旅の記録・淡路島墓参
2007年3月6日−8日

 

前 言

 淡路島は、私きぬのみちの祖先墳墓の地に当たる。長い間墓参りをしようと思いつつ果たさずにいたが、このたび宿願を遂げたもの。ちょうど季節逆行で大寒気団が居座るまさにそのタイミングにあたり、寒くて震えた。妻には初めての淡路行となった。


 3月6日、きわめて早起きをして、朝6時には出発。初台から首都高速4号線に乗り、中央高速で一路西を目指す。駒ケ岳SAで食事休憩の後、ふたたびアクセルを踏む。名神高速〜山陽道と走り、淡河というところから分岐南下して六甲山を縦断し、長いトンネルを抜けると空が急に広くなり、道はついに明石海峡横断自動車道となる。もちろん初めての道。
 この橋は、明石の山の上から淡路の山の上までを結んでいる、といった形のものだから、つまりはものすごく高いところを通る。上下6車線あり、路側も大きく取られているから幅は十分に広いのだが、遥か下には青い海が光り、ときに気まぐれな寒気の風が襲う中を80キロで走らせるのだから、ステアリングを握る手が覚えずこわばる。時間にしてみればわずか5分なのだが、淡路側に入ったときは、思わずほっと肩の力を抜いた。ここまで東京から8時間。
 下に降りてからは記憶にある道をたどり、まずは最大の目的である墓参を済ます。手を合わせて拝み、ご先祖様に妻を紹介して、これでまずは肩の荷が下りた気がする。次にかつて家があった浜をたずね、それから菩提寺に向かう。突然の訪問であったがお住持さんは快く迎えてくれて話が弾み、新築の本堂で回向も上げていただけたのは有難かった。
 夕刻、洲本の三熊山の麓にあるホテルにチェックイン。夜は外に食事に出るが、寒風が吹きすさんで往生する。これでは東京より寒い。おまけに入った店の酒の燗は熱すぎてアルコールも風味も何も飛んでしまっている。ひとこと言いたかったが、墓参りの精進落しだし、明日のこともあるし、ぐっと黙る。

 

 

 左の写真は、私きぬのみちの「田舎」のあった、とある浜辺の集落。阪神淡路大震災の被害を受け、現在では敷地を残すのみとなっている。

私の田舎の浜の現状。3年前の台風の際の高潮で堤防にも水が打ちつけ、砂はすっかりなくなって、とうとう矢板を打ち込んでコンクリートの護岸をすることになりました。子供の頃はここで泳ぐこともできました。海草や貝殻が打ち上げられ、魚が釣れて、海亀まで卵を産み付けに来ました。夜になると、砂の中にもぐって寝ていた団子虫が起きてきて、餌を取り合って喧嘩したりしたものでした。 ご覧の通り、無残に堤防が破壊されています。この堤防が作られたときのことも覚えています。トロッコのレールが敷かれたものでした。見ると砂は戻ってきているようですが、もはや二度と子供の頃の姿に回復することはありません。淡路島と大阪湾そのものの環境が変ってしまったのです。祖霊は何を思っているでしょうか。

 

 3月7日、ホテルをチェックアウトして、まずは妻に古い漁村を見せようと、由良という漁師町に向かう。淡路は海人族の国だから、自動車の行き違いもできないような狭い通りに家が軒を連ねる風景がいまだに残る。ただし行ってみると、漁港の外側にさらに橋がかかって古い町をバイパスするようになっていて様変わりだった。まあ花博以前の記憶しか無いのだから仕方がない。 
 由良から引き返して、今度は先山千光寺という、かつては修験道場でもあった淡路島第一の霊場へと向かう。山の上へ、曲がりくねった道路を登る。淡路は、島といえども奥行きがあり、海が見えぬ場所もあって、谷や崖は深い。封建時代は、一生海を見ずに暮らした人もいたというほどだ。
 駐車場にボルボ240オンマニ号を止める。晴れているが風が強くて寒い。真冬の感じだ。四半世紀昔、ここで施餓鬼を行って、肩越しにおにぎりを投げた記憶がある。
 ここもまた阪神・淡路大震災の被害を受けて、再興成ったといえども衰微の色がある。もちろん今はシーズンオフということもあるだろう。それでも、名古屋の方から写真を撮りに来ていた夫妻の姿もあった。

