2006年 NHK 正月時代劇

三谷幸喜脚本

「新選組!! 土方歳三 最期の一日」

レビュー

 

2006年正月3日記す
2006年正月11日補説(
青色部分
 
 この日の朝の番組「土方歳三とオレ 俳優・山本耕司 会津の旅」(本編では箱館のみで大部分のドラマを描くので、ここで会津の顔も立てておかねばならない)で、山本耕司は「いま喋っているのが土方かオレかわからなくなっていた」と述べていた。また「土方が死ぬシーンを観て、ああこの人が死ぬのならお終いだ、降参だと思った」とも述べていた。演じ終えて解放されたような顔をしてもいた。
 つまり……。
 土方は「新選組!」では死に切っていないので、死なさなければならない……
 そのことによって、山本耕司に憑いている土方を「落と」さねばならない……
 そこで、

「新選組!! 土方歳三 最期の一日」

が必要とされたのだ。
 
 オープニングのナレーションは国井アナウンサー。あたかも「プロジェクトX」のノリだが、考えてみるとそれには不思議もないので、「プロジェクトX」はある目的を達成すべく運命づけられた男たちの物語だったが、この「組!!」にもまた
〈「誠」を託されし男たちの物語〉というテーマが、始めから終わりまで、じつは奏でられつづけている。
 板付は島田・尾関・相馬。奇襲突撃をかける寸前、島田が蛇に驚いて逆にピンチを招く。あわやというときに剣が一閃、「待たせたな!」と、池田屋を髣髴させつつ土方が登場する。
 ひといくさの後の小休止、土方が相馬の問いに答える形で、新選組の道程が回顧される。山南の名が出て「ああ、あの法度を破って切腹した人か」と軽く歴史の隅に片づけようとする相馬に対して、土方は「山南総長は
武士の中の武士だった」とたしなめるが、この後の場面でもしばしば見られるように、山南の霊(と言って語弊があるなら精神/ガイスト)は土方に乗り移っている。それにそもそも、自分の見果てぬ「夢」を誰か(例えば永倉や龍馬)に「託する」ようなことを始めたのは、あの山南ではなかったろうか
 五稜郭司令部の会議に出ないことを心配する島田に、土方は「真打は最後に出てくるもの」と言うが、これはもちろん預言としての科白である。
 このあたりからドラマは新旧の衣装が入り乱れる華やかな舞台仕立てとなり、鎧直垂姿の永井様が登場、大鳥圭介が代弁するところの新選組に対する歴史的通説を覆す証言者となる。佐藤B作扮する永井尚之は、このドラマの中では、随所で観客にドラマのテーマを思い返させる科白を吐く、重大な狂言回しとしての役割を担っている。
 とはいえ、土方不在の間に、蝦夷共和国の総裁である榎本武揚は、すでに明日の降伏を決している。
 
 箱館山の陣中で市村鉄之助が土方に尋ねる。「一番強い生き物はなんですか」と。「ヌエだ」と答える土方。これは後で薩長のメタファーだと判明する。土方は市村を呼び出し、「日野へ行け」と命ずる。「誰かに伝えなきゃならネエんだ」つまり語り部となれ、鎮魂者となれということだ。そして沖田みつに渡すべくコルクを
「托」す。これで、「組! スペシャル 第三回」の終局でみつが手にしていた二個のコルクの、少なくとも一つの経緯は説明された。そしてこのコルクが、勇と歳三の「誠」の道のりの象徴であることは言うまでもない。
 市村が去った後、はるか下界の街灯りがまたたく中、壊れたガス灯を眺めながら、土方は試衛館時代の一幕を思い起こす。どの生き物が強いかという、食客たちの埒もない話。これは新たに撮り下ろしたシーンだろう。一日のスタジオ入りで済むだろうから。
 さてここでも一番強いのは混合怪物のヌエだ、と言う土方に「一番怖いのは人間、動物は欺かないから」と答える山南、このやり取りも後の伏線となっている。そして「みんないなくなっちまった……」とひとりごちて土方は去る。いやいなくなったどころではない、かれは全員を背負っているではないか。ちなみに「日光で熊と格闘した」という源さんの自慢話は、八王子千人同心の任務である日光勤番をあらためて語るものだ。恐らくはこれは、一年を通じて浴びせ掛けられてきた「考証無視」という口さがない批判に対して、そんな背景くらいきちんと押さえてドラマを作って来ていましたよ、という作者からのメッセージだろう。
 熊繋がりではないが、子供の市村は島田の熊のような手に捕まり、新選組は土方の死の決意を知る。悲憤慷慨する島田は市村に
「お前は新選組を託されたんだ、走れ!」と叫ぶ。
 
