弥彦・只見の旅
2007年08月12-13日

 お盆前の夜、思い立ってドライブに出かけました。夜じゅう走って、次の日戻ってくればいいやくらいのつもりでした。行方も定めていませんでした。ただ、帰省ラッシュに巻き込まれるのは嫌だったので、高速は使わないことに決めてはいました。月山、湯殿山、山形……? 先に日本海に出て、酒田、鶴岡……? ともかく新潟まで出ようと、ボルボ240オンマニ号に乗り込みました。

 川越街道(254号線)で川越〜藤岡、高崎に出て17号線を前橋〜沼田、そこからはさすがに深夜の三国峠越えは避けて月夜野ICからは関越道に入り、国境のトンネルを抜けて塩沢石打ICで降りてふたたび17号線をひたすら北上、長岡バイパスのあたりで空が白んで一気に夜明けとなります。
 このあたりで山形行はあきらめました。しかしともかくどこかへは行きたい気がしていて、考えていたら、「そうだ、弥彦があった」と思いついたのでした。
 

 

 弥彦神社の由来は古く、おそらく奈良朝以前に遡るでしょう。いや弥生時代はおろか、もしかすると縄文時代からこの地域の信仰センター・経済流通センター・国際交易センターだったかもしれません。狩猟、漁撈、採集、栽培の諸産業。前は豊かな川と平野、そして後ろは大陸や山陰、奥羽へと通じる海。すべての富の源泉を見下ろして押さえる位置関係にあります。しかもここは「石油資源」が出ます。下で触れますが、只見の縄文人は、ここ越後のアスファルトを輸入して石鏃と矢柄の接着剤として利用していたのです。とにかく神・人ともに大勢力だったにちがいありません。
 ちょっと道を迷いながら(どんどん圃場整備が進み、新しい道路ができているのです)弥彦神社に着いたのは、朝6時でした。すでに夏の太陽が昇り輝きはじめています。この時間にもう、散歩に来る人、参拝する人が、何人もいます。
 出雲大社などとも同じパースペクティブを持っています。拝殿の後ろの山が本来の御神体でしょう。その向こうは、すぐ日本海です。
 6時半になると、禰宜さんが本殿の中にゆっくりと現われ、おもむろに祝詞を奏上しました。はじめと終わりに、拍手を4回打ちます。
 神殿の左手の森を進むと、山頂までのロープウェイ乗り場があります。生憎始発は8時半で、誰もまだ起きてすらいません。登山道もあり、もう登りに行く人もいます。驚いたのは、ジョギング姿で登山道から駆け下りてきた人がいたことでした。暗いうちから登っていたということです。
 森の木々を通して、朝日が射し込んできました。道の横を流れ下る湧き水のせせらぎの音、耳もとをかすめる羽虫の羽音、山には鶯の鳴声が響きます。ときどき「どーん」と聞こえる無粋な破裂音は、実りはじめた水田の雀脅しです。
 新潟は2年間に巨大地震が2回も襲い、その回復は容易ではなく、まことに気の毒です。弥彦の大神は鎮めの役に立ってくださらなかったのでしょうか。現代人間の横暴にお手上げになってしまったのでしょうか。
 しかしわれわれはやはり、けっして迷信ではないものとして、何かの神意を汲み取る必要があるでしょう。神は自然の反映でもあり、同時に人間の反映でもあるからです。
 私が感じるに、今年の夏は猛暑でこそあれ、空気も風も、空も雲も、この何年かにないほど綺麗に浄化されているような気がするのです。
 参道の、神殿に向かって右手に、末社・摂社の境内があります。日本の神様は明治の国家神道統制を受けて名前も姿も変えられてしまいましたが、こうした末社・摂社に、案外昔の名残を留めている場合も多いようです。つまり本来の主神や土地の神が、昔の呼び名を残してこちらに祭られていたりすることもあるのです。
 ここの看板によれば、弥彦大神は天の香具山の命、あるいはタカクラジの命と一緒にされ、天孫に協力したという扱いになっています。越後の勢力は、出雲族と違って、ヤマトの勢力を上手に受け入れたのでしょう。それでもなおどこかに、独立不羈の誇りを残しているようにも思いました。
 というのも、「弥彦(イヤヒコ)」という神名は「すばらしい人(神)」という意味でしかないからです。きっとヤマトの将軍か何かに「お前のところの神の名は何だ」とか聞かれたときに、越後の人は「そんなものありません、素晴らしい神様は素晴らしい神様〈イヤヒコ〉、名前なんぞお呼びできたものではありません」とか答え、ヤマトの将軍は「ふうん、つまり〈イヤヒコ〉だな」ということになったのでしょう。
 鹿苑の小鹿です。まだ眠いのか、どの鹿も寝そべってもぐもぐと反芻ばかりしていました。それでもパンをやりに来たおじさんを見つけると、早速立ち上がって寄って来ました。
 ここには鹿苑もあり、また全国各地の地鶏を集めた鶏舎もあって、さかんにときの声を上げてうるさいくらいでした。まあどちらも神社に付物ではあります。
 付物でないのは、境内に隣接した競輪場です。何でこんなものを作ったのか、戦後だと思うのですが、いつごろのことなのでしょうか、私は知りません。
 とはいえ、ギャンブル・興行は、古来、神社の業務範囲にやはり入るのかもしれません。地元には地元の事情があるだろうし、よそ者が余計なことを言うのは控えます。

