++浅薄日記++


2005年9月の日記


2005年9月11日(日) 総選挙
●午前中から酸欠のような蒸し蒸しした曇り空。投票に行って帰って来るだけで汗だく。午後、案の定、激しい雷雨と落雷。沛然たる豪雨という形容がまさにぴったり。通りの向こうが見えにくいほど。こんな雨はちょっと見たことがない。港区の方では冠水とのことだった。
●選挙はいつも、パンとサーカスだ。閉塞感のなかで突破口を作りたい、何かを壊したいという国民のルサンチマンが、時の権力ではなくて民主党の方に向かうという、おかしなねじれだ。
●テレビ朝日選挙速報番組での、田原壮一郎による小泉へのインタビューを観て:もちろん、挑戦的に煽ってぽろりと本音を漏らさせようという手法だ。昔風のやくざジャーナリズム。こうした清濁併せた濃密な人間関係構築というのは、かつては通用しただろうし、またそれによって田原が輝いていた時期もあったろう。しかしこんなに至近距離に踏み込むコミュニケーションというのは、現在主流となりつつある新人類以降の世代にとっては、到底堪え難いことだろう。
 ネット世代からジャーナリズムが「マスゴミ」と呼ばれて毛嫌いされるという原因のひとつに、こうした止むを得ざる世代差というものがあるかもしれない。
 人間関係の変化だ。
No.236


2005年9月12日(月) 総選挙結果
 今度の選挙は、衆議院解散直後の小泉のガリレオ演説で、もはや勝負あったと見ていた。反対派は、なぜあれを封じなかったのだろう。なぜ先手に打って出なかったのだろう。小泉は必ずああするだろうし、あんなことをされれば結果は明白なのに。
 とはいえ、ガリレオ演説が、歴史に残る名演説だとは思わない。あれはいわば「ジュリアス・シーザー」のマーク・アントニーの演説のようなものだ。たちまち流れをひっくり返して潮を味方につける典型的論法だ。また内容は一つ覚えで、これは毛沢東もそうだったし、ヒトラーも「マイン・カンプ」の中で喝破している手法だ。日本の政治家たちは、もしわかっていても歴史から学ばないのだな。
 他方、「虚仮の一念、巌をも通す」ということはあるのだな、とも思う。

 これで日本は、満州帰り派と労農右派とが築いた戦後コミュニズムから、とうとう脱却するのかもしれない。自民党が、その人たちの牙城では、もはやなくなったのだ。しかしこれは、89年の東欧革命以来、すでに予定されていた道をただ歩んだということなのかもしれない。
 けれども同時に、コミュニズムのよい点も失ってしまうだろう。それは、相互扶助という心持ちだ。
 マーケットは好感して株も円も上昇しているというが、来るべき社会において、われわれはどのくらい幸せになるのだろう。
No.237


2005年9月16日(金) 山梨旅行
 一昨日、昨日と、山梨のリルケ氏に招かれる。用事のひとつは、四川チベット研究会の打ち合わせ。今年は私は行かないが、登山隊が未踏峰を目指す。リルケ氏は日本本部責任者となる。夕方前に甲府に着き、腹ごしらえの後、リルケ氏の大学で登山隊との会合に出席し、いくつか調査項目について希望を述べる。夜はリルケ氏宅で、地元ワイナリー産の一升瓶赤ワインを空けながら、深夜まで話す。
 翌日はリルケ氏の案内で、甲斐小泉駅前に開館まもない、平山郁夫シルクロード美術館へ行く。凄い建物ができあがったものだ。内戦のあおりで散逸しつつある、ガンダーラ美術を始めとする、アフガニスタンのシルクロード文物を、平山郁夫が執念で収集したものの特別展。展示品のいくつかは、過去の調査隊が撮影した写真と照らし合わせて、本来置かれていたり描かれていたりした場所や位置がわかり、遺跡破壊のひどさを物語る。現地での復元展覧は、もはや望めないだろうから、今後は世界各国の遺物のデータを集めたバーチャル・リアリティによる方式でやることになるだろうと感じた。
 やや遅めの昼食は、柳生博の有名な店のすぐ隣にある、アルザス料理の店。私はシュークルートを食べる。店内はテーブルとテーブルの間隔がゆったりしていて、天井も高く、また味もなかなかいいのに、どうも客の入りがよくないらしく、10月始めには冬季閉店に入り、四月になっても再開するか分からないという。柳生博のところや、さらにその隣にあるカレーの店はリピーターも多く千客万来なのに、やはりアルザス料理などという、環境も雰囲気もぴったりなのに馴染みのないものは、いまひとつ敬遠されるのかと思った。グッズとかハーブも置いていないというのも、やや不利かもしれない。
 帰りはスーパーあずさ号ですっきり帰れるかと思ったら、新宿駅の二度にわたるポイント故障とかで、電車が数珠つなぎになり、24分遅れの到着。それでも、それだけの遅れで帰れたから、良しとしなければならないかもしれない。
No.238


