謹賀新年。 ことしもぼつぼつながら、雑感を記していきたい。「新選組!」に関しても、引き続き補完していくつもりだ。
年末年始は気忙しく過ごしたので、三が日の終わる今日、まとめて書くこととする。 2004年12月31日。 天候悪く、午前中より本格的な雪で、ときにはふぶく感じ。屋根にも道にもあっという間に雪が積もり、毎年恒例にしている夕刻の浅草寺参りと柴又帝釈天参りは、もうあきらめる。雪は午後には雨に変わり、そして止んだ。 久しく観ていない紅白も、ジョン・健・ヌッツォの「新選組! テーマ」をやるというので、そればかり楽しみに待つ。ヌッツォは白組4番目の出場。まず、ハミング(番組最後の「新選組の跡を尋ねる」の部分にかかるもの)から静かに入り、一転してメイン・テーマを力強く歌い上げる。クラシック歌手は、トレーニングの賜物で、いつもほぼ同じ調子で歌うことができるという強みがあり、番組の雰囲気そのままにライブで観聴きできるのは素晴らしい。と思っていたら、「誠の〜旗に集いし……」の「集いし」の部分をどうも間違えたようだ。やっぱりオペラ歌手でも上がるのだろうか。 あとはチャンネルをザッピングしながら時を過ごし、11時30分頃に代々木八幡に初詣するために外出。やや早目だったので、参道の前の方に並ぶことができる。そろそろお神楽が聞こえ、参拝行列も長く伸び始める。「カブスカウト、甘酒を持ってこい」と思うが、足許が悪いから仕方なく、妻が取って来てくれる。 年が明けるとともに参拝が始まり、拝殿前で拝んだ後、お札を頂く。それにしても、みんな我先にお御籤を引くというのはどういうことか。そんなに運勢が気になるということか。ちゃんとした形式の拝礼もしないでお御籤ばかり楽しみにするとは本末転倒ではないか。 とまれこうして一年に一度だけでも、百数十年前の代々幡村の空気を味わうことができるのはありがたいことだ。
さて天候は回復したし、まだ物足りないので、終夜運転の千代田線に乗って金町まで。そこから京成電車に乗り換えて一駅、葛飾柴又まで足を伸ばす。午前2時くらい。 この時間の帝釈天に来るのは初めて。まだ人が相当に多い。ここもお御籤大賑わい。帝釈天の参道は殆どの店が開き、草団子、咳止め飴、土産など盛んに売っている。驚いたのは、鰻屋に人が入って、深夜だというのに美味そうに食べていることだ。下町にはやはり、「食べる文化」が残っているのだと思った。われわれはここでおせちに並べる佃煮を買う。私にはどうも封建百姓根性が血のどこかに流れているらしく、鮒の甘露煮とかそんなものが好きなのだ。ついでに言えばローンも嫌い、投資も嫌で、いつもニコニコ現金払いが、いちばん安心するのだ。 帰りもうまく時刻表を調べて見計らっておいたので、スムーズに家まで戻ることができた。
2005年正月1日。 両親、妻と正月を祝う。今年は数の子、筑前煮、田作り、それになますの味付けをしたので、どういう評価をされるか少々緊張。まあうまく行ったようだ。 おせちを食べながら酒を飲んだせいもあり、また前日の睡眠不足の影響も出たらしく、年賀状の整理をした後、昼寝。夕食後、酔いも醒めてすっきりしたので、9時頃から妻を連れて「おふろの王様」へ行ってみる。元日だというのに大盛況。どこか近くにお寺か僧堂かがあるらしく、若い坊さんたちが固まって来ているのには驚く。タクシーで帰っていったのを見たが、元日からそんなことで修行の方はいいのか、と思った。 ふだんは露天の「ねころび湯」で背中だけを温めるというのが好きなのだが、寒気が来ていてさすがに長くは持たず、早々に首までつかる。 疲れも取れ、さっぱりして帰宅。
正月2日。 これも恒例で、母を連れて、茨城県日立市の山奥にある御岩神社へ行く。何年か前、ドライブの途中でふと心を引かれて立ち寄って、それから正月になると行くようになったのだ。最初の頃は、大晦日の夕方、まず浅草寺と仲見世を見て、それから大黒屋で天丼を食べてから出かけ、うまく時間を調整しながら車を走らせ、真夜中の元旦祭に合わせて到着する、というような離れ業をしたりしていたものだが、最近はもう、2日とか3日の明るいうちにお参りしてお札を貰ってくるようになった。 それで今年も自動車で出たのだが、例年と大きく違うのは、大晦日の時ならぬ降雪と積雪のせいで、道が凍結しているということだ。