旅の記録 5

島崎藤村の旅 ─ 木曽福島、妻籠、馬籠

2006年11月02日〜03日

 ここしばらく、島崎藤村をじっくり読んでいます。『夜明け前』はもちろんのこと、とくに『家』は木曽福島から始まり、小諸、東京新宿、隅田川界隈、そしてふたたび木曽福島へ戻るという構成の中、それぞれの地域の描写がすばらしく、旅好きな元文学青年の心を誘って止みません。
 そこでこのページでは、藤村の文章を引用しながら、そのゆかりを辿ってみましょう。
 なおここでは実在の名称ではなく、藤村の小説に則ることにします。

 

 
木曽馬籠におけるボルボ240オンマニ号ときぬのみち
(ナンバープレートは修正間違い、昔の740の記憶がつい蘇ったものと見えます)
  

 

 この木曽路の旅には、もうひとつ目的がありました。開設されたばかりの土岐プレミアム・アウトレットを偵察しようというのです。
 中央高速で土岐に向かい、夕方寒い中、首尾よく買い物も済ませ、さあそれから、夜道を一路木曽福島まで走らせました。
 着いたときはもう真っ暗でしたが、旅館は気持ちよく迎え入れてくれました。尤も、お客も他に一組しかありませんでしたが。
 このつたやグランドホテルは、御岳参りの講中を泊めていた頃からの老舗で、その時代の写真も残っています。藤村はじめ文人もまた滞在したそうです。ロビーがとても雰囲気のあるラウンジになっていて、古い家具など置いており、いかにも昔風のスキーセーターを着た山男などがコーヒーなど飲んでいそうです。クリスマスから年末年始にかけては、きっと予約で一杯のことでしょう。
 また、風呂場が木曽川に面していて、対岸の灯が旅情をそそります。朝食も湯豆腐を中心に、なかなか豪勢なものでした。
 ボルボ240は本当に気持ちよく走ります。夜着いて、旅館のまん前にこうして駐めたのですが、移動せよとも言わず、「ああいいですよ」と、本当に親切なことでした。オフシーズンならではでしょう。しかしじつによく似合っていると思います。

 三吉を乗せた馬車が、お種の住む町へ近づいたのは、日の暮れる頃であった。深い樹木の間には、ところどころに電燈の光が望まれた。あそこにも、ここにも、と三吉は馬車の上から、町の灯を数えて行った。(『家』)

 木曽福島の商店街の朝。実に静かなものです。夜、旅館から見下ろしても、飲み屋の灯りは一軒しかありませんでした。それでも、ぽつりぽつりとハイカーや観光客の姿も見られました。町自体はもちろん観光整備にもそれなりに力を入れているようで、その代表が、関所跡、代官屋敷跡、そしてやはり藤村関係でしょう。
 写真画面中央やや左、街道の上、山の中腹あたりに灰色に見えている建物が、『家』に出てくる木曽福島の名家「橋本家」があった場所です。

「姉さんは?」と三吉が聞いた。
「一寸町まで行きました。姉様も一緒に。今小僧を迎えに遣りましたで、直ぐ帰って参りましょう」
 こう幸作が相変わらず世辞も飾りも無いような調子で答えた。

 遅く着いた客の前には、夕飯の膳が置かれた。三吉が旅の話をしながら馳走に成っていると、そこへお種と豊世が急いで帰って来た。

(『家』)

 木曽川と旧街道の宿場町を見下ろすように建っていた橋本家。旧幕時代は砲術指南役として、山村代官のナンバーツー位の格式の旧家でしたが、御一新後は副業の薬製造を家業に生き残りを図ります。しかし当主の達雄は野心家でさまざまな方面に手を出し、ついには没落してしまいます。息子の正太もまた大成せぬまま若死します。この達雄の妻お種が、藤村の姉に当たります。
 格式ある豊かな旧家、製薬が副業……と来ると、新選組ファンとしては、どうしてもすぐに芹澤、土方両家を思い出さずにはいられません。
 木曽路は文豪藤村ただひとりの力で不朽の生命の輝きを与えられましたが、じつはどの街道のどの宿場にも、みな同様の「夜明け前」と「家」があったに違いなく、そのドラマは今なお光を当てる人もなく、ただひっそりと眠っているだけなのではないでしょうか。
 つたやグランドホテルの露天風呂が見えています。夜遅く、木曽川の瀬音を聞きながらひとりでゆっくりと入る気分は格別でした。浪人生の頃、母のお供で来て泊まったのははたしてここでしたろうか、もうおぼろげなのです。大広間の囲炉裏端で食べた夕食のとき、生意気に頼んだ日本酒が飲み切れなかったことを覚えています。

