知的営為と権力

 知的な営為とは、構築するのみではなく解体することもその計算の中に入る。いや、もしかしたら、知的な営為とは、すでに構築されたものをあたかも新たに構築するかのように、あるいはすでに解体してしまっているものを解体するかのように見せかける方法のことかもしれない。ミネルバの梟を待たずとも、何のために!
 我々は、凄惨な諸事実を解決するために、すでに秩序があるかのように、もしくは秩序を回復する努力が確実になされているように、混乱のさなかに我々自身を引きずり出すために思考するのか。混乱を収束させる目的で、政治的対立へと引きずり出すということは、我々に必要な権力があることをいやおうなしに容認させる。このいやおうなしの力こそ根源的な権力なのだ。
 この根源的な権力は、さらにそれをいやおうなしに認めさせる権力へと終わることなく続く。それを終結させるために、権力は、それの成立の後に直ちに管理を始めなければならない。権力の絶対性を破壊させるこの危機を管理することが権力の第一の機能となる。従って、権力による危機管理・安全保障とは、そのための法の整備やそれに基づく制度を作り上げ実行するにしても、目下のところすでに起こってしまった危機に対する権力行使ということにならざるを得ない。
 しかし、我々の生の事実として我々が見据えているのは、このような秩序の構築と解体の循環への確信なのではなく、断片的に広がっている確信の根拠足り得ない諸事実のみなのではないか。