海の民、紀元前12世紀初頭、地中海東岸

The Sea People, early in the 12th Century BCE, on the east coast of the Mediterranean Sea

 

●海の民は紀元前12世紀初頭に東地中海を劫掠し震撼させた集団です。当時最強のヒッタイト帝国は滅亡させられ、エジプト王国も撃退には成功したものの、大打撃を受けました。「海の民」という名称は1881年、エジプト学者のガストン・マスペロによって命名されたもので、同時代の人々には「海中人」あるいは「北方人」と呼ばれていました。
 
●海の民の民族的出自は現在でも不明瞭ですが、その部族名には後の地中海各地の地名を思わせるものがあり、かれらの後裔が地中海全域に散らばり定着したことを偲ばせます。フェニキア人やパレスチナ人もそうした人々だと考えられています。
 
●時代的にはちょうど有名なトロヤ戦争と重なり、そこから海の民を、トロヤを中心とするアナトリア西岸の交易都市同盟体と結びつけて想定する説もあります。エトルリアやトロヤを思わせる名称を持つ部族もいるのです。大きく見ると、ギリシャのミケーネやクレタも含めた、エーゲ海文明圏の人々です。
 
●この人たちの引き起こした戦乱は、どうやら地中海世界の資源と利権を巡る「世界大戦」であったらしく、その結果、繁栄を誇った地中海文明は崩壊し、海の民自身もまた疲弊して四散しました。
 
●そうした混乱と空白をついてさらに中央ヨーロッパから新たな印欧語族の集団が南下し、数百年の暗黒時代を経て、ポリス時代のギリシャ、商業航海民フェニキア、エトルリアと共和制ローマなどといったあらたな役者が姿を現すのです。
 
●ここに描いた海の民は、紀元前1177年、エジプトのファラオ・ラムセス3世の霊廟の壁に彫られた姿から復元してみたものです。他方、かれらが「北方人」と呼ばれたことに着目し、また同時代のギリシャ出土の壷絵なども参照すると、かれらには中央ヨーロッパ的要素も含まれていたと考えます。ゲルハルト・ヘルム著・関楠男訳『ケルト人』(原書房)などは、とくにそれを強調しています。
 
●向かって左はペリシテ人(Peleset)で、特徴的な前立てで飾られたヘルメットをかぶっています。これを、後のギリシャの兜の馬のたてがみ形前立てに関連付けることもできますが、同時代のヒッタイト兵士もやはり前立てと房のついた兜をかぶっていますし、ギリシア壷絵の兵士もほとんどヒッタイトと同系の兜をつけています。。一方、ゲルハルト・ヘルムはこれを染めて固めた髪の毛そのものだと見なし、後の時代のケルト人の習俗の元祖であると主張しています。かれは青銅剣を持っていますが、ごく初期の鉄剣かもしれません。かれの胴鎧は壁画にもこの形で表現されており、ギリシャ壷絵から借用した脛当とともに、明らかに中央ヨーロッパの特徴を示しています。これはその後500年以上の間、ケルト人にも、またギリシャ人にも受け継がれ、洗練されながら使用され続けます。
 
●向かって右はサルディニア人(Shardana)で、2本の角のついた、まるで第二次世界大戦のドイツ軍のヘルメットを思わせる形の兜をかぶっています。
 
●かれらは短い上衣を着ていますが、あるいは腰布だけかもしれません。地中海の温暖気候に対応したものでしょう。ギリシア壷絵の方では長袖であり、より北方的な姿に描かれています。
 
★なお、トロヤを表わすと思われる部族名に、Assuwa, Asiya, Ahiya, Ahhiyawa などと表記されるものがあり、これらはまさにホメーロスに歌われる、トロヤに代表される「アジア」を指すと私は考えます。ローマ帝国時代に、アナトリアが「属州アシア」「アシア・ミノール(小アジア)」と呼ばれたのも、まさにこれに由来するものでしょう。しかし一方で、Ahhiyawa とは「アカイア人」のことで、それはつまりミケーネ時代のギリシャ人を指し、後にギリシャはローマの属州アカイアとなるのですから、この民族の元祖はいったいどこにいたのか、ますます興味は深まります。
 
四半世紀前にサインペンで描いたものをスキャナーで取り込み、Adobe Photoshop Elements 4.0 とCorel Painter Essentials 3 で着色・調整しました。なお背景は
http://homepage1.nifty.com/cluricaune/east-med/egypt-4.htm を使用させていただきました。