのだ。
 源さん周平、出立する近藤に目通り。これが最後の別れとなる伏線だ。「頼んだぞ、近藤周平!」と呼びかける近藤。もちろん周平の身は源さんが預かっているわけだが、ここで再び近藤が期待をかけたことで、これは周平が源さんの運命に何か決定的な影響を及ぼすなということを、観客に伏線として呑み込ませておく。
 大坂城にて。松本良順いつもクールだ。「(たとえ肩が治ったとしても)剣の時代は終わっているかもしれません」憮然とする近藤
 永井尚志が駆け込み、江戸薩摩屋敷焼き討ちという凶事を伝える。「とうとう薩摩の誘いに乗ってしまった」時代の流れは
誠の心だけでは御しきれなくなりつつある。
 鎧武者で騒然の大坂城、その一室にお孝がいる。なぜ一介の賤の女が将軍居城に出入りできるのか……? という疑問に呼応するように、虚勢を張った鎧侍が入ってきてお孝を追い出そうとする。そこに「その人はなあすです」と、西洋医学者の良順が助け舟。怪訝がる侍。しかし良順先生は相変わらず冷静に「なあす、病人の世話をする女性です、さあ出て行ってください」と侍を追い出し、沖田の容態を診る。部屋が広すぎて淋しいと訴える沖田に、良順は「もうすぐ戦、今にここは(負傷兵で)一杯になります」と応える。ここの場面は、こうした決死の緊迫した状況をより強調するために、嵐の前の静けさとしてわざとゆったり作った一幕なのだ。
 虚勢を張った封建徳川のバカ侍は、別のところにもいる。軍議の場で、御香宮を先に押さえて陣を張らねば不利になると交々解説する永倉土方は、「どうも新選組は血気に逸っていかん、薩長は(わが軍に気圧されて)攻めて来ん!」と一蹴され、顔を見合わせる。
 他方、大坂城からは佐々木率いる新遊撃隊が出陣する。これが恐らく、近藤と佐々木との最後の別れとなるだろう。城の門を出て行く白鉢巻白襷のその隊列は、遠景からのショットで捉えているので、明らかに葬列のメタファーに見える。

 緊迫感が高まったところで、小幕間劇。登場人物は、西郷大久保の二悪人と、それを操る古狸岩倉。「(戦はうまく勝てるのか、)徳川をあないにイジメんでも……」と岩倉はいまさら弱気を装う。とんでもない、古いものを打ち破って新しい時代を固めなければ、と思わずそれに釣られる両人。それができない場合はどうするのだ、と嵩にかかる岩倉に「最後は(われわれが)腹を切ればいい」と西郷が応えると、岩倉はすかさず「ワシを引きずり込むな!」と返す。しかしここで岩倉に逃げられることは、革命の大義名分を失うことだ。そこで西郷は「岩倉卿にも一理ある、なんとかして諸藩を味方につけないと……」と(岩倉の意図を承知の上で)譲歩するが、それは岩倉にとっても思う壺だ。「そのためにいろいろ考えたのだが……」と「菊の御紋章グッズ」をさまざま取り出す岩倉。それを見ていた大久保の脳裏に、錦の御旗の先例が閃く。「よく気がついた」と誉める西郷。その二人の目の前に、かねて用意の錦旗をいそいそと取り出す岩倉。「自分の部屋にでも飾ろうと思うてな。使うて!
 後の明治の元勲二人を自在に動かす最大の黒幕。古狸の面目躍如の場面ではないか。思えば西郷大久保は非業の死を遂げているが、岩倉は最後まで生き残り、畳の上で死んでいる。お札の顔にまでなった人だ。フランス革命の怪物、タレーランやフーシェよりも、ある意味凄いかもしれない。

 幕間劇終了後、舞台はふたたび緊迫の奉行所へ
 古色蒼然の幕軍。「出陣!」の号令に、「いつの時代のことだ……」とぼやく土方。ところがこれこそ新旧の時代交代を象徴する。御香宮を奪われ、案の定不利になる新選組。広庭の土嚢の横に役立たずの大筒が一門置いてあるのも通説どおり。旗手尾関が負傷するが、「なんのこれしき!」と踏ん張って旗を持ち上げる。それに引きかえ、同じく負傷する周平はしだいに怯んで、その気持ちが行動のすくみとなって現われてくる。
「この戦、オレたちの負けだ」「刀の時代は終わったのかもしれない」と土方はつぶやき情勢を見に奉行所へ戻ると、幕軍は退却の準備。愛想を尽かした土方「あとは勝手にやらせてもらいます」「好きにせい!」
 戻ると、永倉、原田、斎藤など隊士たちが斬り込みの仕度。無謀な突撃ではなくて、一矢報いようという仕立て。吶喊して突っ込むかれらに、ふたたび周平は遅れを取る。やがて戻って自慢話をする隊士たち(斎藤も珍しく撃ち抜かれた羽織の袖を見せる)の後から、薩摩の旗指物が追ってくる。一瞬どきりとするが、これは永倉の分捕り物怪力島田が永倉を塀越しに引っ張りあげる有名な逸話は、ここで照英がグッさんの襟首を引っつかんでぶら下げ、グッさんが目を回しかけるという、ややコミカルな演出で再現される。ここはいまだ、不利な中にも楽しき突撃場面。
 しかしこれから舞台は悲劇のクライマックスに向っていく
 淀藩の寝返りによって淀川堤千両松に布陣せざるを得ない新選組。負傷し落ち込む周平をそれとなく励ます鍬次郎。「みんなと突撃できない」「私には向いていない」と言う周平に、源さんが述懐する。「試衛館の門人として一生を終わると思っていた」「「江戸の片隅で平穏な人生を全うする」はずが、「それが今では薩摩と向かい合っている」だから「自分の人生こうあるべきだと思わない方がいい、まずは飛び込んでみることだ」と。
 そこにいよいよ錦旗が出現する。太鼓を叩いて突撃してくる薩摩兵
「ウルセーんだよ、ドンドコドコドコと!」と怒鳴る左之助。これは子母澤寛『新選組異聞』および『新選組物語』に引く、旧松山藩内藤素行談話中にある、若党時代の左之助が褌一丁と頬かむり姿でオランダ式小太鼓を叩きながら練り歩いたという逸話を思い起こすと、いっそう面白い。
 翻る錦旗に動揺する新選組。「御所を守っていたオレたちがなぜ逆賊なんだ」「あれは薩長の謀略だ」四の五の言っているうちに斉射を浴びせられて周平が取り残される。迫る薩軍の銃口。
 そこに源さんが飛び出すのだ。真正面から立ち向かった源さんに対する薩摩の射撃は、映画「マトリックス」そのままに衝撃波の痕を引いて源さんをかすめ、最後の銃弾は、源さんの構えた刀の刃に当たって跳ね反れる天然理心流免許皆伝の腕にふさわしい、達人としての描写
「周平、走れ〜!」
 だが振り向いた源さんの背中を、次の斉射が撃ち抜く。ここはまさに、弁慶の立ち往生だ。
 とはいえ弁慶ではなく崩折れた源さんを救うために飛び出した左之助は槍の一擲で、また島田は丸太の一投げで薩兵を怯ませ、源さんを連れ戻す。「源さん!」土方が抱きかかえるが、山崎は首を振り、目を伏せる。「副長! 魂が抜けて行かぬように抱きしめて! おばばから聞いたんだ!」島田の叫びは悲痛だ。その島田の肩に永倉は手を置き、左之助大石周平は泣く。「近藤……先生」源さんの最期だ。冒頭にも書いたが、涙滂沱。 このシーンの最後、人としての怒りをおそらくこのドラマで初めて発した斎藤が、喚きながら薩摩兵に斬り込む。このあたり、一瞬の連続したできごとを、当事者たちの感情時間に合わせてこまぎれに、ゆっくり描写しているわけだ。
 鬼神のごとく荒れ狂う斎藤の剣の下に、たちまち倒れ伏して行く薩摩兵。錦旗は打ち捨てられ、逃げ惑う薩兵の足で踏まれる。まさにただの「道具」でしかない、という表現。

