新選組! 雑文コーナー

その二

 

2004年5月4日(火)

☆新選組! 第十七回
「はじまりの死」という題がすべてを語っているわけだが、ありとあらゆる要素を含んでいるので複雑。一言では語りきれないらしく、腐女子サイトも更新に時間がかかっているようだ。まあひとつには、連休という事情もあったかもしれない。
 殿内芹澤に殺され、それを告発しようとするは組織防衛を第一に考える土方に止められて、信念を曲げてまで芹澤を庇う。それを非難して浪士組を脱退する粕谷新五郎根岸友山ここでの粕谷のセリフが、そのまま新選組の命運を予言する。この役割のために、ここまで粕谷の出番を引っ張っていたわけだ。もちろん、史実に抵触しないようにうまく組み込んであることは言うまでもない。
 傷つく勇慙愧に堪えない土方は、メンバーの前で「あいつに二度とこんな思いはさせない、悪役は今後ぜんぶ俺が引き受ける」と、こちらも傷つきながらうめく。
 傷つくのは近藤土方だけではない。芹澤もまた近藤に対し、自らの思い(「お前が殿内に騙されてると思ったんだよ!」)が通じないことに心を痛める。それでもなお自分のことを庇った近藤の姿を見て、芹澤はおそらく、近藤にそんな思いをさせたということに対する贖罪のためならば、今後、近藤に斬られても構わないと密かに覚悟を決めた、という演劇的伏線を、ここで張っておいたのではないだろうか。
 これで、近藤を先の見えない道に引っ張りこんだと思って自責と贖罪の念に駆られる山南に次いで、近藤、芹澤、土方にもまた、性格が変わっていくためのお膳立てができたわけだ。とくにこれで、土方と山南はいわばコインの裏表だという設定が、より明瞭になった気がする。土方山南にあまりいがみ合って欲しくない山南ファンのこちらとしては、だから逆に安心できるようにも思ったのだが……。つまり、土方は山南の自責の念を口には出さねど理解し、山南もまた土方の苦渋とそこから発するかれの行動を理解する、という風に性格設定をしてもらいたいと思うのだ。
 あとは、無邪気一方だった藤堂平助にも今回伏線を初めて張ったし、どうもこの回はやや陰惨な将来を暗示するための段めいていて、観ている方も胸苦しかったのは事実だ。
「はじまりの死」というのは、だから当然、浪士組で最初に死んで、しかもその後の新選組の隊士たちの死に様の嚆矢かつ予告ともなった殿内義男のことでもあり、またその一方では、牧歌的な多摩と夢多き江戸の楽しかった時代、そして希望に燃えた浪士組の門出が終わった=死んだということなのだ。
 ただひとつ、救いのユーモアは、会津藩士の前では緊張して一言も出なかった山南や藤堂が、自分たちだけになるとようやくリラックスして教養を披瀝するのに怒った土方が、「だから今話したって遅えんだよ!」と噛みつく場面。
 それ以外には、行き付けの甘味茶屋(お多福)での、あっという間の乱闘シーン。まるでジョン・フォードの西部劇の酒場乱闘を見ているようだ。源さんは、さしずめアンドリュー・マクラグレンといったところか。
 こうした場面を描かせたら、三谷幸喜の技は絶妙だ。

 

2004年5月6日(木)

☆江戸東京博物館「新選組!」展
 両国にある江戸東京博物館で開催中の、「新選組!」展に行った。木・金は、夜8時まで開けているので、午後からでもゆっくりゆとりを持って参観できる。
 展示はいかにも博物館らしく、系統立ってストーリーを組んでおり、また同様に博物館らしく、文献資料なども充実していた。
 その文献資料から感じ取れるのは、新選組(に限らず幕末人)の面々は、律儀で几帳面で、しかも心が優しいことだ。とくに土方は花鳥風月をも解する、温かい心の持ち主ではなかったか、と思う。かれの「豊玉発句集(豊玉はホウギョクと読み、かれの名である義豊にかけた俳号だが、たぶんそれだけではなく、玉=多摩にもかけてあるのだろう)」はなかなか大したもので、その句にどことなく町人風の情趣が感じられるのは、かれが松坂屋に奉公をしたり、薬の行商をしたりしたところから来るのかもしれない。

 他方、近藤勇がつねに向上心を忘れなかったことは、かれの書簡からよく読み取れる。また、近藤が書簡の中で、自分はもちろん尊皇で、ただしその「体」が幕府なのだと述べているところが興味深い。つまり、私流に解釈して言えば、「天皇を触媒として立ち現われてくる日本国のすがたを実質的に実体としてあらしめるのが幕府なのだ」と近藤はここで言っているわけで、いきおいかれが公武合体派、佐幕派であるのも無理はない
 それにしても、こうした高論卓説と、日常茶飯の報告、あるいは金の無心とが、同一の手紙の中に並存しているというのは、当時の人の常かもしれないが、面白いことだ。いやむしろ、「私はこうこうこうした偉いことをやっておりますので」と箔やら理由をつけておいて、それを金の無心の口実に使っているのではないか、とすら思われるほどだ。
 土方も無論そうした側面を持っているのだが、近藤の書簡の方が、やや虚勢虚飾の臭みがあるのに対して、土方のものはあくまでナイーブで温かいというのは、従来流布している土方イメージを修正するのに、大いに与って力があるのではないだろうか。
「土方イメージが大いによくなった」と妻も言っていたから、やはりそうなのだろう。
このあたり、武庫川女子大学の管宗次教授が『龍馬と新選組』(講談社選書メチエ)に面白く書いている。同氏の別の著書『俳遊の人・土方歳三』(PHP新書)は未見。(2005年2月20日追記)