2005年9月17日(土) 民主党代表選挙
☆民主党代表選挙
 ここでもいわゆる「旧来」に「NO」か。
 こうなったらいっそ、民主党左派と自民党左派が合体して「リベラル・親中」党を作り、自民民族派と前原民主党とが合体して「ネオ民族派・歴史リビジョン」党を結成すればいい。すると、結果として、小泉のスタンスが、相対的に浮かび出るに違いない。
 しかしそう簡単に割りきれるものでもないのだろう。
No.239


2005年9月21日(水) 訃報二人、イラン人抗争
★訃報二人
 サイモン・ウィーゼンタールと後藤田正晴。戦後がこうして終わっていくという感慨。

★イラン人抗争
 昼のニュースで。麻薬密売抗争らしい。シルクロードのバザール経済。
No.240


2005年9月24日(土) 賢治めぐり
 22日、鍼の後、もう夜だったが、突如思い立って、事情を知らぬ妻を「拉致」同然に連れて、東北道を盛岡へと向かう。
 途中のSAで一度食事休憩。もうレストランが閉まっていて、フードコートで適当に済ます。
 盛岡到着、23日午前2時。雨模様の中、6時間の走行。妻が勢い込んでホテルに談判すると宿泊OK。県庁前の「北ホテル」は親切だ。
 翌朝はほぼ晴れる。岩手公園(城址)の賢治詩碑を見る。「かなた」と指差すタッピング牧師や、「川と銀行、木のみどり」のイメージを思い浮かべる。家並みがもっと低かったのだろう、あるいは少なかったのだろう。また私にとって盛岡は中学2年生のとき以来35年振りだから、これもまた、比較もなにもできやしない。
 次に花巻へ。このあたり、古代の「奥六郡」なので、徳丹城遺跡史料館などもあり、次回の楽しみに残す。
 まずは花巻北農高の羅須地人協会建物へ。賢治ファンカップルが一組。私はオルガンで「星めぐりの歌」を弾く。誰だってあそこを訪れれば弾きたいと思うし、実際に弾くに違いない。案の定、カップルも弾いていた。二階は入れない。高瀬露がカレーを作って登った階段を見ながら、賢治はどんな顔で怒ったかなどと想像して妻に話す。
 それから、胡四王山の賢治記念館へ。ここは10年前に来たことがあり、その時は賢治生誕百年祭の前で、まだ静かだったが、逆にしんとして、あたかも「ケンジ・シュライン」の趣があった。ところが今回は来てみて驚いた。老若男女、家族連れが大挙して押しかけ、一種のテーマパークと化している。展示もみんなに興味を持たせるように、岩石標本などをメインに置いて、「ケンジ・ミュージアム」のコンセプトに変わっている。マ、賢治を称えることには変わり無いわけだから、「ジョン・レノン・ミュージアムと、何が違うんじゃい」と悪態をついてみたが、考えてみると、賢治教信者の神殿であるよりは、こっちの方が、まだ数倍良い。
 賢治記念館見学後は、前はなかった「童話館」へ寄る。ここも何と申していいか、イベント会場でもあり、運動パークでもあり、参加型パビリオンもあり、家族が休日を楽しむにはなかなか良い環境を作っている。
 その後、「イーハトーブ館」という、これは賢治研究学会の拠点でもあるところに寄る。東北砕石工場主として賢治を雇った、鈴木東蔵関連の展示をやっている。
 じつはこの後、下根子桜のかつての羅須地人協会跡の詩碑を訪ねて、その日の内に帰るつもりをしていたのだが、ここから思いもかけぬ波乱万丈が起きて、もう一日、花巻に滞在することと相成った。
