2006年7月13(木)-14日(金) ボルボ240、伊勢参宮
13日夜から出かける。東名高速で一路西行。初めての長距離高速走行を試す。オイル交換時期直前だが、走行はまったく安定して順調。エアコンも効き快適。トラック艦隊に混じり走るので神経を使う。
●この走行でわかったこと:瞬発的な加速力は望めない。とくに登坂が連続する、たとえば静岡の日本坂トンネル前後では、ぬぬわキロを維持しようと思うと、エンジンが微妙にくっ、くっと息をつくのがアクセルペダルに感じられてくる。吸気のあたりが弱点かもしれない。回転計の針は振れないので、よもやエンジンストールはしないとは思うが。また平坦路では、まずこうしたことは起こらない。
ただしこのとき、なぜかはっと横を見たら、シガーソケットに挿したHotInazmaの青いダイオードが消えていた。ソケットの接点のバネが甘くなっているらしく、振動の具合によっては接触不良を起こすらしいのだ。これをセットしなおすと、エンジンが少しは元気づいたようにも感じられたのは、やはりHotInazma効果恐るべしと考えてもいいのだろうか。
豊田ジャンクションで東名に別れ、伊勢湾岸道で名古屋港を越える。みえ川越インターで降り、あとは23号線を南下する。
夜が明けたばかりの伊勢外宮と内宮に参拝。五十鈴川の水も清らかで冷たい。この早い時間に、もうちらほらとお参りの男女がいる。地元の人は、毎朝この清涼な境域を散歩できて幸せだ。皇大神宮の方では、これから持ち場につくと思われる袴姿の職員たちが30人ほど列を作り、まったく静粛にざっ、ざっと行進しながらやって来て、一斉にざぶざぶと手水を遣うという、早朝ならでは目撃の叶わぬ場面を目撃することもできた。
日が昇ると、もうじりじりと暑い。駐車してあった240の中は、はやオーブンのようだ。しかし一発でエンジンはかかり、エアコンもすぐに効いてくる。
順序は違ったが、足を伸ばして二見浦まで向う。ここは伊勢のストイックとは打って変わった民衆信仰的雰囲気。しかしおかげ参りの絵などを見ると、どうやらお伊勢さんだってベナレス同様の光景を呈していたようだし、明治政府による国家神道統合以前と以後の伊勢神宮は、まったく別のものとして考えなければならないだろう。
ふたたび23号を取って返し、松坂で本居宣長記念館を見学。この人は、どうも天才というほかない。十五、六歳で架空の城下町地図を描くなど、やっていることはどうも宮澤賢治と似ている。家業が嫌だったことも同じ、裕福で好き勝手が許されたことも同じ、かれの鈴の屋とは賢治の羅須地人協会だし、かれの構想した古代日本とは、賢治にとってのイーハトーブだ。しかし、ひたすら好きで調べ上げ作り上げた学問体系が、結局平田国学と明治復古ののタリバニズムを生み出すことになったと知ったなら、本居宣長はいったいどう思っただろうか。そんなことを記念館で考えた。
さらに北上し、桑名を越えて、多度大社を目指す。ここは養老山地の麓、三重県といえどももはや美濃の地に近く、からっとした伊勢の暑さに引替えて、冷涼湿潤の気に満ちている。人間も伊勢の海人族系倭人とはまったく違って、完全に渡来系。ことばも遠くからだと、まるでハングルのように聞こえる。しかしここに参らないと「片参り」ということになるのだという。ここでは詳しくは考証しないが、祭神から考えるに、元来は山から流れ下る滝川を女神として崇めていたところに、金属精錬技術を持つ渡来人が移住定着したもので、伊勢神宮と関係がつけられたのは、ずっと後代になってからのことなのではないだろうか。
さて旅程も終盤に近づき、桑名から揖斐川を渡って、夕刻の長島温泉で疲れをゆっくりと洗い流した。そして帰りは伊勢湾岸道〜東海環状道〜中央道と通って、一路東京まで戻ったのだった。
この往復を走らせてみてわかったのは、この240では負荷をかけた豪快な走りというのはできないが、実に安定して走るので、平均スピードとしてはむしろ極めて早くなるということだ。しかも燃費もリッター10キロを越す。この長所を生かしたクレバーな走りを実行すること、そこにゆとりと面白味を見出すことだ。
2006年7月26日(水) ボルボ240、オイル交換後試運転