 

2004年5月6日(木)

☆流山探訪
 江戸東京博物館を出た後も、まだ外に明るさが残っていたので、思いきって流山まで足を伸ばすこととした。流山は、御存知近藤勇こと大久保大和が土方と別れた後、官軍に包囲されて降伏・捕縛されたところだ。
 まず丘の上、市役所のところからアプローチする。眼下はすぐ流山電鉄の駅だ。ここは、官軍が、近藤が陣屋にして立てこもった醸造元の酒屋や、そこに軒を並べる街道筋の商家の町並みを目の当たりに見下ろして布陣した場所で、我がボルボは、そこから下の街道筋、江戸川にすぐ沿った道へと降りていった。
 近藤陣屋跡の前の道はほんとうに狭くて、車の擦れ違いは不可能だ。案内板の傍らには
誠の旗が翻り、流山もそうとう新選組で食っているな、などということを意地悪く考える。
 だがそんなこととは別に、やはり近藤の命運が決まった場所ではあり、夕闇も迫っていたこともあって少々気味悪く(しかもすぐ先には墓地があるのだ)、もう車を降りぬまま、そろそろと通過する。昼間明るいうちに再訪しようと思う。
 この旧街道沿いの福祉センターの扉には、「新選組!」のポスターが貼られていたりして、やはり町にとっても大河ドラマ化はひとごとではないのだろう。もちろん街道には昔日の面影などはまったくないが、それでも向かいの並びにある古い菓子屋は、相当に由緒があるようだ。もう閉店間際だったが、そこに入って観光資料を手に入れ、名物「陣屋最中」を箱に詰めてもらう。横を見ると、「勇凧」という民芸品があり、その説明によれば、近藤は自分の身を犠牲にして商都流山を戦火より救った守護神であるということになっている。流山ではそのように考えられているのか、と思う。天満宮のように、神田明神のように、そのうち近藤勇もなるときが来るのだろうか。
 帰宅してあらためて資料を見ると、流山は丘陵と江戸川(旧利根川河床流路)の狭間にできた集落地であって渡し場でもあり、江戸、武蔵、下総を結合する要衝に当たる、河川流通経済で栄えた商都だった。たぶん綺麗な湧水もあったのだろう、醸造元や和菓子屋が今でも隆盛だ。附近には貝塚や群集墳遺跡も残り、その発祥の古さを物語る。江戸時代には利根川流路変更にともなって、自然堤防下の低地における新田開発が飛躍的に発展した地域でもある。そのため、明治初期には「印旛県」や「葛飾県」の県庁所在地ともなった重要な拠点だった。神社も諏訪神社、赤城神社、浅間神社、香取神社、八坂神社、金刀比羅神社と、江戸時代に信仰を集めた神様がオールスターで揃っているし、寺も各宗ひとわたりはあるようで、ここにも江戸の町との緊密な結びつきが伺える。
 俳人小林一茶のゆかりの地でもあり、じつに見所満載の、典型的な江戸近傍の小都市なのだ。博物館では新選組資料も展示されているというし、一日掛かりでゆっくりと見学に訪れる必要があるだろう。

なおこれらの知識は、主として市役所肝煎り「新選組流山隊」実行委員会発行のパンフレットおよび流山市観光協会発行のイラストマップによるものです。

http://www.at-town.com/snap
http://www.atn.co.jp/kanko

 

2004年5月8日(土)

☆玉造町探訪
 天気もまずまずよさそうなので、思い立って探訪に出かける。
 流山を再訪しようか、それとも芹澤鴨の故郷玉造にしようかと迷ったのだが、結局、玉造にした。佐藤浩市の演ずる鴨が、なかなかニヒルで甘い哀れさがあってよいせいもある。
 出かける前にちょっとネットを検索したら、玉造町もやっぱり流山に負けず劣らず力を入れて、新選組で町おこしをしようとしている

http://www.tamatsukuri.or.jp/shinsen-hp/index.htm
http://www.town.tamatsukuri.ibaraki.jp/