 永井様が現われ、土方に対して、榎本が降伏に決していることを告げる。永井が「俺たちは散々戦った、もう此の辺で良しとしてもいいではないか」と言うと、土方は「すべて近藤のためにやってきた、罪人にしとく訳にいかない」と憤激する。すると永井は「ごめんなさいでいいじゃないか、それで怒る近藤さんじゃないだろう」と意表を突くことを言う。
 そうなのだ。考えてみればそうなのだ。「組!」の近藤勇、ある意味イエスであるこの近藤勇は、そんなことで怒るような人物ではけっしてないのだ。いやそれのみならず、新選組の理解者であり開明派の人格者である永井尚之の科白としてこんなことばが発せられたら、このドラマの近藤は、もうその瞬間に「鎮魂」されざるを得ないではないか。
 そして永井様は言う、「薩長の思い通りにすればどんな世の中になるか、見届けようじゃないか」この科白は終盤にも語られる。見届けるのもまた、
「託された」人間の役割だ。永井様はじつに美味しい役どころを取っている。
 
大きな近藤を見ている永井様。しかし土方には、なお自分の身の丈分の大きさの近藤(カッちゃん)しか見えていない。つまり土方は、友人の汚名を自分がなお雪げていないことを自分に対して怒っているが、それと同様に友人もまた、自分に対してそのことを怒るだろうと、そういうふうに考える。だから土方は、自分が責められるのではないかという不安のもとに自分を責め、それを償うために死ぬしかないと思い定めるのだ。
 それで土方は納得しないまま、ある場面を回想する。
 
 舞台は会津。山の中腹で斎藤は笈を背負い、土方は風呂敷包みを提げている。墓を掘り、戒名の入った塔を建てる。容保公も登場、これは埋葬の場面なのだ。容保公は戒名の由来を説明し、土方は風呂敷包みを解いて近藤の首級を取り出す……と思いきや、そうではなくて中に入っていたのは新選組の隊服の羽織だ。しかしそこに斎藤も容保公もいるということは、墓にはたしかに斎藤が京都から取り戻してきた近藤の首が入っているはずなのだ。そう思わせつつ、あえてそこは曖昧にしておいて、土方は羽織を半分に切って墓に手向ける。
あんたの思いはまだ半分しか晴らされていない、オレがあんたから託された(と土方は思い込むわけだが)残る半分を背負って戦い、かならずあんたの汚名を雪ぎ、そうして天下晴れてあんたのもとへ行く/逝くという、これは土方の決意の表われだ。そこに「北へ行け」と容保公からさらに「託される」土方。ためらう土方に対して「俺が残る(会津に誠を報じる)」と申し出る斎藤。「託した」「承知」と懐かしい台詞が続き、土方が「(局長に対するお前の)最後の恩返しだな」と締めて、斎藤は土方の手向けた羽織の上に、さらに容保公拝領の虎徹(本来は近藤が拝領すべきものだった)をそっと乗せるのだ。こうして斎藤も「託された」者のひとりとなる。
 