 舞台は終局へ。
 先帝の信頼が最も篤かったのは自分ではないか、なぜその自分が朝敵になる、正義は無いのかと怒る容保。形勢は日に非で、諸藩は雪崩を打って新政府側について行く。もう辛抱はしていられない。
 近藤「私は心を決めました。会津藩をけっして賊軍にはいたしませぬ」これが近藤
「誠」だ。
 慶喜の前で戦略を述べる近藤。「錦旗、あのようなものはまやかしでございます」「ひとたび戦いとなったからには、私が力を以て薩長を打ち破る」「戦に勝って御旗を奪い取り、われわれが官軍となるしかない」
 しかしこれでは、かつて二条城において御前で近藤が「上様を逆賊になさるおつもりか!」とやり込めた佐々木の所論とまったく同様なことになってしまう。それを思い起こさせるように、慶喜「余は徳川を逆賊にできん」と応える。だが事実上、徳川はもはや逆賊になってしまっているのだ。
 ことほどさように、このドラマにおける近藤の決断と行動は、つねに一拍遅れてしまうのだ。それはなぜか。私が思うに、このドラマの近藤は、人に
「誠」を立てるからなのだ。もう少し言えば、人の起こした「行動」に対して/応じて「誠」を立てるからなのだ。だから近藤が決断したときには、もう遅い。人の行動は千変万化だ。世の中の流れは、近藤を置いて行ってしまう。だからもしも近藤が、「時代」や「真実」に「誠」を立てていたら……? 封建武士に愛想を尽かし、四民平等の世を夢見た近藤の姿が、そこには仄見える。だがさすがの三谷幸喜も、大河でそこまでの冒険をすることまでは踏み込まず、そうした可能性の萌芽を十分に匂わせておきながらも、やはり近藤勇は幕府に、というよりも薩長の「不義」に対抗する立場(それはもはや古い価値観として定義され切り捨てられている)に、己の「誠」を立てて斃れていくのである
 それを証明するように、将軍慶喜東帰を決意する。「近藤に幕府の命運を預けることはできぬ」「余は尊氏になりとうない」
 さすがに憮然とする容保兄弟。「好きにしていただこう」しかし最高司令官の命令とあらば、如何ともし難い。天保山には開陽丸が待っているのである。
 そしてドラマの終局、大坂城で反撃策を練る近藤の許に、源さんが現われる
「上様が先頭に立ってくださる」と語る近藤に、源さんが忠言する。
「局長は昔から人が良すぎる」「局長は人を信じすぎる」「結局傷つくのはご自分」「一人で何もかも背負おうとなさらぬよう」
 だがそれこそが近藤の
「誠」なので、それで近藤はいつも辛い顔をする。だから源さん「江戸にいた頃の先生の明るいお顔が好きでございました」「できれば、皆とともに江戸へ帰りとうございました」と泣く
 このあたりで、近藤はしだいに真相に気づく源さんは最後の別れに来てくれたのだと。ここの香取慎吾の表情の微妙な変化は哀切だ。近藤源さんに謝る。「済まなかった、ここまで付き合わせてしまって…」そのことばに涙を流す源さん「馬鹿、死んだ奴が泣いてどうする!」とこちらも泣き笑いになるのだ。
 そして、平伏して姿を消す源さんを微苦笑で見送った近藤がうつむいて苦衷に顔を歪めるところで、今回の悲劇も幕を閉じるのである。

●今回蛇足はなし。
 その代わり、今回感じたことを書いておくと、この大河の構成について、「多摩で半年使ったのは長すぎた」という意見が、とくに前半まで終わったあたりで見られたこともあったものだが、どうもそうではなくて(またそういう意見が近頃姿を消しているというのは、やはり私と同様に感じているのかもしれないが)、やはりこの構成が正しいのだ。
 というのも、このドラマは明らかに「序破急」のリズムで作られていて、おそらく「多摩(江戸)」が「序」、「殿内〜鴨〜山南〜平助/甲子太郎」が「破」、そしてこの「鳥羽伏見」からがもう一挙に「急」となって、一瀉千里に「勝沼〜流山〜板橋」へとなだれ込んで行くわけだろう。だからたとえば今回の源さんの戦死にまつわるさまざまなエピソードの中で、われわれ視聴者は、いまこそ懐かしく、あの多摩の時代を思い出すわけではないかいつもゆっくりお茶を汲んでいた源さんの姿が、半年そこかしこにあったからこそ、その源さんの急激な死がいっそう哀切に感じられるのだ。
 他方では、この「新選組!」は、けっして切った張ったを描くドラマではないということが挙げられる。これはいうなればハイスクール群像劇、もしくは映画「大脱走」のようなものなのだ。だからむしろ日常性が大切で、それゆえクライマックスがより際立つのである。
 いずれにせよ、上記のような理由で、序の部分、つまり多摩/江戸をじっくり描き込んだのは、やはり正しかったのだと私は考えるのである。
 

キタ━━━━━━( `_>´)━━━━━━ !!!!!

2004年11月21日(日)

☆「新選組!」完全版 DVD-BOX 発売決定!

新選組!ファンサイト
-Shinsengumi Note- 「新選組のおと」
http://homepage3.nifty.com/kakip-/shinsengumi_top.html
によれば、
完全版DVD-BOX 発売だそうです!

■「新選組!」 完全版 第壱集DVD-BOX (7枚組/1話〜27話収録)
2005年2月25日発売/ 36750円/ NHK/ジェネオンエンタテインメント/ GNBD-7145/
JAN:4988102052539
特典映像: メイキング番組「大河ドラマ"新選組"魅力のすべて」(25分)/ 「新選組を行く(一部)」/ 「プレマップ」など

■「新選組!」 完全版 第弐集DVD-BOX (6枚組/28話〜49話収録)
2005年4月22日発売/ 31500円/ NHK/ジェネオンエンタテインメント/ GNBD-7146/
JAN:4515778957570
 

 

2004年11月21日(日)

☆「新選組!」第四十六回
 今回はオールスター登場で、ある意味では、京と江戸のシリーズのお別れ回であるかもしれない。というのは、かりに今後生きているとしても、今回を限りに出なくなる主要キャラクターが、かなりいると思われるからだ。試みに列挙すれば、八木家の人々、とくにひではわざわざ男装を復活させている。他にはまさ山南も編成表上の名として出てくるし、お孝良順先生のナースのまま消えて行きそうだ
近藤周斎も回想の形で登場し、臨終が描かれる。またそれ以外の江戸の人物といえども、ふでつねたまも、甲陽鎮撫隊以降のドラマにおいては、殆ど出演の機会はないだろう。松平容保も同様だ
 だから考えてみれば、今回あたりから、すでにカーテンコールをやっているようなものでもあるともいえるだろう。
行きませんでしたね。(2005年2月21日補記)
みんな、けっこうピンポイントでいい役を張っていましたね。(2005年2月21日補記)

 Avant-Title佐々木様早くも撃たれる
 第一幕では、京都の別れをこもごも描く。戦は惨敗、新選組も局長の篭る大坂城へ撤退する。その中で、土方はじめ幹部連は京都へと戻る。これは当然、京都時代のそれぞれのドラマの平仄をつけるためだ。土方山崎を斥候役に、斎藤を護衛に引き連れる。
 その頃、大坂城では、瀕死の佐々木近藤に手を取られ、「徳川家のことはお主に託した」と言いつつ息を引き取る。またもや近藤は、古い時代の店仕舞い役「託され」てしまうわけだ。ちなみに、どうやら次回においては、勝海舟(今回、容保に新選組のことを評して「タダの時代遅れの剣術屋」と言い放っていた)にそれを押しつけられそうだ。
 一方京都の屯所では、土方敗戦処理のため機密書類を焼却中。その書類は、山南の言いつけで尾形が克明に記し続けたものなのだ。「残しといてもだれが喜ぶ」と言いながら書類を一通、懐に忍ばせる土方。それを斎藤がちゃんと見ている。
 本願寺寺侍、西村兼文登場。「新選組の行末、見届けさしてもらいます」と土方に餞別を差し出す。推測するに、燃え残りの書類の束はこの人が手に入れ、それらも資料にして後に新選組について記述したという余韻を持たせたものだろう。このドラマでは「私はだれの味方でもない」と言っているが、歴史的には新政府よりの心情の持ち主だったはずだ。まあいずれにせよ、クールなキャラクターのこの人も、いわば The last bow だ。
 薩摩兵が充満して脱出のタイミングを失った土方たちに、八木為三郎が助け船を出す。源之丞は激励し、雅夫人は弁当を渡し、房吉を案内につけて裏路地から送り出す。見送る源之丞に、為三郎が問う。「あの人たち、何か悪いことしたん?」源之丞「な〜んも、してへん」たとえ稗史であっても、だれかがそのことを語らねばならぬということだ。この感動的なシーンをもって、このドラマでは八木家に告別
 舞台は変わって、左之助とまさの別れを描く。いつもどおりのコミカルな遣り取りの後、左之助は、もし自分がお尋ね者になったら「海を渡って清国へ行く、山賊になる」と答えるが、この科白もまた、そうした伝説を残す「死に損ね」左之助に対する三谷幸喜からの、オマージュとしての告別の辞なのだろう。
 おそのは最も悲惨。永倉が立ち寄ると、薩摩兵に家は略奪されており、おその永倉の腕の中で「宇八郎様……」といって事切れる。次回以降、永倉芳賀宜道の靖共隊エピソードが出るかどうかは分からないが、こうしてそのことも想起させつつ、悲しい別れを描く
 慣れ親しんだ登場人物が、こうして、せわしなく舞台から去って行く。

