つ れ づ れ
2003年5月7月

これは「つれづれ」の5月分と7月分です。6月分・8月分・9月分はありません。Fumy Web Diary というフリーソフトで日記をつけはじめたのですが、html で作成してアップロードするのが(その分カスタマイズがきくし保存も確実なのですが)、どうにも仰々しくて、結局続きませんでした。

 


 

2003年5月4日(日) 晴れ/くもり
初回
 サイト立ち上げ、各種設定などで、大変だ。連休でなかったらもっとひどいことになっていただろう。

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2003年5月5日(月) くもり
 ようやく日記ソフトを立ち上げた。西村文宏(にしし)氏作成の Fumy Web Diary をダウンロードして調整した(http://www.nishishi.com/にある)。CGIのものにしようかとも迷ったのだが、まずはこのソフトの恩恵に与ろう。いずれにせよ、好みの色・スタイルにするには、なんでも相当の苦労が必要だ。

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2003年5月5日(月) 晴れ
連休最終日
 連休最終日。
 午前中、テレビをつけたら、とある銀行のコマーシャルをやっていた。見るのはこれで2回目だ。バックに流れるのは、ビートルズ《プリーズ・プリーズ・ミー》のコピー。こうした、1960年代初頭、アメリカがまだ公民権運動などで痛まない時代の、中西部の都市の郊外における健全で幸福な生活風景、などといったコンセプトが、どだい日本人に訴えかけるはずがない、と思うのに。
 午後、東久留米の「東京ファントム」へ、久しぶりに行く。軍モノ衣料は、実用的だし、惜しくないし、それにそこはかとない70年代のプロテストの残り香があって……理屈はどうあれ、気分にぴたりと来る。とはいっても、AVIREXのカジュアルバージョンのジャケットは、軍モノテイストをうまく生かしていて、場合によっては、used本物より雰囲気があったりする。とくに、Namファティーグ風の合いジャケットなどは、じつに洒落ていると思う。それにしても、代官山の「MASH」東京支店が撤退してしまったのは、なんとも残念至極だ。

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2003年5月8日(木) くもり/晴れ
GOTT MIT UNS
 きぬのみちの勤務先のコンピュータ(向こうから勝手に貸与された○士通)のデスクトップには、"GOTT MIT UNS"という文字が浮かび上がっている。もちろんペイントによる自作だが(フォントはフリーサイトからダウンロードした)、これはかつて東ドイツ(いいですか、「東」ドイツですぞ)を旅行したとき、ライプツィヒにある、巨大な黒いデンクマル(普仏戦争記念碑)に浮き彫りされていたことばを思い出して作ったのだ。
「神われらと共にあり」この文句は、勇敢だった戦士たちを追悼するのに、いかにもふさわしい。けれどもこのフレーズは、元来ドイツ軍の掛声なので、かならずしも宗教的に使ったというわけではない。その意味ではいわば、フランスの騎士たちが「ロランの歌」以来、「モンジョワ!」と叫ぶのと同じことなのだ。だからそれが戦争記念碑に刻まれるのは、むしろ当然なのである。
 しかし、もう一年以上経つし、そろそろ飽きたなあ。
 なにか他のことばに変えようか。

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2003年5月14日(水) くもり/晴れ
三線
 午前中教案準備の後、A大学とB大学で教え、それからピキ氏とともに、歌舞伎町のかんじゃーやーへ。かんじゃーやーは「鍛冶屋」のこと。女性デュオ、シーサーズの片割れ、宇野世志恵さんの店である。
 火曜の夜はいつも、シーサーズのもう一人、持田明美さんによる奄美三線教室開催とて、にぎやかである。店から生の三線(ところでこれは「さんしん」と読む)と島唄がそこはかとなく流れてくるなどというところは、そうないだろう。
 と書くと、いかにも気取ったような、敷居の高い店のように取られると困る。気の合った人たちが、気の合ったように振舞っているだけの、あたりまえの店だ。まぁ、たまさかそこに、ちょっともののわかったような、気の利いた風な口をきく、賢しら気なお客が来ると、そんな餌にさっそくピキ氏が食い付いてかかっていく、という時も、ないではないが。
 三線教室がはねたあとで、居残ったわれわれ、つまりきぬのみちとピキ氏も、ちょっくら三線を手に取る。
 ピキ氏はもとアマチュアギタリストとして鳴らして、今も相当の腕でウクレレもうまい。それにひきかえこっちは、先週はじめてびくびくもので手にしたばかり、壊しゃしないか、傷つけやしないか、その心配ばかりで肩が凝ったことを覚えていたので、今夜も恐る恐るの練習だったが、爪を使わなかったのがよかったのか、かえって力が抜けて、親指でうまく弦を弾く(正確には押し下げる感じ、と世志恵さん)ことができて、音も大きく響いた。
 楽譜の数字をたよりにしながら、見よう見まねで、ドレミ……からはじまって、それでもなんとか、「安里屋ゆんた」のイントロまで弾けた。世志恵さんの指の動きを観察しておいたので、真似ができたのだ。
 だいたい昔、中学生のころ、例えば試験勉強で、なんでも三回やらないと、ぜったいに覚えられなかった。それも二回目まではまったく覚えていない状態で、親がさすがに心配するほどだったのが、それが三回目になると、ほとんど完璧に暗記をこなせているのだ。あの二回目までのざまは何だったのだろう、といった状態だ。そのことを、この練習で思い出した。
 世志恵さんはひどくほめてくれたが、こちらにはどうも実感がわかない。しかし、同じことをやっていたピキ氏より、多少進歩が早かったので、それは素直に嬉しかった。ついでに調子に乗って、エイサーの練り歩きのとき、歩きながら三線を弾いている光景をつい思い浮かべ、立ち上がって弾いてしまったら、いきなりそんなことはなかなかできないのだそうで、これも世志恵さんに感心された。
 ギターの類の弦楽器は苦手だったのだが、三線はフレットも無く、握りやすいし、音も自分の耳で合わせられるので、はるかに自由な感じだ。三線の胴は胃の近くで鳴り響いて気持ちはいいし、妙に心が開けた。

