++浅薄日記++


2005年1月の日記


2005年1月3日(月) 謹賀新年、大晦日と三が日の記録
謹賀新年。
 ことしもぼつぼつながら、雑感を記していきたい。「新選組!」に関しても、引き続き補完していくつもりだ。

 年末年始は気忙しく過ごしたので、三が日の終わる今日、まとめて書くこととする。
2004年12月31日。
 天候悪く、午前中より本格的な雪で、ときにはふぶく感じ。屋根にも道にもあっという間に雪が積もり、毎年恒例にしている夕刻の浅草寺参りと柴又帝釈天参りは、もうあきらめる。雪は午後には雨に変わり、そして止んだ。
 久しく観ていない紅白も、ジョン・健・ヌッツォの「新選組! テーマ」をやるというので、そればかり楽しみに待つ。ヌッツォは白組4番目の出場。まず、ハミング(番組最後の「新選組の跡を尋ねる」の部分にかかるもの)から静かに入り、一転してメイン・テーマを力強く歌い上げる。クラシック歌手は、トレーニングの賜物で、いつもほぼ同じ調子で歌うことができるという強みがあり、番組の雰囲気そのままにライブで観聴きできるのは素晴らしい。と思っていたら、「誠の〜旗に集いし……」の「集いし」の部分をどうも間違えたようだ。やっぱりオペラ歌手でも上がるのだろうか。
 あとはチャンネルをザッピングしながら時を過ごし、11時30分頃に代々木八幡に初詣するために外出。やや早目だったので、参道の前の方に並ぶことができる。そろそろお神楽が聞こえ、参拝行列も長く伸び始める。「カブスカウト、甘酒を持ってこい」と思うが、足許が悪いから仕方なく、妻が取って来てくれる。
 年が明けるとともに参拝が始まり、拝殿前で拝んだ後、お札を頂く。それにしても、みんな我先にお御籤を引くというのはどういうことか。そんなに運勢が気になるということか。ちゃんとした形式の拝礼もしないでお御籤ばかり楽しみにするとは本末転倒ではないか。
 とまれこうして一年に一度だけでも、百数十年前の代々幡村の空気を味わうことができるのはありがたいことだ。

 さて天候は回復したし、まだ物足りないので、終夜運転の千代田線に乗って金町まで。そこから京成電車に乗り換えて一駅、葛飾柴又まで足を伸ばす。午前2時くらい。
 この時間の帝釈天に来るのは初めて。まだ人が相当に多い。ここもお御籤大賑わい。帝釈天の参道は殆どの店が開き、草団子、咳止め飴、土産など盛んに売っている。驚いたのは、鰻屋に人が入って、深夜だというのに美味そうに食べていることだ。下町にはやはり、「食べる文化」が残っているのだと思った。われわれはここでおせちに並べる佃煮を買う。私にはどうも封建百姓根性が血のどこかに流れているらしく、鮒の甘露煮とかそんなものが好きなのだ。ついでに言えばローンも嫌い、投資も嫌で、いつもニコニコ現金払いが、いちばん安心するのだ。
 帰りもうまく時刻表を調べて見計らっておいたので、スムーズに家まで戻ることができた。

2005年正月1日。
 両親、妻と正月を祝う。今年は数の子、筑前煮、田作り、それになますの味付けをしたので、どういう評価をされるか少々緊張。まあうまく行ったようだ。
 おせちを食べながら酒を飲んだせいもあり、また前日の睡眠不足の影響も出たらしく、年賀状の整理をした後、昼寝。夕食後、酔いも醒めてすっきりしたので、9時頃から妻を連れて「おふろの王様」へ行ってみる。元日だというのに大盛況。どこか近くにお寺か僧堂かがあるらしく、若い坊さんたちが固まって来ているのには驚く。タクシーで帰っていったのを見たが、元日からそんなことで修行の方はいいのか、と思った。
 ふだんは露天の「ねころび湯」で背中だけを温めるというのが好きなのだが、寒気が来ていてさすがに長くは持たず、早々に首までつかる。
 疲れも取れ、さっぱりして帰宅。