 第二幕では、大坂城内と土方たちの逃避行とを、交互に描く。
 大坂城では、将軍がすでに東帰したことを永井から告げられて(「もはや我等に勝ち目はない」)近藤は愕然とする。一方、行軍する薩摩の兵士から身を隠しつつ小休止する土方に、「(懐に隠して)何を持ってきた……」と問う斎藤。「何でも見ているんだな」(このドラマにおける新選組の語り部なのだから当然だ。
第二十二回の感想参照)と苦笑しながら土方が取り出したのは、二年前の新選組全盛期の編成表だ。山南の名も、甲子太郎の名も見える。自嘲しながらその紙をやぶこうとする土方に、「取っておけ。新選組は、あんたが作ったんだ」斎藤は言う。これは三谷幸喜が土方ならぬ「山本耕史」に対して言ったものと、観ていた私には感じられたところだ。
 脱出のための獣道を見つけてきたと報告する山崎に、薩摩兵が「チェスト!」と斬りつける。応急手当はしたものの、案内役を失い途方に暮れる土方斎藤の許に、あまりに都合よく捨助が現われ(「呼ばれもしねえのに現われるのが捨助さまよ!」)、寺田屋に導く(「腐れ縁でも縁だからな」とこれで土方と和解)。最初に響いてくる「逝んどくりやす!」というお登勢の科白は、最初は一瞬、新選組に対して発せられたのかとどきりとするが、すぐにそうではなくて薩摩の巡察隊に言われたものと分かる。かつての新選組対薩長の図式の、まるで逆のシーン。こういう出番を用意して、これでお登勢(そこから想起される龍馬)にも敬意を表しつつ、別れを告げたわけだ。
 場面は戻って大坂城。前回の予言通り負傷者で満員になった部屋の中で、松本良順の「ナース」として甲斐甲斐しく立ち働くお孝と、治療が後回しにされている沖田近藤良順近藤を呼んで、船で江戸へ戻ろうと誘う。仲間がいる、とためらう近藤に対して、鳥羽伏見では激戦で、はたして何人残れたか……と良順が首をかしげるまさにそこに尾形が駆け寄り幹部たちの帰還を告げる。この場面、本庄宿にて部屋割りに途方に暮れる近藤の許に仲間が笑いながら集まってきた、あの温かくも懐かしいシーンを思い起こさせた。
 こうして二つのストーリーは収斂し、大坂城での相談に移る。「江戸へ帰る」という近藤ただひとり不服な土方捨助が部屋に戻ってきて近藤に礼を言われ、虚勢を張って「あばよ!」と寅さんばりに手を振るのだが、江戸への帰還の話を聞いて「ソウナノ?」と突然頼りなげな表情に変わり沖田の「捨助さんももういいでしょう、帰りましょうよ」という言葉に渡りに船と「カエル!」とニコニコ顔で坐りなおす、ここはほとんど渥美清の演技のパロディだ。またこの「カエル!」は、近藤土方が第四十回で叫んだ「カエレ!」に対応していることは明らかだろう。
 土方は憤然と席を立ち、「オレは帰らない、ここに残る」「オレはかっちゃんを大名にするために来た」「ここで帰れば負けだ」と近藤に言う。これに対して近藤は「オレたちは負けない、勝機は我等にある、勝つために帰るのだ」と説き伏せ、土方もその気になるのだが、もちろんここでの土方には、大勢の命を奪いまた失い、どの面を下げて故郷へ戻れるという後悔自責の念があるがゆえに、こんな風に悪びれて言うわけだろう。しかし土方近藤のことを心から信じきっている/信じようとしているから、近藤が「勝てる」といえばそれを素直に受けとめ、気持ちを切り替える。むしろ自分のことばを信じられなくなるのは、近藤の方だろう。
 天保山へと向う敗残の新選組に、悪意に満ちた視線が沿道から投げかけられる。捨助だけがついに新選組の一員になれたという喜びを無邪気に表わすが、島田には観衆の投げた石が当たり、沖田の乗った荷車を周平とともに押す大石は回りを睨めつける(このときの根本慎太郎の表情はいい)京都へ入ったときとはなんという違いだろう。あのときは上手から下手へと、こんどは下手から上手へと方向が逆の描写で希望と失意とを示し、また東への退却を象徴する。ただ左之助のみは、行きも帰りも不屈の快活さだ。
 荷車の上の沖田に、男装に復した八木ひでが呼びかける。「誰?」と問うお孝に対し、沖田は「昔の友人だ」と答える。
 こうしてひでにもわざわざ思い出の出番を用意し、ついにこの場面を一期として、新選組は江戸へと戻って行くのである

 第三幕の舞台は、江戸と富士山丸。江戸城では勝海舟が、容保兄弟の面前で慶喜を嫌味たっぷりに直諫する慶喜「他に手はなかった」「そうでしょうとも、こんなマズイ手は他にございません」「京の替わりに江戸が(これから)丸焼けでございます」)。しかし、小劇場の元祖でもあり王でもある野田秀樹を前にしては、文学座中堅の今井朋彦もさぞやりにくかったことだろう。
「錦旗などこちらが手に入れればいい」と近藤と同じことを述べる勝のことばに、「まだ間に合う」「自分の家臣も残っているし、新選組がいる、近藤勇がいる」とこもごも希望を託す容保兄弟。だがすでに会津も新選組も撤退の最中なのだ。それを見透かしたように勝海舟は、「もう間に合わない、あやつらになど、もはや時代の波を止めることなどできはしない!」と言い放つ。
 夜の富士山丸の甲板では、近藤土方が語り合う。土方「もう刀と槍の時代は終わりだ、オレたちも考え直さねえといけねえぞ」と再び述懐。土方は近代化をして、もう一戦するつもりなのだ。だが土方にそう心を決めさせた当の近藤は「そんな時代になったか」と浮かぬ顔。沖田が船室から現われて、山南平助源さんを回想する。これも一種のカーテンコールだろう。「まだまだこれからだ」と土方は自らを鼓舞し、周斎先生(つまり田中邦衛)の真似をして笑わせる。
 そこに、ついに話題の人物登場。自分の旗艦に「乗り遅れた」不運な榎本武揚だ。洋装で洋酒をラッパ飲みする姿に、土方「日本人か……?」と訝しむ。「洋服……カッコいいですね」とすっかり純真さを取り戻した沖田が微笑むと、土方は負けじと「オレだったらもっと似合う」と言って榎本に「その服、どこで手に入れました」と問いかける。もちろん土方「刀や槍の時代」から「洋服の時代」へと「考え直す」わけだし、この場面がもっぱら土方と榎本との絡みなのは、後の函館での両者の関係を考えるならば当然の設定だろう。実はここで、もしかして榎本違いの対馬守と近藤との有名な会話(「お恥ずかしいがやはり家族と再会できると思うと嬉しい」「文武に秀でていても家族の情がなければ禽獣と同じだ」)を強引にこちらに持ってきて草g剛と香取慎吾とを話させるのかと思ったりしていたのだが、さすがにSMAP同士を直接突き合わせることはしなかったわけだ。
 場面は船室に移ると、そこには瀕死の山崎が寝ており、尾関島田尾形と話している。「(江戸で)まだ隊士を集めるそうだ」と言う島田に、「私は新選組は解散すると踏んでいる、もう居場所はどこにもない、それは近藤さんもわかっているはず」と悲観する尾形山南に「託された」記録者としての役割が、その記録とともに烏有に帰した空しさも手伝ってのことかもしれない。いささかざらついた気分のまま「山崎君、ひざ掛けを一枚投げてくれないか」と尾形が頼むと、山崎は「自分でやって下さい」と断る。それはもちろん負傷しているからでもあるが、他方では新選組に身を捧げた山崎として、突き放したようなものの言い方をした尾形に対する、ささやかな異議申し立てもあっただろう。なんでも「喜んで」と引き受けていた山崎「断るのは初めてだなあ」島田山崎を見やると、かれはすでに事切れているのだ。
 星明かりに波が砕ける、暗い海面。水葬シーンがなくとも、十分に悲しい。
 さて江戸城では、万策尽きた慶喜のことをふたたび勝が追いつめ、寛永寺に恭順謹慎させる。「恭順という形を見せておいて待ち伏せ逆襲する」「これ以上内戦をして外国に侮られぬよう」というのが、その戦略と理由だ。
 このことを容保から聞いた近藤は怒る。「幕府はすでに朝敵の汚名を着ている、それを晴らすには戦って勝つしかない、ここで恭順しても臣下の不満は収まらず、かえって戦が長引く」から、「一丸として戦うしかない、戦って戦って戦うのです、それ以外に早く戦を終わらす手はない!」
 佐久間象山の薫陶を受けた者として、同じく内戦を避けたい近藤。だがその方法は正反対になってしまっている。しかしその方向は、あるいは今後、案外一致するのかもしれない。そしてそれは、来週の三谷脚本を見るまではわからない。
 容保近藤に言う。「もう決まったことだ、徳川の時代は、名実ともに終わったのだ」
 近藤は叫ぶ。「死んだ者の気持ちはどうなるのですか、上様と帝に心血を注がれてきた殿のお気持ちは……。殿!!!
 松平容保は崩れるように坐りこんで袴をつかみ、無念の表情でつぶやく。「余は悔しい……」
 おそらくこれで、容保もまた、このドラマから退場するのだろう
「悔しい」という恨みの気持ちをわれわれに伝えたままに。だからここは、能で言うところの「後世弔うてたべ」なのだ。
退場しませんでした。むしろ最終回では、「(京に晒される)近藤の首を奪え!」と、わくわくする希望を残しました。とはいえここは演劇的には「後世弔うてたべ」であることには変わりないとは思います。(2005年2月21日補記)

 さて終幕は、試衛館。近藤周斎は回想での登場となる。病床でふでに手を取られ、つねに看取られて臨終かと思いきや、しょぼしょぼと目を開けて、案外にはっきりした口調で「それから……」とふたたび話し出す実質二度死ぬ可笑しさで、こちらの心を明るく救う。「俺の倅はの武士だ」と断言しておきながら「そこの所を、うまくまとめてくれ」などとまた落としたのち、「幸せもんだ!」と笑って大往生。
 位牌に線香を接ぐ健気なたまを背後に、土間の座敷で語る近藤つね。「今思えば、父上はいちばん幸せなときに亡くなられた」「あれから三月で幕府はなくなった、朝敵となった」「わたしはあなたが帰ってきてくれたということでいいのです」つねを抱き寄せる近藤
 そうして終わりは、軒先で空を見上げる近藤に、ふで「おつとめ、ご苦労様でございました」と手をつく場面で、ほのぼのと悲しく閉じられるのである。

蛇足:
●品川釜屋や深川洲崎遊郭のエピソードは、とうてい織り込めないだろう。
●さて、あと三回。勝沼、流山、板橋、と、一回ずつか?
●予告編で、ちらりと後ろ姿の見えた洋装土方。

第四十六回補遺(11月27日再放送収観後記す)
一.富士山丸船上での土方の科白「刀を振りまわす武士はイラネエってことだ」もちろん武士そのものが不必要になったと言っているのではない。新時代の武士=
「誠のモラル」を持った人間は必要なのだ。要らないのは、狭い封建身分的了見に縛られた旧体制武士ということだ。そのためにも土方は「オレたちもこれから考え直さないとイケネエな」と言うのだ。
二.近藤周斎の臨終の科白「そのあたりのこと、うまくまとめてくれ」これはつまり、近世幕末史上の近藤勇に対する評価を、従来のそれではなく、「うまくまとめてくれ」= revise してくれ、という脚本家からのメッセージとも取れる。