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2003年5月15日(木) 雨
半蔵門線
今年度から、通勤の時に、営団地下鉄半蔵門線を使うようになった。
 それで、半蔵門線は、今年3月から、押上まで延長されて、東武鉄道と相互乗り入れになった結果、東武電車の車両が入ってくる。つまり、営団、東急田園都市線、東武伊勢崎線の電車が入り乱れているわけだ。しかも、行き先もばらばらだし、列車の種別も快速だの、区間準急だの、何種類もあってわけがわからない。
 こういう状況が、東京の地下鉄路線でも、いまや普通のことになってきたようだ。
 しかしこれでは、関西の神戸高速鉄道と同じことではないか、と思う。あそこの会社はたしか、トンネルと駅の施設だけを造って自前の車両は持たず、何社もの私鉄を乗り入れさせて経営していると思ったが、営団もそんなになってしまうと、アイデンティティを喪失してしまうかもしれない。
 というのは、他社の車両に乗ると、路線図の中の、営団路線内の駅名掲示が、当然だが小さいのだ。しかも営団の他路線の図が、これも当然ながら、ない。だから、営団だけを利用して、しかも乗り換えをしたいという人は、たいへんに困る。毎日通勤している勤め人ならいざしらず、日中にはそうでない人も、大勢いるのだ。だから、
「ああ、もう来た。早く乗れ、乗換えなんて、あとで車内の図で見ればいい」なんて昔ながらの考え方をしている東京人は、後悔先に立たず、しかも路線は日に日に増え、延長されているのだ。
 銀座線、丸の内線、日比谷線、ちょっと増えて東西線、などという時代が懐かしい。
 と言いながら、自分は千代田線をメインに使っているのだが……。

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2003年5月17日(土) 雨/くもり
ナイトメア
 夜半、悪夢で魘され目覚める。
 時代は今世紀前半、場所は上海とか、とにかく混乱期の中国のようだが、もちろん夢なので、よくわかるはずもない。
 自分は革命家。会合場所に踏み込まれたらしく、ある部屋の一室で、銃撃戦の後、打ち倒されている。回りにはやはり、同志の身体が横たわっている。
 血が出ている。出血多量らしい。顔の横、低い応接テーブルの下に新聞があり、それを片手で取って紙面を見ようとするが、すぐに血でぐしょぐしょに染まる。記事は最新の政治情勢らしく、ソフト帽をかぶったソヴィエトの政治家らしき人物の写真が掲載されている。
 痛みはなく、意識ははっきりしている。どのみち死は避けられない。もうこうした政治情勢にコミットすることはできなくなるのだ、何分か、何時間か先か、意識がなくなるのだ、と思うと、無念とともに恐怖に捕らえられ、叫ぶ。
──というところで、自分の声で目が醒める。
 夢は、見るのはいいが、ありありと覚えているのはいけない、と鍼の名医の先生が言っていた。こんな夢は、自分だって覚えていたくはない。