 活気のある鈴の音が谷底の方で起った。急に正太は輝くような眼付をして、その音のする方を見た。
「ア ─ 御岳参りが着いたとみえるナ」
 と正太は独語のように言った。高山の頂を極めようとする人達が、威勢よく腰の鈴をチリンチリンチリンチリン言わせて、宿屋に着くことを楽みにして来る様子は、活気が外部からこの谷間へ流れ込むように聞える。正太は聞耳を立てた。その音こそ彼が聞こうと思うものである。

(『家』)

 旧橋本家のあった場所から、旧街道と木曽川を一望できます。川の対岸、画面中央右端からの一帯が、木曽谷を支配していた山村代官の屋敷が広がっていたところです。今はもちろん、学校や役所やJAといった公共施設が占めているわけです。そこを見下ろし、なおかつ関所のすぐ南を扼する場所を領していた橋本家の勢力が、いったいいかなるものであったか、如実にわかります。画面左の白い大きな建物はつたやグランドホテルです。

 この橋本の家は街道に近い町はずれの岡の上にあった。昼飯の後、中学生の直樹は谷の向側にある親戚を訪ねようとして、勾配の急な崖について、折れ曲がった石段を降りて行った。
*この石段は、今もあります。

 御輿の近づいたことを、お仙が報せに来た。女達は門の外まで出た。そこから家々の屋根、町の中を流れる木曽川が下瞰される。

(『家』)

 旧橋本家は焼失して今ではありませんが、敷地に記念館が建てられていて、そこには旧幕時代から、藤村関係にいたる資料や写真が保存・展示されています。国学者たる青山半蔵さん(つまり藤村の父)が残した訓戒の書の内容が意外に面白く、また家業を捨てて出奔した橋本達雄さん(藤村の義理の兄になる)が落魄して帰郷したのち、「もう勝手はしません」と一族に対して立てさせられた誓文が気の毒でした。
 資料館はコンクリート造ですが、その二階は、昔の蔵の雰囲気を多少復元してあります。窓を開ければ、木曽福島の町が見渡せます。 朝の開館とほぼ同時に訪れたので、最初はさすが山里らしく凍えましたが、陽が当たるとともに暖かくなりました。

 二階は広く薄暗かった。一方の窓から射し込む光線は沢山積んである本箱や古びた道具の類を照らして見せた。

(『家』)

 削り取った傾斜、生々した赤土、新設の線路、庭の中央を横断した鉄道の工事なぞが、三吉の眼にあった。以前姉に連れられて見て廻った味噌倉も、土蔵の白壁も、達雄の日記を読んだ二階の窓も、無かった。梨畑、葡萄棚、お春がよく水汲に来た大きな石の井戸、そんな物は皆などうか成って了った。(『家』)

 庭を見ている間、この一節がつねに頭の中に聞こえていました。たしかに裏手に中央本線の線路が通っています。そしてこの文章から察するに、どうやら昔は、向こうの山の方まで屋敷の土地は伸びて広がっていたのでしょう。

 やはり庭園の一部です。まだ橋本家が裕福だったころ、夏の終わりに別れを告げる三吉(藤村)を惜しんで、一族が庭に集まって記念撮影をするという描写があり、またそのときの実際の写真も残っています。これは、新潮社の文学アルバムでも見ることができます。

 白い、熱を帯びた山雲のちぎれが、皆なの頭の上を通り過ぎた。どうかすると日光が烈しく落ちて来て、撮影を妨げる。

(『家』)

 橋本の屋敷のすぐ北側に、関所があります。往時の様子が復元されています。若き青山半蔵がはじめて江戸に出ることになり、この関所を通過するときのどきどきする情景が、『夜明け前』に活写されています。
 橋本家の遊び人の御曹司、正太さんがいかにも出てきそうな小路。昔の街道筋の町家は、みなこうして奥行きが深いです。