 

 弥彦神社の周辺からは温泉も出るし(岩室温泉など)、神仏混淆時代のいくつものお寺からは清水も湧くし、海側には海水浴場も沢山開かれているし、新潟の人たちの最高の行楽地です。だからこそ、縄文時代以来の聖地だったに違いないのです。
 弥彦山の山頂へはドライブウェイも通じているし、先述のロープウェイもあります。また山頂には展望タワーや小遊園地もあって、このように日本海の絶景を楽しめます。春秋のさわやかな行楽の季節ともなると、人々は家族でやってきて、お重を開きながら優雅な一日を過ごすのです。
 なぜこんなことを知っているかというと、大学時代の友人が新潟県人で、その結婚式に呼ばれた翌日、弥彦山に登ってその光景を見たことがあるからです。
 もっともこの日は夏の早朝でもあり、山頂に来ていたのはドライブウェイのカーブで腕試しに来た峠族の兄ちゃんたちとライダーだけでした。

 

 ドライブウェイを下り、いくつもの海水浴場を眺めながら海岸を走って(402号線)、新潟市内に入り、信濃川河口に最近出来たばかりの臨海新都心、国際コンベンション会場とホテルがある「朱鷺メッセ」という素晴らしい施設の「ホテル日航」で一休みしました。ここは「みなとみらい」の新潟版で、ロシア・韓国に向かって開かれている日本海国際センターです。ちょうど古代の弥彦神社の役回りの現代バージョンといえるでしょうか。
 朱鷺メッセに別れを告げて、新潟中央ICから磐越自動車道に入り、安田ICで降りて、290号線づたいに五泉〜村松と雁木で有名な昔の城下町を通り、県道9号線でまるでアルカディアのような丘陵農村地帯をショートカットしながらふたたび290号線に戻り、栃尾の町をバイパスしていよいよ山の中に入り、守門・入広瀬から252号線に入ります。ここからは六十里越という難所です。スノーシェッドをいくつも抜け、カーブばかりの山道を登ったり降りたりを繰り返します。
 この日のこのあたり、つまり新潟県魚沼市は、後で知ったところによると全国最高気温37℃を記録したということで、その暑さの中、さすがにご老体のクルマのことが心配になってきました。もちろん弥彦神社やホテル日航で休ませているとはいえ,昨夜から走り通しです。しかしボルボ240オンマニ号のエンジンは快調、軽いタペット音もむしろ4気筒らしく、クラシカルで心地よく聞こえます。エアコンもつけ放しにも関わらず、水温計も一定したまま微動だにしません。
 県境を越え、福島県に入り、田子倉ダムを見下ろしながら、道はしだいに下っていきます。只見の町から289号線に入り、大蔵というところまで来ると、「会津只見考古館」の看板があり、迷わず立ち寄りました。打ち明けるとちょっと腰も痛くなり、エコノミークラス症候群も気になりかけていたところでした。

