パンのみにて……?

「人はパンのみにて生きるにはあらず」という、聖書のことばがあります。
 これはもちろん、精神の重要性を説いたものですが、だがここでは、このことばの、「パンのみ」というところに注目しましょう。
 聖書は、人というものは、パン「だけ」で生きているのではないと言っているのであって、パンが「いらない」と主張するわけではないのです。
「武士は食わねど」ではありませんが、われわれは、ともすれば精神性を重視するあまり、このことばから、食欲(肉欲)に対して否定的なニュアンスばかりを汲み取ってしまうきらいがあります。でも、いくら高徳の修行者でも、ごはんを食べなければ死んでしまいます(即身成仏という修行もあるが、それはまた別の話です)。そもそもキリストの体は、聖なるパンとして表わされるくらいですから、食べるということが、大切でないわけがないのです。
 そこでパンの話、とりわけカトリックの修道院のパンの話をしましょう。
 パンはもちろん、ヨーロッパ人の主食として、そこにはさまざまな種類があります。修道院は、伝統的に広い土地を持っていて、自給自足が原則ですから(トラピストクッキーで御承知の通り、外部に販売もできるくらいですね)、パンもやはり、自分の土地でとれた麦から作って焼くのでしょう。そうして焼き上がったパンは、丸く、素朴な形をした、私たちがちょっと気取った店でみかける、いわゆる「田舎のパン」です。
 小麦やライ麦を使ったそのパンは、漂白もしていない、自然のままの色で、切れば固く、歯ごたえも十分ですが、噛みしめれば噛みしめるほど、深い味わいが出てきます。なにより、へなへなでないので、バターを塗っているうちに真ん中に穴があいてしまうというようなことがありません(注意!修道院にはソフトマーガリンのようなものはありません。また、バターをつけるときは、皿にパンを乗せたまま塗るのがマナーです、念のため)。
 レストランの、油濃い、重たい料理にくたびれた胃に、修道院のゲストハウスで食べるパンと炭酸水は、なんとありがたく、またすっきりとすることでしょう。そして、さわやかな空気と、祈りと、もてなしの心のなかで、私たちの精神もまたよみがえるのです。
 そう、パンはまさに食糧です。そしてそれは、人間が、人間として「生きる」ための「糧」なのです!