 このように見てくると、「新選組!」は、見直すほどに滋味が出てくる、深い意味を含んだドラマであるといえよう。だから同時にそれが一方で「説明不足」「つながりが判らない」という評価としても現われてくるわけだ。
 たしかに、一度観て判らない、というのでは大河としての役割は果たしていないし、また万人向けでもないかもしれない。
 

 

2004年11月29日(月)

☆「新選組!」第四十七回
 悲しい回で、感想を記すのも気が重い。「再会」と題してはいるものの、じっさいには別れを描いている。
 土方の洋装にまつわる「社会の窓」ギャグから始まるものの、たとえ多摩に戻ったからといって、かれらが以前のような軽い立場に戻れるはずもない。土方の洋装が「なじまない」のと同様に、近藤と土方の新しい名前もまた、もはや多摩にはなじまないのだ。
 今回もカーテンコールなので、多摩の顔ぶれが総登場し、また
懐かしい場面が引用の形で回想される勇の祝言のときに祝辞を述べられなかった小島鹿之介は、今回の凱旋祝いの宴会でまたもや機会を失う(それにしても小島鹿之介と佐藤彦五郎というこの二人の大名主のキャラクターは、設定としては面白いけれども、実像よりははるかに軽い)し、沖田が甲州行きを志願する場面は、近藤自身が「どこかで見た場面だな」と上洛直前のエピソードを思い出しながら楽屋落ちする。
 今回のストーリーは、新選組残党甲陽鎮撫隊として江戸を出陣し、多摩に凱旋して、勝沼で惨敗するという史実をなぞっている。違うのは、本来江戸でのできごとである永倉と原田の別離を、勝沼の戦場に置いているということだ。永倉が手記に残す「新選組瓦解」のエピソードいきなり勝沼に結び付けて、筋のコンパクト化と単純化を図り、また劇の緊迫感を高めている
 劇そのものは進行とともに苦い味が増していくが、それの前段は、近藤に別れを告げるみつ近藤「幸せに暮らせるなら、薩長の世でどうしていけないの?」と尋ねる疑問と、傍らの林太郎「戦争はいやだな……」とつぶやく述懐とにある。
 思えばまさに新選組は、攘夷という戦争をするため京に上り、池田屋で勤皇浪士を討ち(近藤「これは戦だ! 戦だーッ!」)、鳥羽伏見を戦い、東帰してからもなおまだ戦おうとしている。それは一面では
「誠の心」のあらわれではある(近藤「不義の戦いをする薩長を許せない」)のだが、また一面では悲惨な内戦をも招くのだ。それが、いささか調子に乗ってふたたび誘惑しようとする土方に対して、冷水を浴びせるようにお琴が言い放つ、「新選組は浪士を殺し、仲間を殺し、京都でいったい何をしてきた、新選組がもっとしっかりしていればこんな体たらくにならずとすんだと、こちらではもっぱらの評判だ」という科白に表現されている。
 これにいささか鼻白み落ち込んだ土方が、縁側で近藤「オレたちのやったことに何の意味があったんだ、ただ引っかき回しただけじゃねえか」とこぼすと、近藤「オレたちは遠い所へ来てしまった、もう戻れない」と答える。かれらの歴史的行動とその意義の評価は、大久保剛と内藤隼人の名前同様、多摩の人には、もう理解の外にあるのだ。
 その新選組の「戦」の掉尾を飾る甲陽鎮撫隊の勝沼戦争は、このドラマでは、陸軍総裁勝海舟の命によることになっている。「幸せに暮らせるなら、薩長の世でどうしていけないの?」「戦争はいやだな……」というみつと林太郎の気持ちは、じつは欧米事情に通じ近代戦の実相を熟知する勝海舟の共有するところでもあり、「新選組は浪士を殺し、仲間を殺し、京都でいったい何をしてきた」というお琴のことばもまた、愛弟子龍馬と亀弥太を失った勝の本音でもあろう。それゆえは、江戸を無血で守るためにも、佐幕のカリスマ近藤と新選組とを、体よく追い払おうとするのである。そのあたりは、「こうして、幕府の幕引きをすることになりました」などと能天気に語る旧時代の尊皇旗本である山岡(「ロマンチ[スト]……?」)には、とうてい分からない心理なのだ。ただその勝海舟も、これらすべてを了解しきった近藤
「誠」には、さすがに「あんな淋しい目をした奴ははじめて見たぜ」気圧されざるを得ない
 もはや昔には戻れないことを悟って死を決し、故郷多摩の人々に錦を飾って喜ばせ、今生の別れを告げるべく、宴会にあえて時を費やす近藤。それに対して「いや、まだ戻れるのだ」と試衛館の理想をいまだ漲らせようとする永倉は、ふたたび近藤は慢心しているのではないか、と宴会の席でもひとり渋い顔だ。
 そうしてついに勝沼で惨敗して立てこもる中、会津行きをめぐって永倉の不満と怒りが爆発する「あなたのわけへだてない人柄と理想に引かれて集まった試衛館の仲間をあなたは組織で縛り、いままたそれをしようというのか。私はあなたの部下ではない。私は山南さんから新選組を託されたが、もはやここまでのようだ!」これが永倉にとっての
「誠」の表わし方、「新選組瓦解」だ。
 とはいえ、会津を「助けに」行くのでなければ、近藤はなんの面目あって容保公(「会津へ来い!」)にまみえられよう敗戦処理係として捨石にされたのだから、援軍を求めるなどとはもっての外で、近藤はこの地でできるだけ命を高く売りつけねばならないのだ。
 表面上の語り部、永倉には、たとえ勝の悪だくみを告発することはできても、そこまでの近藤の心は、ついにわからない
 自由な結束を愛した左之助も去り、菜っ葉隊を呼びに行った土方も戻らない中、「淋しいな」と近藤がつぶやくと、それを聞いていた斎藤が突如隊旗に駆け寄り打ち振って、我を忘れたように叫び出す
「永倉さんは間違っている」「オレはこの旗に拾ってもらった! 新選組はなくならない! 局長 !! 」はっと自分を取り戻す斎藤。つまりかれはここで人間を、
「誠」を取り戻すのだ。内面の語り部としての斎藤の役割が、この場面で明確になる。また一方では、会津新選組局長としての後の斎藤の姿も、ここで二重映しとなる。
 踊り上がる隊士たち、うなずく近藤の顔で、今回の幕は閉じられる。

「誠」のドラマは、まだ終わらないのだ。

蛇足:
●陣羽織を着て立ちあがる近藤の姿は、あの有名な錦絵「近藤勇驍勇之図」を髣髴。
●土方、服のボタンがもうちょっと小さめで光っていればよかったのに。
●菜っ葉隊はまったく当てにならない。
●周平、まだ逃げずに鍬次郎と一緒にいてよかった。
●沖田が四股を踏んで「まだまだこの通りです」と力み、土方兄の為次郎が「その調子だ!」と励ます場面、ぜひ観たかった。栗塚旭の最後の出番としても

栗塚さんは、別の形ですが最終回に出番を作ってありましたね。(2005年2月21日補記)

※DVD発売に関する雑記
「新選組! 完全版」通信販売について知るためにアマゾンのサイトを見ると、まだ売出しもしていないのに、はやDVDのレビューが数多く載っている。つまり「念願の発売、待ってました!」という喜びの書き込みなのだ。
 ところでそれらを読んでいると、面白いことに気がついた。それというのも、どのレビューも、判で押したように「第六回からビデオに録り出した」とか「第六回までは録画していない」と書いているのだ。ここからわかるのはつまり、もちろんそれまでの回も楽しんで観ていることは確かなのだが、どの観客もみな、第六回に至ってあらためて、そして忽然とこの番組の真価に目覚めた、ということなのである。
 そして私がこのサイトの日記に「新選組!」の毎回感想を克明に記すようになるのが、またこの第六回からなのであるというのも、およそ偶然とは思えない、なにやら面白い符合である。
 ではその
第六回とはどんな回か。それは「ヒュースケン逃げろ」であり、土方がヒュースケンからマントを着せかけられて「よくお似合いです」と言われる回なのだ。私はこの土方洋装の伏線に気づいてから作劇の緻密さに気づき、俄然面白くなったのだが、他の人たちは、果たしてどういう契機があったのか。ここにはまた、困窮の素浪人永倉も登場して近藤に心服するに至るのだが、あるいはこのあたりに魅かれた人もいたかもしれない。
 とにかく「新選組!」では、この第六回あたりが、なんらかのメルクマールとなっていることには疑いないようだ。

※2004年12月4日(土)再放送収観後補記:
●近藤に甲州行きを命じたさいの勝海舟は、山岡との会話でもわかるが、あきらかに韜晦している。内心は幕臣としての悲しみに満ちているのだ。そのあたりを判らせる芝居を野田秀樹はやっていた。
●お琴に突き放されるときの土方は、完全に不良(ヤンキー)の顔と表情で、いかにも多摩に戻った雰囲気を出していた。
●「新選組!」掲示板に、上記「DVD発売に関する雑記」に関する反響が早速あったので、必要部分を転記する。
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2004/12/04 はじめまして。(中略)わたしが「!」を毎回見ようと決めたのは、第五回「婚礼の日に」からでした。主要人物がほぼ全員出そろって、これから面白くなるぞ、というわくわくした期待に満ちていました。後にファン、そして三谷さん自身の評価も高いと知り、おそらく、第五回を見てこれからに期待をもった人たちが「つぎの第六回からは録画するぞ」と決意した上での「ビデオは第六回から」なのではないか、と推察します。
***********
 この場合、印象的だったのは第五回ということになるわけだ。いずれにせよ、だいたい伏線が出揃ったあたりと見てよいだろう。今回の第四十七回は、明らかにこの第五回の引用と回想に満ちていた。
 