正月2日。
 これも恒例で、母を連れて、茨城県日立市の山奥にある御岩神社へ行く。何年か前、ドライブの途中でふと心を引かれて立ち寄って、それから正月になると行くようになったのだ。最初の頃は、大晦日の夕方、まず浅草寺と仲見世を見て、それから大黒屋で天丼を食べてから出かけ、うまく時間を調整しながら車を走らせ、真夜中の元旦祭に合わせて到着する、というような離れ業をしたりしていたものだが、最近はもう、2日とか3日の明るいうちにお参りしてお札を貰ってくるようになった。
 それで今年も自動車で出たのだが、例年と大きく違うのは、大晦日の時ならぬ降雪と積雪のせいで、道が凍結しているということだ。念のため父親のレガシー250Tを使うことにしたが、札幌で雪道を走っていたのはもう何年も昔のことで、しかもスタッドレスですらないのだから、大いに不安を抱えての出発となった。そのため、
 案の定、御岩神社の場所は日立の山奥、だいたいかつての日本鉱業の銅山町からさらに奥に入った入四間というところだから、道はもうがちがちに凍りついている。レガシーは四輪駆動のくせに、いやに足がバタつく。これなら札幌で愛用していたFFパルサーの方がはるかにマシだ。
 ともかくも御岩神社に辿りつく。ここも近年参拝客が多くなって、けっこう隆盛だ。宮司が息子さんに代替わりしてからずいぶん努力しているようだ。
 ここの御神体は賀毘礼(かびれ)の峯(御岩山)という、縄文時代までさかのぼる遺跡と遺物がある磐座の山で、常陸国風土記にも記述があり、鎌倉から中世にかけての神仏習合の中で密教や観音の霊場ともなり、徳川水戸藩の時代には出羽三山を勧請して、あらためて修験の聖地となったところだ。他方では清冽な水が流れ出ていて、水神、雷神、蛇、雷などとも関わりが深いだろう。
 雪の残る道を注意して登り、拝殿にお参りをしていたら、宮司が話しかけてきて、「毎年遠方よりご苦労様です」と挨拶する。こちらを覚えていてくれたのだ。さらにことばを継いで「失礼ながらHPをお持ちではないか」と言う。インターネットで御岩神社関連の検索をしていたら、当ページに行き当たったのだとのことで、それですっかり親しく話が弾む。だれも読まないかとも思えるこんな日記でも、書いてはおくものだ。どんな縁があるか分からない。それにしてもサイトにはHNしか出していないのに、よく見極めをつけたものだと思う。「元旦祭は雪でどうなることかと気を揉んだが、いつもの年同様に大勢来てくれた」と嬉しそうに話す。
 こうして若い宗教者が、地域振興、あるいは地域文化コンテクストの視点を持ちつつ、いったんは廃れたかに見えている信仰の拠点を蘇らせるべく骨折っている例は、この神社以外にも、おそらく全国にあるだろう。そうして年々、どこの神社仏閣でも参拝者の数が増加しつつあることも、おそらく事実だろう。
 参拝を済ませ、社務所でお札を頂き、そのさいに日立市の民俗調査の有志「山椒の会」編集、日立市史編纂専門委員を務めた茨城キリスト教大学志田諄一教授監修の小パンフレット『御岩山』(筑波書林、1992年10月)を頂いた。上記の御岩神社に関する簡介は、このパンフレットに基いたものだ。もっとも宮司は「うちの解釈とは違う所もある」と述べてもいたから、以後の新発見なども加味して、さらに研究の余地はあるだろう。市史や町史のたぐいも、今後さらに見てみたいものだ。宮司の大塚先生、どうもありがとうございました。
 そうして御岩神社を辞した後、凍結した道を苦労しながら走って、大子〜馬頭とたどり、那須国は湯津上村の光丸山法輪寺(ここは八溝山を神体とする天台修験で、東国一の大きさを誇る天狗面があることで著名なのだが、ここだって10年ほど前は地元の人しか来なかったものが、まず交通整理のパトカーが出て、次には鐘付堂に人が列を成すようになり、ついには車道と駐車場を整備するまでに繁盛し始めたのを私は目の当たりにしている)に到着し、これも恒例となった火防の守り札を頂いてから、渋滞を避けて国道4号線を走って帰宅したのだった。

正月3日。
 おせちを食べ終え、お重もしまう。今年はよく食べ、うまく片付いた。
 午後から妻とともに、東国三社へ向かう。とはいうものの、鹿島神宮はとうてい駐車ができないだろうとあきらめ、息栖神社〜香取神宮と回る。「新選組!」を一年観たせいか、、芹沢鴨も、伊東甲子太郎も、きっと参拝したことがあるだろうと、今年はそんなことも考えた。
 香取神宮に着いたのはもう夕暮れだったが、茶店も露店もまだまだ賑やかで、参拝客も引きも切らず。6時前頃になって、ようやく少し空いたくらい。われわれはお参りを済ませた後、参道の茶店でカレーを食べてから(じっくり煮込んだ古典的な味で意外といけるのだ)、ゆっくりとドライブしながら帰宅した。