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2003年5月24日(土) 晴れ
文鳥騒動
 だいぶん日記が飛んだ。日記、というからには飛んではいけないのだが、「つれづれ」なのだから、飛んでもかまわない、という理屈も立つ。旅行に出ればどんなに夜遅くなっても日誌は欠かさないし、また留学していたときも毎晩日記をつけてから、さて勉強、といった具合だったのだが、家に帰ってくると、もうだめだ。
 もっとも、あまり書くことのない日常だ、ともいえる。イラクのこと、白装束のこと、ブッシュと小泉、有事法案、個人情報保護、などなど、いや2ちゃんねる、さるさる日記、ネットには話題が満ち満ちているし、屋下に屋を架すのもどうかという気もする。やはり、自分が「これぞ」と思ったことを書き記すのがいいようだ。
 今夜は月に一度の、友人たちとの集まりの日だった。高校の同級生をコアにして、毎回十人前後が集まって回り持ちで話題提供をする慣わしが、もう二十年以上続いている。会場は、きぬのみちの家。
 そこにいつもオブザーバー? として参加? しているわが家の文鳥(クロとシロ、ようやくコーナーを開設したので見て下さい)が、騒動を引き起こしてくれた。
 妻がゲームセンターのクレーンで十把一絡げに掴んできた小さなひよこを、文鳥の目の前で振ってからかっていたら、ひよこの小さな羽根のつもりで背中に出ている小さな針金にクロがパクっと食い付いて、口に入れてしまったのだ。あわてた妻が篭に手を入れ、クロをひっつかんで嘴をこじあけようとしたが、もう影も形もない。
 さては呑み込んでしまったか、と二人とも真っ青になった。友人たちがいるので大騒ぎをして集まりをぶち壊すこともできないし、土曜の夜に動物病院が開いているわけもないし、ともかく様子を見ていたら、何事もなく毛繕いをして、餌を食べ、飛びはね、水を飲んでいる。ただ心なしか、身体を膨らませてぶるっと震わせる回数が多いようにも思い、「さては喉か食道(そんなものがあるとすればだ)につかえて苦しんでいるのか、この分だとうまく糞にくるまれて出てくれればいいが、さもなくば明日の朝は落鳥か、まだサイトのコーナーさえ立ち上げていないのに……」と暗澹たる気分になっていた。
 集まりが終わり、友人たちを送り、後片付けも済んだ後、「しかたない、ともかく篭の底に敷く新聞紙だけを替えて、新しい糞を見よう」ということにして、もういちど、一縷の望みを託して古い敷き新聞紙を調べていたら、
「あっ、あった〜」と妻の声。
 見ると糞よりやや小さ目の針金が、新聞紙の上に落ちている。だが小さいとはいえ、先は尖り、みるからに剣呑だ(まさに小鳥にとっては、針金でも「剣」を呑むことに相当するだろう)。
 どうやら妻にひっつかまれて篭の外に出されるさいに、苦し紛れに吐き出したと見える。
 とりあえず(どころではない、大いに)安心したが、クロにはいつも右往左往させられる。好奇心が強いので、前も観葉植物の葉をかじって、あわてて動物病院に連れて行ったこともあった。そのときは、なんだか肝臓強化剤の水薬をもらってきて、それを呑ませて事無きを得たが、鳥のくせに人並み以上で、生意気千万だ。しかも当人は澄ました顔でいるのだから、なにをかいわんやだ。

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2003年5月25日(日) 晴れ/くもり
カインズホーム
今日は妻と買い物に行く。首都高4号線永福から入り、中央道八王子インターで下りて創価大学の傍らを通り、あきる野サマーランドから程ない牛沼というところに、千代鶴という地酒を醸造している中村酒造という蔵元があって、そこに蔵造り資料館があるのを、かねて目をつけていたので、まずそこに寄る。
 酒造元資料館は会津などで入ったことがあるが、それに較べてはるかに小規模。しかし妙に売る気満々にショウアップしているより、ずっとましだ。ふだん訪れる人もほとんどないのだろう、蔵元夫人かパート主婦か知らないが蚊取線香を焚きながら、ひとり手持ち無沙汰に番をしているだけ。しかし応対は優しく親切だった。「千代鶴純米吟醸」を一本購入。味は(もちろん帰宅後です)大甘フルーティだが、品があって喉越しがいい。
 圏央道日の出インターの横に、東京花壇という、大きな敷地を持つ店がある。花卉、肥料、土、ガーデニング用品の専門店で、今日は日曜日ということもあって、駐車場は第二までほとんど満車の盛況。山梨ナンバーの車も来ていて、そちらが本場なのに、なんで? と思う。店の中には、あのコマーシャルそのままにチワワを抱えたような客がいたりして、まったく、「それぞれが、それぞれにそうだと思うところの休日を現出している」のだと感慨を持つ。
 ところで当家のベランダはマンションの6階、しかも道路に面して西向きときて、日当たり条件は最悪、サフィニアとかああいった品種改良をした類はつねに全滅する。ペンタスが1株だけ、もう何年も咲き誇っているのは、よほど合っていたのだろうと思わざるを得ない。しかしそのペンタスがぐっと根を張っているらしく、他の花が根付かないのはそのせいかもしれない。ともかく、今年も懲りずに何度目かの挑戦をおこなうつもりで、花苗を買ってきた。
 圏央道を経由して、最後に寄ったのは、鶴ヶ島のカインズホーム。開店当初から巨大だと思っていたが、ますます巨大化し、周辺の敷地はことごとく駐車場になっている。それでも今日は満車に近い。このホームセンター一軒の開店だけで、近隣の商圏に恐るべき変化をもたらしていることは疑いない。ここに来れば、生鮮食料品を除き、ほとんどないものはないのだから。しかも廉い。カインズは各地にあるが、ここ鶴ヶ島の店がいちばん品揃えも豊富で、しかもゆっくりと買い物ができる。
 なぜカインズホームが栄え、ダイエーが傾いたのかを考えた(どちらも贔屓だからだ)。それは恐らく、「郊外」「ベッドタウン」というものの規定/把握/マーケティングの方向がまったく逆だったからだ。ダイエーは、郊外のベッドタウンを、都市化へ向かうものと捉え、店舗を都市中心部のデパートのようなものにしていき、また品揃えも高級風に変えていった。それに反してカインズホームは、Do It Yourself 指向にターゲットを合わせ、そこから発想して品揃えをしている。「東京花壇」の盛況、そしてカインズホームの資材館や農業館(だったと思うがうろ覚え)の隆盛をみると、近年の郊外のベッドタウンの住民/住宅の指向は、あきらかにカントリーライフにある、そこがダイエーの誤まったところだったのではないだろうか。しかも日本人はその一方で、欧米風の、ダンボールを積み上げたような実用的だが大味なハイパーマートでは物足りない。ただ目的のものを買うにとどまらず、一日遊べる施設でないと来ないのだ。それもまた、ダイエーの見損なったところだったろう。
 ここ鶴ヶ島のカインズホームに隣接して、カルフールとトイザらスがもし開店したとすれば、この一帯はもはや恐れるものなしとなるだろう、などと夢想してしまった。
 帰宅していつも思うのは、買うのはいいのだが、それを家に運び上げるまでが一苦労で、そのことを、買うときにはあまり考えない、ということだ。
 ボルボは快調、ついこの間アーシングをしたばかりで、そのことはまたあらためて書きます。