 

2004年11月30日(火)

☆五兵衛新田再訪
 授業終了後、ふと思い立って地下鉄に乗り、ふらりと綾瀬の五兵衛新田へ向う。
 着いたらもう夕暮れ。来週の大河は綾瀬〜流山の展開だから、少しは何かイベントでもやっているのかとも思ったが、全然そんなことはなく、通りに
誠の旗がはためいているのみ。「綾瀬新選組研究会」の大看板が立つ鰻屋も、雑然とした店内に店主とおかみさんが仕度をしているだけだ。
 綾瀬川はすっかり護岸され、加えて上に高速道路の高架が通ってしまったから、土方が釣りをした光景など、およそ想像すべくもない。もし護岸も高速もなければ、流山を彷彿する、というよりも、ほとんど同一の風景だったろうに。
 

 

2004年12月6日(火)

☆新選組! 第四十八回
 あと二回しかないというのが信じられない。こうなったらいっそ、来年の大河ドラマは「義経」の代わりに、「新選組!(再)」として一年間放映する、というのはどうだろう。スキャンダルのあおりで受信料収入も減少しているようだし、予算削減の趣旨にも合致するのではないか。それに、斎藤も「新選組は終わらない!」と絶叫しているし(あれはもしかしたら「(番組編成)局長! 
新選組! は終わらない!」という含意ではないかしらん)。
 しかしそうすると、土曜日の番組欄には、「新選組!(再)(再)」という風になるわけだ。

 今度も涙腺がゆるむ回だった。メッセージもあった。
 綾瀬河畔近藤土方「マダやるか」(ところでこれは試衛館でのふでのことば「マダ増えるか!」ともどこかで響き合っていることは確かだろう)「これからか」と聞くと、土方「これからだ」と応え、流山での別離のさいには「そしてまだまだ終わったわけじゃネエ」斎藤「新選組は終わらない!」と相応する)と言う。
 また官軍に出頭するか否かの激論のとき、切腹を口にする近藤に対して土方は、「死んでいった者のためにも近藤勇には生きていてもらわなくちゃならねえんだ!」「生きろ」と叫ぶ。
 さらに近藤もみずから周平に対して「行きなさい」と脱出を勧めるが、これはその前の「命を惜しめ」というセリフから考えると、当然「生きなさい」という意味が重なり合っているわけだ。
 そして流山陣屋の検分に訪れた有馬藤太に対して、近藤「戦は負けたが勝敗は時の運、悔いはない、はっきりと正義は我等にあり、何度生まれ変わっても戦い続けます」と言い切る。
 だからこれを以ってこれを観るに、時代の狭間に呑み込まれたり賊軍の汚名を着て死んでいった者たち、またその者たちの末裔や郷土にとって、新選組の復権と名誉回復(revision)は「まだまだ終わっていない」わけでむしろ「これから」なのだし、近藤勇が追い求めて止まなかった
「誠の心」、つまり近藤自身も、たとえ歴史が過ぎ去り、はたまたドラマが終了しようとも、永遠に生き続けるのだ。
 今回の主眼は、まさにここにあったと言えよう。

 あとはほぼ逐次的に列挙。
 舞台は五兵衛新田、綾瀬川のほとりから始まる。逸話に残るシーンの復元。現地はもう少し視界が開けているような気がするのだが、スタジオ撮影なのでやむを得ない。近くの湿地帯「蛭沼」でのこと、と考えよう。
 釣りをしている土方近藤が、多摩の往時を思い出すと言うと、土方は忘れたと冷淡に答え、前回のショックなど素振りにも見せず「覚えておけ、人は変わらないとダメなんだ、オレは振り返ってるヒマなんかネエ」と啖呵を切るが、そのくせ小娘に色目を使うあたりは「変わってない……」(近藤)というギャグ
 周平はこの地域および五兵衛新田について、視聴者に簡単なレクチュアを行なう。子母澤寛だけ読んでいると、ここと流山をひとつの場所と思ってしまうので、この場面は親切でいいだろう。また地域サービスでもある。
 すっかり数が少なくなった幹部評定。勝に江戸から追い払われた近藤は、しかしあくまで救援軍として、堂々と会津に向かいたいのだ。そのための調練に適した場として島田が提案したのが、流山である。この移転の事情については、歴史の上では各説あるようだ。ここまで、穏やかな導入。
 千駄ヶ谷の植木屋平五郎宅の描写は、子母澤寛の書いたとおりの雰囲気をよく出している。心にもない天然理心流襲名披露や扁額奉納の話をして帰る近藤に、「あの人だってわかってる……」と沖田はつぶやく。同時期、府中大国魂神社の天然理心流扁額が、官軍の捜索を逃れるために外されて行方不明となっていることを考え合わせると、この科白はいっそう皮肉かつ哀れな響きを持つ。
 近藤観点ではない永倉左之助は汁粉屋で油を売る。「新選組のあるべき姿を近藤さんに見せてやる」と力む永倉の前に、死んだと思っていた芳賀宜道が現われて靖共隊(名称は出ないが)への加入を勧誘し、永倉はそのチャンスをつかむ左之助の方は、まさの待つ京都へ戻ることを決するが、予告編を観ると最終回まで左之助は登場するようだ。ここで永倉芳賀の会話を聞きながら「親亀の背中に小亀を乗せて……」と遊ぶのは、親子の情に牽かれる左之助の心理を表わすものだろう。
 一方、千駄ヶ谷には斎藤がやってくる(ここも近藤観点ではない)。刀の時代は終わったと語り合う二人を遠景に、手前にある刀架の沖田の白鞘がそれを黙って聞いている。またここで、お孝と沖田との間に、蟻を例にとって命に関する深い会話が交わされるのだが、これはあるいは最終回に響いてくるのかもしれない。

 流山。粕壁からの官軍の行軍も、戦闘シーンも一切なしに、いつの間にか四百の兵で包囲されている。近藤の台詞「ずいぶん早かったな」これは楽屋落ちではないだろう。
 有馬藤太内藤隼人との対決は、相対した両者の間隔がしだいに狭まり、最後の睨み合いでついに土方が眼ばたきして気圧される
 検分の場面での捨助登場(「呼ばれなくとも現われ」「ギョフンと言わせる」)には、近藤・土方ならずとも「ハラハラ」させられた。
 有馬藤太役の古田新太は、最初は野蛮極まる強面として現われ、それが近藤の人間に触れるにしたがって刻一刻顔付きと表情がやわらいでいく、うまい演技を見せた。また大久保大和有馬顔を合わせずに背中合わせで第三者たる近藤の意見を代弁するが、その間、カメラは大久保と有馬を中心に置いて、周囲の隊士たちをぐるりと360度なめて撮る。そうして最後に大久保が「……と近藤は思って居るのではないでしょうか」語り収めながら、はじめて有馬の方へ向き直る。つまりこれは、私が近藤だ、だがここにいる/いないみんなもそうだぞ、みんなが近藤なのだぞ……と深読みできる演出だ。
 土方と近藤の別れのシーンは、芝居ばかりではなく本気が入っていたように思える。とくに土方「新選組を作ってあんたを悩ませてばかり、よけいな重荷を背負わせてばかり」と訴える科白は、
新選組! を作ってあんたを悩ませてばかり、よけいな重荷を背負わせてばかり」山本耕史が香取慎吾に謝っている、と考えると感慨も新たになる。テレビガイド類に散見するところによれば、山本が香取とのコンビネーション形成に費やした労苦はたいへんなものだったようで、三谷幸喜はそのあたりの楽屋落ちも含めて、二人への総決算としてこの科白をこしらえたのではなかったろうか。
 上手近藤、下手土方のコルクのシーンは、第一回へのオマージュとしてかぶさる。

 そして最後の演出だ。もう少し酒が入っていたら、泣いていただろう。
 近藤と対面する加納(一兵卒とは可哀相だ)。加納は、甲子太郎が勇を暗殺せんものと懐剣を忍ばせたときにも、また鳥羽街道で篠原とともに近藤を待ち伏せたときも、つねに「卑怯」であることを嫌ってためらってきた。その加納は、たとえ恨みがあるとはいえ、かつての同士/上司である近藤をこういう場で名指しすることに「卑怯なのではないか、どう行動すればいいのか、おれの
は」と逡巡する。
 その顔を見つめるうちに、勇の表情はしだいに悲哀と慈愛と諦念の混合した「いいんだよ……」とでもいうような優しいものに変わり、同時に画面は白く光を帯び、バックには女性コーラスで静かにテーマ曲が流れ、あたかも宗教的シーンのように昇華される
 要するにここは、いわばゲッセマネの園におけるイエスの捕縛の場面にも相当するものなのだ。
 即ち……。
 土佐と水戸のパリサイ人たちがにんまりとほくそ笑むなか、ユダにならずにすんだ加納が頭を下げる。それを見守る有馬は、「まことにこの人こそ義人であった」と述べた百人隊長か、それとも総督ピラトの役どころかもしれない。
 そして近藤はといえば、イエスというよりも、先に加納を許してみずから正体を明かすところからして、むしろ大慈大悲の阿弥陀仏に擬せられるともいえよう。
 それはまた、鬼瓦と称せられ、鴨を殺して以後鬼となった近藤が、ようやくここで鬼である必要がなくなったことを示すし、さらに少々敷衍して、近藤のことを鬼よりもさらに凄まじく「怒りによって迷いを正す」存在としての不動明王と考えれば(不動明王は天皇家および将軍家のために国家鎮護を祈祷する修法、安鎮法の本尊であるから、尊皇佐幕の近藤が不動明王となっても何の不思議もない)、ここでかれが不動明王の本体としての盧遮那仏に戻るのも当然だ(大日如来は系譜的には阿弥陀仏の発展形ともいえる)。
 そうしてこの近藤の微笑とともに、第四十八回の幕は閉じられるのである。

