白壁の路地にて

★これを最初に書いたのは、1993年8月13日です。お話自体、それに登場人物は、あくまで作者のヴィジョンであり、この世のいかなる史実とも、また宗教とも、まったく関係のないことを、念のため申し添えておきます。


 これは、いまパレスチナと呼ばれている土地で、二千年ほど前にあった話だそうです。

 ある日、ナザレ生まれのあるラビ(善導者)が、白い壁の家が立ち並ぶ路地を歩いていました。すると、先の方の道が少し広くなったあたりで、人だかりがしています。
 何事かと近づいていってよく見ると、大勢の男の人が、一人の女の人を取り巻いているのでした。男の人たちは手に手に石を持ち、口々に女の人を罵っていました。女の人は両手で顔を覆ってうつむいていましたが、その身なりや持ち物、それに身につけている飾りなどから、その当時、人々にいやしまれ、疎まれていた職業の女性であることが、ラビにはすぐにわかりました。
 ひときわ声高に罵っていた髭面の大男が何か叫んで腕を突き上げると、残りの男たちもいっせいに石をつかんだ手を振り上げ、今にも女の人に向かって石を投げつけそうな雲行きになりました。ラビは急いで歩み寄ると、声をかけました。
「お待ちなさい。あなた方は、いったい何をしているのか」
 男たちはぎょっとしたように向き直り、珍しいものでも見るようにラビを眺めました。さっきの髭面の男がさも馬鹿にしたようにラビを見下ろし、口をまげて答えました。
「ふん、あんたにだって、見ればわかるだろう。これから当然のこらしめを与えてやろうというところさ」
「この人が、何をしたというのか」
 ラビは尋ねました。すると、赤い鼻をした別の男が甲高い声で叫びました。
「何をしたかって? 知りたきゃ教えてやるよ。このとんでもない女はなあ、毎日顔にべたべた化粧を塗りたくり、とうてい口には出せないような商売をして、まっとうな男をだましては金を巻き上げ、あげくに夫婦の仲まで目茶苦茶にしておいて、自分は鼻の先でせせら笑っていやがるんだ」
 赤鼻の男がこう言う調子があまりくやしそうだったので、ラビは思わず唇の端に笑みを浮かべかけました。それをいちはやく見て取った髭面の男は、ぬっとラビの前に立ちはだかると、もったいぶった、有無をいわせぬ調子でまくしたてました。
「というわけで、わしらは昔からのしきたりに従って、この女に仕置きをしようというんだよ。しきたりによれば、こうしたいやしい女に対する罰は、石打ちの刑ということに、昔から決まっとる。石に当たって血を流そうが、地面に倒れようが、はてはわずらって死のうが、てんからこっちの知ったこっちゃない。なにせ世の中で何より大切な、正しい行いを汚したんだからなあ。しきたりはしきたり、当然の報いだよ。うっかりこのあたりに顔を出したが運のつき、目にもの見せてくれる。どうだ、まだなんか言うことあるかい。さあみんな、問答無用だ。早いとこやっちまえ!」
「おう!」
 と、みなはまた石を振りかぶります。ラビは叫びました。
「待ちなさい! 石を投げるのなら、その前にひとつだけ聞いておきたいことがある」
「何だっていうんだ、しつこい人だなあ。この女はさ、悪いことをやったんだよ、悪いことを。文句あんのかよ、あんた」
 まだにきびのある若者が、ラビに顔を突きつけてわめきました。ラビはひるまずに答えました。
「たしかにこの女は罪を犯しただろう。しきたりによれば、その罪に対する罰は、石打ちの刑であることも、また確かだろう。仕置きをしたいならば、するがよい。だが、まずその前に確かめておこう。いまここにこうして石をお持ちの皆さんのなかで、これまで生きてきて、ただの一度も過ちを犯さなかったといえる人がおありだろうか。もしもいるならば、その人は石を投げるがよい。どうだ、さあ投げなさい」
 ラビは若者の目をまっすぐに見つめながら言いました。
 にきびの若者は頑張ってラビの目を見返していましたが、そのうちにみるみる顔を真っ赤にして、ついに二、三度まばたきすると、目を伏せてしまいました。次にラビが赤鼻の目を見ると、これもまたあっけなくうつむきます。今度は髭面を見据えると、こちらはふくれっ面をして何かぶつぶつつぶやきながら、そっぽを向いてしまいました。
 そのようにして次から次へとにらみつけていくと、さきほどまで威勢のよかった男たちは、みな手を下におろし、決まり悪そうにもじもじしながら、それでもまだしばらくは未練気にその場に立っていましたが、やがて肩を落とすと、一人去り、二人去りして、とうとうあたりには、ラビと、女の人と、ぱらぱらと何人かが残っているだけになってしまったのでした。
 ラビは女の人に近寄ると、声をかけました。
「さあ、もう心配はない。早く家へ帰りなさい」