2003年7月2日(水) 晴れ
7月最初の日記・東急文化会館雑感  

 まだ梅雨明けには程遠いが7月、気を取り直して書く。
 妻より渋谷の東急文化会館が六月いっぱいで閉館になってしまったという話を聞き、いささかの感慨をもって、その思い出を書いておくことにする。
 昭和三十年代の初め、つまり五十年代後半、生まれてまだ物心つかない頃から、東急文化会館には連れて行かれていた。当時の渋谷には、東横百貨店と、東急文化会館しかなかったのだ。
 東急文化会館一階にはユーハイムがあり、我が家はそこで菓子を買ってきた。よく母親がミートパイを食べ忘れて腐らせていたことを思い出す。もっともミートパイは子供の口にはそれほどうまいものとは思われなかったものだ。
 またケテルスの店もあり、ラング・ド・シャつまり猫の舌というチョコレート、それから名は忘れたが大きめのコインほどの平たく丸いチョコが円筒に入ったものなどを置いていたのを覚えている。
 二階に上がるとそこは銀座名店街で、あんみつで有名な立田野、着物の店、鳩居堂その他その他並んでいた。立田野のあんみつはあまり好きではなかったが、汁粉は好物だった。後で触れる文化理髪店の帰りに祖父に連れられ立田野に入り、自分は何を食べたか忘れたが、祖父がぜんざいを頼み、あまりに餡ばかりで食べかねていたのを見て、子供ながらに、口はばったいようだが、「ひとのかなしみ」のようなものを感じたことを、今もかすかな心の痛みとともに思い出す。「ぼくはおじいちゃんになにもしてあげられなかった」
 この名店街と、そこから東横へ通じる空中通路は、最初で最後の迷子になった舞台でもある。どういうきっかけであったかは忘れたが(ここで待っていなさいと言われたのに従わず、自分で探しに出たのかもしれない)、ともかく迷子になり、そのあたりをさまよった。途中、一度心配そうに捜す母の顔とすれ違ったのだが、どうやら私はほって置かれたことに腹を立てていたらしく、声をかけなかった。その後で覚えているのは、どこかの店で女性の店員がいて、その横に母親がおり、そして大声で泣いている自分である。たぶん、別の場所かその店かで保護され、女店員に話をし、そこから母親に連絡がついたのだったろう。
 名店街に戻って、そこをどこまでもまっすぐに進むと、建物の中でも裏に回ったような感じとなって、そこが文化理髪店だった。私は祖父に連れられ、必ずここに髪を切りに来ていた。たいがい私は、散髪をした後買ってもらえるレゴを楽しみに、連れて来られていたような気がする。当時のレゴにはあんなつまらぬ人形などはなく、本当に基本的なブロックしかなかったが、それが逆に創意と創造力とを養ったと思う。そうしたブロックが小箱にちょっとずつ入っており(その小箱一箱だけで、小さなヒュッテとかエッソのガソリンスタンドなどが作れるようになっていた)、それがしだいに増えていくと、より大きな建物を組み立てられるので、それが楽しみだったのだ。
 文化理髪店の並びのあたりには、もうひとつ別のレストラン、ジャーマンベーカリーがあって、ここに入るのも楽しみの一つだった。
 ジャーマンベーカリーは、レストランというよりはむしろ、いまようやく東京で普通のものになった、あの「ダイナー」という、アメリカ大衆食堂の雰囲気で作られていたように思う。
 ここで私が必ず食べたのが、チーズバーガーだった。それから、舌が火傷しそうに熱く、分厚い陶器のカップ(青い格子縞のロゴ入りボーダーがついていた)に入ったホットチョコレート、当時はココアと呼んでいたように思うが、これが実に甘く旨くて、今も忘れない味だ。
 後年、ニューヨークで本場のダイナーに入ってバーガーを注文し、出てきたそれにかぶりついた時、ジャーマンベーカリーのチーズバーガーと寸分違わぬ味だったことに驚愕し、かつ感激したものだが、考えてみるとジャーマンベーカリーの方こそ、アメリカのダイナーの味を忠実になぞっていたわけだ。