いよいよあと1回か……
 

前夜祭

2004年12月12日(日)

☆スマステーション
 11日午後11時半より放映のテレビ朝日「スマステーション」を、「もちろん」観る。
「新選組!」最終回の(悲劇的終局なのだからこんな言い方はおかしいが)前夜祭ともいうべき感じ。試衛館一同(土方、山南は中継参加)+島田、山崎出演の同窓会ノリ。ここまで持ち上げてもらって、NHKも少しは胸に手を当てて考えた方がいいのではないか。三谷幸喜はいつものごとく韜晦気味、そして脚本家として当然ながら、役者とテレビ朝日に花を持たせていた。
 クランクアップ後、京都を訪れた香取慎吾が、三条河原に立って、橋の上から大勢見下ろす観衆を背後に、「近藤の首が晒されたときもきっとこんな風にして見られていたのだろうな」と何度も繰り返していたのが、強く印象に残る。常に衆目から逃れることのできない宿命を持つ、アイドルならではの観点と感慨だろう。
 しかし未だに近藤に憑かれている、といった感じ。いちど御払いをしておいてもらった方がいいのではないか、とすら思った。
 日曜日は最終回特別延長バージョン、そして月曜日はいずれも香取出演の「笑っていいとも」と「スマ×スマ」で後夜祭と、近藤も新選組も、そして何よりNHKが、以って瞑すべきか。
 

「近藤勇、よく戦いました!」

2004年12月13日(月)
2004年12月18日(土)再放送後増補

☆新選組! 第四十九回(最終回)
 とうとう終わってしまった。信じられない……。
 今年一年はまったく、「新選組!」を心の支えにしてやってきたようなものなので、来週からどのようにして過ごせばいいものやら、見当もつかない。一年間にわたって、じつにいいドラマ、心の糧となるような、また知的刺激も相当に受けることのできた、そんなドラマを見せてもらったという感じだ。

「近藤勇、よく戦いました!」(ふで)
 このカタルシスに尽きているだろう。

 近藤の処刑は、むしろ明るいゴルゴタへのパレード。最後に不屈の左之助「尽忠報国の士、天晴れなりィ!」(これは鴨へのオマージュ)「新選組は不滅だぁ!」(だれでも長嶋を思い出す)と叫ばせ人間としての意気地を取り戻した(「官軍に一泡吹かせてやるんです、それが残された者の務め」)尾形はそれを聞いて高笑いをしながら去っていく
 
近藤は鬼瓦として、つまりまさに僻邪として、勝と西郷の言うように、すべての怒りと恨みと憎しみと罪業とを一身に引き受けて死なねばならない。それだからこそ、みなが近藤を見捨てる(見捨てない捨助は死ぬ)。有馬藤太も力が及ばない。幕府も見捨てる。ついには松平容保までが見捨てる。けれども、イエスだって、ユダにもペテロにも見捨てられたではないか。しかし、見捨てた者たちは、じつは見捨てたわけではない。いや見捨てることなどできはしない。イエスが地に落ちた一粒の麦であったように、近藤もまたみなの胸に、忘れ難い、そして日々大きくなる思いを残すのだ。かれが自らの身を種子として播いた「誠の心」はみなの心に宿り、芽を吹き、それぞれの形で成長していくだろう。「評価など、百年、二百年後の人が決めればいいことだ」と土方為次郎は言い、小島鹿之助も「かならず近藤さんの後に続く者が、この多摩に出てくる」と自由民権運動を予言する。そして歳三もまた勝のことばに従い(「どうせ死ぬ気でいるんなら、北へ行ってくれネエカ」)、近藤の背負いきれなかった残りの分を引き受けて、函館まで戦い続けるのだ。
 だから近藤の死は悲しいが明るい。それは地に落ちた麦の再生でもあるからだ。鬼瓦の役目を終えた近藤は、純真で美しい顔に戻って死んでいく。

蛇足:
ありとあらゆる人に別れを告げさせる。が「われわれだって寄せ集めで新選組と同じ、いや新政府の方が結束がない」と眉根を寄せるのは、当然、後の西南戦争のことを言っている。
斎藤容保が「近藤の首を持ち帰れ、せめて会津の地で供養する」と命じるところは、土方たちが建てたとされる、あの山の中の墓に実際に近藤の首が埋められている、という伝承をうまく生かして余韻と希望を残していた。また斎藤は一時の悩みなど吹っ切れたように官軍兵士を切り捨てるが(
「誠」の戦いだからだ)、このときのオダギリは、懐紙で刀を拭って撒き捨てるあたり時代劇の定番アクションを引用し、またそれが目の覚めるほど格好良かったではないか。
可哀相なお孝蟻のように小さな命だったかもしれないが、大切な命だったのだ。それに沖田が気づいたときには、お孝はもういない。蟻のように血の海から助け出すことはできなかったのだ。
●死病のゆえに自分の命だけを(同時に自分の向上だけを)見詰め続けてきた沖田が、蟻とお孝によって、はじめて他者の命(それは京でかれが無造作に殺めてきた多くの命でもある)に気づく。だがそのときにはすでにお孝はいない。そしてこの階梯を経たうえで、血の海に倒れ伏しながら沖田は、あらためて自分の命を、普遍的なものとして見詰めなおすのである。最後まで一定しなかった沖田のキャラクターは、かれの最期になって、ようやく人としての落ち付きどころを見出す。(2005年11月10日補記)
「涼州詞」で弟を送り出す土方為次郎
左之助は不滅だ。そしていつもお供えを取っていく。
風車阿比留のときと同様に死のメタファーか。また地蔵の首がみな欠けているのは、当然近藤の斬首を暗示する。
●「取っておき」(三谷)の台詞は「トシ……」だったわけだ。

2004年12月18日(土) 再放送収観後補記
「スマステ」HP香取・三谷対談で、三谷幸喜最後の試衛館場面「ダブルコール」だと言っている
●土壇場で命を見つめる近藤。それぞれの生命(蛙、紫陽花、魚、鳥)は、美しい日本とそれを愛でたヒュースケンの追憶として登場する。(2006年9月2日修正)
板橋で尾形が登場し、去っていくまでのシークェンスは、山南の引用だろう(温厚なのに大声を上げる、旅装、物陰からいきなり出てきて呼び止める)
土方為次郎が詩吟で「さらに尽くせ一杯の酒……」と歌い上げると、ただちに杯を含む永倉のアップにつながる演出。

カーテンコールをやってくれてよかった。「大脱走」のエンディングを、もっと派手にした感じだった。
●そのカーテンコールのエンディングの暗転にただちに沖田の声(「楽しみですね、京都」)が被さって、それからすぐに「いったい、なにが俺たちを待ってるんだろうな、京都で」と歳三が言っている場面に切り替わる。それは、浪士組に加入することを決めた試衛館一統が集まって空を見上げる、五年前のシーンなのだ。
 ……そう、今回へ繋がる運命が待っているのだが、しかし近藤は怯まない。剣を抜き放って運命の鼻先に突きつけ、そしてもういちど、「ここから」はじめるのだ。

ドラマははじまる。
新選組は、そして「新選組!」は、不滅なのだ。
 

近藤の書簡の一部より

後夜祭

2004年12月13日(月)

☆SMAP×SMAP
「局長!」(三谷幸喜作)。
 以前、ある対談の中で香取慎吾三谷幸喜に持ちかけ、快諾を得ていた企画の実現で、「新選組!」本編が終わった直後に、そのままの雰囲気でコントをやるというもの。
 番組の中では、土方沖田を連れた近藤がコンビニに「御用改めである!」と叫んで乱入し、さまざまな商品をめぐって、コンビニ店員のクサナギ(えのもと?)と頓珍漢で大真面目なやりとりを繰り広げる。とくに食玩を見ていた子供に近藤が絡む一幕は、周平との別れ、また板橋脇本陣の幼女との交流のシーンパロディで、抱腹絶倒。笑いと涙の中で癒される。
 タイトルバックも衣装も口調も、さらには土方、沖田、そしてコンビニ外に控える尾関や左之助はじめ(ビデオで観ると斎藤、周平、観柳斎、谷がいたもよう)隊士たちに至るまで本編そっくりで、三谷本人による自作のパスティーシュとなっている。
 要するにこれは、葬式の後の精進落としといった性質のもので、「これで日常に復帰して下さいね」ということなのである。

 さあ、後夜祭も済んだところで、リハビリは終えて、これからは懐かしく近藤さんたちを思い出そうではありませんか。総集編もあることだし。

※12月14日補記
「ある対談」とうろ覚えのまま書いたが、あらためて調べてみると、上記の対談は、三谷幸喜『三谷幸喜のありふれた生活3 大河な日日』(朝日新聞社、2004年7月30日)の巻末に、〔〈特別大河対談〉「新選組!」な二人……三谷幸喜×香取慎吾、2004年6月7日/東京・渋谷のNHKスタジオにて〕として載せられているもので、その中の198頁に、今度のコントについての発言がある。ここでは検証のために、その部分のみ引用しておこう。

