2004年6月12日(土) ☆御返事エッセイ
ある腐女子サイトの作者の方より、当サイトに対する感想メールが来た。望外の喜びで、たいへん嬉しかったので、すぐに返事を書いた。
その返事は期せずして、また巧まずして「新選組!」に関する私の考察を述べたエッセイになったので、ここに私信に関わる部分を除去し、また必要な加筆訂正を施したものを掲載することにした。
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メールを有難う存じます。
こうして感想をいただけると、やはり嬉しいものです。
《「腐」女子》というのは、じつに気の利いたネーミングです。それは、自らに対して優れた
reflection
(自己省察)があることを示すものだからです。
私は「新選組!」ファンサイト検索のさいにその存在を知って以降、ひたすら感心するばかりです。そこで私の思ったのは、おそらく平安時代にも、きっとこうした「腐女子」たちが日記を書き、オリジナルの小説を作り、写し読みし、感想を述べ合っていたに違いなく、そうしてその結果、ついに最高峰として「枕草子」や「源氏物語」といった芸術が出現したのではないか、というようなことなのです。
まただからこそ、それに感動した男性のひとりである紀貫之は、女性に仮託して「土佐日記」を書いたのでしょう。
ところで、歌舞伎の名作というものは、歴史的考証とはまったく没関係に、みな「見立て」や「本歌取り」から成り立っているわけで、したがってそうしたものとしての「教養」を共有し、その「ゆかり」や「ゆかしさ」をこそもっぱら楽しむ人たちも相当数いることには疑いありません。おそらく、多くの腐女子の方たちもまた、そちらの方の楽しみを享受する術を、十分に身につけておられるものであろうと思います。
今度の「新選組!」は、まさにそうした楽しさを持った演劇作品であると、私は感じるのです。そして歌舞伎の中に流れる感情が時代を超えて変わらず人の心を打つと同様、われわれは今回のドラマにおいて、「ああ鴨は可哀相だ」と涙するのです。
つまりそこには、観客の発展と成長への契機が含まれています。
他方、新選組はやはり敗者であることも確かですので、日本の文化伝統の文脈においては、日本武尊、聖徳太子、能の各種登場人物、神田明神様、大宰府天神様、そして赤穂義士などと同様に、つねに思い出して語り鎮魂しなければならなくなります。
歌舞伎の名作も多くは鎮魂劇ですが、そう考えると、新選組が芝居の赤穂義士の衣装を借り、しかもその色が死装束の浅葱色だったというのは、なんだかかれらが自分たちの先行きを予知していたような、恐ろしいような話ですね。
しかし私も新選組に対してはありきたりの歴史的知識しかなかったので、なんらの思い入れなしに今度のドラマを観ることになり、かえってそれが幸いしたかと存じます。人間はだれでも、自分のアイドルが毀誉褒貶されることにはきわめて敏感です。私のサイトのもうひとつの柱である宮澤賢治とその作品に関しても、まったく同じような場合と場面が、多々あるわけです。
とはいえ私は、三谷幸喜氏は新選組に関しては、定説異説、史料資料を徹底的に読み込んだ上で、万事飲み込んであのドラマを作っているとは思います。
だから逆に、歴史的設定や展開に関しては変な安心感があるとともに、その一方で「ああこの人にこんな役者を使ってこんな風に動かしているのだな……」という観劇的楽しさが自分の中にあるのです。
これはむしろ、演劇的贅沢というものではないでしょうか。
映画と宝塚が大好きだった手塚治虫が、自分の漫画の製作にあたって、生み出したキャラクターを取り替え引き換え使うスターシステムを取り入れたのも、おそらくそんなところからでしょう。それはまた、みなもと太郎の漫画においても同様で、かれら両者の「新選組」に対して、歴史考証がどうのという非難が浴びせかけられたという話は、ついぞ聞いたことがありません。
話題が拡散しそうなのでこれで止めますが、貴メールによって、私もまたこのようにしてあらためて振り返り分析することができました。有難いことと感謝しております。
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