※今年の三が日に行けなくて残念なところ:川崎大師、高麗神社、寒川神社、妻沼聖天院。
No.202


2005年1月3日(月) 初夢
★初夢
 正月2日、起床直前の夢。ということは初夢だろう。
 パレスチナ、街道沿いのある町。
 私はパレスチナ・ゲリラ、もしくはハガナの部隊の一員で、これからその町に突入するところ。手には突撃銃のようなものを持っている。
 命令がかかり、町への入口の交差点のT字路から街道筋に入る。敵は左手の町の中心部にいるはずなのに、なぜか足は道を右に向かう。「ははあ、まず散開して、それから包囲するのだな」とひとり納得する。
 腰をかがめ、おっかなびっくり、それでもかなりの早足で街道を進んでいく。通りの両側に並ぶ建物の二階の窓からは、カーテンやブラインドの陰に隠れ、沢山の目がわれわれを見下ろしているはず。いつ狙撃されてもおかしくない状態だ。しかしもう後戻りはできない。
 通りには人気がほとんどない。スカーフ、長スカートの中年女性がひとり水汲みに出てきたらしく歩いていたが、われわれの姿を見て悲鳴を上げ、横道にそれる。「気づかれたか」焦って覚悟を決める。
 そのあたりで目が覚める。

 まったく、新年早々、なんて夢でしょうか。
No.203


2005年1月4日(火) 笑いの祭典 ザ・ドリームマッチ、小泉・岡田、伊勢神宮参拝
☆笑いの祭典 ザ・ドリームマッチ
「史上空前!! 笑いの祭典 ザ・ドリームマッチ '05」(TBS)を観て、近頃の芸人がじつに緻密にコントを練り上げ、しかも確かな芸を見せることに感心。「新選組!」を観始めて、若手俳優の演技に感心したときと同じような感じだ。80年代を限りに、バラエティなどほとんど観なくなっていたので知らなかったのだ。大いに認識をあらためる。
 望むらくは、こうした物事に対する取り組みの姿勢が、教育現場、すなわち学生にも及んでくれればいいのだが。

☆小泉・岡田、伊勢神宮参拝
 姑息なことを。それなら氏神様に詣でても同じことではないか。天照大神もさぞ呆れていることだろう。
No.204


2005年1月5日(水) お風呂の王様
☆お風呂の王様
 夜、志木のスーパー銭湯「お風呂の王様」へ行く。気温は0度に近いが、風もなく、露天風呂もさして寒くない。正月疲れか、さすがに人も少ない。
 「寝ころび湯」で横になっていたら、隣に若い二人連れが来て話を始める。聞くつもりもないが、すぐ傍なので耳に入る。ひとりが「これからの暮らしが立つか不安だ」というと、友人が「なら実家に帰れよ」という。「戻れるわけないだろう、いまは無理だ」と答えると、友人が「そのとおりだな」と返す。
 だんだんわかってきたことは、その若者は親兄弟と折り合いが悪く、ひとり家を出て自活をしている。兄弟とは修復できたが、父親とは和解できない。「オレはもういいんだが、親父がオレを避けているから」と言うと、友人が「そんなこともないよ、親父さんはむしろお前に嫌われていると思っているよ」と答える。「どうしてわかる」「ずっと前、なんかで会ったときに、そうだとすぐ感じたよ」と友人が言って、それから会話はその若者の性格についての話題に移った。若者が「オレは人に嫌われるんじゃないか」と言うと、友人が「お前は人を寄せつけない雰囲気を発散している、それは逆にお前が人に合わせようとし過ぎて我慢できなくなり、突然変わるからだ、他の人はそのことがわかるから逆に気を使い、それでお前に疲れるのだ、恋人じゃあるまいし、普通の人はそこまで付合ってはくれないよ」と、じつに懇切丁寧に、しかも若者を傷つけないように言葉を注意深く選びながら、噛んで含めるように言い聞かせてやっている。もちろん当の若者は友人の真意はいまだ理解できないのだが(理解できる性格ならこんな話は持ちかけないだろう)、こちらは聞いていて涙が出そうになり、そのあたりで場所を変えた。
 こんな夜中、銭湯にまで付合ってくれて、いい友人ではないか。
 いわゆる「魂の友人」か「菩薩」みたいな人なのではないか。
 いやむしろこの二人は、隣の私に聞かせるべく現われたのではないか。
No.205