 ここからもわかるように、ジャーマンベーカリーは原宿のキディランドなどとともに、本格のアメリカを知る窓だったのだ。だから、七十年代以降生まれのマック世代のような、似非アメリカナイズド・ジャパニーズ、もっと言えばジャパナイズド・アメリカナイズド・ジャパニーズの人たちに対しては、こういうものを知らないでアメリカを語るとはお気の毒様、と言うしかない。
 あとは映画館。とはいえ、子供のことゆえ、ロードショウは「百一匹わんちゃん大行進」くらいしか観ていないのだ。ただひとつ、地下の名画座で、白黒だったが、いい映画を観た記憶がある。死刑囚が滝の上から崖下に絞首されるが、縄が切れ、そのまま急流を流される。途中はもう覚えていないが、波乱万丈があったことだろう。そして苦労の末、家に辿りつき、妻の腕に迎えられる瞬間、場面はあっと滝の上に戻り、かれは首吊り縄にぶら下がっている。すべては処刑執行寸前の夢、幻想であったのだ。この映画の題を知っている方、どうかお教え下さい。
 さて東急文化会館の思い出のおしまいは、最上階の五島プラネタリウムだ。小学生の頃、母に連れられて何度も何度も行った。まず会場の周りを取り巻く円回廊に飾ってある星や宇宙や宇宙開発の写真を、飽きず眺める。たまにはショーケースに飾られている望遠鏡を見る(ところでこの望遠鏡のブランド名は「ミザール望遠鏡」だった。ミザールとはもちろん星の名に由来するのだろうが、当時の私は、「見る」筈の望遠鏡が、なぜ「見ざる」などという縁起でもない名をつけているのかと、会場の座席の背もたれカバーに記されているその広告を見るたびにおかしかったものだ)。
 そして売店で森永のチョコボール(いちばん早いキョロちゃん)を買ってもらって、いよいよ入場、座席に坐って始まりを待つ。
 まずは夕景、解説員が水平線の黒いシルエットを「これはどこです」という風に言って、だいたいの位置関係を分からせる。工場あり、デパートあり。このギザギザの屋根とクレーンの立つ工場のシルエットがなんとも物悲しく、これが私の工業地帯に対する、原初的なイメージを形成したものだと思う。それは後年読んだ、つげ兄弟の漫画の世界の雰囲気に、どこか相通ずるものがあるようだ。私はいつも、夜勤の工場で計器番でもしながら働きたいと思っているのだが、それもこのあたりに原因のひとつがあるかもしれない。
 やがて夜になり、惑星、恒星、星座、銀河、星雲……と話は広がっていく。あまりに何度も行き慣れたあまり、友人たちとともに、解説員に先んじて「火星! 土星! 木星!」などと怒鳴り、叱られたこともある。
 そうして明け方、流星が飛び始めると、一回の終局だ。外へ出ると売店でガガーリンの写真が表紙になっている「科学図鑑」を買ってもらって、そうして帰った。この「科学図鑑」は、いつのまにか定期的に家に届いていたから、きっと母親が講読の手続きを取っていたのだろう。
 以上が、閉店にさいして湧き上った、私のもっぱら小学生時代の、東急文化会館のメモランダムだ。中学生になると、学校の位置関係から、寄り道は自然と道玄坂の方へ回り、また東急プラザも東急本店もできたので、いつしか宮益坂の方からは足が遠のいてしまった。だから、それから後も、東急文化会館には、切手とコインの店、三省堂書店、オーディオや電化製品の店(店名忘失)、中学の時に社会科実習という名目で「ベン・ハー」「ジュリアス・シーザー」「ヨーロッパの解放」などの映画を観に連れて行かれた体験、「また母の編んでくれた毛糸帽子を落としたことなど、いくつかの思い出はあるが、私の記憶の中では、それなりに切実ではあるものの、もはやそれほど重くはない。
 どうせなら閉館の前に一度足を運んでおいてもよかったのかな、とも考えたが、世は諸行無常だ、いまさらセンチメンタルジャーニーなどしても、それほど生産的でもなかっただろうとも思う。
 だいいち、八十年代の終わり、最後に入った時のジャーマンベーカリーは、すでに不良女子高生の溜まり場と化していたのだから。


