あるオマージュ
─マハーパリニルヴァーナ・スートラより─

このお話は、実在の、あるいは歴史上の、いかなるものごとやできごととも、いっさい関係がありません。

 その列車は、早朝の、まだ暗い景色のなかを、もうだいぶん、ごとごと、ごとごと走りつづけていました。
 夜明け前の発車のことで、向い合いの席に座っている人はぽつりぽつり、それも起きている人も少なく、光を落とした明かりにぼんやり黄色く照らされて、低い声で話したり、ゆっくり果物をむいたりしていました。
 汽車の走っていく方向にむいた、ある窓ぎわの席に、ひとりの青年が腰かけていました。当時の役者の人が好んでかぶった鳥打帽のような帽子をかぶり、背広をきて、からだの横には大きなトランクを置いていました。
 青年は、技師でした。自分のはたらく工場の製品の注文を取るために、大きな町へ向かうところでした。トランクのなかには、壁板の見本がいっぱいにつまっているのでした。
 技師は、熱がありました。背中は痛み、息をするごとに胸のなかが、風が吹くように鳴るのでした。そのため、前かがみになり、ひたいに手を当てて窓枠にひじをつき、からだをいたわるようにしながら、寝よう寝ようとつとめているのでした。
 いつのころからは知りませんが、技師の前に、黒い服の男がひとり座っていました。やせて背が高く、頭には黒い帽子をまぶかにのせていました。
 男は、土瓶から酒を飲んでいました。薄茶色の上ぐすりのかかったその土瓶は、たしかにあの懲役についている人たちが、なれない手先で作ったものでした。
 男はだまって、少しずつ、少しずつ酒を口にはこんでいましたが、やがていくぶん目の下を赤くし、顔をあげると技師を見て、杯がわりの土瓶のふたを技師に差しだしました。
「どうです。まあ一杯いかがですか」
 技師は目をあけました。
「いや、わたしは酒は飲みませんから」
 技師はすぐに答えましたが、思わずはっとしました。その声に、どうも聞きおぼえがあったからです。それは、夢のなかだったのか、それとも昔の小学校のお話の時間か、あるいはどこかで聞いたお説教だったのか、もうさだかではありませんが、とにかくそのチェロが低くひびくような声は、たしかにどこかで聞いたことがあったのでした。
 すると男は、うっすらと笑いを浮かべながらいいました。
「そうですか。だが、それがあなたにとって、はたしてなんになりましたか。もしかすると、じぶんだけが人より正しいことをしているかのように思って得意になる、あの悪い考え方にいつのまにか染まっていたのではありませんか。あるがまますなおに暮らそうともせずに、理想のなかでばかり生きていたのではありませんか。そうしてあなたは結局、からだをこわしてしまったのではありませんか」
 技師は、顔をゆがめて答えました。
「そのことは、あなたにいわれなくとも、ようくわかっているつもりです。でも、後悔をしているからこそ、いままで自分の好きに生かしてもらったそのご恩を、ほんの少しでもお返ししたいと思うからこそ、わたしはこうして働いているのです」
 男はしばらく技師のことを見つめていましたが、やがて杯をおろすといいました。
「あなたという方は、まだごじぶんの考えを改めないのですね。そこまでじぶんを痛めつけて、いままたご両親に悲しい思いをさせて、まだじぶんを通そうとするのですね。まったく、見あげたご決心です」
 そこまでいうと、男は技師のほうに身をぐっと乗りだしました。
