☆「新選組!」第四十三回 どうしようもない運命の糸を、このドラマの「神」である三谷幸喜が紡いでいる。 平助も、また甲子太郎も、その紡がれる運命の中で、「誠の人」として死んでいくのだ。 まずドラマの前半で、伊東は岩倉に、まるで道化であるかのごとくに手ひどく扱われる。というのも、薩長と岩倉はもはや自分たちの政治的思惑でしか動いていないので、いまさら正論などはかえって邪魔なだけなのだ。そのため、すでに甲子太郎の顔を見知っているにもかかわらず、岩倉はいかにも嫌味な公卿らしく、彼我の力関係というものを伊東に存分に見せつけ、思い知らせる。 これから世に出るべく希望に満ちた者の頭を、まるで出る釘のように叩いてその意気を挫いてしまう、才能のない普通の人間が才能のある人間を潰すために用いる、世の中に有りがちな遣り口の実例が、岩倉の演技力によって過不足なく、また遠慮会釈なく、ここに描写されるわけだ。 そして失意の伊東は、もし政治活動の一翼を担いたければ近藤の首を手土産に取って来い、と大久保一蔵に示唆される(しかも伊東の建白した大開国大強国論は、後に大久保・岩倉たち遣欧使節組によってちゃっかり盗用されるわけだ。このあたり、三谷が伊東の人物像をきちんと骨太に押さえていることがはっきりと読み取れる筋運びではないか)。 そこで伊東は近藤の暗殺を斎藤に命ずるが、いまひとつ斎藤を信じていない加納は篠原を斎藤の介添え兼監視役につける。当然斎藤は篠原と斬り合って新選組に戻るわけだが、子母澤寛によれば谷三十郎を殺したときも、また武田観柳斎を殺したときも、たしか斎藤と篠原は一組で行動しており、この二人がここで対峙するのは、そうした知識も踏まえた上で観ると、ひときわ面白い。いずれにせよこのドラマの斎藤は、何の策も弄することなく、ストレートに新選組に帰って行くようだ。 さて暗殺の試みが露見したと覚った甲子太郎は、みずからの手で近藤を殺さんとして、短剣を懐に、単身近藤との会見に乗りこむことを考える。騙し討ちは卑怯ではないかと問いたげな加納に対し、伊東は「国の行末から見れば(騙し討ちなど)些末なこと」と言い捨てる。ところがどうして、これこそ些末どころか「誠の心」の真価が問われる場合なのであって、こうして伊東は、第四十回で永倉に喝破されたことを繰り返し、またもや自分で自分のことを偽ってしまっているのだ。金策をしたわけでもなく、近藤に呼ばれたわけでもなく、つまり「新選組!」中の伊東甲子太郎のキャラクターとしては極めて一貫した、こうした設定なのである。 そして場面はいよいよ近藤との会談になるわけだが、障子の開け閉て、蝋燭の火、風を心理描写の象徴として演出する。もちろん近藤の人間がはるかに大きいわけで、このドラマで近藤(というか三谷なわけだ)の中に次第に形成され確信となっているところのビジョン(つまり三谷の抱いているビジョン)が、ここのダイアローグにおいて、ふたたびはっきりと表出されることになる。 「ほんの一握りの者たちが欲得で世を動かすから許せないのだ」←これは鴨が久坂に対して言っていたことでもある。 「(伊東さんあなたは)元新選組だからではなく、それら一握りの者ではないからはじかれるのだ」 「(私の理想とするのは)出身を問わない世の中だ」 つまり近藤が理想とするところは、身分平等、挙国一致、万機公論が実現される世の中なのであって、近藤がしばしば言及し、また自らも目指すところの「武士」とは、徳川三百年の封建体制の産物としての武士なのではなく、むしろ「モラリスト」=「誠の心の保持者」としての人間像なのである。 これについては、すでに2004年7月6日(火)の第二十六回考察で言及したところだ。また子母澤寛によれば、甲陽鎮撫隊編成の際、弾左衛門一統を味方につけるにあたって近藤の尽力があったと書かれているが、もちろんこうしたエピソードも、三谷の知識とビジョンの中には、きちんと織り込まれているにちがいない。 こうして近藤は捨て身で伊東を「誠の人」に戻し、回心した伊東は笑みを浮かべながら夜道を帰っていくが、そこに大石たちが襲いかかる。 「愚か者! 近藤先生の御心を無駄にするな!」 狭い了見で争うなという伊東のここでの一喝は、まさに先の大戦における、天皇と軍部の暗喩ではないか。そして日本軍部は、まさに維新藩閥体制の核である薩長勢力を基盤にして増殖していったのだった。三谷脚本にナショナリスティックなメッセージがちりばめられている、と感じる人がいるというのは、これら随所にこうした仕掛けがほどこされているからであろう。 