2003年7月3日(木) 晴れ
ボルボダウン

 アーシング以来快調だったボルボがダウンした。
 今朝学校へ出勤途中、エアコンブロワーが突如奇声を発しはじめた。これまでにもしばしば奇音を出してはいたのだが、それとも違う、もっと異様な音である。ともかくいつものように、いったんスイッチを切り、最弱の位置(1)のレベルでスイッチを再投入すると、ブワーンと一挙に最強レベルで風が吹き出した。しかもスイッチ切(0)の位置に戻しても止まらない。エンジンを切れば止まるだろうと思って、路側に停車し、
エンジンを切っても止まらない
 これではバッテリーが上がってしまう。ともかく走らせるしかない。走りながらいろいろ考え、もう一度停車して、オート・ボルタの朝山さんに電話する。「リレーとか配線が融けてしまったかもしれない、ともかく学校に着いたらバッテリーのマイナス端子の線を外してくれ、そうすればたいがい止まる。それで帰りに寄ってください」とのこと。仕方なく再発進する。
 学校へ行く途中、ボルボのユーズドを扱っている店があるのを覚えていたので、そこに寄って聞いてみると、親切に工場にまで電話して整備担当に問い合わせてくれたが、それでも前代未聞のケースだとのこと。やむを得ず学校まで走らせる。風はますます勢いよく吹出口から飛びだし、もはや冷房も効かない状態。窓を開け走る。
 学校の駐車場に着いて車を止めるが、やはりブロワーは回り続けている。カーゴスペースの床下からスパナを出し、ボンネットを開けてバッテリーのマイナス端子を緩めて外す(アーシングをしたその場所だ)と、嘘のように鎮まった。
 そうして業務を終え、ただちに駐車場にとって返す。再び端子を接続し(とたんにブロワーが回りはじめる)、オート・ボルタへ一直線。朝山さんは待っていてくれて、すでに問い合わせも済んだらしく、「やはりリレー部分だろう、それを調べるためにはダッシュボードをばらさねばならず、工賃が高くつくんですよね」と脅される。ともかくブロワモーターは新品ではなく中古でいいから間に合わせてください、なるべく勉強してくださいと頼み込んで、土曜日の調査結果待ちとなる。帰りは朝山さんがC──駅まで送ってくれて、電車での帰宅となってしまった。
 もともとあのブロワーが奇態な音を立てるようになったのは、一昨年8月夜、よせばいいのに夜のドライブで靖国神社の近くへ行き、鳥居が目の前に現われた瞬間からで、「英霊の訴える声か?」と背筋がぞっとしたことを覚えている。今、大学のゼミで「戦争の記憶」を探るテーマで、吉田満の『戦艦大和ノ最期』を読んでおり、ちょうど前日に1953年の映画化作品のDVDを学生に見せたばかりだったので、またもやそうした関係絡みか──? と、ぞっとしない。
 いずれにせよ、あまり戦争を知らない者が、あえて無理に戦争を知ろうとはしない方がいいようだ。──なんて気もする。


2003年7月6日(日) 晴れくもり
恐れ入谷の鬼子母神、「シーサス」も出現

 午後から、母を連れて、入谷の朝顔市に行く。銀座線の稲荷町で降りて、下町らしい風情をなお残す道を入谷まで歩く。
 初日で、かつ日曜日ということもあるのか、朝顔市は立錐の余地なきというか、芋の子を洗うがごときというか、ともかくたいへんな混雑。年ごとに来訪者が増えているように思う。朝顔の露店はもちろんとして、食べ物の露店に群がる人の多いこと、とくに豚、地鶏の串焼きの人気が高いようだ。
 本来の目的たる鬼子母神も、年年歳歳参詣者が増えていて、紙の朝顔のついたお札守りも、飛ぶように売れている。火打石を切って祝ってくれる坊さんたちも笑いが止まらないだろう。
 お寺を出て、露店で朝顔を一鉢求める。買ったのは初めてだ。縁取りがあったり、「絞り」が入ったり、というのではなく、オーソドックスな紫のものを買った。まあ四万六千日、暑気払いのご祝儀というつもりだ。
 それから少し戻り、今度は合羽橋本通りで七夕まつりをやっているので、そこを通って浅草へ向うことにする。ここも吹流しの飾り付けが年々豪華になり、露店以外にも、大道芸がいくつも出ていた。紙芝居は黄金バット、江戸紙切りはお客と軽く話をしながら、あっという間にシルエットを切り上げる。他には「人間ジュークボックス」と称して、横に貼り出したレパートリーからリクエストしてお金を入れると、ひと一人分の黄色い布製のボックスの前が開き、おじさんが出てきて、片手にトランペット、片手にタンバリンで曲を演奏するという芸、また五色の独楽を台に乗せて、手もひもも使わずに、バランスだけで別々に回す芸、さらにはピエロたちが子供とじゃんけんをして、その勝ち負けによって色とりどりの針金細工や風船細工をその場で作ったりするものなど、通りのそこここで客を呼び競っている。子供達が大勢集まっているのが印象に残った。
 歩きながら、石田梅岩の菩提寺(だと思ったのだが)に心引かれて足を止めると、そこでも大道芸をやっているらしく、ビラに「沖縄……」とあって「へえ、こんなとこでも、もうやっぱり沖縄なんだな」と思いながら見ると、
シーサスというバンドが出るとある。「シーサス」、シーサーズ?、いや同じような名前のバンドもあるものだなあ、ともかくちょっと見てみよう、と近寄ると、寺の山門の方から、シーサーズの持田さんとそのご主人がぶらぶら歩いてくるではないか。ついさっき演奏が終わったばかり、あとまだ一回残っているとのこと、奇遇を喜び、立話をする。世志恵さんは昨日から与那国、持田さんも明日から沖縄へ行くそうで、忙しいことだ。「シーサス」もいいね、とひとしきり笑い話にして別れた。
 その後はゆっくり浅草まで歩き、花屋敷や、日曜とてにぎやかな飲み屋街の軒先を眺めながら、オレンジ通近くの天麩羅屋でやや早い夕食をしたため、地下鉄で帰ってきた。
 ところで、私の地元のY─駅前でも、今日は午後いっぱい七夕フェスティバルで、入谷へ向かう前に目にした光景では、食べ物露店、金魚すくいなど、通りを通行止めにしてたいへんなにぎわいだった。面白いのは動物触れ合いの一角で、簡単な柵で囲い、仔ヤギ、羊、兎、ハムスター、ひよこなど、それぞれ放して触れるようにしてあり、ひよこやハムスターなどのコーナーでは、中に子供が入って抱いたり遊んだりできるようになっている。子供もいないし、ふだんこうしたイベントに父親や地域人として関わりあうこともないので、あるいはどこでもこんなことは普通にやっていて珍しいことではないのかもしれないが、ともかく興味深かった。
 追記:朝顔市は六、七、八の三日連続で行われるというので、もしかすると昼夜の別なくやっているのではないかと思い、実は今夜の夜十時から、今度は車(ボルボが直っていないので父親の車を借りた)で偵察に行った。すると……やっていました。夜店の明かりは煌煌と点き、朝顔も電灯に映えて緑が瑞々しく、鬼子母神も、さすがに寺務処は閉まっているものの本堂の扉は開かれていて、参詣者の人波も相変わらず途切れていなかったのは驚きだ。考えてみれば、朝顔は朝咲くのだから、明け方からが勝負なのかもしれない。下町の夏は、すごいことになるものだ。