 女の人はいきなりラビの足許にひれ伏しました。
「おお、ありがとうございます。ラビよ、ありがとうございます」
「立って、行くがよい」
 ラビは女の人を助け起こします。すると、そこに、金属的で意地悪そうな声が響きました。
「まだ済んじゃいませんよ、ラビ」
 女の人は立ちすくみました。ラビが振り向くと、そこには、ちょっと小柄で髪の毛のもじゃもじゃした男が立っていました。年の頃は三十から四十がらみ、飛び出し気味の目を油断なく輝かせ、口元にはさかしら気な笑いを浮かべています。
 男は突っ掛かるような口調で言いました。
「いっぱしうまく解決をつけて得意らしいが、そうは問屋がおろしませんよ」
「どういうことかな」
 ラビは尋ねました。男は待ち構えていたとばかりに口を開きました。
「だいいち、その女の罪は消えたわけじゃない。立派に残っているんだ。その裁きの方は、いったいどうするつもりですかね。それに、あんたの言うことに従っていると、被告人は、みな自分をこう弁護できることになる。『あんたたちだって罪を犯しているじゃないか』ってね。それじゃ、われわれ人間は、いつまでたっても、何の罪も裁けないことになってしまいますよ」
「そのとおりだ。人には他の人の罪など裁くことはできない。罪を裁けるのは、ただ神だけなのだ」
 そうラビが答えると、男は舌打ちして両手をひろげました。
「いい加減にしてくださいよ。それなら、いつもこのあたりで起こっているさまざまな事件は、どうしたらいいんですか。万引き、密売、窃盗、傷害、暴行。こうした犯罪は、いたる所で日常茶飯事だ。戦争や略奪は、世界のどこかで毎日のように行なわれているし。あんたはそれを、野放しにしておけというんですか。私はごめんだね。少なくとも、最後の審判まで待つ気はない。悪は悪なんだ。かつて罪を犯したことがあろうがなかろうが、やっぱり誰かが裁かなけりゃ、この世の中、住んでいられなくなっちまう。
 たとえばこの私だ。きっと山ほど過ちを犯してるに違いないさ。昨日だって酒を飲んだしね。毎日のように腹を立てては、世間と人とを呪っている。
 だけど、だけどですよ。もしも仮に、万が一、私が昨日、罪を犯していたとしても、そのことと今日のことに、何の関係があるんですか。
 たしかに昨日、私は万引きをしたかもしれない。そのことについては罪を認めよう。負い目も感じよう。けれども、少なくとも、今日ここにおける、このことについてだけは、私の方に、圧倒的な正義があるんだ。圧倒的に正義があるのは私の方で、あんたの足許のその女は、間違いなく、ありとあらゆる面から見て、絶対的に非難されるべきなんだ。
 だから、私にはその女を裁くことができる。あんたには悪いが、いくら罪を犯していても、私は心おきなくその女を非難し、罪を鳴らし、罰を与え、そうしてからまた、明日の仕事にかかることができるんだ。そりゃあ、自分の罪に対する自責の念はあるさ。だけど一方では正義も成したんだから、それなりの気持ち良さだってあるんだ。人間や世の中とは、そうしたものだと私は思う。だから私には誰はばかる事なく石を投げられる。ごらんなさい、こういうふうにね」
 得意げに大演説を終えた男は、そう言いざま、さっきの誰かが落としていった石を地面から拾い上げると腕を振りかぶり、ラビの傍らの女に向かって、やっとばかりに投げつけました。しかし、力みすぎて、あいにくねらいは外れ、石は空しく女の人のベールをかすり、鈍い音とともに背後の白い壁に当たって、みにくい痕をつけたのです。
 ラビは何も言わず、反論もせず、ただ厳しい顔でじっと男を見ていましたが、ややあって口を開きました。
「男よ、私が救い、罪を許した女に、お前はふたたび罪を着せようとし、傲慢なつぶてを投げつけた。お前はそのことによって、私の呪いを受けるだろう。
 これは本当のことだが、今よりのち、お前は自分にだけ正義があると思い込み、意気揚揚と人を裁き、断罪するだろう。だがお前の振りかざす正義は、お前が投げた石と同様、的外れなものに終わり、その反響は鈍く、しかもあの石が白壁につけた傷のように、無垢な人の心に深い傷跡を残し、その傷口は長く癒えることはないだろう。
 哀れな男よ、お前の一族は、未来永劫にこの呪いを解かれることはない。それにより、お前の子孫は、世界のさまざまな出来事を、その場で、居ながらにして告げ知らせる国で働くことになるだろう。そしてその国は、マス・メディアという名で呼ばれるであろう」
 こう言い終えたラビは、女の人をうながすと後ろに従え、その場から足早に去っていきました。後には、両側につらなる白い壁にはさまれた路地の上に、あっけにとられてたたずむ男だけが残されていたのでした。