 首都高速湾岸線〜東関東自動車道というルートで霞ヶ浦までたどり、玉造町に到着。豊かそうな土地柄だ。
 ところでここのキャッチフレーズは、「新選組を創った男の町」。だからキャラクターはもちろん地元出身の芹澤鴨(ハンサムに描いてある)、それから従者の平間重助(男らしく描いてある)。これでNHKの沖田風キャラ、日野の幕末チャレンジャー選之介、調布のイサミくん、そしてここの御両人とそろったわけだ。
 まちおこしポスターの貼ってあったスーパーで道順を聞いてから、最初に「新選組水戸派史料館」へと向かう。近づくと、
誠の旗が翻っているのがわかる。ここは玉造町観光協会肝煎りでJAの建物に設置したもので、地元の俳句協会のボランティアが詰めている手軽なものだが、それでも芹澤関連、石岡の伊東甲子太郎・鈴木三樹三郎関連の史料など展示している
 各地の新選組顕彰活動の資料も取り揃えてあり、中には調布宮川家から送られた月報まであって、別段昔のことを根に持っていがみあっている、というわけではなさそうで、まずは結構なことだ。
 訪問記念用ノートもおいてあり、中学生から老年まで書き込んでいる。「新選組への手紙」というコンクールもやっているらしく、老人が結構真摯に芹澤宛の手紙など書いているのには一驚。
 他には新選組グッズ、地元産品など置いてあり、当方は地元澤屋商店発売(製造は三重県度会郡伊勢萬)の、「芹澤鴨・平間重助ゆかりの地」という焼酎を求める。この澤屋商店は平間の子孫の店だということだ。ちなみに平間家は代々芹澤家に仕えた家柄で、出自は川崎大師の開祖平間兼乗に遡るという。件の焼酎は帰宅後味わってみたら、なかなか素直な味だった。
 史料館でパンフレットを手に入れ、橋を渡ってさらに奥へ進むと小高い森があり、そこの中腹に芹澤の旧家、そして登りきった平地(現在は耕地)に芹澤城址がある。近くの家の人が親切で、道順など教えてくれる。
 芹澤一族は桓武平氏〜大掾氏に連なり、鎌倉時代に遡る常陸の豪族だが、芹澤と名乗るのは室町時代に相模国高座の芹澤に所領を持ったときで、戦国末に常陸に戻って玉造に芹澤城を築いたという。江戸時代には上席郷士であり、現在もなお、地域では非常に有力な一族であるようだ。また医術にも優れ、膏薬を作っていたというのは、多摩における同じく郷士である土方の一族との、面白い共通性を思わせる。
 芹澤鴨はこんなお殿様の家柄に生まれ育った人だから、なかなか気ままに慣れていたものだろう。
 面白かったのはこの芹澤城の位置関係で、いまは欝蒼と樹が生い茂ったり、家が建て込んだりしているが、昔はきっと、館の上からは霞ヶ浦が指呼の間に望めたと思われ、それはちょうどミケーネやクノッソスや、沖縄のグスクと似たものを思わせる。つまり地理的に多少奥まってはいても、易々と霞ヶ浦の舟運流通を支配できるということだ。
 城の丘の西側を巻いて梶無川という河川が幅1〜2キロくらいの流域開析谷を作りながら南へ流れ、霞ヶ浦へと注ぐ。この流域がすなわち、かつての芹澤城主の領域であろう。
 この川を使えば交通・流通は容易で、しかも霞ヶ浦〜利根川〜江戸川というラインで江戸へと直結する。玉造町の霞ヶ浦沿岸は、江戸時代、江戸の水戸藩屋敷を支える穀倉であったということだから、それやこれやを考え合わせると、たとえ幕末には一介の郷士の三男でしかない芹澤であっても、もし教育と自覚がありさえすれば、容易に江戸の、日本の、そして世界の情勢に触れることは十分可能であったことと考えられる。
 そしてじつは、河川流通が高度に発達していた江戸期の日本においては、全国津々浦々のちょっと繁栄した都市であれば、みなこうした類似の条件が備わっていたはずなのであって、まさにそれこそが、全国諸藩の先覚者と有識者によるネットワーク作りと行動とを促し、ついには明治維新の偉業を達成させるための大きな一因となったものに相違ないのである。
 話を芹澤城の位置関係に戻すと、城址の丘の東端には村社大宮神社があり、西端には法眼寺という寺があって(ここの境内に今年、芹澤鴨顕彰碑が建てられた)、そこには芹澤一族代々の墓がある。つまり東に神社で朝日を拝み、西に寺で浄土を迎える形になっている。そして梶無川は城址の真下、丘の南からさらに南方へと流れ、霞ヶ浦に注ぐ。
 とするとかつての館は、どう見ても南面していたと考えざるを得ないではないか。
 つまり芹澤城は、埼玉の高麗と同じく、風水的に完璧な条件を持っているのだ。だから芹澤氏は、たとえ佐竹に制圧され、江戸時代には郷士の地位に落ちたとはいえ、まさにこの地の支配者、王であり続けたといえよう。
 玉造という地名は玉造部に由来して大和朝廷時代にまで遡るらしいし、じっさいにここには金冠(大月氏ないし百済風)の出た古墳もあり、それ以外にも霞ヶ浦を見下ろす丘陵には多数の群集墳が発見されており、どうやらここは、筑波の山と霞ヶ浦とを控え、陸奥、東山道、東海道、そして房総を結節する、ひどく豊かな地域であったようだ。
 水戸学を作り、天狗党のエネルギーを生むだけの経済生産力・文化力を備えた地域だったのだ。
 芹澤鴨も伊東甲子太郎も、そうした土地柄が、生むべくして生んだ人材だったのだ。

 さて帰りは、霞ヶ浦大橋を渡り、国道4号に出て、田植えの済んだばかりの田毎に映る町明かりを見ながら、そのまま東京まで戻ったのだった。

 

2004年5月9日(日)