 男はいいました。
「どうです。もうそろそろ、こんなことはおやめになってもいいのじゃありませんか」
「なんのことですか」
 技師は、どきっとしながら聞きました。男は答えました。
「あなたは高い教育をうけてよい学校を卒業し、すばらしい先生として生徒からしたわれた。学校をおやめになってからも、田畑を豊かにするためにどんなに努力をはらわれたことか。そのあなたが、なぜまたこんな苦労をされねばならないのですか」
 技師はほほえんで答えました。
「苦しいことは覚悟のうえです。なぜなら、世界がぜんたい幸福にならないかぎり、わたしのしあわせもないのですから。それがわたしの願いです」
 男は首をふっていいました。
「あなたは、もうお仕事をじゅうぶんにはたされました。なにより、たくさんの作品も書きました。これからさきずっと、おおぜいの人があなたの作品を読むことになるのです。そして、あなたの悩みをともに悩み、あなたのよろこびをともによろこび、泣き、笑い、成長し、そしていやされ、救われるのですよ。どうです、これでもあなたの願いはかなってはいませんか」
 ここまでいうと、男はいっそう身を乗りだし、さきほどのことばをくりかえしました。
「だから、もうそろそろ、いいではありませんか」
 技師は、長いあいだだまっていました。腕を組み、天井を見あげ、じっと考えていましたが、やがて男のほうに向きなおりました。
「いいでしょう。あなたのおっしゃる通りにいたしましょう。ただ、わたしにはまだやりたいことが、二、三残っています。まとめたい仕事もあるのです。だから、いましばらく時間をいただけませんか。そう、二年待ってください」
 男は、笑みを浮かべて技師を見つめました。
「けっこうですとも。心残りがあってはいけませんからね。ごゆっくりどうぞ」
 そのときブレーキのきしむ音がして客車はがくんと揺れ、列車はスピードを落としはじめました。男はあわてて土瓶にふたをし、腰をあげると窓枠を引きあげ、外をのぞきました。夜明けの冷たい風がどっと吹きこんできました。
「や、もう次の停車駅だ。わたしはここで降りなければなりません。ですがそのさいに、わたしはこの窓を開けたままにしていきます。あなたはわたしが降りたあと、なにもかも忘れ、ぐっすり寝入ってしまう。風はまともにあなたに吹きつけ、あなたは肺をすっかりやられてしまうと、こういう寸法です」
「ああ、なるほど」
 技師は、しずかにいいました。
 そのあいだに汽車はいよいよスピードをさげて駅のホームにすべりこみ、最後のブレーキをかけると、ゆっくり止まりました。男は立ちあがり、技師に向かって軽く頭をさげました。
「では二年後に、またお目にかかります」
「あの、ちょっと……」
 技師は思わず男をひきとめました。
「なんでしょう」
 男は技師を見おろしました。技師はたずねました。
「あなたはもしや、波旬ではありませんか」
 男はなにもいわず、笑って技師を見ると背を向け、そのまま足ばやに客車を降りていきました。
 技師は、なにごともなかったようにひたいに手を当てて窓枠にひじをつき、目を閉じるとすぐに寝息を立てはじめました。
 汽車はがくんと揺れ、前から後ろまで連結器の音をひびかせて発車し、しだいにスピードを上げていきました。眠っている技師の横の窓は大きく開けはなたれ、汽車が速度を早めるにつれて、つよい風がしだいに技師の顔にあたりはじめましたが、技師はなにも知らずに眠りつづけていました。