香取 今、考えていることがあって……大河ドラマの最終回の次の日に、「スマスマ」で「新選組!」のコントをやりたいんです。
三谷 もう絶対やるべきです。
香取 近藤勇の格好のままでスーパーで買い物したい。近藤勇として「いざ」とか言って、土方、沖田とスーパーに行く。買い物してお金を払うだけだけど、ちょっとお金が足りないことにして。横から沖田が差し出して、「うむ」とか頷いて受け取る。特にせりふはないんだけど、NHKの大河と同じくらいちゃんとした芝居をする。これやってもいいですか。
三谷 やって下さい。感動的な最終回の翌日にね。すごい苦情が来ると思うけど、絶対やってね。僕、ホン書きたいくらいですよ。

 そして三谷幸喜は、結局「ホン」を書いてしまったわけだ。
 これによって、実際に放映された「スマスマ」のコントは、このアイデアの忠実な具現化だったということがわかるのである。
 もし香取慎吾が、この時点で、ラストが視聴者にとって(そして自分にとっても)辛く重たいものになるということが(知識にせよ直観にせよ)分かっていて、それでこうした精進落としを提案したのだとしたら、さすが子供の頃からアイドルを続けて一度もトップの座を譲っていないだけのことは、やはりあると感じた。
 

 

2004年12月27日(月)

☆新選組! スペシャル 第一部
「総集編」でなく、「スペシャル」と銘打っているところがユニーク。
 第一部、第二部、第三部と、一週置きくらいに楽しみながら観ることにする。
 まず第一部。みつのナラタージュで、懐かしい顔ぶれが、懐かしい場面で、次から次へと登場する
 試衛館時代からはじまり、京へ上る直前まで。義母ふでと理解しあって祝福される場面がクライマックスとしてメインに置かれる。
 ふでも農民の出、また宮川勝太も豪農とはいえ農民の出、その人たちが武士、というより「身分の壁」を超えようと目指しもがくつまり「新選組!」は、その当初から、「武士より武士らしく」というテーマで一貫しているわけだ。
 そしてこれが新選組の目指すモラル
「誠」でもある。
 また、ふでが京へ上ろうとするに「ここまでよくやりました」「行っといで」と励ますこのことばは、最終回の「近藤勇、よく戦いました!」と、当然照応する
 そのように考えると、三谷幸喜脚本は、じつに強靭に奏でられていくということがわかるのである。
 総集編で観直して、あらためて思ったのは、さまざまに言われて最終回直前までさしたる評価も与えられなかった香取慎吾の演技が、じつは始めのころから、相当にいいということだった。生き生きとして、美しい。この輝きが、「新選組!」全体を、やはり輝かせていたのだ。
 この総集編は、それぞれのパートが、ひとつずつの独立した起承転結つきの「ドラマ」となつていると思われるのでやむを得ないが、たとえば浪士組のニュースが飛び込んでくる直前、勇が腐って「この道場はダメ男の吹き溜まりか……」とかこつ場面など、ぜひ観たいところだった。あとは山南をもう少し描き込んでもよかったか。
 最後の試衛館メンバーのバカ話は(沖田剛洲Tシャツはなんだろう)、もう少し長くやって欲しかった。三谷幸喜など、マイクを持っていたくせに、一言も話さなかったではないか。残念!
(第二部感想に続く)
 

 

2005年2月19日(土)

☆新選組! スペシャル 第二部
「一週間おきに観る」などと言っていながら、途方もない間があいてしまった。やはり「日々新た」なのだ。みな飛翔していくのだ。
 それでも久しぶりに観た。懐かしい顔ぶれだ。
「第二部」は、専ら鴨を描くためのものだ。他の人はすべて脇役。エピソードも鴨の為に構成されている。鴨に全体の三分の一を費やすとは驚いた構成だ。この分だと、京都から板橋までは、文字通り怒涛の勢いとなる。多摩・江戸編、鴨編、京都〜流山編と、ではなぜこのような構成にしているのか
 が「あなたは天狗組からもはじかれ……」と面罵する場面があるが、これは後に近藤甲子太郎に「あなたは薩長ではないからはじかれる」と喝破する台詞と、もちろん通底する。
「はじかれる」。これがこの作品のキーワードだ。近藤も結局は「はじかれ」、ドラマでこそ描写されないもの、暗黙の約束としては土方もまた函館で「はじかれる」だろう。
 つまりこの三部作は、体制から、時代から、歴史から「はじかれた」人々を描くためのものとして構成されているので、スペシャル製作時の三谷の視点は、もはや新選組そのものにはなかったとすら言えるかもしれない。その意味では、三谷幸喜もまた日々「飛翔」するのだろう。

 さてドラマはふたたび、チャンバラをして遊ぶ子供たちを眺めるみつのナラタージュから入る。鴨役佐藤浩一そっくりの子役が瓢箪を持つことで、すでに全体が語られる。
 まず本庄宿での大焚火事件。テーマ曲CDも出ている今となっては、どの場面でどの音楽が使われているか、あらためて聴くのも面白い。はぜた火で「アチッ!」鴨が根負けするところまでが早い。あとは村上と山南の絡みが観られないのは山南ファンとしては残念
 清河組からの分離、秀二郎、斎藤一、御多福の活劇、お幸と、つぎつぎとお膳立て。山南は暗い顔の解説役だが、その葛藤も含め、今後の伏線としてもこの時点ではやや印象が薄いのが心配だ
 お梅との出会い。久坂登場、黒谷での松平侯「励め!」の懐かしい台詞と来て、いよいよ会津藩お預り浪士組としてのエピソードに入る。
 これもはじかれ者のお梅を引き取るは、一方では沖田を翻弄する。この場面をあらためて観ると、「なまじ才能のある新入りの劇団員を、むしろきわめて高く買っているが故にかえってひどく苛めるベテラン俳優」というようなシチュエーションに見えてくる。要するに歴史的新選組というのは、三谷幸喜にとっては、かれの愛して止まないひとつの「シチュエーション素材」なのだ。
 男装秀二郎ひでに戻るも、それを見抜けなかった土方「チキショーっ!」場面はなし。したがって鴨の「ありゃ女だヨ」もなし。このあたり、鴨の人間味があっていいのだが
 葬式の晩に久坂を見事にやり込める鴨の晴れ姿はカットして、桂に論破され徹底的にコンプレックスを衝かれる惨めな方を強調する。つまり「はじかれる」鴨だ。島原で荒れるお幸の深雪太夫、広沢様、鴨と近藤の絡み、土方の多摩音頭と目まぐるしく展開して、しかし最後の近藤の「芹澤さん、私は好きですよ、この羽織」という泣かせる場面は無い。つまり近藤を目立たせないようにしてあるのだ。
 そしてはじかれた者の痛苦から暴走し、破滅へとひた走る佐伯が斬られ、熊川熊次郎が斬られ、大和屋が焼打ちされる。
 会津藩からも示唆を受け、一挙に浪士組統制の主導権を奪うため、土方は法度を定める。このあたりから腐女子のいわゆる「副長s」活躍、新見を罠に嵌めて切腹に追い込む。ここでの新見の台詞「先に逝ってマッテルぜ」というのは、ドラマ第二十四回の中では山南に向かって発せられた予言のようにも思えるが、ここではそうではなくて、「新選組だった人」もしくは「はじかれた人」すべてに対してのことばのようにも聞こえてくる
 グッさんの鸚鵡エピソードもはさみ、舞台は悲しい嵐山の紅葉シーンへ。「寺子屋の師匠がいちばん似合うてる」というお梅の台詞は、このドラマの鴨、場合によっては歴史的にあらまほしき鴨をひとことで言い表していて虚実皮膜の間にあり、哀切だ。それを、はじかれながらも生き抜いた男斎藤がすべて見ている。
 鴨だけを描くために、芹澤派と近藤派の相撲エピソードなどは省略。したがって野口の出番も無し。
 暗殺直前の宴会のさいの鴨と近藤の語り「鬼になれよ近藤」「…ハイ…」これもこの時点で聞くと、鴨は「自分に対して」のみならず、「すべてに対して」、つまり時代にも、歴史にも、評価に対しても鬼になれと近藤を励ましているというふうに聞こえるのが、我ながら面白いところだ。思い返せば、それは土方為次郎が弟歳三に対して「時代と切り結べ」と言っているのと通じるものでもある。
 それはじつは、芹澤近藤とに対する恩義の狭間で泣きそうになる斎藤に、近藤が「芹澤さんはすでに覚悟を決めている。その刀をこれからは御公儀のためだけに抜いてくれ」と言う台詞にも通じてくる。「御公儀」とは第一義的には幕府だろうが、この時代においては天朝様でもあるし、もっと言えば、このドラマでの近藤にとっては、それは「
誠の心の実現されている状態」でなければならないはずだからだ。ましてやそれは、はじかれ者芹澤が鉄扇に刻んでまで追い求めて止まなかった「尽忠報国」以外のものであり得ようか。
 そのために近藤は鬼になり、土方は時代と切り結び、そして芹澤の死を踏み越えたその彼方に、「新選組」の大看板が立ち上がるのだ。
 最後の浪士バカ話は、鈴木京香が藤原竜也にバレンタインのチョコを上げたというお梅さんゴシップ。
(第三部に続く)
 

 

2006年9月2日(土)

☆新選組! スペシャル 第三部
─ 2006年正月3日 正月時代劇「新選組!! 土方歳三 最後の一日」の前に記す ─

「新選組! スペシャル」とは、つまり一昨年の大河ドラマの総集編であって、だから当然、年の瀬に放映されたものなのだが、これを翌々年のそれも正月に、1、2、3を続けざまに流すとは、それだけこのドラマが支持を得たということなのだろうか、それとも受信料不払いに悩むNHKが何らかの目論見をもってしてのことだろうか。それにしても、仮に「新選組!! 土方歳三 最後の一日」の客寄せプロモーションだとしても、これは一回限りのドラマだし、少々放送局自身がなりふり構わずやっきになりすぎているのではないか、とすら思わせる編成だ。
 テレビに対する悪口はさておき、このドラマそのものは十分に傑作だ
 
