++浅薄日記++


2005年5月の日記


2005年5月14日(土) 日記再開、やませ、羽田管制官処分
☆日記再開
 三月半ばから、少々事情があって、サイト更新がすっかり止まった。その事情もやや落ち着きを見せてきたので、ぼつぼつながら再開していくつもりだ。何も書かなかった間にも、世間様にはすさまじいニュースが相次いだ。JR福知山線のことは、とくに忘れるわけにはいかないだろう。

☆やませ
 新緑の五月とは思えない。寒気を運ぶオホーツク海高気圧から回り込む東風が湿気とともに「やませ」となって吹きつけて来ているのだ。「サムサノナツハオロオロアルキ」の再来だ。火山局がサンムトリ火山を噴火させなければだめかも。

☆羽田管制官処分
 かれらにこそ草むしりをさせればいいではないか。滑走路脇で着陸機の轟音に怯えながら草むしりをすれば、自分がどれほど重大な責任ある仕事をしているか、ちょっとは身にしみるだろう。
No.225


2005年5月17日(火) 外人部隊二題
☆外人部隊二題
 イラクで拘束された斎藤さんの安否は依然不明だ。
 この人はプロの兵士としてフランス外人部隊で20年勤務したという。
 こうした道を選ぶ日本人は、私たちが普通考えているより、はるかに多いとも聞く。
 そこで、1979年、コルシカに旅行したときの、外人部隊の思い出を二つ記しておく。

その1 カルビだったかポルトだったか、はたまたアジャクシオだったか忘れたが、レストランで母と夕食を取っていたとき、隣に坐っていたのが外人部隊の二人組。階級はわからない。細面でなかなか上品そうだったので、士官かもしれない。眼鏡の方が私にいきなり話しかけてきて、フォークに刺した生牡蠣を突き出して「食べろ」と言う。「ビタミン!」と叫ぶ。私は目を白黒、あとで母に「あんたがあんまり青い顔をしていたからや」と笑われた。しかしこっちは当時まだ大学生、ことばのできない母と二人連れで孤軍奮闘の緊張状態、青くならない方がおかしい。
 まあ外人部隊にしてみれば、半分からかい、半分同情といったところだったのだろう。とはいえ何となく、かれらの親切心だけは伝わってきたことを覚えている。やはり、共に外国人という悲哀も手伝ってのことだったろうかと、今にして思う。

その2 カルビからアジャクシオ(あるいはその逆だったか)へ向かう、山岳軽便レールバスに乗っていたときのこと。通路を挟んだ向かいの席に、外人部隊の兵卒が二人。
 とある山間の駅で止まってなかなか発車しない、と思っていたら、絵に描いたような鬼軍曹が乗り込んできた。容貌魁偉で胸板も分厚く、私なぞ指一本で張り飛ばされてしまいそうだ。二人の兵卒をにらみつけ、身分証を出させて、長い長い間、ためつすがめつ調べる。まるでイタリア語みたいなコルシカ方言で車掌が必死にとりなすのもどこ吹く風、列車のダイヤの遅れなど気にも留めない。
 二人が不安げにじっと待つこと無慮七、八分か、やがてようやく軍曹は、これまた素晴らしくどすの利いただみ声(もうこれ以上ないというほど典型的で、まるで映画に出て来そう!)で喉に絡んで一言、"Dehors!"(出ろ!)
 哀れ二人は、無断外出かそれとも正規の休暇かは知らないが、せっかく乗ってきたレールバスから、軍曹の後についてしおしおと降りて行った。

 ところで「外人部隊」と「モロッコ」だったら、文句なしに「外人部隊」に軍配を上げますが、如何。
No.226


2005年5月18日(水) ペーパーメディアとサイバーメディア
 紙はどこででも撒けるし老若男女だれでも書けるし読めるし手に取れるが、サイバーメディアはエレクトロニクスを介する以上、当然情報強者と弱者を作る。だいいち「サーバーをふらっと入った本屋で手に取りアトランダムに開いて読む」ことなんて出来るはずがない。
 やはりペーパーメディアに一日(どころか2000年)の長があるだろうか。
No.227


2005年5月20日(金) ピキ氏、レガシーを運転す
 ボルボを車検に出したので、父のレガシー250Tで出勤。これはこれで、加速その他、非常によく走る車だ。
 昼、非常勤でわが本務校に出講しているピキ氏に顔を合わせる。このところ元気なし。「帰りに車を運転させてくれますか」と言うので、「どうぞ」と答える。何年か前ハワイで免許を取り、ついこの間、府中試験場で日本免許に切り替えたばかりの初心者であるピキ氏には、クラシックボルボよりレガシーの方が扱い易いだろう。それでも国産車の中ではクセのある部類だと思うが。なにせ昔は富士重の車になど乗っている人間は「スバリスト」と呼ばれて、お堅い変人扱いだったものだ。
 私の授業が終了するまでピキ氏には研究室で待っていてもらい、その後キーをピキ氏に渡して、私は助手席に坐って学校の駐車場を出る。
 ピキ氏の運転は、まだおどおどしたところがあるものの、何年か前に乗せてもらったときほどにはふらつかない。途中で稲城エネオスでガスを入れて洗車。その後は四方山話をしながら、ピキ氏の家まで行く。「運転をして気が晴れました」と言う。「またそのうちゆっくりドライブでもしましょう」と別れる。
 今は天候不順で、冬と夏が交互に来ているようなものだ。そうそう平気な人ばかりでもあるまい。いずれ気候が安定すれば、ピキ氏の気分も落ち着くことだろう。
No.228


2005年5月27日(金) 日本海海戦百年、フィリピン日本兵生存情報
☆日本海海戦百年
 このことも忘れるわけにはいかないだろう。
 日露戦争までは、日本人は、戦争はしてはならないものだと知って戦争を行なっていたのではないか。

☆フィリピン日本兵生存情報
 小泉の記者会見を観て:「驚き」とは何事だ。もう少し言いようがあるだろうに。ほんとうに他人事のように論評するものだ。
 この人の靖国参拝なぞ、ただの付け焼刃だということが、あらためてはっきり判る発言と態度だと思った。
No.229


2005年5月27日(金) ボルボ戻る
☆ボルボ戻る
 車検に出していたボルボが、オート・ボルタから戻ってきた。詳しい修理内容などは、また後日。
No.230




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