エッセイ・忘れえぬ歌─天安門十四年

 私は、全共闘世代よりも十歳ほど年下である。したがって、六八年から七〇年にかけての学生運動に、直接に参加したことはない。
 東京で育った私は、当時のごく一般的な中学生のひとりとして、かろうじて催涙ガスの匂いをかいだことがあるというに過ぎない。高校に入学したときも、高校紛争を担った最後の学年が、まさに卒業したところであった。
 そのため私は、そのころ、つねに一抹の後ろめたさをもって過ごしていたといえるだろう。テレビの画面にヘルメットとマスク姿が映しだされるとき、あるいはデモ隊と機動隊との対峙の場にたまさか通りあわせたとき、私の感じるのは、いつも、あの「遅れて来た世代の悲哀」というものであった。
 そして、全共闘の人たちに愛唱されたのは、「イムジン江」や、「ワルシャワ労働歌」だった。(来たるべき)変革に主体的にかかわらない負い目をもった私は、これらの歌を口ずさむことで、わずかながら運動に参画した気分を味わったのである。
 ただ、不思議なことに、「インターナショナル」を聴いた覚えはない。だが、この歌が、学生たちの口の端に上らなかったとは、到底考えられない。あるいは、革命運動にとって、この歌はあまりにも当然すぎて、いまさら歌うまでもないということだったのかも知れない。
 その運動は、結局、いくつかの極端な例外を除いて、しだいに「体制」に組み込まれ、やがて日本は、われわれにとって、もはや馴染みの世相を刻んでいった。
 そのときから数えて二十年もたった中国の北京で、私は、思いもよらず、「インターナショナル」に出会ったのだ。
 一九八九年四月から六月にいたる「北京の春」の宵、留学生の私は、何度この「国際歌」を耳にしたことだろうか。
 とくにその度合が激しくなっていったのは、五月二十日の戒厳令布告以後のことだった。
 夜も更けてから留学生宿舎を出て、北京大学の学生広場たる「三角地」に来ると、暗がりに、人いきれがするほどの数の学生が繰り出して、学生放送の演説を聞いている。演説が終わるごとに、国歌とインターナショナルが、高らかに流される。
 それは、北京の学生運動の象徴だった。政権とまったく同じ歌を使うことによって、党を支持する形で抗議の精神を示すという、極めて奇妙な、あのときの運動の象徴だった。
 そこには、解放感と、高揚感があった。私もまた高揚していた。もう私は遅れてはいない。私はここ北京で、たとえ最小限ではあれ、歴史の動きに、主体的に、同時に参加し得たのだ。
 まさに「インターナショナル」は、このとき、「私における意味」を持つにいたったのである。だから、それは中国語で歌われねばならない。「国際歌」は、私には、すぐれて「地域的」な意味を持つ。また「歴史的」な意味を持つ。
 オギュスタン・ベルクは、その著書『都市のコスモロジー』(講談社現代新書)のなかで、ひとつの歌が、一瞬にして、すべてのことをよみがえらせる作用について述べている。
 もしこれに則るならば、「インターナショナル」は、いわば私にとって、あの八九年の北京の日々を思い起こさせる「原風景」となったのだ。
 そして、とりわけ、あの六月三日から六月四日にかけての夜を。