 

 参観者は私たち夫婦だけ、あとは職員の人が一人、そして実習生が二人とのんびりしたものです。出土した土器片や石器片など自由に触れます。地域活動として土器作り学習など熱心に行なっているようです。訪れたときはちょうど幕末の道標の拓本を取っていたところでした。北越戦争で負傷し、ここ只見で亡くなった長岡藩の悲運の英雄、河井継之介もきっとこの道標を目にしたことでしょう。  ここは「福島県指定史跡 窪田遺跡」の場所で、縄文後期から弥生中期にかけての複合遺跡です。集落址、それに珍しい再葬墓も出土しています。土器、石器、土偶、首飾りなどが見つかっています。とくに土偶の一つは、非常に生き生きした自然な女性の顔を活写しており、まるでギリシャのタナグラ人形を思わせるほどでした(もう一つは岡本太郎風)。また弥生土器は明らかに縄文土器の名残の濃い、いかにも東国風のものであることもゆかしさを感じさせました。
 この集落は、大きく見れば阿賀野川水系に属する伊南川の開析した谷あいの河岸にゆうゆうと位置しています。冬寒くて稲作も困難だったろう東北のこの地域に、縄文期に引き続いて弥生文化が定着維持しえたということは、山川の豊富な生産力を物語っています。地元の縄文人が弥生文化を上手に受け容れたということでしょう。山を越えた新潟からアスファルトを接着剤として輸入していたということは、川沿いの交易ルートを思わせるし、おそらく弥生文化もそのルートで伝播したのでしょう。会津は大和朝廷の「四道将軍」が出会ったという伝説の場所でもあり、奥会津と呼ばれるこの地も、当時は相当な要衝だったことを窺わせます。

 稲の実りの中、復元した上代の家屋と現在の集落とが違和感なく共存しているのは、なかなかの風景でした。

 

 ところでここを訪れ、地形と風景を見ながらしきりと思ったのは、もしこの森をぜんぶはげ山にして山腹に白い石で「オンマニペメフム」などと並べたら、まるで四川省チベット地区だということでした。河川の流域開析谷に開かれた山間高地の小オアシス、という土地コンテクストが、非常に似ていると思うのです。実際、戦前には、日本、とくに東国の山奥にはチベット系地名があると説く学者もいたのです。これは学問的には何の証明もできず、また戦後には大東亜共栄圏イデオロギーの下支えをしたなどと政治的非難も浴びたわけですが、じっさい、「○○のチベット」などという表現は、そこから修辞的差別感さえ取り払えば、あながち荒唐無稽ではないような気もします。

 参考までに、2004年9月に調査した四川省チベット地区の写真を下に掲げておきましょう。

 

 

 いよいよ午後の晩くになり、帰路につかねばなりません。289号線を南下し、南郷〜田島、そこから121号線に入って県境を越え、栃木県に入ります。高原の森林の中、三依というところで名物のチタケという茸の入った蕎麦を食べ、後は一路東京を目指します。
 どこか温泉で日帰り入浴、とも考えていたのですが、川治も鬼怒川も、お盆の行楽シーズンだというのに気の毒にすっかり寂れていて人影も少なく、旅館の外観もリニューアルどころか、そこらにいくらでもあるスーパー銭湯にすらすっかり遅れを取っています。お湯がいいのは分かっているだけに残念です。小ぢんまりと小ぎれいでいいので、ぜひ再生してほしいものです。それこそが現代の観光地に望まれることでしょう。
 杉並木の間を通って今市〜例弊使街道〜鹿沼、293号線で都賀〜葛生〜田沼、県道で佐野〜館林、そして122号線で蓮田、ここはバイパスが開通してすっかりスムースに通れるようになりました。
 最後は川口から都内に入り、帰宅したのが夜9時半。ちょうど24時間の小旅行でした。
 渋滞もなく、ボルボ240オンマニ号はまったくよく走ってくれました。この話をしたら、きっとオート・ボルタの社長は仰天することでしょう。