2003年7月11日(金) 晴れときどき雨
高校訪問、BJ  

 昨日今日で、高校訪問終了。高校訪問とは、最近の中規模・小規模大学の教員に課せられる営業活動で、受験生(つまり受験料)と新入生(つまり入学金と授業料)を一人でも多く獲得するために、高校の進路指導部を訪ねて、自分の大学に関する特色とそこで学ぶ利点─人材育成の理念とカリキュラム構成および卒業後の進路見通しなど─とを宣伝し、学生への周知を依頼することが大きな目的だ。まずは高校の玄関受付で名刺を出し、進路担当の教員への面会を求める。最近の学校は、例外なく面会簿に氏名・身分・面会相手・時刻を記入し、名札を胸に着けることとなっているので、その手続きを済まして進路指導部の部屋を訪ね、はじめて面談ということになる。
 ほとんどの場合、進路指導部の教員は、だれか一人が必ず在室待機しているので、スムーズに話は進むが、ときには午後遅くに訪ねたりすると、面会相手の先生が、テーブルに30センチほどの高さにまで積み上がった各大学・短大・専門学校の案内冊子とパンフレットを示しながら、「朝からだけで、これだけ来ました─」と溜息をついていることもあって、それはそれで応対する方も重労働だろうとは思う。
 また逆に、今回訪問したある高校では、3年の担任教諭が出てきて、「あいにく進路担当の者たちが、全員中学校訪問で出はらっていまして…」と恐縮しながら挨拶するので、順繰りに因果は巡り、同病相憐れむといった感慨を持たざるを得なかった。少子化による学校存立の危機は、もはや小・中・高・大・大学院を問わない状態にまで達している。昨今話題のロー・スクールだって、ある意味ではなりふり構わぬ悪あがきといってもいいだろう。
 ともかく自分のノルマは果たしたので、後は事務に報告書を提出して終わりとする。それにしても、教育者的適性はあってもこうしたビジネス的営業適性がない人間というのは、自分も含めて教員の中にはきっと多いだろうと推測するのだが、巷の学校経営者の中には、「こうして世間知らずの教員に実地の社会教育を施しているのだ」と考えている人も一定数いるわけで、一理あるとも思ったり、いやビジネス・プロトコルばかりが人生のすべてではないだろうとも思ったり、ここには教育というものの姿に関する根本的問題が含まれているのだ。
 帰宅途中の車の中で、幼児を投げ落とした中学生が、鑑別所内でまず手に取った本がブラック・ジャックだった、と、接見した弁護士が述べたラジオ報道に接する。やっぱりな、というよりも、事件の動機を解明するために提示される少年心理の背景説明のストーリーが、あまりにも予想通りでありすぎるな、とまずは感じた。語弊を恐れて詳述は避けるが、ともかく僕思うに、セクシュアリティはなくともエロティックだということこそが前思春期における心象の大きな特徴であり、ブラック・ジャックの作品世界は、まさにそこを直撃してしまうのではないだろうか。そして、それによって心を震い動かされた前思春期の少年が思春期を迎えたとき、その生理的/心理的衝動は、周囲の同年代の異性に、果たして向かうのか。それとも違う方向に向かうのか。
 ラジオを聴いていて、そんなことを考えた。


