小さな旅

2.犬目宿 ─つげ義春「猫町紀行」による─

つげ義春「猫町紀行」(『つげ義春旅日記』旺文社文庫、1983年)、197頁より

さびれた町や、街道や、湯宿を描写させたら、
文章・絵とも右に出る人のいない、つげ義春。
そのつげ義春が夢のように訪れた、旧甲州街道、上野原からほど近い、
犬目宿あたりを梅雨の不日、たずねました。

 旧甲州街道の図です。昔から中央道を通るたびに、はるか遠方の山並みの中腹、かなりな規模の段丘面に桃源郷のように点在する山村を見て、あれはどこなのだろう、行ってみたいものだなと、いつも思っていました。けれども、思うばかりで、いつもそれきりになっていました。ところが、さすがというか、つげ義春の見出した「猫町」つまり犬目は、まさにこのアルカディアだったのです。
 しかもこれがかつての本通り、つまり旧街道であったとは……。
見晴らしと最短距離、この二つこそ徒歩交通時代の街道の最重要条件であったのは、考えてみれば常識であるとはいえ、昔を今になすよしもがなです。
 積年の宿望を果すため、きぬのみちは、まずこの図の左、つまり西の大月側から入りました。中央道大月インターを降りて、大月の町を通り過ぎ、巨大な橋脚の足下で左折すると、いきなり狭い登り道にかかります。

 

 中央道談合坂SAより望んだ山腹の山村。しかしこれこそが旧街道の繁栄を示す名残なのです。奥山を越えれば、その向こうは五日市の方です。  左の写真を拡大したもの。林業、たぶん養蚕、などが主要な産業だったのでしょう。画面の右下に畑が開かれています。
 中央道で寸断されているため、道筋を辿るのに精一杯で、気づいたらもう、犬目宿に入っていました。犬目の集落は「猫町紀行」によれば、昭和45年の大火ですっかり焼けてしまったということですが、それでもこんな感じの雰囲気です。  犬目宿を通り過ぎ、野田尻宿へ向かう途中、少し下ったあたりから撮った、集落の遠望です。十分に伝統的家並みに見えます。当時はきっと、新建材や新工法で再建するということがなかったのでしょう。周囲の斜面も、よく手入れされているようです。
 旧街道から見た中央道。これは南側、つまり相模方面の山々です。旧街道はほんとうに高いところを通っているのがわかります。見晴らしがよく、日照時間ができるだけ長いことによって、自分の現在位置を把握し、かつ道中の安全を確保する、という目的があったのでしょう。しかも遠国へ通じる、奥山越えのアプローチにも便利です。これは縄文時代以来変わらぬことでしょう。

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《五、六メートルの道幅をはさんで宿場らしい趣きの家がたち並んでいたのである。
 ちょうど陽の落ちる間際であった。あたりは薄紫色に包まれ、街灯がぽーっと白くともっていた。いくらか湿り気をおびた路は清潔に掃除され、日中の陽射しのぬくもりが残っているように感じられた。夕餉前のひとときといった風ののどかさで、子供や老人が路に出て遊んでいた。浴衣姿で縄とびをする女の子、大人用の自転車で自慢そうに円をかいてみせる腕白小僧……》 (「猫町紀行」より)
●この写真は野田尻宿ですが、つげ義春が見たのは、あるいは犬目ではなく野田尻だったのではないか、と思われるふしもあるのです。
 犬目宿と同様、野田尻宿も、広い道幅、山が見えないほど開けた視界など、いずれも意外な思いでした。  にぎやかに旅人を呼んでいたかつての宿場町は、いったいどんなものだったのでしょう。そして「夜明け前」の時代とは……。
 これは野田尻宿の裏側、北の方を見たところです。こんなに段丘面の平地が広いとは予想だにつきませんでした。水田は無理としても、十分な畑作が可能と思われます。まさに桃源郷に入り込んだ気分でした。分水嶺を越えれば多摩水系に入ります。  野田尻宿に別れ、鶴川宿下の鶴川渡し場附近から、中央道を見上げます。水田が開かれています。画面左の段丘崖をヘアピンで上り、手前に戻れば野田尻宿、向こうへ進めば上野原の町です。つげ義春の頃と同じく、道は狭くて迷いやすいのです。

この後、さらに峠を越えて五日市側に降り、そうして東京へと戻りました。