深大寺のオート・ボルタで、オイル交換整備の済んだ240を受け取り、そのまま試運転に繰り出す。OD変速の具合はペダルワークで調整することを社長から習った。それから思うに、そんなに気にせずにただ信頼して乗れば、あとは車が自然とやってくれるということだ。またそれだけ仕上がっている車でもあるだろう。
調布インターから中央道に乗り、一宮御坂インターで降りる。談合坂付近の登坂路、ぬぬわキロで苦しいのは致し方ない。
後は20号線で韮崎、141号線で北上して小諸、18号線で軽井沢〜碓井バイパス〜高崎、17号線で東京と、大長距離試運転をこなしたのだった。
エンジンには当たりがついて滑らかかつ静粛、巡航しているとほとんど無音に近く感じられるほど。オイルもなじんで、まったく好調だ。
2006年8月8日(火) ボルボ240、ますます好調
祖父の命日なので、妻を連れてまず高輪の高野山東京別院に御参りした後、遠出。台風7号接近の中だが、幸いにして雨も殆ど降らず。
湾岸大井〜小菅〜東北道という経路を取る。渋滞に苦しんだが、車列が流れていたので、広い空と荒川、それに東京シティの光景を楽しみながら、さほどいらいらせずに走れた。エアコンを入れ放しなのに、水温計は微動だにしない。
東北道に入ってからは、打って変わって快適に飛ばせる。ボルボ240はますます好調、驚くべきことにぬあわキロで巡航できるようになっているではないか。15年前のポンコツボルボが疾風の如く追い越し車線を駆け抜けていくなど、だれが考えただろうか(とはいえ白いV70に差を広げられたのは悔しかったが)。これは恐らく、ひとつには「Hideの書斎」の記事「Hide的、慣らしでチューン」に従ってエンジンに当たりをつけた効果がオイル交換ではっきり出たこと、ふたつにはWAKO'Sのガソリン添加剤FUELを入れてエンジン内部がクリーニングされたこと、そしてSplitfireのプラグ(ニッポンエミールでコーティング加工済み)により燃焼力が増していること、以上3点によるのではないかと推測される。また走りが滑らかなのは、ショックアブソーバーもなじんだこともあるだろう。
昨日の学校からの帰り道もそうだったが、エンジン音も静か、アクセルペダルからの反応の「返り」具合も絹のようにきめ細やかでしかも充実した感触があり、ともすればうっとりするような感覚に襲われるときがある。「人馬一体」ならぬ「人車一体」感と言ってもいいだろうか。これはかつて札幌で90年式のパルサーに乗っていたときにごくたまに受けた感覚と極めて似ているのだが、それは当時のパルサー(ゴルフのフォロワーと言われ、欧州車そのままの角張ったスタイルをしており、内装などはボルボ740ターボエステートにそっくりだった)という車が、いかに高い完成度と洗練度を誇っていたかということを物語るのかもしれない。
青空さえ望める好天の佐野インターまであっという間に着いて、当地のプレミアムアウトレットでショッピングなどを楽しみ(美しい夕焼けも見られた)、当地名物の青竹打ち佐野ラーメンを賞味した後は、一般国道経由で東京まで戻る。やはりエンジンは静粛、車は滑るように走ってしかもよく止まるので、なんの苦労も疲労もなく、快適に帰ってくることができた。
2006年8月中旬と下旬 ボルボ240、二回の旅行
第一回
東京発→中央道→下諏訪温泉泊。
下諏訪発、中央道→長野道、更埴→信州新町、有島生馬記念館見学、松代で昼食、佐久間象山記念館見学、町歩き、須坂町歩き、長野泊。
善光寺参拝、屋代着、県立歴史館(相良総三関連展示)見学。小諸町歩き、内山峠〜下仁田経由、254号線経由、帰宅。
第二回
東京発、東名〜名神、京都平安会館泊。
京都御所見学、能勢妙見山参詣、宝塚昼食、手塚治虫記念館見学、有馬温泉泊。
有馬温泉発、神戸白鶴酒造見学、阪神高速湾岸線→堺泉北道路→阪和自動車道→南阪奈道路、磯長叡福寺参詣。南阪奈道路→阪和自動車道→近畿自動車道→名神→京滋バイパス→宇治東IC、黄檗山万福寺参詣。京都東IC→名神→彦根泊。
彦根発、多賀大社参詣。8号線〜21号線経由、関で昼食。関→東海環状自動車道→土岐Jct→中央道→東京着。
●有島生馬も、佐久間象山も、手塚治虫も、みな天才だということが、つくづくわかった旅だった。
2006年9月13日(水)−17日(日) ボルボ240、山陰、中国旅行