 ここからドラマは、舞台劇の様相を示す。大鳥、土方、榎本の三人の絡みは「やっぱり猫が好き」の三人姉妹でもあるし、土方と榎本の会話は、殺人犯人と古畑任三郎の対決をも思わせる。そのため、山本耕司が科白が多くて面食らったというのもうなづけるし、他方では余程の達者な俳優でないと、この一幕はまず支えきれない。
 それを見事にこなすのは、まず大鳥圭介役の吹越満だ。五稜郭の司令部で、作戦台のジオラマ(大変な小道具を作ったものだが、伏線や象徴として巧みに使われる。最後に壊されるのはまったく勿体ない)に乗せる駒作りにうつつを抜かす無能な軍事オタクとばかり思わせておいて、最後に鮮やかなどんでん返しを食わせる。大鳥との言い合いの中で、「最悪の場合を考えて策を立てる」のは当たり前だろう、と土方が怒鳴るのは、山南が乗り移っていれば極めて当然だ。
 総裁に会わせろ、いや会わせぬの一触即発の押し問答の中、榎本が登場し、舞台はこのドラマの白眉、土方との差しの対決のシーンとなる最初は西洋貴族ばりのノンシャランを気取っていた榎本が、多摩弁の土方とのやり取りの中でしだいに伝法な江戸旗本口調に変わっていくあたりの芝居(「私だってサムレエ(侍)だヨ」)の小気味よさと滑舌の妙、姿の美しさ、そして安心感は、歌舞伎俳優片岡愛之助でなければ、到底しっくりは来ないし、務まらないだろう。
 さて二人が丁丁発止と火花を散らしながら夢を語り合っていくなか(その夢はいかに薩長に張り合い、上回るかということに集約される)、新政府軍は夜陰に乗じて箱館山の裏を登り始める。あたかも映画「スパルタ総攻撃」を思わせる、テルモピレーのペルシア軍を彷彿。ここでこの戦いのドラマは俄然、ギリシア悲劇という荘重さを纏うのだ。
 各部隊指揮官集結、「戦いましょう!」とこもごも訴える。じつは大鳥も降伏を無念に思っているということが表情でわかるこのあたりから大鳥の立ち位置が変化していくことを観客にも定石的に示す、壷に嵌まったうまい演技だ。
 場面はふたたび土方と榎本。土方「ようやく気付いたよ、大事なことはアキラメないってこと、オレはあんたの夢にかける、夜が明けるのはマダマダ先だ、生きるために戦うのだ」ここで土方が使う「あんたは
ロマンチだ」は、勝海舟の山岡への評言「ロマンチスト」を山岡が聞き取り損ねて繰り返すことばに由来しているわけで、「組!」のその場面を観ている人なら懐かしく可笑しい(榎本「変なところで切るな」)。
 生きる目的を取り戻した土方。だがそのとき、作戦台をいじっていた大鳥の手から将棋の駒「香車」が滑り落ちる。まっすぐに突っ込んで行く香車は土方の象徴(新選組の象徴、
誠の心の象徴)、それが落ちるということは、当然、かれの運命を不吉に暗示する。
 もちろんそんなことは露知らぬ土方は勇躍作戦台に向かい、「これから軍議を始める!」と叫ぶ。かれが考えた作戦は、寡兵もてよく大軍を破る「桶狭間戦法」だ。一気に敵の本陣を襲って敵将黒田を葬り、背後から敵の先鋒を突く。ちなみにこの人は、後の北海道開拓使長官となる黒田清隆だ。「(諸藩混合の)薩長はヌエだ、それを最後に人が倒す」思惑が錯綜してまとまりのつかないキメラ=ヌエのイメージが、ここで最強の薩長に結びつく。そしてそれを倒すのは作戦に長けた「人を欺ける」人間なのだ。ここでも山南が想起される
 作戦台の下に隠れて聴いていた大鳥も這い出てきて土方と和解して(「総裁に戦う気力を甦らせてくれて感謝する」)、後詰はまかせてくれと香車を握り直し、最後に男となる。「(榎本の作る)その国では、近藤勇はもう罪人ではないのだな」と土方は問い、その答えを得て安堵する。握手を求める榎本、「それはどう言う仕草だ」と尋ねる土方、これはヒュースケンとの出会いの遠い記憶を甦らせる。思えばあのマントが、今日の土方を予言していたのだ。
 その一方、裏山にはペルシア軍がひたひたと迫っている。
 
 後は一気呵成。行李の中に豊玉発句集がちらりと登場し、土方は近藤の羽織の片割れを取り出して頭に巻きつける。
これは前述したように、土方が近藤を背負って、ともに戦うという象徴だ。
 ただしこのとき、以前とは違って、土方はもはや生きて近藤の汚名を雪ぐつもりになっている(「あんたに会うのはもうちょっと先になりそうだ」)。