「母親さん、何か飲む物を頂戴。咽喉が乾いて仕様が無い」と正太は若々しい目付をして、「今ネ、御輿の飾りを取って了ったところだ。鳳凰も下した。これからが祭礼だ。ウンと一つ今年は暴れ廻ってくれるぞ」

 夜に入って、谷底の町は歓楽の世界と化した。花やかに光る提灯の影には、祭りを見ようとする男女の群が集って、狭い通を潮のように往来した。……欲に目の無い町の商人は、簪を押付け、飲食する物を売り、多くの労働の報酬を一晩に擲たせる算段をした。

(『家』)

 場所は変って、馬籠の藤村記念館の庭。もう午後遅く、静かなたたずまいでした。
 藤村記念館の裏手から、『夜明け前』の万福寺を眺めます。画面正面の森の向こう側に墓地があり、島崎一族も、また藤村の一家も眠っています。
「お師匠さま、どちらへ」
 そこは馬籠の町内から万福寺の方へ通う田圃の間の寺道だ。笹屋の庄助と小笹屋の勝之助の二人が半蔵を見かけて、声をかけた。
「俺か、俺はこれからお寺へ行くところさ」

……馬籠言葉でいう小山の「そんで」(背後)まで行くと、寺道はそこで折れ曲って、傾斜の地勢を登るようになる。蕗の葉を冠った半蔵の後姿は、いつの間にか古い杉の木立のかげに隠れた。

(『夜明け前』)

 万福寺の山門です。仕事をするお寺の人たちの明るい顔が印象に残りました。

 山門の前の石段を踏んで寺の境内へ出て見た時の庄助等の驚ききはなかった。本堂の正面にある障子の前に立って袂からマッチを取り出す半蔵をそこに見つけた。
 ……その時、半蔵の放った火が障子に燃え上ったので、驚き狼狽てた勝之助はそれを消し止めようとして急いで羽織を脱いだ。人を呼ぶ声、手桶の水を運ぶ音、走り廻る寺男や徒弟僧などの遽かな騒ぎの中で、半蔵は逸早く駈け寄る庄助の手に後方から抱き止められていた。放火も大事には至らなかったが、半焼けになった障子は見るかげもなく破られ、本堂の前あたりは水だらけになった。この混雑が静まったときになっても、まだ庄助は半蔵の腕を堅くつかんだまま、その手をゆるめようとはしなかった。

(『夜明け前』)

 私が使っているデジタルカメラは、コダックDC240iZOOMという、いまや骨董物ですが、ころんとした昔風のカメラの形をちゃんとしていて、なんとも古典的に使い勝手がいいのです。しかもその発色がまた、コダクロームとかエクタクロームといった昔のコダックのカラーフィルムそのままの、ちょっと赤みがかったえもいわれぬトーンです。
 iMAC時代はコンパクトフラッシュといえどもUSB経由で、読み込みに時間がかかってミスも多く大変だったのですが、いまやPCに差し込むだけで、瞬時に転写してくれます。
 カメラ本体の色もiMACに合わせたタンジェリンのスケルトンだし、気に入っています。
 さてこの写真は、そのコダックで撮った、妻籠宿の高札場です。じつに温かみのある、いい色合いだと思いませんか。私などの世代にとっては、「これぞカラー写真!」といった感じです。

 深い秋雨に濡れながら、三吉は森彦が家のある村へ入った。そこまで行けば、木曽川を離れて、山林の多い傾斜を上るように成る。三吉が生れ故郷の隣村である。森彦の養家は小泉兄弟の母親の里で、姓は同じ小泉であった。
 旧の街道は木曽風の屋造の前にあった。従順な森彦の妻は夫を待侘顔に見えた。

(『家』)

 藤村が繰り返して描く、馬籠から望む美濃の平野の眺め。この日は霞んでいて、はっきりとは見えませんでした。
 さて旅程は、木曽福島〜妻籠〜馬籠と南下し、そこから木工で有名な蘭(あららぎ)を通り、清内路峠越えをして飯田に降り、天竜川沿いに伊那路三州街道をさかのぼって辰野、そこから再び峠を越えて諏訪に出て、最後は中央高速で東京に戻りました。