念のため父親のレガシー250Tを使うことにしたが、札幌で雪道を走っていたのはもう何年も昔のことで、しかもスタッドレスですらないのだから、大いに不安を抱えての出発となった。そのため、 案の定、御岩神社の場所は日立の山奥、だいたいかつての日本鉱業の銅山町からさらに奥に入った入四間というところだから、道はもうがちがちに凍りついている。レガシーは四輪駆動のくせに、いやに足がバタつく。これなら札幌で愛用していたFFパルサーの方がはるかにマシだ。 ともかくも御岩神社に辿りつく。ここも近年参拝客が多くなって、けっこう隆盛だ。宮司が息子さんに代替わりしてからずいぶん努力しているようだ。 ここの御神体は賀毘礼(かびれ)の峯(御岩山)という、縄文時代までさかのぼる遺跡と遺物がある磐座の山で、常陸国風土記にも記述があり、鎌倉から中世にかけての神仏習合の中で密教や観音の霊場ともなり、徳川水戸藩の時代には出羽三山を勧請して、あらためて修験の聖地となったところだ。他方では清冽な水が流れ出ていて、水神、雷神、蛇、雷などとも関わりが深いだろう。 雪の残る道を注意して登り、拝殿にお参りをしていたら、宮司が話しかけてきて、「毎年遠方よりご苦労様です」と挨拶する。こちらを覚えていてくれたのだ。さらにことばを継いで「失礼ながらHPをお持ちではないか」と言う。インターネットで御岩神社関連の検索をしていたら、当ページに行き当たったのだとのことで、それですっかり親しく話が弾む。だれも読まないかとも思えるこんな日記でも、書いてはおくものだ。どんな縁があるか分からない。それにしてもサイトにはHNしか出していないのに、よく見極めをつけたものだと思う。「元旦祭は雪でどうなることかと気を揉んだが、いつもの年同様に大勢来てくれた」と嬉しそうに話す。 こうして若い宗教者が、地域振興、あるいは地域文化コンテクストの視点を持ちつつ、いったんは廃れたかに見えている信仰の拠点を蘇らせるべく骨折っている例は、この神社以外にも、おそらく全国にあるだろう。そうして年々、どこの神社仏閣でも参拝者の数が増加しつつあることも、おそらく事実だろう。 参拝を済ませ、社務所でお札を頂き、そのさいに日立市の民俗調査の有志「山椒の会」編集、日立市史編纂専門委員を務めた茨城キリスト教大学志田諄一教授監修の小パンフレット『御岩山』(筑波書林、1992年10月)を頂いた。上記の御岩神社に関する簡介は、このパンフレットに基いたものだ。もっとも宮司は「うちの解釈とは違う所もある」と述べてもいたから、以後の新発見なども加味して、さらに研究の余地はあるだろう。市史や町史のたぐいも、今後さらに見てみたいものだ。宮司の大塚先生、どうもありがとうございました。 そうして御岩神社を辞した後、凍結した道を苦労しながら走って、大子〜馬頭とたどり、那須国は湯津上村の光丸山法輪寺(ここは八溝山を神体とする天台修験で、東国一の大きさを誇る天狗面があることで著名なのだが、ここだって10年ほど前は地元の人しか来なかったものが、まず交通整理のパトカーが出て、次には鐘付堂に人が列を成すようになり、ついには車道と駐車場を整備するまでに繁盛し始めたのを私は目の当たりにしている)に到着し、これも恒例となった火防の守り札を頂いてから、渋滞を避けて国道4号線を走って帰宅したのだった。
正月3日。 おせちを食べ終え、お重もしまう。今年はよく食べ、うまく片付いた。 午後から妻とともに、東国三社へ向かう。とはいうものの、鹿島神宮はとうてい駐車ができないだろうとあきらめ、息栖神社〜香取神宮と回る。「新選組!」を一年観たせいか、、芹沢鴨も、伊東甲子太郎も、きっと参拝したことがあるだろうと、今年はそんなことも考えた。 香取神宮に着いたのはもう夕暮れだったが、茶店も露店もまだまだ賑やかで、参拝客も引きも切らず。6時前頃になって、ようやく少し空いたくらい。われわれはお参りを済ませた後、参道の茶店でカレーを食べてから(じっくり煮込んだ古典的な味で意外といけるのだ)、ゆっくりとドライブしながら帰宅した。
※今年の三が日に行けなくて残念なところ:川崎大師、高麗神社、寒川神社、妻沼聖天院。
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No.202
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