エッセイ・賢治は菩薩か

 宮澤賢治の詩は、分かり易すぎる。たとえば賢治の詩が、A+B=C だというならば、中原中也の詩は、A+B=さくら というようなもので、読者は当然とまどうが、だからこそそこには、新たなイメージ発想のエネルギーが生まれてくる。だが詩的言語とは、本来、そのようなものではないのだろうか。
 そのため、そのことを自分でもじゅうぶんに理解していたと思われる賢治が、自らの詩を「心象スケッチ」「絵に対する幻燈」だと称したのも、またうなずける話だ。
 ただし、ことばの扱い方、リズムと語感の繋がらせ方に関しては、その美しさと流麗さにおいて、賢治の右に出るものはないだろう。
 またそれだからこそ、分かり易すぎるともいえるのだ。心情があまりにストレートに響いてきてしまうので、その分、共鳴も恐ろしく大きくなる。賢治世界に取り憑かれてしまうのもむべなるかなだ。
 宮澤賢治は、農村更生を企図した羅須地人協会の運動が挫折して病臥した後、その短い生涯の晩年にあって、東北砕石工場という怪しげな貧乏企業に技師として雇われる。だがその名ばかりの肩書とは裏腹に、実像は石灰岩抹肥料のセールスマンとなって、青年期からの夢よもう一度とばかり、例によって空しい奔走をするのである。
 そうした営業活動の中のある春の一日、賢治は愛した曾遊の地、小岩井農場を訪れる。ここの種畜牧場の牧草用肥料として、石灰岩抹を売り込もうというのである。
 うららかな晴天には柳絮が舞い、雪も消えて緑の山には白雲の影が濃く落ちる。渓流にかかる水車の音が響く中、事務所の外に応対に出てきた事務員とその妻の、ハイカラだが貧しげな格好と、それに対して自分の惨めさを自分自身に対して糊塗すべく、また多少の山気もあって、あえて威勢を張ったスーツ姿で訪問する賢治。
 これは、〔雲影滑れる山のこなた〕という賢治の文語詩に描かれる情景だ。
 どこの農家や問屋でもけんもほろろに断られ、屈辱の悲哀と自己憐憫の思いを噛み締める、この時期の賢治の詩はいくつも残っているが、この詩もまた、そうしたもののバリエーションの一つといえる。そしてこれも、非常に分かり易い。
 とはいえこの詩には、所詮は自己分析の過ぎる人に特有の優越感の屈折した現われだ、と突っ込まれても賢治としてはいたしかたないと思える面も、また同時にある。
 賢治という存在を、いったいどう捉えるか。それは、こちらの知識の増加と内面の変化によって読みも変化し、それに応じて変転していく。そしてこのさい最も肝要なのは、くれぐれも賢治教信者(賢治狂信者?)にはならないということだと、わたしは考える。
 思うに、賢治教徒で賢治の足跡をそっくりたどりたかったり、巡礼したかったりする人なら、なぜ国柱会に入会して日蓮主義を体験しないのか。そういう人たちは、その部分に関しては、賢治の「気の迷い」だの、「しだいに批判的になった」から重視しなくていいだのと称しつつ、ありていにいえば砂に頭を突っ込んで目を塞いでいるのだ。
 もしも賢治教徒でないかぎりにおいては、賢治の存在および賢治の作品というものは、わたしたちひとりひとりが歩んでいくための、いうなれば契機に、じゅうぶんになり得るだろう。そしてその立場にいさえすれば、たとえ国柱会にいようが、フォルケホイスコーレに入れ込もうが、賢治は賢治でいいではないか。
 このあたりの賢治については、わたしはつねに青江舜二郎『宮沢賢治』(講談社現代新書)、矢幡洋『賢治の心理学』(彩流社)、吉田司『宮澤賢治殺人事件』を脳裏の片隅に置いている。これらの著作が、賢治教信者からは異端扱いされ黙殺されているというのは分からないでもない。しかしそれもまた、それでいいではないか。いったん神格化された存在は「殺人」されて等身大に蘇らねばその生命力を回復し得ない、というのは宗教学の常識だろう。
 そしてそうなってもやっぱり、「賢治は菩薩だ」と思えるか、思えないか。
 賢治の真価の吟味と、賢治読者の人間的進歩は、そこからふたたび始まるのだと、わたしは思う。