☆新選組! 第十八回
 今回も盛り沢山。伏線を張りに張った回のように思う。そこで感想は、ランダムに書いておく。
 鴨がどんどん大善人になっていく。とくにお梅に失恋する沖田を見ながら思わず吹き出すところ。「北斗の拳」でもそうだが、最初はこわもてで登場した大悪人(ラオウなど)が、最期は大善人になって死んでいく。物語を進めていく中で、登場人物も、作者自身も、自然に浄化されてしまうと言えばいいだろうか。
 藤堂平助が大役に選抜されて、名前を呼ばれたその一瞬に引き締まる顔の表情。これは歌舞伎役者勘太郎ならではだ。
 沖田役の藤原竜也もさすがにうまく失意に沈む純な若者という演技の典型を見せて楽しませた。
 しかし今回の最高の場面は、やはり相撲大会でみなの気持がひとつに溶けあうところ、そして斎藤一の心が解けるところだろう。
 とはいえ、斎藤の依然引きずる影は、あるいはこれからにも影響する伏線かも知れないのだ。
 平間重助、こちらが玉造を訪れた所為か、ぐっと親近感が増した。そこそこ活躍もするし。芹澤派で最後まで残る野口も、それを含んで上手に動かしてある
 結局、今回いちばん顔つきが悪かったのは、近藤勇だ。土方は近藤を、そして皆がともに見る夢を守るために、確信犯的に偽悪者を演じているわけだが、近藤は気がついていない、というよりも、正しいことをやっていると思ったまま、疑問を持たない。
 まさに歴史的資料にあらわれたままの近藤と土方のキャラクターになりつつあるではないか。
 このままだと、近藤だけ reflection と katharsis がないまま突き進んで行きそうで、それでは芝居にならないのではないかと、素人ながら心配したりする。
 まあ三谷幸喜のことだから、そのあたりもちゃんと仕掛けがあって解決するのだろうが。

 

2004年5月14日(金)

☆流山再訪
 午後から流山を再訪した。
 昼間だったこともあり、地形その他、ずいぶんとよく把握することができた。どこに官軍が布陣したか、ほぼつかめた。昔のことだから、家並の数も少なく、近藤陣屋は指呼の間に望めただろう。
 その官軍陣地のひとつであった丘の上に作られている、図書館・博物館を見学。後期旧石器から戦後の団地建設まで、一気に見ることができる。縄文〜弥生〜古墳まで、切れることなく人が住んでいるという事実は、河川・湖沼と丘陵とが調和し存在するというこの場所の立地の良好さを物語る。
 また復元ジオラマを見ると、霞ヶ浦〜利根川〜江戸川流域は、あたかも路線バスの停留所(by妻)のように町とその河岸とが並んでいて、航路はまるでそれらを縫い付ける糸のようであり、往時の河川交通の繁栄とその重要性とを、如実に知ることができる。
 要するに、江戸時代までの江戸川沿岸は、稲毛など東京湾岸と同様に、河岸も舟運も、ほとんど「海浜」の感覚だったろうと思われる。つまり極言すれば、東京湾から霞ヶ浦/北浦までは、ひとつの「海」だったのだ。
 他方流山は江戸時代にはみりん醸造で知られ、そのため近藤も、醸造元の広大な屋敷を陣屋として使用することができたわけだ。
 博物館で資料をいくつか入手する。7月からは、「新選組、流山に入る」と題して特別展があり、新資料も展示するらしい。その新資料のさわりだけ、ちらりと展示してあったが、それ(日記)によると、包囲された新選組は官軍と戦うもののすぐに惨敗し、指揮官たちはみなひっくくられてしまったと書かれているようで、あの嫋嫋たる余韻を残す名文によって感動を呼ぶ、子母澤寛記すところの近藤降伏の情景とはだいぶん違うドライな状況があったようだし、また近藤が流山を戦火から救うために、単身犠牲となったというわけでも、とくになさそうなのだ。

 

2004年5月14日(金)

☆近藤の降伏について
 流山市博物館を辞して近藤陣屋跡やその周辺をひとわたり歩きながら、なぜ近藤勇は降伏したのか考えた。

 近藤は、助かると思っていたのだ。いやそれのみならず、官軍に迎えられるとすら考えていたのだろう。
 その理由はこうだ。
 近藤は尊皇攘夷の士であり、同時に将軍の忠良な家臣である。将軍と運命を共にし、その命令には無条件で従う。その将軍が天朝様の意を体現していると近藤が考えていたことについては、資料より明らかだ。
 だから、これまでは将軍の命を奉じて薩長に敵対してきたが、西軍が官軍になって将軍が恭順したからには、近藤もまた将軍と同様に官軍に恭順することについては、自らの中に、なんの疑問もない。
 賊軍扱いは不当であるから、攻撃に対しては抗戦という形でその意思表示をして、武士の一分は通す。しかしその(将軍に対しても自分に対しても)不当な賊軍としての誤解が解ければ、もはやそれでいいのであって、近藤自体は一貫して尽忠報国の士と自認しているし、また官軍側からもそう遇されると考えたのではないだろうか。
 近藤は
「誠」の人である。至誠はかならず通じると信じていたに違いない。そしてその純朴な信念は、近藤の中においては、いくぶんかの出世欲と権威主義、つまり政治性とも、けっして矛盾することなく存在していたようにも思われる。
 だから流山時点での(場合によれば甲陽鎮撫隊のときからすでに)近藤は、むしろ官軍の忠実なる一員として(つまり将軍を裏切ったどころか引き続き忠良なる臣下として)、旧幕軍を取りまとめて新政権の秩序確立と維持とに尽力する、そうした存在となったいうふうに己の中で理論展開をつけ、そのように理論武装をした上で説明をすれば官軍も納得し、あわよくば近藤のことを、官軍のなんらかの部署に任命するのではないか、とすら思ったかもしれない。