以前から出雲大社と大和ミュージアムを訪れたいと思っていたので、断然実行に移す。ボルボ240なら疲れも無く快適にクルーズできると期待している。
じつはこの旅行直前、都内を雨中低速走行中に、赤信号停止のときに一瞬だけエンジンストールしたことがあった。すぐ再始動して事なきを得たが、どうもその直前にはボンネットからしきりと蒸気(雨の蒸発?)が上がっていたので薄々おかしいとは思っていたのだ。目的地についてすぐにボンネットを開けたが、何の異状もない。リザーバタンクからLLCが噴いた形跡もない。事前に警告灯もつかなかったし、水温計も正常値だった。エンジンストールについては、末石さんのサイトにいくつか症例も出ており、おおむね電気的な原因が多いようだが、この車はそのあたりの整備もまず万全だ。そこで私の推測としては、渋滞すれすれの低速走行で、アクセルペダルもめりはりなく力なく踏んでいたため、スロットルの開閉も不調になり、その結果混合気が濃くなってプラグがかぶったのではないか、というものだ。
それで、もう大丈夫だという確信を得るためにも、またエンジンに活を入れるためにも、長距離をやろうと思い立ったのだった。
9月13日(水)夜、妻とともに出発。まずは横浜町田の「万葉の湯」で夕食と入浴をしてゆっくり休み、早朝の出立に備える。
9月14日(木)午前3時前に「万葉の湯」を出て、東名高速に乗る。台風接近で雨模様、しかしこの時間にはトラック艦隊も少なく、その点は安心だ。ボルボ240の走行は実に安定して、平均時速100キロ巡航でも何の不安もない。また東名を走る車のスピードは、東北道などに比べれば、ひどく大人しいのだ。交通量と見合わせた知恵だろう。
ひたすら走って名神に入り、夜明けを迎え、さらに中国道に入る。ところがここでトラブルが発生した。夜が明けたのでいったんライトを消したのだが、中国道のトンネルで再びスイッチを入れたら、警告灯が点いたのだ。ブレーキを踏んで点いたわけではないので、まずそのことについては安心。スイッチを入切するうちに警告灯は点かなくなったが、それはそれでまた怪しいことだ。
10時頃に勝央というSAに入り、車を降りて確かめると、ヘッドライトが点灯しない。だがハイビームにすると光る。マニュアルによれば、ボルボのヘッドライトの配線はヒューズを通していないので、点検のしようもない。
幸い日暮れまでにはたっぷり時間があるが、中国道はトンネルが多い。またここまで来て、いまさら東京へ戻るのもたいへんだ。遅い朝食を摂りながら考え、備え付けのサービスブック(ただし1991年のもの)を頼りに、手近のボルボディーラーを探して電話する。
この顛末は、「ボルボ240その6・メンテナンス
2006年7月 -」の「2006年9月14日(木) ボルボ240、ヘッドライトバルブ交換、オイル交換」を参照していただくとして、ともかく一件は落着した。
米子道を経由して、松江に入り、明治時代から続く「皆美館」に投宿。まずは車を置き、松江を観光。城址を見学し、城下の堀をめぐる観光船に乗る。
今夜は、島崎藤村も気に入り滞在したという「老松」という間を奢る。この部屋には、小泉八雲もしばしば夕食に訪れたという。巌谷小波の掛軸や棟方志功の画もあって文人に愛された宿だが、それをひどく誇るというのでもなく、ごくつつましいところがいい。全般に、松江の町自体が派手派手しくなく、そうした大人しい感じだ。当地にはかつて修学旅行のときに訪れたのだが、割子蕎麦を食べたという以外に記憶は薄れ、初めてといってもよく、たいへんいい印象を受けた。
9月15日(金)皆美館伝統の「鯛めし」朝食をいただき、出発。宍道湖と三瓶山という景勝を眺めながら快調にドライブ、出雲大社参拝。背後の山が実に深く、また一方では流域平野がまことに広く、ひとつの独立王国を形成できただけの経済力/国力を十分に持つことができたことが肯かれる。また平野南の山麓には弥生時代の遺跡もあり、とくに荒神谷遺跡は膨大な数の青銅器が出土したことでも知られ、古代の繁栄ぶりが伺われる。
今日はここから山陰の山を越え、赤名峠を越えて山陽広島へと下ろうという計画だ。まずは出雲で割子蕎麦をいただき、腹ごしらえをしてから出発。54号線をひたすら南下する。山は深く、幾重にも谷が続く。赤い釉薬をかけた瓦を載せた、豊かそうな農家がいくつも見られる。街道の注意標識は、みな神様のイラストつきだというのも可笑しい。
