つ れ づ れ
2003年5月7月
これは「つれづれ」の5月分と7月分です。6月分・8月分・9月分はありません。Fumy Web Diary というフリーソフトで日記をつけはじめたのですが、html で作成してアップロードするのが(その分カスタマイズがきくし保存も確実なのですが)、どうにも仰々しくて、結局続きませんでした。 |
2003年5月4日(日)
晴れ/くもり 初回 サイト立ち上げ、各種設定などで、大変だ。連休でなかったらもっとひどいことになっていただろう。 -------------------------------------------------------------------------------- 2003年5月5日(月) くもり ようやく日記ソフトを立ち上げた。西村文宏(にしし)氏作成の Fumy Web Diary をダウンロードして調整した(http://www.nishishi.com/にある)。CGIのものにしようかとも迷ったのだが、まずはこのソフトの恩恵に与ろう。いずれにせよ、好みの色・スタイルにするには、なんでも相当の苦労が必要だ。 -------------------------------------------------------------------------------- 2003年5月5日(月) 晴れ 連休最終日 連休最終日。 午前中、テレビをつけたら、とある銀行のコマーシャルをやっていた。見るのはこれで2回目だ。バックに流れるのは、ビートルズ《プリーズ・プリーズ・ミー》のコピー。こうした、1960年代初頭、アメリカがまだ公民権運動などで痛まない時代の、中西部の都市の郊外における健全で幸福な生活風景、などといったコンセプトが、どだい日本人に訴えかけるはずがない、と思うのに。 午後、東久留米の「東京ファントム」へ、久しぶりに行く。軍モノ衣料は、実用的だし、惜しくないし、それにそこはかとない70年代のプロテストの残り香があって……理屈はどうあれ、気分にぴたりと来る。とはいっても、AVIREXのカジュアルバージョンのジャケットは、軍モノテイストをうまく生かしていて、場合によっては、used本物より雰囲気があったりする。とくに、Namファティーグ風の合いジャケットなどは、じつに洒落ていると思う。それにしても、代官山の「MASH」東京支店が撤退してしまったのは、なんとも残念至極だ。 -------------------------------------------------------------------------------- 2003年5月8日(木) くもり/晴れ GOTT MIT UNS きぬのみちの勤務先のコンピュータ(向こうから勝手に貸与された○士通)のデスクトップには、"GOTT MIT UNS"という文字が浮かび上がっている。もちろんペイントによる自作だが(フォントはフリーサイトからダウンロードした)、これはかつて東ドイツ(いいですか、「東」ドイツですぞ)を旅行したとき、ライプツィヒにある、巨大な黒いデンクマル(普仏戦争記念碑)に浮き彫りされていたことばを思い出して作ったのだ。 「神われらと共にあり」この文句は、勇敢だった戦士たちを追悼するのに、いかにもふさわしい。けれどもこのフレーズは、元来ドイツ軍の掛声なので、かならずしも宗教的に使ったというわけではない。その意味ではいわば、フランスの騎士たちが「ロランの歌」以来、「モンジョワ!」と叫ぶのと同じことなのだ。だからそれが戦争記念碑に刻まれるのは、むしろ当然なのである。 しかし、もう一年以上経つし、そろそろ飽きたなあ。 なにか他のことばに変えようか。 -------------------------------------------------------------------------------- 2003年5月14日(水) くもり/晴れ 三線 午前中教案準備の後、A大学とB大学で教え、それからピキ氏とともに、歌舞伎町のかんじゃーやーへ。かんじゃーやーは「鍛冶屋」のこと。女性デュオ、シーサーズの片割れ、宇野世志恵さんの店である。 火曜の夜はいつも、シーサーズのもう一人、持田明美さんによる奄美三線教室開催とて、にぎやかである。店から生の三線(ところでこれは「さんしん」と読む)と島唄がそこはかとなく流れてくるなどというところは、そうないだろう。 と書くと、いかにも気取ったような、敷居の高い店のように取られると困る。気の合った人たちが、気の合ったように振舞っているだけの、あたりまえの店だ。