 現実がそうはいかなかったことは、その後の歴史が示しているとおりだ。

他方、数日後に見たサイト
http://bakumatu.727.net/kyou/4/042568-kondotoko.htm

では、資料によっては、近藤はもはや切腹に決していたのを土方が説得して降伏させ、自分は江戸にとって返して勝海舟に助命工作の嘆願をしたということになっているらしい。
 となるとこの場合は、上記のような理論付けは土方が考えたもので、近藤はそれに同意はしたものの過大な期待をかけることはなく、近藤はいずれの場合にせよ、またどの時点であるにせよ、上様に対する十分な誠忠が果たせなかった責を負って一命を捨てる覚悟ではあった、と言えるかもしれない。
 どのみち、近藤は
の人、そして土方は温かい人、そんな風に言っても、やっぱりいいではないか。
 そんな気もする。

 

2004年5月16日(日)

☆新選組! 第十九回
 今回もまた、鴨デーだった。
 純真な沖田や近藤の中に、なりたくてもなれなかった自分の姿を見つつ、照れ屋で人の反対にしかつねに出られないまま、心の深いところには悲しみを持ちながら自滅へと走っていくpicaroといった典型的役どころが、当然ながら鴨に対して振り当てられているわけで、それを佐藤浩市が巧みに演じているということだ。

 とくに今回の白眉は、通夜の席に乱入した久坂玄瑞に、「水戸の尊皇は年季が違うんだよ、お前らなんかニセモンじゃねえか、自分たちがやりたいことをするために天子様に自分らの意見を押しつけているだけだろう」と啖呵を切って追い返すシーンだ。
 もちろんこれも自嘲と背中合わせであることは、最後に一人で酒を飲んでいるところに入ってきた近藤との会話の場面で、きちんと平仄がつけられているわけではあるのだが。

 日本人は勝手なもので、狸親爺の家康は嫌いで、関ヶ原で負けた島津侯や毛利侯にはなんとなく同情するくせに、幕末以後はこんどは江戸っ子を中心に、薩長芋侍(とその末裔である中央官僚)に対しては釈然としないまま、現代に至る。
 これらすべては、梅原猛も指摘する如く、明治以後の日本が、恨みを呑んで敗れた敵を鎮魂するというそれまでの文化伝統に反して、勝者側ばかりを同志殉難者として靖国招魂社に祭ったことに始まるのだが、いずれにせよ、薩長出身者を除いては、今回の鴨のセリフに、溜飲の下がる思いをした人も多かったのではないか。
 吉田松陰の愛弟子で弁舌文才ともに一流の久坂玄瑞が、ここまでぐうの音も出ないほど決めつけられる本を書くとは、三谷幸喜はひょっとして負けた側の人間か? そしてもし今回の皇太子の一件も鑑みて急遽セリフを変えていたとしたら……。

 それ以外には、沖田が必要以上の心の傷を鴨に負わされたり(「どうかしてる…」)、左之助が疎外感を抱いたり(「オレをなぐさめに来たんじゃねえのかよ」)と、このあたりにも将来の伏線を張ってある。
 細かいところでは、提灯を持って通夜の案内をする、画面奥の勘太郎平助の一瞬の芝居は、さすが歌舞伎の技量だ。

 史実といわれるものを巧みに換骨奪胎しながら、今回も一場のドラマを作り上げてあった。

 

2004年5月23日(日)

☆品川宿探訪
 昼から出て、遠出のドライブのつもりだったが、たまたま山手通りを南下して湾岸道へいくルートを取っていて、旧品川宿と交叉するあたりで、突然気が変わり、そのまま品川宿探訪に変更する。
 ここは旧東海道が、八ツ山橋から鈴ヶ森までの間、道幅などもほぼそのままに通っていて、品川宿は京急北品川駅から青物横丁駅ぐらいの間に、目黒川を挟んで南北に長く伸びていた。旧東海道の東側家並の裏は直ちに東京湾の水際で、そのことを示す名残の石垣も家並裏の路地にいまだに残り、そこではたしかに土地の高低差も突然落ち込んだようになっていて、なるほど昔は海であったのだということが納得できて感慨深い。そしてその海は、落語「品川心中」にもある通りの遠浅、そのため旧目黒川河口は北に大きく湾曲して澪となって東京湾内に尻無川のように消え、その東側には砂洲が形成されて、そこに猟師町(この字で正しい)ができて、鯨塚で有名な利田神社がある。
 品川宿の南は鮫洲で、ここは江戸城御用の猟師町で網元の家もあって、つまり品川海岸は、宿場でもあり「江戸前」の漁師町でもあって、東京湾学会の高橋在久先生の御教示によれば、かつては木更津から「五大力(ゴデーリキ)船」が通っていたそうである。
 ちなみに、こうした河口の砂洲というのは、どこでも同じ機能を果たしているようで、私の知る限り、北海道の石狩河口には旧石狩場所以来の漁村があるし、手塩川の河口砂洲には続縄文期の住居遺跡が多数残り、またやはり手塩場所と北前船で栄え、他方また秋田雄物川河口は江戸時代に北前船海運で繁栄した土崎湊である。
 また、家並のすぐ裏がもう海で、船も着いていたというその風景は、たとえば江差、松前、三国港、そして北前船の着くところならたいがいどこでも似たようなものだったろう。一方では東海道由井宿や興津宿などの宿場もまた、こんな感じのたたずまいを今に残している。