赤名峠も、かつて修学旅行のときに逆に広島側から越えたことがあるのだが、ほとんど覚えていない。ただそのとき昼食を摂った「赤名ドライブイン」というのはあったが、当時のものと同一かどうか、また場所もそのままかどうか、これもまったく定かではない。なんと言っても30年以上前のことだ。
ボルボ240はどんどん走って三次を過ぎ、広島県に入る。山陽側は台風の影響が及びつつあり、雨模様。広島はさすがに大都市だけあって、夕方の渋滞が始まるなか、今夜のホテルに到着。まだ明るいので町に出て、まずは平和記念公園と原爆ドームを訪問。妻は初めて。「安らかに眠ってください、過ちは繰り返しませぬから」この言葉はやはり、人類として戦争(核戦争)という過ちは今後絶対にしませんという感情表出だと、あの場所に立てば素直に思えるのではないだろうか(というのはこの記事を書いている9/24午後、あるテレビで加瀬英明という人がこのことばのことを「(アメリカの核攻撃を防御できる核兵器を保持しなかった)過ちは繰り返しませんから」という意味だと話しているのを聞いてさすがに驚愕したので)。
夜は市内の繁華街で見つけた、「雑草庵」という小料理屋。人気があり、魚も御飯も美味。東京の東池袋にも支店があるそうで、今度寄ってみようと思う。
9月16日(土)この日はかなりな雨降りになった。今日はもうひとつの目的地、呉の大和ミュージアムへと向かう。広島から呉までは自動車道が通っている。道はずいぶん山を越えるのだということに驚く。関東で言えば、瀬戸内のこうした地形は、ちょうど三浦半島が連続しているようなものだと思う。
雨降りにもかかわらず、大和ミュージアム(呉市海事記念館)には、もうかなりの見学者が訪れている。いかにも軍事オタクと一目でわかる姿(Tシャツ、大きなウエストポーチ、ちょっときつい目つき)のオジサン、若者もいる。展示については、大和の悲惨と、しかしその後の科学およぴ工業的な遺産について、可もなく不可もなくストーリーが展開されていたと思う。呉の戦後の発展の軌跡のコーナーに来たときはさすがにほっとして、妻に「やはり平和な技術発展はいいね」と言ったことだった。
記念館の回廊を歩いていると、妻が「なんで(大和が)あそこにあるの」と聞く。最初は何のことやらわからず、妻が指す方を見る。大和の十分の一模型が展示されている大吹き抜けラウンジのガラス窓の向こうには、呉の港やドックが一望できるが、そこのことを言っているらしい。見たら、ドックには大型のコンテナ船が入っていて、その灰色の艦首と赤いバルバスバウが突き出ている。「あれはコンテナ船だよ」と言うと、「だって(展示で見た大和と)同じ色と格好をしている」と抗弁する。「だから、展示で見ただろう。大和で開発された技術は戦後の造船に生かされているんだよ」と説明したが、素人のあまりの突拍子のなさに呆れた一幕だった。そうは言っても、まあもし大和がむき出しのままドックに入っていたら、たしかにあのようなパースペクティブには見えたに違いないから、妻をあながち笑うこともできないとも思う。
ちなみに、最後の松本零士コーナーは、完全な蛇足。この記念館は、どうせなら、大和を中心とした、平時・軍事併せた、国内最高最大のmaritime
museumにするといいと考えた。レストラン(もちろん海軍カレーも出す!)もホールも複数必要だし、ミュージアムショップもあまりに狭すぎる。とてものことに、三笠を廻航してしまったらどうだろうか。
昼食後、185号線を通り、瀬戸内海の景色を十分に堪能しながら、ひたすら走る。雨も小止みになり、快適。牡蠣の養殖が目につく。道は2号線に合流し、尾道〜岡山と走って、市内のホテルに到着。岡山は、同じ県庁所在地ながら、広島に比べてはるかに田舎。通りも暗い。それでも市内を流れる西川のほとりに見つけた小料理屋「侍」は正解。頼んだのはもちろんママカリ、さらにはお勧めで出してくれた鰆(サワラ)の刺身が実に癖がなくとろけるようで、そして下したての鯒(コチ)の刺身とそのあら煮きは格別だった。