だが目覚めた伊東によるこの叱責は、局長暗殺を試みた憎い敵に一矢報いていいところを見せようという思いで一杯の大石には結局通じず、避け得ない運命の導くままに、伊東は大石の槍の一刺しに倒れるのである(このストーリーでは、通説のごとく「奸賊ばら!」とは叫べないだろう)。 これ以後は、実際家の副長、土方の出番だ。「若い奴を責めるな、お前(近藤)のためを思ってやったんだ」「ここから先は俺にまかせてもらう」「どうせ奴らとは決着をつけねばならないと思ってたんだ」 他方、御陵衛士たちも、鎖鎧を着けるの着けないのと、通説にあるごとくの悠長な議論をする暇もなく(それに今回ようやく篠原が見分けがついただけで、いまだどれが三木三郎か私には区別がつかないのだ、それくらい没個性に描いてあるのだ)、温厚な加納もいつになく激して「罠だろうがなんだろうが、先生をこのままにはしておけん!」と立ち上がる。 こうして油小路の惨劇の準備は整った。 残るは平助のドラマ。まずとにかく、勘太郎が歌舞伎役者の本領(大首絵のままの顔)を存分に発揮して、目の覚めるような芝居を見せたことは特記しておかねばならないだろう。また演出の方も、勘太郎の思うように、敢えて古典的でいいから演じさせたに違いない。 今回のサブストーリーは、つまりは平助成長の物語であって、伊東一統からも、また試衛館一統からもつねに子供扱いされてきた平助、沖田とともに「上の者をはらはらさせる子供」であった平助がついに大人となったとき、それは同時にかれの最後でもあったという悲劇の物語なのだ。 まずは伊東にも物数扱いされず、斎藤からも「お前を守れと土方さんに言われてきた」とあっさり秘密を明かされ(ということは庇護される対象でありこそすれ、ともに事を謀る仲間の扱いはされていない)、あげくは手もなくひねられ縛られる。 次には伊東によって近藤の許に何も知らないまま「子供の使い」をやらされ、それに憤ると加納に「伊東先生はこれから永久に敵となる新選組に最後の別れをさせてくださったのだ」とまたもや恩に着せた子供扱いを受ける。 そして最後は油小路でも永倉からは「お前を斬れない」の一点張りで訳も教えてもらえず、左之助からも「いいから早く逃げろ!」と相手にもされない。 オレはそんなに子供扱いなのか、オレの「誠」はどのように表わし、どのように通せばいいのか……? それで平助は、猛然と戦いの場に舞い戻る。 これをわかっているのは同じく子供扱いの沖田だけで、だから沖田は近藤に向って「(平助は)あなたたちが思ってるほど子供じゃないんだ!」ともどかしげに叫ぶのだ。 やがて駆けつけた近藤に抱かれ、虫の息の平助は「これでよかったのですね先生……」とつぶやく。「お前は真の/誠の武士だ」自分の判断で自分のモラルを通したことを誉められた平助は、近藤の腕の中で息を引き取る。 「また一人、逝ってしまった……」源さんの悲痛なうめきの中、劇の幕は閉じられるのである。
こうして油小路の変も、いつものように巧みにエピソードを綴り合わせて、飽かせず見せた。 このドラマに腹を立てたりクレームをつける維新素人史家の人たちは、なまじにアカデミズムの研究手法にに固執しようとするゆえに、逆にそれにとらわれてしまって「狭い視野」という陥穽にはまってしまい、その結果、このドラマの紡いでいる「大きな物語」が見えなくなっているのではないか。 通説を踏み外し、時代考証を無視して滅茶苦茶なようでいて、むしろ実は、人の織り成す歴史の本質というものを最も正確かつ鋭く突いているのが、他ならぬこの三谷「新選組!」脚本なのかもしれない、と私は一年近く観続けてきて、とみに思うのである。 他方では、三谷幸喜は劇作家としてのスタンスをぜったいに踏み外さないようにはしているものの、一筋縄ではいかないさまざまなメッセージを、「新選組!」中に相当に織り込み発していることは、これもまた、火を見るより明らかだろう。 蛇足: ●谷原章介扮する伊藤甲子太郎は、美形でじつによかった。 ●捨助はまた土方と仲違いしたようだ。 ●お孝は沖田とも仲がいいようだ。 ●周平はチョイ役だが今回も画面の中で光る演技。 ●源さん、甲子太郎については悲しみませんでしたね。
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No.178
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