 現在この品川宿については、「旧東海道品川宿周辺まちづくり協議会」
http://www.japan-city.com/sina/
が地域振興を図っていてパンフレットも充実しており、それを手にして歩いた。日曜ということでほとんどの商店は休んでいて残念ながら町は静かだったが、来週は荏原神社の祭り、再来週は品川神社の祭りと目塞で、通りではその準備に余念がなく、提灯も下がって、どことなしに華やいでいた。海の神を迎える荏原神社、山(というか丘)の神を迎え海と接する品川神社と、役回りもきちんと揃っている。荏原神社は前九年の役頃にはすでに存在していたようで、それはつまり品川の地が、はるか昔から東京湾と内陸とを結ぶ(目黒川は当時としては大河に近い機能を果たしたはず)、ロジスティクス上の重要拠点として目されていたことを物語る。
 またこの地域は、本陣跡の公園、江戸時代から残る神社仏寺、明治時代の工業地域化の名残である煉瓦塀など、時代が複合した趣で、現在の超現代的な品川駅(ここは実際は高輪にあたり、しかも駅そのものは目黒区なのだ)周辺のすぐ南に、こうしたコミュニティがなお存在しているというわけだ。
 さてここにも新選組関連の旧跡はあり、それは南品川宿の「釜屋」だ。この旅篭には土方も泊まり、また鳥羽伏見の敗戦後、ここに上陸した新選組は、この釜屋にしばらく滞在した後、敗軍にもかかわらず深川で女郎を揚げて流連の大騒ぎをし、永倉などは酔いざましに一人の武士を斬ってしまい、後で土方に大目玉を食らったということになっている。ちなみにこのとき慌てず騒がず刀の手入れをしたのが、元武家の娘であるかしく女郎である、と子母沢寛は書いているのだが、これはかれの創作かもしれないとも言われているのも、また周知の事実だ。
 それにしても、女郎遊びなどさておいて、なにはともあれさっさと戦線の立て直しをしなければならないのではないか、とも思うのだが、ベトナム戦のことも考え合わせると、明日をも知れぬ敗軍で気持もすさみ、しかして懐だけは暖かい、というような状況のとき、兵隊というものはこんな風になるものなのだろうか。甲陽鎮撫隊といい、どうも新選組はあまり悠長すぎて負けたような気がしてならない。
 話を釜屋に戻すと、もちろん現在は存在せず、その場所はマンションになっていて、その前に説明版が立っている。これがこの品川宿で唯一
「誠」とだんだら模様のついた説明版で、その「誠」の字は、土方の子孫の方が書いた字だと記されている。ここまで関わり進出しているというこのあたりにも、土方一族の新選組顕彰と土方歳三雪辱への、一種の執念のようなものを感じるところだ。

 

2004年5月23日(日)

☆新選組! 第二十回
 久し振りに良質な青年ドラマを観ている感がある。
 舞台の大筋は、哀れなる鴨をめぐる群像劇。だからといって鴨はわがまま若様で、同情されれば反発するしかないのに、また近藤は最後に「私は好きですよ、この羽織」などと余計なことを言い、鴨を背中で泣かせるまあ、鴨に関しては、このあたりの性格設定以外にはないのではないか。いずれ諸史料をよく読み込んだ上でのことだろう。
 前回で、通夜の線香と蝋燭を黙って替える近藤の姿はなかなか感動的で、かれの温かさと大きさを自然に出しており、また香取慎吾がそれをよく演じていたが、今回もそのあたりの近藤の「愚直な立派さ」とでもいうところが、うまく出ていたのではないだろうか。
 龍馬は土方にいちどやり込められているが、今回は鴨から一本取ったはずの桂のことを逆に見切る(もっとも久坂のことは庇わざるを得まい)あたりが、江戸の仇を長崎で討つ感じで、一種の楽屋落ち
 楽屋落ちといえば、宴会のシーンで、香取近藤が山本土方に「歌え」という場面。山本耕史はミュージカルスターなのだから、得意技披露とでもいったところで、さすがにうまい
 他は河合と松原の採用にまつわるコミカルシーン。堺山南と中村藤堂は芸達者、オダギリ斎藤はめっきり明るくなった。また山南が枢要な機会から次第に外れていきそうな気配もそろそろある。
 内山彦次郎がささきいさおというのは、内山に出番を与えるということも含めて意表を突かれた。つまり次回は相撲取りとの喧嘩騒動なわけで、舞の海も登場するようだ。
 総じて言えば、演劇的に盛り沢山な回だった。贅沢なドラマだ。

 

2004年5月29日(土)