 だがそのあたりの事情は、諸方差し障りもあることとてここでは省き、翌24日は美しい晴れ間に恵まれてイギリス海岸(ここのボランティア運営「くるみ屋」でコスプレ写真を撮りました)、それから賢治生家の隣の資料館「蔵」を訪ね、下根子桜に寄って、そうして日のある間は国道4号線でみちのくの風景を楽しみ、仙台からは雨の中、東北道で一路東京へと戻ったのだった。
 羅須地人協会の跡地(この狭い道を、少年森左一と頬を上気させた高瀬露が擦れ違ったのだな、とマニアックな妄想が脳裏をかすめた)は、今回始めて足を踏み入れたが、河岸に向かって突き出した、素晴らしい一等地ではないか。そこでチェロを弾き、オルガンを弾き、ヒヤシンスを作っていたのでは、回りの農民から白眼視されて白菜をごっそり引き抜かれてもやむを得ないと思う。それで結局は、戦後の土地解放、区画整理、灌漑ポンプ整備による土壌改良、農協による機械化集団化によって、周辺農村もたいへん豊かになったわけだ。つまり賢治の農本主義的努力は、少なくとも直接の結実はなかったということにもなる。
 とはいえ、花巻はなにからなにまで「賢治、賢治、賢治」だ。なにかにつけて「賢治さん」「賢治先生」と、これだけ賢治で潤っては、もはや足を向けては寝られませんな。
 それでも、いまだに賢治は、(思い入れの激しい賢治教徒は別として)心情青年たちには「雨ニモ……」と「世界がぜんたい……」でしかないし、それから女子供には「銀河鉄道」だけの存在なのだ(じっさい、そのイメージ操作だけが横行しているし)ということも、この賢治めぐりで、あらためて認識した次第だった。
 
No.241


2005年9月25日(日) 原稿書き
 原稿書きで呻吟。2本抱えている。午後踏ん張って、なんとか1本こなす。終わり頃、頭がくらくらし、目がしょぼついて限界を感じる。たぶん台風通過という、天気のせいもあったと思う。
 あと一本の方が長い。
No.243


2005年9月26日(月) 原稿書き2
 引き続き残りの原稿に取り組もうと思ったら、大学の方の文書作りの連絡が事務長から入る。以前作成した書類のダメ出し。ならもうちょっと早めに指示してくれ。もう日付も変わるころ、妻に無理を言って気力とスタミナのつく夜食を作らせ、それを食べた勢いでなんとか仕上げる。後、ビール(というか、「その他の雑酒A」)。
 件の原稿に関しては心構え、資料など、とりあえずはできた。
No.242


2005年9月27日(火) 大学授業初日
 非常勤をしている大学で、最初の授業。落ち着いて話す。今期は授業の組み立てを少し変えようと思っている。
 夏休みの宿題のレポートを提出させる。生き生きと、熱心に取り組んだことがわかる。こういうことは例年にない傾向。学生気質の変化か。
No.244


2005年9月28日(水) 原稿書き3
 2本目の原稿を仕上げる。
 恐れることなく、自信を持って書け、と自分に言い聞かせる。いつもおどおどするから、必要以上に構えたり饒舌になったりする文章になるのだ。
No.245




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