2003年7月14日(月) くもり
ボルボ直る  土曜日、「戦争の記憶を考える」というテーマで、我がゼミとピキ氏のゼミとの合同で、靖国神社へ行った。みたま祭り(たぶん英霊祖霊祭)が始まる前日で、提灯、灯篭、業者露店の支度で忙しい雰囲気。祭りの最中でなくてむしろよかっただろう。昔の軍服を着た老人と、それを取り巻く右がかった若者たちなどと一緒では、剣呑でしょうがない。
 境内には、著名人の絵入り灯篭が多数下がっている。小林よしのりはマア当然として、小林まことはどういうわけなのだろう? 絵柄も「What's Michael」の猫が描いてあって、およそ時宜に合うものではない。いずれにせよ、こうした提灯や灯篭の寄付者名を見ていくと、ああこういう人もこういうところに、というのが判って面白い。
 ゼミ合同見学の目的は、国防紀念博物館たる遊就館である。
 のっけからゼロ戦とクワイ河マーチの蒸気機関車 C56 で恐れ入る。チケットも団体料金なし。
 最初の展示室から、「アジアに迫りくる欧米列強……」とはじまり、遊就館のコンセプトと展示ストーリーの組み立て方が、もう読み取れるというものだ。つまり、欧米進出に対抗するため、維新の大義と富国強兵の目的のために殉じ、同じく欧米の脅威のもとにあるアジア同胞の解放のために殉じた、そうした英霊たちの御霊を招魂し、鎮魂するための、また英霊を悼む現世の人々の心を慰め納得させるための施設、それが靖国神社で、そのよすがとなる材料・資料を収集し展示したのが、この遊就館だ、というわけだろう。

 ひとつ考えたことがある。日本の伝統では、いくさの敗者の怨念を恐れ、そちらを祭り鎮魂したはずだ。梅原猛によれば、すでに飛鳥時代の法隆寺は聖徳太子上宮王家の鎮魂のための寺だというし、他にも平家物語然り、太平記然り、太閤記然り、忠臣蔵然りだ。天神様だって、能だって、そうしたものだろう。
 だとすれば、維新政府は、戊辰の敗者の旧幕軍こそを鎮魂すべきだったろう。たしかに白虎隊も五稜郭もそれぞれ記念されているし、イベントだって開催される。けれども、それは、敗者による敗者の祭りだ。敗者が敗者を悼むのは当然だ。鎮魂は、逆に勝者の側からこそ行なわねばならないのだ。日本の伝統からすれば、だ。
 ところが靖国は、招魂社のとき以来、ずっと、勝者のなかの殉難者を祭った。つまり他国の戦争英雄記念碑、革命烈士記念碑と同じだ。満州事変以後、「大東亜」戦争に際しても、靖国のその立場は変わらないはずだ。
 だったらそれは、胸を張って、誇りとして語り、追悼するべきであって、無念に死んだとして鎮魂されるというのでは、話がまるで逆だろう。もしも英霊が恨みを持っている、というのなら、それではやはり、先の戦争を指導した日本国政府の方向が間違っていた、という理屈になってしまうではないか。そしてもしも、敗者としての英霊の恨みが欧米列強に向けられているのだとしたら、今度はなにも、靖国でそれを鎮めてやる必要はないではないか。したがってなおのこと、戦犯を祭ることは理屈に合わなくなってしまうではないか。このままでは、靖国の祭りは、土方イベントと同様の存在になってしまうのではないか。
 だから遊就館の展示は、どこか「カッコいい」匂いがしてしまうし、売店の売り物にだって、そうした悪びれたところがある。遊就館の英霊の写真と資料の展示法は、ひめゆり記念館のコピーとしか思えないが、ひめゆりの方はいくさの悲惨さ、反戦、非戦がストレートに出ているだけ、その展示に訴求力を持つ。それは会津の白虎隊記念館でも同様だ。どのみち戦争なんて、狂気で烏滸の沙汰に決まっているのだ。遊就館でなにより感じ、理解できるのは、ただその一点だ。
 なぜ靖国は率先して土方イベントを協賛し、白虎隊の祭りを主催しないか(どちらも靖国の立場からすれば賊軍だろう。勝者である靖国は、敗者である賊軍をこそ鎮魂すべきだろう)。また、もし靖国が、アジアの大義に生きた勝者であるという立場を、戦後もなお変えないのだとするならば、そしてもしも靖国が国防烈士追悼施設、遊就館が国防烈士記念館であるというのならば、これまでの日本のたたかいを、堂々と誇ればいい、そして堂々と悼めばいい。
 さらにまったく同様の理由から、靖国こそが、沖縄戦、大空襲、原爆の無辜の死者をも、断固追悼すべきなのだろう。

 記念して追悼すべきなのに、神社として「鎮魂」してしまった。
 靖国は、そもそもの起源から捩れている、と思った。

 日曜日、ボルボ直る。よくはわからないが、やはり電気系の異常だったらしい。エアコンのブロワモーター交換、これは朝山さんのお蔭で中古を手に入れてもらえた。現在のところ静かに回っている。遊就館見学の後、2ゼミ合同で直会の真似事もしたし、なんとかこれで、厄が祓われてほしいものだ。