9月17日(日)岡山出発、備前に立ち寄り、備前焼の資料館見学。その後、山陽道〜名神と飛ばす。事故渋滞一箇所以外はまったく快調。大津インターで給油、食事もと思ったが改装中で休業、仕方なく隣の草津PAで摂る。そのまま東名に入り、この調子なら晩には東京に着けると思ったら、そこからが甘かった。御殿場から横浜町田の間が大渋滞だった。行楽帰りのニュータウン人種が集中するのだ。仕方なく、東名御殿場で降りてプレミアム・アウトレットでしばらく遊び、そうして246経由で遅く帰宅した次第だった。
後日の報道だと、広島は台風で大きな被害に逢ったということで、当方はまったく、一日違いで台風から逃れてきたことになる。今から思うと、綱渡りの旅行だった。それでも、事故もなく戻ってこられたのは、ボルボ240の御蔭だ。またこの車に乗っていれば煽られることもないし、相手もそのつもりで対処してくれるので、その点でも有難いかぎりだ。
これで購入以来4ヶ月経過し、あっという間に一万キロ走破してしまった。これからはそう長距離を行くこともないだろうが、信頼性は十分に証明されたし、また車も完全に手の内に入ったと考えていいだろう。ともかく、こうしてボルボ240を新車同然に乗れるというのは、嬉しいことではないか。
2006年10月8日(日) ボルボ240、益子往復
快晴の天気で、思い立って栃木県の益子へ行く。
やきものの中では、益子焼が一番好きだ。清水、有田はまあ別格として、磁器では九谷、陶器では益子となる。同じ民窯でも、織部も、備前も、信楽もいまひとつしっくりと来ないのだが、どういうわけか益子焼は中学生の頃から好きで、世帯を持ってからの食器の多くは、私が選んだ益子のものだ。使うと心が豊かになる。
東北道はひどい強風。陸橋の下をくぐるたびに、ボルボ240といえどもぐらっとくる。佐野インター出口は、プレミアム・アウトレットへ行く車で大行列。西日本ナンバーまでいる。これでは、休日に気楽に遊びに行くというわけにもいかない。おまけに車三台の事故で渋滞。
ずっと左から横風を受けていたので、都賀ジャンクションから北関東自動車道に入って東を向き、追い風になってやっとほっとする。
益子に着き、益子焼共販センターに車を止めて、恒例の買出し。欠けたりして痛んだ皿や小鉢の補充をする。益子焼は元来民芸なので、シンプルで安価な実用品が一番だ。とはいえ、基本モチーフはすでに濱田庄司が練り上げてあるので、どれもなかなか素晴らしいのだ。私は、具象よりは流し掛けのような抽象もののほうがいい。今回も豊富なストック物の中から、「なんちゃって濱田庄司」を含め、何枚か買う。表通りのヤマニ陶芸店ではたまたま濱田庄司展を開催しており、あらためて目の保養もできた。「桁が二つ違えば喜んで買うのにね」と妻に冗談を言ったことだった。
センターの中庭には陶芸体験のコーナーがあって、土こね、ろくろ、絵付け、それぞれにできる。子供たちが熱心に土をいじっている。こうしたところに親に連れてきて貰える子供たちは幸せだと思う。私と妻は、絵付けをする。道具は筆だけなのでもちろん流し掛けなどはできないが、なるべく益子焼らしいような図案を描いてみた。焼き上がって届くのが楽しみだ。
帰りは294号線を通り、水海道で見つけたスリランカカレーのレストランで夕食を摂って、6号線で東京まで戻ったのだった。ボルボ240オンマニ号は相変わらず快調、ODの切り替わりも今日はスムースだった。これで加速さえもっと効けば申し分ないのだが。カーマン・エレクトリック・ターボでも装着するか。
2006年11月02日(木) - 11月03日(金) ボルボ240、木曽路の旅
文豪島崎藤村のゆかりを訪ねる旅。詳しくは右のをクリックのこと。
東京〜中央道土岐IC、土岐プレミアム・アウトレット、土岐〜19号線〜木曽福島泊。
木曽福島見学〜妻籠見学〜馬籠見学。蘭(あららぎ)〜清内路〜飯田〜伊那〜諏訪。中央高速で東京。
この旅行のどこかで路上に落ちていた刃物をタイヤが拾ったらしく、それが後日のスローパンクチュア事件につながる。
これにてこのページを閉じます。2007年からのドライブ記録に関しては、「ボルボ240その9」を御覧ください。
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