 秋まつりのすぎた一日でした。
 技師は、いなかの家の二階で寝ていました。
 技師は、もう技師ではありませんでした。病気に苦しむ、ひとりの青年にすぎませんでした。二年前、大きな町でたおれた技師は、ようやくふるさとへ戻ったものの、それからというものは、家の外に出ることもできない日々をおくっていました。
 秋まつりのあいだ、めずらしく気分がよかった青年は、まつりのさいごの日の夕方、家の前にいすを持ちだしておみこしが通るのを拝んだのですが、それが悪かったらしくふたたび高い熱をだし、寝床にじっと横になっていたのでした。
 やがて日が暮れると、あたりはまっくらになりました。
 そのころ、青年の家の門の扉を、しずかに叩くものがありました。
 青年の弟が、けげんな顔をして扉をあけました。しばらく小声で話をしていましたが、そのうち、困った様子で二階へ上がっていきました。
 少しして、きちんと着物をととのえた青年が弟に肩をささえられ、ゆっくりとした足どりで、階段をおりてきました。
 玄関には、ひとりの男が立っていました。その姿は、まるでついさっき村の寄り合いがすんだばかりといった様子でしたが、頭には、黒い帽子をまぶかにかぶっていたのです。
 その頭を男はていねいにさげ、帽子をとると顔をあげ、聞きおぼえのある声でいいました。
「またお目にかかりましたね」
「ああ、あなたでしたか」
 青年はいいました。男は笑みをうかべました。
「そうです。あれからちょうど二年になりますね。お仕事はお済みになりましたか」
 青年はうなずきました。
「ええ、すっかり仕上がりました。もう思い残すことはありません」
「それはけっこうです。では……」
 と男はいって、ちょっと天井をにらんで考え、ふたたび口を開きました。
「あしたの朝ということにしましょう」
「わかりました」
 青年は答えました。
 そのとき、となりの部屋がざわざわとして、押しころしたような声が聞こえました。男は、そちらの方へ目をむけてほほえみました。
「お父上だ。わたしがいっこうに帰ろうとしないので、それで怒っていらっしゃるのです。それというのも、あなたはわたしと、ほんのふたこと三言、話をしただけのつもりでしょうが、まわりから見れば、あなたはもう一時間あまりもこの寒い玄関で、わたしの肥料の相談にのっているのですよ。そしてそのせいで、あなたの肺は完全にだめになってしまうというわけなのです」
「ああ、なるほど」
 青年はふたたびいいました。男は立ちあがり、帽子をかぶりなおしました。
「さあ、そろそろ失礼いたしましょう。ではあした」
「ええ、あした」
 と青年もいいましたが、頭をさげ、出ていこうとする男のうしろ姿を見て、思いだしたように声をかけました。
「ちょっと、待ってください」
「またですか」
 男はにがわらいしてふりむきました。青年は問いかけました。
「あのとき、あなたがおっしゃったことですが、ほんとうになるでしょうか」
 男は、汽車のなかと同じように青年を見おろしました。しかし、こんどは大きくうなずくと、まじめな顔で答えました。
「もちろんですとも。私がなにものであれ、どうかこれだけは信じてください。いまよりのち、あなたの作品は数えきれぬほどの人に読まれ、あなたの全集は出版され、あなたの童話は国語の教科書にのり、絵本に描かれ、映画となるのです。あなたの住んだ松林のなかの家は保存され、あなたが設計した花壇をしつらえたあなたの記念館には、何千何万という人々がひっきりなしに訪れては、ガラスのケースにおさめられたあなたの手帳やチェロを、まるで巡礼かなにかのようにうやうやしく拝んでいくのです。しかもそれだけではありません」
 男は青年の目を見ながらつづけました。
「たしかなことですが、あした、あなたはお父上にほめていただくことでしょう。そして、あなたの願いはききとどけられることになるでしょう」
それを聞いた青年の顔にはほほえみが浮かび、うれしげにいいました。
「ああ、ありがとう。それこそほんとうにわたしの求めたことです」
 男はもう答えずに頭をさげ、まるでどこかの村の人そのままに、もそもそとあいさつのようなものをつぶやくと、しずかに出ていきました。
 待ちかねたように次の間から弟が飛びだし、青年はふたたび二階へ抱えあげられて寝床に横になりました。
「今夜の明かりは、どうも暗いな」
 青年は天井からさがる電灯の光をみつめ、それから、ふとんをかけてくれている弟に声をかけました。
「わたしの書いたものは、ぜんぶおまえにあずけるよ。どんな小さな本屋でもいいから出版しておくれ。でももしだめなら、それでもかまわない」
 そういい終えると、青年は安らかな寝息をたてはじめました。その顔には、まだほほえみが浮かんでいました。

 青年は目をさましました。さっきは医者もきていたらしいのですが、よくはおぼえていません。それよりも、いまはたいへんすっきりとして気分もよいのです。からだも軽く、まるですっかりよくなったかのようです。
 青年は起きあがり、布団の上にきちんと座りました。ふと気付くと、浴衣のひざのところが、まっかにぬれています。
 いぶかしむ青年をめがけて、さっと明るい光がさしこんできました。
「ああ、いまなのだな」
 青年ははればれとした気持ちで手を合わせ、高らかにお題目を唱えました。

(終)