☆調布から流山まで
「新選組!」再放送を見た後外出して、オート・ボルタで定期点検の終了したボルボを受け取り、試運転のつもりで、オート・ボルタのある調布を出発。志木を目指して北上するつもりである。
 志木というところは柳瀬川と新河岸川の合流点にあたり、すぐ東北には荒川も流れている水運上の重要な中継地であり、また西埼玉の丘陵畑作地帯と東埼玉の流域稲作地帯とを結節する商業拠点としても重要で、そうした意味からは、北関東にいくつかある「小江戸」のひとつであったわけで、ぜひ訪れてみたい場所だった。
 ところが大失敗で、どの道もどの道もみな二車線で狭く、右折車が出るたびに滞る。また悪名高い中央線の踏切をまず突破せねばならず、それを越えてもさらに東西にも南北にも西武電車の踏切があって、ますます渋滞に輪をかける。
 おかげでようやく志木にたどり着いたときには、もはや日暮れ。残念ではあるが、またの機会を期することとする。いちどゆっくり歩いてみないといけない。それに小金井街道の途中には、なかなか小奇麗なイタリアンレストランもあるようだし。
 しかしながら、転んでもタダで起きるような人間の出来ではないので、気を取り直してさらに東へと進む。17号線つまり中仙道を越え、浦和の町も横切り、越谷で4号線つまり日光街道に出て春日部へとしばらく北上し、途中から東に折れて江戸川の左岸に渡り、野田へ向かう。
 もうお察しのとおり、有馬藤太率いる官軍が、大久保大和と内藤隼人の立篭もる流山へと向かったルートを、擬似体験しようというわけである。
 同乗の妻がこのことにいつ気づくかと期待していたのだが、「流山」の表示が出ても「結局流山へ出るのね」などとのんきなことしか言わない。これまでのフィールドワークによる教育の実が上がっていないことを示すわけで、なんともはや残念至極だ。
 夜にかかって交通量も減り、また松戸野田有料道路を通ったという事情もあったが、春日部〜流山の所用時間は30分弱。たとえ幕末の徒歩行軍であっても、さほどの時間もかからずに到着できたのではないか。
 背後の丘陵地から江戸川河畔の流山旧市街に降りて行くルートを走っていると、妻が突然、「近藤さん、早く逃げてくださーい」と言う。何を言っているのかと思うと、イラク戦争終末期、バグダッド・ホテル前で「アメリカ軍などいない」と大見得を切っていたサハフ情報相のことを思い出したとのこと。「サハフ、うしろうしろ!」というわけで、たしかに近藤軍は、「官軍などいない」と悠々としているうちに、あっという間に包囲されてしまったわけである。
 百三十余年後の世からこんなにも応援されるとは、近藤ももって瞑すべきかとも思った。
 そうして帰路は、そのまま江戸川沿いに松戸〜市川と下って、そこから東京へ戻った。
 現代の東京から見ると、春日部は東北線、流山(松戸)は常磐線、そして市川は総武線の沿線という風に、どうしても地理を放射状に考えてしまうから、各々がひどく遠く隔たって思えるのだが、こうして江戸川「沿岸」諸都市として捉えれば、三角形の二辺と一辺ではないが、じつは非常に近いのである。そして江戸時代のこれらの町々は、そのような関係性の上にあったということは言うまでもなく、だから官軍も春日部から流山へと、一気に殺到できたのだ。
 結局、イサミ君のふるさと調布と、最後の活躍の地である流山とを、ともに訪れたということになった一日だった。

 

2004年5月31日(月)

☆新選組! 第二十一回
 鴨が手におえなくなってきているようだ。シナリオの中で、三谷幸喜のいうことを聞かずに暴れ始めているのではないか。優れた作品なら、ありがちのことだ。この後の展開は、新選組ファンならだれでも周知のことで、そのため沖田事件をはじめ、重苦しいドラマに終始した。
 内山彦次郎をあれだけ陰険な役どころ(相撲取を使嗾する)に当てていたのは、やや意外。子母澤寛によれば、なかなか気骨の士のようなのだが。また斎藤一の腹痛をあのような仕掛けとして使ったのも面白い工夫だ。
 だいたいこれはどの新選組サイトでも認めることのようだが、新選組のエピソードには「史実といわれる」ものが多いらしく、本人からの聞き書き口述といえどもはるか後年のものだったり、また複数の述作に食違いも多く、日時も場所も顛末もかなりあやふやなようなのだ。そのためドラマの上では、かなり自由にそれら逸話の断片を、伏線仕立で切り貼りできるわけで、だから視聴者としては、目くじらを立てるより、むしろそうした仕掛けを楽しんだ方がいいのだろう。

 他には、誠の旗「誠」の字が、なびき方によっては試衛館の「試」に見える、というのは、確かな出典があるのか、それとも町人センスの土方に仮託した、三谷幸喜一流の慧眼なのか
 舞の海の熊川熊次郎は楽屋落ちも含めて御愛嬌。親方の瑳川哲朗は懐しい顔ではまり役。源さんは、実直さにプラスして、もう少し「田舎者のゆかしい上品さ」を出してもよかったかな。応仁の乱の後、地方に流れた室町風のゆかりを残す、とでもいった。

 そうそう、ようやくいまごろ気づいたのだが、「宇宙戦艦ヤマト」乗員ユニフォームの袖と裾のデザインは、あれは新選組の羽織のダンダラ模様から来ているのだな。思えば、あれは「新選組とナチスドイツの戦い」なのだから。
 『宇宙戦艦ヤマト伝説』(安斎レオ編、フットワーク出版社、1999年7月)のインタビュー中でこのことを喝破している(「ヤマトは日本の侍とドイツ軍との戦いだからね」p.224)ささきいさお(テーマ曲歌唱および空間騎兵隊長斎藤始の声担当)が、今度のドラマでは新選組を見下す役どころというのもまた皮肉だが、三谷幸喜は、果たしてそこまで知っていてのことだろうか。
 だとしたら、ますます恐るべきだ。

 

2004年6月2日(水)