まぁ、たまさかそこに、ちょっともののわかったような、気の利いた風な口をきく、賢しら気なお客が来ると、そんな餌にさっそくピキ氏が食い付いてかかっていく、という時も、ないではないが。 三線教室がはねたあとで、居残ったわれわれ、つまりきぬのみちとピキ氏も、ちょっくら三線を手に取る。 ピキ氏はもとアマチュアギタリストとして鳴らして、今も相当の腕でウクレレもうまい。それにひきかえこっちは、先週はじめてびくびくもので手にしたばかり、壊しゃしないか、傷つけやしないか、その心配ばかりで肩が凝ったことを覚えていたので、今夜も恐る恐るの練習だったが、爪を使わなかったのがよかったのか、かえって力が抜けて、親指でうまく弦を弾く(正確には押し下げる感じ、と世志恵さん)ことができて、音も大きく響いた。 楽譜の数字をたよりにしながら、見よう見まねで、ドレミ……からはじまって、それでもなんとか、「安里屋ゆんた」のイントロまで弾けた。世志恵さんの指の動きを観察しておいたので、真似ができたのだ。 だいたい昔、中学生のころ、例えば試験勉強で、なんでも三回やらないと、ぜったいに覚えられなかった。それも二回目まではまったく覚えていない状態で、親がさすがに心配するほどだったのが、それが三回目になると、ほとんど完璧に暗記をこなせているのだ。あの二回目までのざまは何だったのだろう、といった状態だ。そのことを、この練習で思い出した。 世志恵さんはひどくほめてくれたが、こちらにはどうも実感がわかない。しかし、同じことをやっていたピキ氏より、多少進歩が早かったので、それは素直に嬉しかった。ついでに調子に乗って、エイサーの練り歩きのとき、歩きながら三線を弾いている光景をつい思い浮かべ、立ち上がって弾いてしまったら、いきなりそんなことはなかなかできないのだそうで、これも世志恵さんに感心された。 ギターの類の弦楽器は苦手だったのだが、三線はフレットも無く、握りやすいし、音も自分の耳で合わせられるので、はるかに自由な感じだ。三線の胴は胃の近くで鳴り響いて気持ちはいいし、妙に心が開けた。 -------------------------------------------------------------------------------- 2003年5月15日(木) 雨 半蔵門線 今年度から、通勤の時に、営団地下鉄半蔵門線を使うようになった。 それで、半蔵門線は、今年3月から、押上まで延長されて、東武鉄道と相互乗り入れになった結果、東武電車の車両が入ってくる。つまり、営団、東急田園都市線、東武伊勢崎線の電車が入り乱れているわけだ。しかも、行き先もばらばらだし、列車の種別も快速だの、区間準急だの、何種類もあってわけがわからない。 こういう状況が、東京の地下鉄路線でも、いまや普通のことになってきたようだ。 しかしこれでは、関西の神戸高速鉄道と同じことではないか、と思う。あそこの会社はたしか、トンネルと駅の施設だけを造って自前の車両は持たず、何社もの私鉄を乗り入れさせて経営していると思ったが、営団もそんなになってしまうと、アイデンティティを喪失してしまうかもしれない。 というのは、他社の車両に乗ると、路線図の中の、営団路線内の駅名掲示が、当然だが小さいのだ。しかも営団の他路線の図が、これも当然ながら、ない。だから、営団だけを利用して、しかも乗り換えをしたいという人は、たいへんに困る。毎日通勤している勤め人ならいざしらず、日中にはそうでない人も、大勢いるのだ。だから、 「ああ、もう来た。早く乗れ、乗換えなんて、あとで車内の図で見ればいい」なんて昔ながらの考え方をしている東京人は、後悔先に立たず、しかも路線は日に日に増え、延長されているのだ。 銀座線、丸の内線、日比谷線、ちょっと増えて東西線、などという時代が懐かしい。 と言いながら、自分は千代田線をメインに使っているのだが……。 -------------------------------------------------------------------------------- 2003年5月17日(土) 雨/くもり ナイトメア 夜半、悪夢で魘され目覚める。 時代は今世紀前半、場所は上海とか、とにかく混乱期の中国のようだが、もちろん夢なので、よくわかるはずもない。 自分は革命家。会合場所に踏み込まれたらしく、ある部屋の一室で、銃撃戦の後、打ち倒されている。回りにはやはり、同志の身体が横たわっている。 血が出ている。出血多量らしい。顔の横、低い応接テーブルの下に新聞があり、それを片手で取って紙面を見ようとするが、すぐに血でぐしょぐしょに染まる。