 先山から降りて、三原(南あわじ市)のおのころ島神社を探して走る。三原は淡路最大の内陸平野で、国分寺もあり、古代淡路国の中心部だったところで、しかもかつては海が入り込んでいたらしく、ここに国生みの発祥の地おのころ島神社があるのも不思議ではない。
 とくに最近は、吉本の料理上手なある芸人と美人タレントとの縁結びで、俄然有名になったところだ。われわれが立ち寄ったときも、若い女性が何人も社務所でそうした関連のお守りを買い求めていた。

 淡路島は日本の縮図だといわれるが、まさに山、谷、高原、平野、海岸、海と何でもござれで、それがまた堂々とした姿を持ち、立派に地形の態を成している。戦時中は「砂糖以外は自給自足できる」と誇っていたそうだ。内陸に入れば豊かな農家があり、海岸はちゃんとした漁師町だ。たぶん、海人族と渡来人が上手に住み分けたところだったのだろう(とはいえ、朝鮮半島南部、かつてのイムナ/金海の地域は完全に海人族の文化範囲で、淡路などともその雰囲気はよく似ている)。
 その淡路島の中にある三原平野は周囲を山に囲まれて、北東には先山を望み、また南の諭鶴羽山脈からは川も流れ出て平野を潤していて、風水的にはおそらく理想的だ。私が思うに、おのころ神社はたぶん「龍穴」に当たるのではないだろうか。
 写真は、おのころ島神社の駐車場から見た先山。ちゃんと「奥山」としてのパースペクティブを持っている。

 大きな酒造所を見つけたので見学に入る。もうほとんど作業は済んでいたが、それでもぶつぶつと泡立ち発酵している桶を覗かせてもらう。
 ここは都美人酒造といって、合鴨農法による酒米生産など、地域環境共生などの取り組みもしているし、ネットでも積極的に情報発信をしている、小粒ながらなかなかのところだ。案内してくれた課長さんから、いろいろ話を伺う。それによると、この三原平野には地下水脈も豊富で、そのため昔から醸造元も多く、それを戦時中の統制で一本化した結果、都美人酒造としてまとまったのだそうだ。
 地下水脈とは、ますます風水的に完璧ではないか。この地域の豊かさの秘密を知った思いだった。同じ島とはいえ、うちの田舎のあたりとはまるで違う。

都美人酒造のサイト
http://www.miyakobijin.co.jp


 都美人酒造を辞して、西海岸に出る。景勝地である慶野松原を過ぎて北上すると、都志というところに、高田屋顕彰館がある。高田屋嘉兵衛は北前船を駆って一代で財を成し、蝦夷地に雄飛した豪商だ。私はかつて函館にある高田屋嘉兵衛記念館も見学したことがあり、この高田屋顕彰館はぜひ訪れたかった。
 この弁財船による廻船網によって、江戸時代の日本全国の津々浦々は、まるで血流のように繋がっていたのだ。しかもそのネットワークは、蝦夷錦の道および昆布の道というものによって、それぞれ北中国・南中国と連結され、雄大なユーラシア・シルクロード大循環の一環となっていた。
 さらには、この廻船水運網およびそこに形成された豪農・豪商層の経済力と政治的自覚とによって、わが国近代化の「夜明け前」が準備されたことをも考え合わせると、なおさら高田屋嘉兵衛を忘れることはできなくなる。
 ましてや箱館の町は、ほとんど高田屋嘉兵衛が独力で築き上げたようなものだから、対ロシア問題から五稜郭まで(といえば土方や榎本、そして開拓使)、そして現代の函館観光(といえばやはり土方)まで、すべてがこの人に収斂してくる。
 そしてというか、しかしというか、高田屋の開いたさまざまな事業や成果もまた、嘉兵衛の次の代には、幕府という国家権力によって収奪されてしまうのだから、やはりこの部分でもまた、間違いなく「夜明け前」なのだ。