☆やっぱり猫が好き殺人事件
 三谷幸喜「やっぱり猫が好き殺人事件」のDVDを買ってきた。
 このセンスとテンポとが、そっくり「新選組!」にスライドしているわけだと、あらためて感じる。
 愚直な突貫女の長女かや乃(もたいまさこ)が近藤、ボケの次女レイ子(室井滋)が山南、ツッコミの三女きみえ(小林聡美)が土方、と考えれば、よくわかるだろう。
 ということは、この三人だけで「新選組!」の芝居は作れてしまうということになる。他の人たちは、状況に応じて出たり引っ込んだりするというだけだ。
 やっぱり「新選組!」もまた、三谷流シチュエーションドラマの極致ということだ。
 源さん役小林隆がチョイ役で出ていたが、ずいぶん若い。

 

2004年6月4日(金)

☆佐伯又三郎目撃
 6月3日の夜、自宅の近くの交差点で大事故発生。帰宅途中に大規模な交通規制が布かれていたので、帰宅後あらためて見物に行くと、交差点附近は交通止めとなって、凄まじい光景を呈している。最初は「ついにテロ発生か?」と思ったほどだった。
 どうやら右折乗用車と直進ダンプが衝突したらしく、乗用車は逆向きになって歩道橋手前の防護体に激突、ダンプはハンドルを切って避けようとしたはずみで歩道橋の丸橋脚に運転台がめり込み、おまけに荷台に積んでいた土が慣性で前にずれ、運転台の上にのしかかっている。路線バスもとばっちりを食ったらしく、前面ガラスの一部が割れて止まっている。
 当事者たちはすでに搬送されたらしいが、いずれ軽傷どころでは済まないに違いない。しかしさらに悲惨なことには、巻き添えになったバイクや自転車が何両かいて、その中の一人の運転者が、突っ込んだダンプの下敷きになったらしいのだ。夜更けの通りには、クレーン車まで含めた消防と警察の車両と人員、それに夜間工事の担当者たちまでもが入り乱れ、私のような野次馬も続々と集まって、騒然としている。
 そんな中に、かすかに大阪弁のアクセントが混じったのを耳ざとくとらえてそちらを見ると、夜間工事の大ぼんぼりの光に照らされて野球帽の下からちらりと覗いた顔は、佐伯又三郎こと松谷賢示ではないか。
 小柄な人だ。ジャンパーにジーンズの気楽な服装。友人と共に、手にはヘルメットを持ち、場所柄から推測するに、どうやら某放送局で録画取りでも終えた帰りにこの事故に出くわしたのだろうかとも思われる。
 場所を変えながら物見高く前に出て状況を見守り、身振り手振りを交えてのべつ幕なしに喋り続ける様子は、「新選組!」中の又三郎のキャラクターそのままである。
「こんどの日曜日に鴨に殺されますよ、気をつけてください」と、よっぽど言いたかった。
 ようやく乗用車も運び去られ、トラックも橋脚から引き剥がされて一段落つくころ、友人と共に現場に手を合せて一礼し去っていった
 帰宅後のテレビで知ったところによれば、巻き添えになった被害者は、搬送された病院で亡くなったらしい。あるいは又三郎はそれをすでに知っていたのか。
 事故は当事者、巻き添えの人、道路交通遮断で迷惑を被る通行者も含めた周囲の人々に至るまで、大いに悲惨な結果と影響をもたらし及ぼす。くれぐれも自戒せねばと思った。死亡した方の御冥福をお祈りする。(文中敬称略)

 

2004年6月7日(日)

☆新選組! 第二十二回
 又三郎退場。長州のスパイでも、悪人でもなく、軽いトリックスターだった。
「芹澤鴨の段」も大詰めに近い。腐女子サイトにもそういう意見があったが、鴨シリーズが少し間延びしすぎているのではないかと、ちらりと思ったりもする。これだけの伏線が、三谷台本の中で、どのように後半生きてくるのか、大いに期待と注目のしどころだ。
 コミカル役は島田、悲惨な心理葛藤役は沖田、狂言回しは松平肥後守あたりか。捨助は伏線。
 ところで今回は、鴨問題に絡めて、解説役が三人いたと思われる。それは、土方、山南、そして斎藤だ。土方は浪士組の意向そのものを解説し、山南は浪士組と時勢の関わりを解説し、斎藤は浪士組の抱える内面を解説する。
 そこで、もし浪士組をひとりの人間、一個の人格として捉えるならば、上の分析は、つまりつぎのようなことになるだろう。
 すなわち、土方は浪士組のチャイルド的エゴ(自我)、山南はアダルト的エゴで、斎藤は象徴的にしか語らないのではあるが、内心のつぶやきを湧きあがらせる源泉としてのセルフ(自己)なのである。
 これらが統合されたりされなかったりする葛藤が、近藤を生かし動かしていく。
 ところで、斎藤はつねに傍観者の立場にいるが、近藤や浪士組の真の性質がかいま見えるような決定的な場面には、かならず斎藤の姿がある。今回の沖田の御目付け役がそうだし、近藤が黙って通夜の線香を換えている場面に出くわすのも斎藤だ。他方斎藤は、のちには御陵衛士の中に潜入して、近藤に情報を伝えもする。
 こうしたことから考えるに、三谷「新選組!」の中では、同じ生き残り組でも永倉は表面上の、つまり事実の語り部でしかなく、真の語り部役、あるいは言い換えるならば「三谷幸喜が表現したい新選組の語り部」は、じつは斎藤に設定されていると考えられよう。

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