記事は最新の政治情勢らしく、ソフト帽をかぶったソヴィエトの政治家らしき人物の写真が掲載されている。 痛みはなく、意識ははっきりしている。どのみち死は避けられない。もうこうした政治情勢にコミットすることはできなくなるのだ、何分か、何時間か先か、意識がなくなるのだ、と思うと、無念とともに恐怖に捕らえられ、叫ぶ。 ──というところで、自分の声で目が醒める。 夢は、見るのはいいが、ありありと覚えているのはいけない、と鍼の名医の先生が言っていた。こんな夢は、自分だって覚えていたくはない。 -------------------------------------------------------------------------------- 2003年5月24日(土) 晴れ 文鳥騒動 だいぶん日記が飛んだ。日記、というからには飛んではいけないのだが、「つれづれ」なのだから、飛んでもかまわない、という理屈も立つ。旅行に出ればどんなに夜遅くなっても日誌は欠かさないし、また留学していたときも毎晩日記をつけてから、さて勉強、といった具合だったのだが、家に帰ってくると、もうだめだ。 もっとも、あまり書くことのない日常だ、ともいえる。イラクのこと、白装束のこと、ブッシュと小泉、有事法案、個人情報保護、などなど、いや2ちゃんねる、さるさる日記、ネットには話題が満ち満ちているし、屋下に屋を架すのもどうかという気もする。やはり、自分が「これぞ」と思ったことを書き記すのがいいようだ。 今夜は月に一度の、友人たちとの集まりの日だった。高校の同級生をコアにして、毎回十人前後が集まって回り持ちで話題提供をする慣わしが、もう二十年以上続いている。会場は、きぬのみちの家。 そこにいつもオブザーバー? として参加? しているわが家の文鳥(クロとシロ、ようやくコーナーを開設したので見て下さい)が、騒動を引き起こしてくれた。 妻がゲームセンターのクレーンで十把一絡げに掴んできた小さなひよこを、文鳥の目の前で振ってからかっていたら、ひよこの小さな羽根のつもりで背中に出ている小さな針金にクロがパクっと食い付いて、口に入れてしまったのだ。あわてた妻が篭に手を入れ、クロをひっつかんで嘴をこじあけようとしたが、もう影も形もない。 さては呑み込んでしまったか、と二人とも真っ青になった。友人たちがいるので大騒ぎをして集まりをぶち壊すこともできないし、土曜の夜に動物病院が開いているわけもないし、ともかく様子を見ていたら、何事もなく毛繕いをして、餌を食べ、飛びはね、水を飲んでいる。ただ心なしか、身体を膨らませてぶるっと震わせる回数が多いようにも思い、「さては喉か食道(そんなものがあるとすればだ)につかえて苦しんでいるのか、この分だとうまく糞にくるまれて出てくれればいいが、さもなくば明日の朝は落鳥か、まだサイトのコーナーさえ立ち上げていないのに……」と暗澹たる気分になっていた。 集まりが終わり、友人たちを送り、後片付けも済んだ後、「しかたない、ともかく篭の底に敷く新聞紙だけを替えて、新しい糞を見よう」ということにして、もういちど、一縷の望みを託して古い敷き新聞紙を調べていたら、 「あっ、あった〜」と妻の声。 見ると糞よりやや小さ目の針金が、新聞紙の上に落ちている。だが小さいとはいえ、先は尖り、みるからに剣呑だ(まさに小鳥にとっては、針金でも「剣」を呑むことに相当するだろう)。 どうやら妻にひっつかまれて篭の外に出されるさいに、苦し紛れに吐き出したと見える。 とりあえず(どころではない、大いに)安心したが、クロにはいつも右往左往させられる。好奇心が強いので、前も観葉植物の葉をかじって、あわてて動物病院に連れて行ったこともあった。そのときは、なんだか肝臓強化剤の水薬をもらってきて、それを呑ませて事無きを得たが、鳥のくせに人並み以上で、生意気千万だ。しかも当人は澄ました顔でいるのだから、なにをかいわんやだ。 -------------------------------------------------------------------------------- 2003年5月25日(日) 晴れ/くもり カインズホーム 今日は妻と買い物に行く。首都高4号線永福から入り、中央道八王子インターで下りて創価大学の傍らを通り、あきる野サマーランドから程ない牛沼というところに、千代鶴という地酒を醸造している中村酒造という蔵元があって、そこに蔵造り資料館があるのを、かねて目をつけていたので、まずそこに寄る。 酒造元資料館は会津などで入ったことがあるが、それに較べてはるかに小規模。しかし妙に売る気満々にショウアップしているより、ずっとましだ。