 だが希望を見出した人間を悲運が襲うのは、悲劇の常道だ。いやそうではなく、死に急いでいた土方が生きようと思ったということは、それはその瞬間に、かれがもはや十全に「生きた」ということなのかもしれない。ともかく間道を抜け、敵本陣を指呼の間に望んだその時、箱館山に炎が上がるのを土方は目撃するのだ。ついに敵は山を越え、箱館市内の新選組陣営になだれ込む。討ち死にする古参隊士の蟻通。山上では、土方が眺め回想に耽ったガス灯が踏みしだかれる。
「鵯越だ」と驚く榎本と大鳥、一年「義経」を観た視聴者ならずとも判る比喩だが、じつはもうひとつ深層に隠れているのはテルモピレーなのだ。というのも、鵯越を狙ったのは、むしろ土方の側なのだから。奇襲と奇襲の応酬は、僅差で薩長に軍配が上がる。
 急ぎ駆け戻った土方は、榎本に「生き延びて、この地に夢の花を咲かせろ!」と叫ぶと、弁天台場の新選組を救うべく、単騎五稜郭を出て一本木関門へと、香車さながらに疾駆する。「あれを見よ、敵の船が沈む」兵を叱咤し、戦列を立て直して突撃しようとしたその瞬間、敵の弾丸が脇腹を撃ち抜く。通説なら「やられた!」と言ってそのまま絶命するのだが、生きようと思い直しているこのドラマの山本土方は、ただでは死なない。「新選組副長、土方歳三!」と名乗りを上げ、天然理心流の剣士として群がる敵を切り倒し、遂に力尽きて倒れ伏す。
「榎本さん、スマン」この科白は、一時は近藤ともその姿を重ね、最後にはふたたび理想の世の中を現出させる夢を託す対象ともなった榎本への、土方からの「ごめんなさい」だ(もちろん榎本だって許すだろう)。だから近藤も、大の字になって仰向いた土方の顔を、高い青空を背景に、笑顔で見下ろしてくれる。それを見て土方もようやく、許されたことに対する、救済された者の笑みを浮かべるのだ。
「カッちゃん……」土方は応え、これでドラマは「組!」「組!!」を通して、ようやく平仄がつくのだ。当然の約束事とはいえ、しなければならぬ、また崩してはならぬ台本と演出だろう。
 
 五稜郭では「終わった……」と榎本がつぶやき、大鳥は作戦台を殴りつけ、ひっくり返して号泣する。かれのこぶしが作戦台を打つごとに、現実のその場所が打ち砕かれていく象徴的演出も常道。
 そして舞台の終局は弁天台場、狂言回しの永井が現われて新選組に土方の死を告げ、ふたたびこのドラマの基本テーマを繰り返す。「生きるんだ、生きて仕事を引き継げ、新選組を受け入れなかった世の中がどうなるか見届けよう」尾関が
誠の旗を高く差し上げ、「託されたもの」とはなにかが、観客に明らかに示される
 エンディングは、もう本州に渡ったとおぼしき草原を、こけつまろびつ走る市村の姿。足をもつれさせて草に顔を突っ込んだ拍子に、土方から
托された油紙の中身が、ふところから飛び出る。見るとそれは、椅子に坐った洋装の土方の写真。それを大切に収め直した市村は広い草原を脱兎の如く駆け出し、たちまち豆粒のようになって消えて行く。
 こうして
「託されし人々の物語」はなお続くという余韻を残しつつ(じつはそれは、私たちにも託されているのだ)、新選組!/!! 全巻の幕は閉じられるのである。
 
蛇足:
●山本土方の写真は、本物よりもあるいはいいかもしれない。ただあそこまで目を怒らせなくともいいかとも思うが。
 
2006年1月11日付記
『FUSOSHA MOOK TVnavi特別編集 2006 NHK正月時代劇「新選組!! 土方歳三 最後の一日」メイキング&ビジュアル完全ガイドブック』(産経新聞社、2006年1月3日第1版)を、ようやく購入した。
 たしか TVnavi の予告によると、昨年12月の16日か17日に発売予定だったので、そのころ神保町あたりのめぼしい本屋を軒並み探したのだが、まったく置いていなかったので、これは発売と同時に殺到した腐女子にことごとく買い占められてしまったか、予約販売でほとんど捌けてしまったのだろうと思ってあきらめていた。
 ところが1月8日、滋賀県立大学で開かれた古代武器研究会の終了後、ふっと京都に立ち寄ってみたくなって伏見御香宮と「龍馬通り」を訪ねた帰り、京都駅新幹線八条口の名店街にある書店に「もしかして……」と思い何気なく入ってみたところ、どういう霊感が働いたものか、1冊だけあったのだ。すでにだいぶん多くの人の手に取られたらしく、表紙には傷もついていたが、迷わず買い求めた。
 一読目を通すと、山本耕司扮する土方歳三を中心として、「組!!」のみならず「組!」全編にも亙る、まったくマニアックな本だ。しかもメイキングを始めとした「組!!」の詳細が載っているので、そのことによる先入主を持ってドラマを観るよりは、レビューを書く上からも、後で購入した方がかえってよかったと思った。
 とはいえ、いささか嬉しかったのは、私の考察したところと三谷幸喜の狙ったところ、それに山本耕司の表現しようとしたものとが、さほど乖離していなかったということだった。

 

 

旅人よ、往きてラケダイモンの人に告げよ、

われら命に服してここに伏しきと

O xein', angellein Lakedaimoniois hoti tade

keimetha tois keinon rhamasi peithomenoi


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