2005年1月6日(木) 高崎だるま市
☆高崎だるま市
 これも毎年吉例になった、高崎の少林山達磨寺の七草大祭だるま市へ、夜9時半、妻とともに出発。高速を快調に飛ばす。
 11時頃に到着。国道を挟んだ向かい側の小学校校庭に設置された臨時駐車場に車を止める。協力料千円も取られるのには、いつもながら若干腑に落ちない。
 参道には賑やかに夜店が開き、地元の若い衆が機嫌よく大勢たむろしている。もちろん老若男女家族連れも、古いだるまを提げて、引きも切らずに訪れる。
 達磨寺と同じ丘陵の山の反対側の端にライン古城風のDUOとかいうモーテルが新しく建ち、ライトアップされているのには一驚。よくあんなものを造ることを許可したものだと呆れる。お蔭で少林山の華やかな明かりがまったく目立たなくなってしまったではないか。ブルーノ・タウトがこよなく愛した風景だというのに、それをこんなことをして、なんという意識の低さか。
 達磨寺自体は、一年振りだが、変わらぬ賑わいだ。例年のようにお参りを済ませ、かんじゃーやーにあげるための小さなだるまを求め、開眼してもらう。
 夜店をひやかしながら、反対側の参道を降りて行く。だるま以外に熊手や鶏の縁起物も売っている。去年もあったドネルケバブの露店もやっぱりあって、なかなかの人気だった。
 さすがに真夜中ともなればしんしんと冷えてきて、ぽつりぽつりと道端に坐っている易者さんたちが寒そうだ。もっとも身体中にカイロを貼りつけているのかもしれないが。
 場内整理の人も引き上げかけている駐車場から車を出し、あとはもう空いているので17号線をひた走って、東京まで戻ったのだった。
No.206


2005年1月7日(金) 授業年明け初日
☆授業年明け初日
 T大と本務校で、年明け授業初日。今日を入れて、あと二回でもう試験だ。具体的な講義は今日で終わり、来週は全体の復習となる。新年早々なのに、うるさい学生がいるので、遠慮なく手厳しく叱責せざるを得ない。
 明日と明後日は、滋賀県立大学で古代武器研究会。面白い発表が聞ければいいのだが。
No.207


2005年1月13日(木) 古代武器研究会覚え書き
 1月8日、9日と、彦根の滋賀県立大学で開催された、「古代武器研究会」に参加してきた。
 今年は「鉄器文化研究会」とのコラボレーションで、「馬具研究のまなざし─研究史と方法論─」と題して意欲的発表が行なわれた。こんなところにも「まなざし」などという政治思想用語が使われるようになったのだなあと、妙な感慨を催す。
 今回の発表から感じたのは、いくら遺跡遺物の数が増加しているとはいえ、やはり所詮は大海の中の一握の砂なわけで、「あまりにも少ないテキストから、あまりにも大きなコンテクストを織り上げようとする」結果に、どうしてもなってしまうということだ。
 別の観点からすれば、「同じだけのレゴがあっても、みな違うものを作り上げてしまう」ので、これはもう、どうしようもないことだ。
 考古学の分野も、いよいよ学際的知識や手法を取り入れざるを得なくなりつつあるようで、これからは分類分析の上で、「柔軟性と広がりとを持ちつつ厳密な手続きを踏まえて研究する」という、まるで二兎を追うような綱渡りが必要となるだろう、ということが仄見えた大会だった。

 それとは別に、今回は懇親会と二次会とが楽しかった。こういう場で人と話をするのがきわめて不得手な方なのだが、今回はもう腹を括って妙な自意識を捨て、「どうせオレが差配しているわけでも無し、だれもオレを気にしているわけでも無し、人と人が喋っているのを横からニコニコして聞いていよう、現にそうしている人だって一杯いるじゃないか」と観念したら気が楽になって力が抜け、そうしたら逆に旧知の人が話しかけてきてくれたり、新しく口をきいて知り合いになれたりした。

 日曜日はもう大変な雪で、去年は大会終了後の帰りがけに足を伸ばした多賀神社への初詣ももうあきらめ、降雪の速度規制で渋滞している名神高速を避け、鈴鹿峠越えで桑名へ出て(中原中也の詩を思い出したりした)、東海道をひた走って東京まで戻ったのだった。
 
No.208


2005年1月19日(水) 阪神・淡路大震災、地震引き続く、授業終了
☆阪神・淡路大震災10年
 あのときは札幌に住んでいた。札幌でもたしか揺れたので、それで目を覚まし、ラジオをつけたはずだ。最初は大したことではなさそうだったのが、だんだん事態が重大化し、テレビをつけた。
 最も忘れ難いのは、あわてて家に駆けつけたが、すでに母親が死んでいることを知った若者が、怒りと悲しみを込めて、倒壊した家の壁を思いきり蹴り飛ばしたシーンだった。共感があった。
 それにしても、札幌まで揺れたのだから、同じ震度・マグニチュードといえども、地震にはそれぞれなにかの「質」の違いがあるのかもしれない。