ふだん訪れる人もほとんどないのだろう、蔵元夫人かパート主婦か知らないが蚊取線香を焚きながら、ひとり手持ち無沙汰に番をしているだけ。しかし応対は優しく親切だった。「千代鶴純米吟醸」を一本購入。味は(もちろん帰宅後です)大甘フルーティだが、品があって喉越しがいい。 圏央道日の出インターの横に、東京花壇という、大きな敷地を持つ店がある。花卉、肥料、土、ガーデニング用品の専門店で、今日は日曜日ということもあって、駐車場は第二までほとんど満車の盛況。山梨ナンバーの車も来ていて、そちらが本場なのに、なんで? と思う。店の中には、あのコマーシャルそのままにチワワを抱えたような客がいたりして、まったく、「それぞれが、それぞれにそうだと思うところの休日を現出している」のだと感慨を持つ。 ところで当家のベランダはマンションの6階、しかも道路に面して西向きときて、日当たり条件は最悪、サフィニアとかああいった品種改良をした類はつねに全滅する。ペンタスが1株だけ、もう何年も咲き誇っているのは、よほど合っていたのだろうと思わざるを得ない。しかしそのペンタスがぐっと根を張っているらしく、他の花が根付かないのはそのせいかもしれない。ともかく、今年も懲りずに何度目かの挑戦をおこなうつもりで、花苗を買ってきた。 圏央道を経由して、最後に寄ったのは、鶴ヶ島のカインズホーム。開店当初から巨大だと思っていたが、ますます巨大化し、周辺の敷地はことごとく駐車場になっている。それでも今日は満車に近い。このホームセンター一軒の開店だけで、近隣の商圏に恐るべき変化をもたらしていることは疑いない。ここに来れば、生鮮食料品を除き、ほとんどないものはないのだから。しかも廉い。カインズは各地にあるが、ここ鶴ヶ島の店がいちばん品揃えも豊富で、しかもゆっくりと買い物ができる。 なぜカインズホームが栄え、ダイエーが傾いたのかを考えた(どちらも贔屓だからだ)。それは恐らく、「郊外」「ベッドタウン」というものの規定/把握/マーケティングの方向がまったく逆だったからだ。ダイエーは、郊外のベッドタウンを、都市化へ向かうものと捉え、店舗を都市中心部のデパートのようなものにしていき、また品揃えも高級風に変えていった。それに反してカインズホームは、Do It Yourself 指向にターゲットを合わせ、そこから発想して品揃えをしている。「東京花壇」の盛況、そしてカインズホームの資材館や農業館(だったと思うがうろ覚え)の隆盛をみると、近年の郊外のベッドタウンの住民/住宅の指向は、あきらかにカントリーライフにある、そこがダイエーの誤まったところだったのではないだろうか。しかも日本人はその一方で、欧米風の、ダンボールを積み上げたような実用的だが大味なハイパーマートでは物足りない。ただ目的のものを買うにとどまらず、一日遊べる施設でないと来ないのだ。それもまた、ダイエーの見損なったところだったろう。 ここ鶴ヶ島のカインズホームに隣接して、カルフールとトイザらスがもし開店したとすれば、この一帯はもはや恐れるものなしとなるだろう、などと夢想してしまった。 帰宅していつも思うのは、買うのはいいのだが、それを家に運び上げるまでが一苦労で、そのことを、買うときにはあまり考えない、ということだ。 ボルボは快調、ついこの間アーシングをしたばかりで、そのことはまたあらためて書きます。 |
2003年7月2日(水) 晴れ 7月最初の日記・東急文化会館雑感 まだ梅雨明けには程遠いが7月、気を取り直して書く。 2003年7月3日(木) 晴れ/雨
アーシング以来快調だったボルボがダウンした。 2003年7月6日(日) 晴れ/くもり 午後から、母を連れて、入谷の朝顔市に行く。銀座線の稲荷町で降りて、下町らしい風情をなお残す道を入谷まで歩く。 2003年7月11日(金) 晴れ/ときどき雨 昨日今日で、高校訪問終了。高校訪問とは、最近の中規模・小規模大学の教員に課せられる営業活動で、受験生(つまり受験料)と新入生(つまり入学金と授業料)を一人でも多く獲得するために、高校の進路指導部を訪ねて、自分の大学に関する特色とそこで学ぶ利点─人材育成の理念とカリキュラム構成および卒業後の進路見通しなど─とを宣伝し、学生への周知を依頼することが大きな目的だ。まずは高校の玄関受付で名刺を出し、進路担当の教員への面会を求める。最近の学校は、例外なく面会簿に氏名・身分・面会相手・時刻を記入し、名札を胸に着けることとなっているので、その手続きを済まして進路指導部の部屋を訪ね、はじめて面談ということになる。 2003年7月14日(月) 雨/くもり |