 潮風の吹き付ける海岸をどんどん北上して、多賀にある淡路国一宮、伊弉諾神宮に着く。ここは国生みを終えたイザナギの神が隠棲した「幽宮」だ。ところで「多賀」という地名は近江彦根の近くにもあり、当然「多賀大社」があって、ここもまた「幽宮」としてイザナギ・イザナミ両大神を祀っている。「多賀」という地名、また「近江=淡海」と「淡路」との関わりに、何かの鍵がありそうだ。 

風格ある拝殿と本殿。淡路もなかなかのものではないか、とあらためて思いました。
伊弉諾神宮の旧大鳥居は、阪神・淡路大震災で二つに折れて倒壊したと記憶しています。ここは大エネルギーを放出した「野島断層」の場であり、まさにこの地を地震の脈動が撥ね打ち通り抜けたのです。いやむしろそうではなくて、バブルで奢りすぎた人間文明に対するわれらの祖神イザナギの止むに止まれぬ思いが、幽宮(かくりのみや)という長い封印を破って噴出したということだったのでしょう。私はそう思います。
横の門。ずいぶん立派で大きなものに見えるでしょう。ところが実は、存外に小さいのです。人がいれば、もっとよくわかります。
このパースペクティブは、宏壮な感じと慎ましやかな感じとが同居しているという、不思議な感じです。初詣のころに訪れてみたい気がします。
淡路というところはどこでもそうで、自然にしても、いわば日本の地形のミニチュア版のようなところがあります。そうした言い方が悪ければ、つまり淡路は日本の雛形だと言ってもいいでしょう。まさに日本発祥の地にふさわしく、これをフラクタル的に拡大すれば、すなわち日本になります。他方、日本は世界のフラクタル的雛形だといわれる場合もありますので、そうすると淡路は、結局世界の雛形だということになるのです。まことに国生みの神である伊弉諾命にふさわしいではありませんか。

 

 参拝の後は、東海岸、津名(淡路市)に出る。ここからフェリーに乗り、対岸の泉佐野に出ようというつもりだった。
 ところが何ということか、フェリーは2月で運行休止となっていて、ターミナルは閉鎖され荒れ果てている。仕方がないので方針を変更して、そのまま東海岸を北上し、岩屋から旧国道フェリーで明石に出ることとする。
 岩屋のあたりも、今では明石大橋のすさまじい橋脚の下になって、昔の記憶は何の役にも立たない。国道フェリーも民営化されたらしく(後で調べたら第三セクター化)、「たこフェリー」と称して、船体にも赤い蛸の絵が描いてある。昔は車検証を出すなどうるさかったものだが、今では車に乗ったまま料金を払うだけでOK。これは民営化の利点だろう。利用者も減ってはいないようで、明石から到着する下船客を見ていたら、ケンタッキーの箱をお土産に持ってきていた人がいた。たぶん神戸などに買い物に出るために利用するのだろう。乗れば30分だし、怖い思いをして橋を渡るよりは昔ながらに乗り慣れた船で、と考えているのかもしれない。また運賃も安いのだろう。
 こうして淡路島に別れを告げ、明石に上陸。夕暮れが迫る中、国道と高速を利用して大阪に入り、道頓堀近くのホテルにチェックイン。夜は法善寺横丁で美味しいお好み焼きを食べた。
 

 3月8日、なんば付近を観光。グランド花月には、開場前からもう行列ができていた。後はサープラス・ショップの「MASH」を冷やかして、大阪を発つ。阪神高速〜第二阪奈道路と通り、24号線を北上して木津のところから163号線に入り、山道を越えて伊賀上野に出る。そこからは東名阪国道〜伊勢湾岸道と道を取り、長島スパーランドで降りて入浴。すっかりこれが、西から帰るさいの吉例となった。
 さっぱりとしたところで再出発し、後はゆっくりと東京まで戻ったのだった。ボルボ240オンマニ号は長距離走行にもびくともせず、好調だ。