☆地震引き続く
 昨日は新潟と釧路、そして今日は関東東方沖だ。日本を取り囲むようにプレートが動揺しているのだろうか。
 こんなことでは、「地球の波動が上昇している」などという言説からでも、何かを掴んでみたくもなる。

☆授業終了
 今週ですべての学校で授業終了。印象:M大がいちばんおとなしい。その割に、授業に対する質問ペーパーには、具体的に充実して書き込んでくる。
 試験ではいい成績を残して欲しいものだ。
 あとは採点地獄が待っている。
No.209


2005年1月24日(月) 夢三題
☆夢三題
 今年に入って見た夢二つと、思い出した夢ひとつ。

1.自分の家の台所で料理を作っているらしい。傍らには笑福亭仁鶴師匠。仁鶴は機嫌が悪いらしく、私はなだめすかすのに結構気疲れ。

2.ヒットラーと話をしていて何かの拍子に思い切ったことを言ったらしく、激怒したヒットラーが追いかけてくる。私は隣室へ逃げ込みドアを閉めるが、ヒットラーはドアの外で怒号し、私は覗き窓越しにヒットラーの顔を見ながら、ドアノブを必死で押さえる。

3.それで思い出した夢。大学院入試(前期か後期か忘れた)当日の朝方、夢枕にゲッベルス博士が立って手を振りまわし、「君ならできる! 大丈夫だ!」と励ます。博士の力添え(?)あってか合格したが……。

 ちなみに、妻が二、三日前に見た夢:石原慎太郎と寿司屋に行く。慎太郎がコートを鴨居のフックに掛けてくれる。円卓を囲み、何人かで食べる。
No.210


2005年1月26日(水) 小山厚樹氏個展
☆小山厚樹氏個展
 友人からメールで案内があって、小山厚樹氏の展覧会に行ってきた。
 氏は高校同窓生で、今も長髪だが、当時からアーティストの雰囲気があった。氏によれば、今後新生面を開くための一種の回顧展の意味合いを持つ個展だという。ここ十年ばかりの大作から小品まで、一挙に展示されている。
 海岸、牛舎、扉、窓、モロッコのマラケシュ市街などが主要なモチーフだ。
 美術アマチュアの私にはあれこれいう資格は無いが、最初モノトーンのとがった作品だったビュフェが、しだいに多色の鮮やかなものに変わっていったというのに、多少なりとも似た印象を受けた。
 私が素晴らしいと思った作品は、「白昼夢」というもので、これはスペインのとある街角だそうだ。遠くから見ても、間近で見ても、破綻がない。
 この作品は、ギャラリー入口を入ってすぐ左斜め前を向き、まっすぐ見通した所に飾られている。
 多くの人に観賞され、そして買い上げられることを祈っている。

◆小山厚樹展、洋協アートホール、銀座6−3−2、電話03-3571-3402、1月29日土曜まで、時間10時から6時まで、最終日は4時まで。
No.211


2005年1月28日(金) 採点終了!
☆T大試験・採点終了
 朝からT大の学年末試験監督。終わってすぐに採点にかかる。非常勤講師用にパーティションで仕切られた小さなブースは極めて快適で、採点もはかどる。
 とはいえ受講人数も多いので、結局夕方暗くなってようやく成績を提出し、これで今年度の作業は終了……とはいかなくて、まだシラバス作成が残っているのだ。
 一日机に向かってくたびれたので、仕事帰りの妻と待ち合わせて夕食、それから「お風呂の王様」で疲れを取って帰宅した。
No.212


2005年1月30日(日) シラバス作成終了、イラク選挙
☆シラバス作成終了
 T大のシラバス作成終了。直ちにメールで送信。4科目分、それぞれ15回分書かねばならないときたら、その量はなまなかではなかった。けっこうこういう作業に精魂を使って疲労困憊するたちだ。根が真面目なので。
 ともかくこれで来年度の準備はすべて終了だ。

☆イラク選挙
 投票率50%超えれば、選挙管理委員会も言っているように成功だろう。
 それにしてもアメリカも、軍隊を出して世界中から嫌われるよりは、ディズニー、ハンナ・バーベラ、それにWWEで世界中を楽しませる方がずっといいと思うのに。
No.213




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