 まず導入は、このスペシャル3部作のために特に収録されたオープニング、例によって子供たちの遊ぶ光景を沖田みつが眺めているところから始まる。今回は池田屋斬り込みで、剣のつもりの木切れを振るう近藤勇にそっくりな子供を見ながら、みつのナラタージュがかぶさって、舞台は本編に移っていく。
 
 まいど豊扮する谷三十郎がいきなりあの奇矯な笑いを響かせ、新選組にしだいに異分子が入り込んできたことを象徴する。厳しく統制を取らねばならない中、それに反発する永倉は「家来ではない」「意見の違うものを排除するだけではないか」と抗議し、理想と現実とが食い違ってきた山南はそうした不満を背負って松平容保建白書を提出するが、その結果は葛山武八郎の切腹だ。「ヤツを殺したのはお前とオレだ」山南とは正反対だがやはり「業」を背負った点では共通する土方は、それゆえこうした科白を吐く。いま観ると、なかなか深い意味を持ったシーンだ。
 そうして舞台は、「新選組!」のひとつのクライマックスとなった「友の死」へとたたみかける。山南の脱走(「総司、お前行け」)、山南明里の花談義、団子を食べる場面、そして万事休して覚悟を決めた山南がぬっと立って言う名セリフ、「沖田君、こっちだ」となる。
「我らの気持ちをなぜ察してくれない」とうめく近藤。「助けたい、そのためには見逃してもいい、それゆえ総司を送ったのになぜそれを察しないでおめおめ戻ってきた」というのは表面の意味で、その深部には「なるほどいまは手厳しいし残酷かもしれない、独裁かもしれない、だがその時期を過ぎて新選組が確固たる組織になったとき、いや新選組だけではない、新選組が主と頼んでいる幕府が、会津が、天朝様が磐石の存在になったとき、そのときはじめて山南の(そして永倉の)理想の世界が実現するのに、それを実現させたくてこうしてやっているのに、なぜそれを察してそこまで待てない、待ってくれない」という近藤の(そして土方の)「鬼の」悲嘆が潜んでいる、というのが、ここの三谷脚本に対する私の解釈だ。
 だがそれに対して「私のいるべき場所はない」と返す山南山南には、そうしたことは一見いかにも「大事のために小事を犠牲にする」行ないのようでいて、実のところ権力を取るための欺瞞的名分にしか思えないのだ。だからたとえ近藤の(そして土方の)歩む道が最終的には正しくとも、山南にはもはやそれに与するつもりはなく、むしろその犠牲となり、礎となる方を選ぶ
 ちなみにこのあたり、香取慎吾は壮士風でなかなかよく、また谷原章介扮する伊東甲子太郎の浅黄羽織姿も素敵に似合っている。
 
 山南の出番が終わるとみつのナラタージュがかぶり、こうした組織の重圧の下で、河合武田松原と、善人が次々に命を落としていくが、いずれも印象深い名作の回の登場人物をこうも簡単に片付けるということは、どうやら終幕をことさらみっちりと描写するつもりらしい。
 やがて新選組は御陵衛士との分裂にいたり、沖田平助の別れが描かれるが、これもあらためて観直すと感動的だ。「お前の元気な姿がうらやましい、来年、再来年のお前が。だから(私に)かなわないとか言わないように」と労咳の沖田が言うと、平助は「(敵味方でまみえるときは)せめて相打ちに」と答え、二人は
誠の旗を背景にして手を重ねる。これもまた「愛しき友よ」だ。
 
 みつのナラタージュによって薩長同盟成立・大政奉還の時代の動きが説明される一方、新選組は龍馬暗殺と油小路の変に巻き込まれる。時代の流れに懸命に加わろうとして近藤の命を狙う伊東に対し、近藤は「(元)新選組だからあなたの意見が通らないのではない、はじかれたのではない、薩長でないからだ、くやしさはよくわかる」と説く。龍馬もそれで暗殺されたというのが、このドラマでの解釈だ。「身分・出身を問わず、力のある者が上に立つ、そんな世の中」を求める自由民権的近藤を描く、ここは心に残るメッセージ場面。こうして伊東平助も斃れ、劇は駆け足で終盤へと突入していく。
 
 舞台は鳥羽伏見の戦い。その前に近藤暗殺未遂事件があり、この場面の香取はうまい。「この戦いは薩長の理不尽を糾すための義戦であり、最も重要な戦いである!」と吼える土方。だがここで周平がひるみ、それをかばう源さんが死ぬ。戦の中で錦旗は踏みにじられ、その欺瞞性が表現される。
 徳川慶喜は敗走するが、「俺たちはマダ負けていない、江戸で迎え撃つ、勝機は我々にあり、勝つために帰る」のだと船上でこもごも言う近藤と土方、だが江戸の慶喜は恭順を決しており、ここで松平容保と近藤の「戦って戦うのです!」の懐かしい場面となる。船中での山崎の悲しい死が省略されたのは残念。
 
 みつのナラタージュが入り、いよいよ怒涛の甲府・流山・板橋のクライマックスが始まる。「甲府へ行ってもらいたい」体よく追われる新選組みつと総司が、人の命を考える役どころを果たしている。みつはいうならば運動部の女子マネージャー役だ。
 甲陽鎮撫隊の敗戦と新選組の分裂永倉「あなた(近藤)の家来ではない」「ここにはもう俺たちの居場所はない」これは山南の科白と呼応する。左之助も去って行くが、この寂しい終局に斉藤が飛び出して
誠の旗を打ち振り、見せ場を作る。「この旗がオレを拾ってくれた」「新選組は終わらない!」「まだまだこれからです」「局長!」隊士たちは感極まって叫ぶ。だがその旗の意味は、もしかするともはや変質してしまったのかも知れないのだ。
 次の場面はあっという間に流山になっていて、近藤土方も、はや有馬藤太古田新太が実によく、配役はこの人以外に考えられない)の部隊に囲まれている。これもいきなり洋装になっている土方「死ぬ気でウソをつき通せ」、そして土方と近藤の別れの場面、コルクを眺めながら「お前がいたから」「よく助けてくれた」土方はにやっと笑って「そしてマダマダ終わったワケじゃネエ」と返す。たしかにドラマの新選組も翌々年の「新選組!!」まで続いたし、歴史上の新選組の再評価もけっして終わったわけではない。
 ゲッセマネの園のイエスとユダを髣髴させる近藤と加納のシーンは外せない。近藤が捕われたとの知らせに「俺は一人でも助けに行く」という捨助、「なぜ捨助がいたか、一言では語りきれません」というみつのナラタージュは、このドラマの台本を通して扱いにくい狂言回しであり続けた捨助を象徴する。
 土方勝と対決し、の科白によってこの劇における近藤の立ち位置が総括される。「無駄死にじゃネエ」「一人で受け止めようとしてる、他に誰ができる、本望じゃネエのかい」と。そして勝の最後の一言「北へ行ってクレネエカ」で、土方もすべてを引き受けるのだ。
 早い場転が続き、松平容保と斉藤の場面。容保にももはや近藤の助命は叶わないが、だが武士の一分を通し、一矢を報いる。「(近藤は)
誠の武士であった、仇は必ず討つ」と斉藤に虎徹を渡し、「京へ向かってくれ、(近藤の首級を)奪い返せ終局のカタルシスに向かってすべての伏線が急速に収斂し、また次なる展開への期待を孕みこむ。
 
 いよいよゴルゴタの当日となり、ひとびとがそれぞれの運命を生きる姿が目まぐるしく入り乱れる。一人刑場に戻る左之助
「近藤勇、よく戦いました!」と叫ぶふで、その隣のつね、同じく「お前は多摩の誇りだ!」と呼号する兄、宮川音五郎。一方、宇都宮では負傷した土方が「先に死んでった者たちの為にも」と力戦を続け、沖田お孝の死の場面も挿入される。
 まさに処刑の直前、近藤が目をやる蛙、紫陽花、魚、鳥は、命の美しさ、そしてかつてヒュースケンが讃え愛した日本の美しさ、すなわち
「誠」を象徴する。
 捨助が「カッちゃん、待ってろ!!」と乱入して斬り斃されるが、これもまさに(先に逝くから)「待ってろよ」となるわけだ。
 左之助「尽忠報国の士、天晴れナリィー! 新選組は不滅だァ!」と楽屋落ちを叫んでお供えを取って逃げていく中、宇都宮では
誠の旗を先頭に立てて、土方たちが吶喊していく。
 
 こうして近藤は死に、舞台と時代は明治の御世に帰ってくる。すでに沖田も死に、土方も死に、ひとり残ったみつが取り出し眺めるのは、近藤と土方を象徴する、あの二つのコルクなのだ。
「最後の誠の武士でした」というみつのことばで、全巻の終局
 
 このように書いてきたものの、結局スペシャル第3部は、第49回すなわち最終回をメインとして持ってきたわけで、前半はほとんどその伏線として費やされていた。そして「愛しき友よ」の題名どおり、「友の死」の山南に始まり、次々と「友」が去り、ついにはすべての人の「愛しき友」近藤の死に終わる。
 蛇足を付け加えるならば、近藤「愛しき友」である「トシ」が、ドラマの上で再び「カッちゃん」と相まみえるためには、なお一年という時間を必要とせねばならなかったのだが、これは奇しくも(というよりむしろ意図的か)現実に函館戦争で土方が戦死するまでの一年間と合致しているというわけなのだ。
 最後の隊士座談会では三谷幸喜も登場し、お約束どおり香取局長の語りで締められた。
 

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