++浅薄日記++


2004年10月の日記


2004年10月3日(日) 後期授業開始、「新選組!」第三十九回
☆後期授業開始
 チベットから帰り、疲れも十分に取れぬ内、もう学校が始まった。M大にW大、本務校にT大。とくに先週金曜日は、1、3、4、5と授業があり、虚脱状態。
 おまけに研究室のリースのコンピュータがXPに変わり、そのセッティングだけでもだいぶん時間を取られた。XPのインターフェースなど、MacOS10のたちの悪いお為ごかしで、はじめから使う気もないので、ぜんぶ元の使い慣れたNT風に戻してやった。全研究室交換なのだからそのコストも馬鹿にならず、そんな金を出す余裕があれば他に使い道もあるのでは、とも思いかけたが、それこそ経済知らずの学者バカの言いそうなことで、減価償却というものを考えれば、こうしたマシンというものは早く交換して行かない限り、かえって全学的な損になるのだ。

☆「新選組!」第三十九回
 今回は、壁を乗り越えられずに自己憐憫に浸り、そのくせ人に流されやすいダメ男、周平のドラマだった。この手の人物像は、私も含め、そのあたりにいくらでもいるだろう。
 死を見つめている沖田は、そのためこうした人生態度がとうてい許せず、それで極めて辛く当たる。
 それに対して平助は、周平を殴りつける沖田を羽交い締めにしながら、「あなたとは違って、いくら頑張っても上達しない人だっているんだ!!」と涕泣し、源さんは「これからじゃないか」と思いやり深く周平を抱きかかえる。これらはいわば、天才に対する凡人の心の叫びといえよう。
 きっとこれはまさに、演劇部とか運動部で数限りなく繰り返されてきた場面、ある種の面映い青年時代の一シーンなのだ。周平という人物は、たぶんこうしたキャラクターとして登場させるにはうってつけの役どころだったのだろう。
 さてこの周平のその後というのは歴史の上ではどうやら判然とはしていないようだが、このドラマの中ではしばしば源さんに救われていることから、おそらく鳥羽伏見の戦いの中で、源さんとともに死ぬのではないだろうか。
 ドラマそのものは、いくつもの筋が絡み合って緊迫した構成。まず谷兄弟が脱走し、斎藤と島田に斬られる(このあたり、子母澤寛などをうまく取り入れている)。その斎藤は暗殺者として心をさいなまれ、ニポポのような神像を彫ることで精神を安定させているが、それを左之助への祝いとするのは、何かの伏線になるかもしれない。一方、斎藤と島田について来た監察方の浅野はあまりの凄惨さに恐怖してこれも脱走を企て、周平を動揺させて仲間に引き込もうとする。周平はもちろん拒否するものの、養父近藤に一抹の不安感(自分が評価されていないのではないか)を抱き、源さんに相談をかけるが、源さんは折悪しく左之助婚礼祝いの寿司作りにかまけて相手にならない。訪ねて行ったお幸もまた、妹に再会する仕度に忙しいが、それでも近藤が周平をけっして低く評価しているのではないということを知って周平はひとまず安心する。周平は、人から評価されたり愛されているという確信が持てない男なのだ。
 いよいよ妹に会うため出かけようと外に出て、手引きの山崎を待つお幸の耳に、浅野と周平の話し声が聞こえてくる。浅野にうまく利用されて脱走せざるを得なくなる周平の危機を伝えようと屯所に走るお幸。しかしこれでかの女は決定的に身体を痛めるのだ。倒れるお幸を抱きとめるのは斎藤。かれは万事を呑みこんで影のように走る。
 死を意識し、鬼神のように不逞浪士を切り捲る沖田とそれに従う「人斬り」大石が、脱走の二人を発見して追う一方、斎藤の知らせを受けて急遽左之助の祝いの場から抜けた源さんと平助が、いまや道に転び倒れて大石に斬られる寸前の周平を救う。そして周平を見捨てた浅野を黙って去らせるのは、やはり神像など彫って仏心に捉えられかけている斎藤なのである。
 ちなみに、「浅野は死んだ」と言う斎藤に、大石がすかさず「屍骸は?」と突っ込み、それに対して斎藤は「鴨川に落ちた」と軽くいなすが、これもまた、子母澤寛の記すところ(浅野は沖田に斬られ、死体は鴨川に蹴り込まれた)などをうまく使っている。
 そうして結局周平は、源さんと平助の嘆願で助命され、谷周平として挽回を図ることとなるのである。
 その間にも歴史は動き、ラスト・タイクーン慶喜が登場、捨助は見廻組佐々木只三郎のもとへ出向き(「(新選組を含め)俺をないがしろにしたヤツらをギャフンと言わせたい」─とんでもないキーパーソンになったものだ─)、竜馬とおりょうの幸せも長くは続きそうもない。
 また甲子太郎と加納は密かに岩倉を訪れるが、そこにはすでに山崎の目が光っていて、ドラマはこれから高台寺党分離へと突き進み、ますます緊迫の度を加えていきそうである。

蛇足:
◆今日はみな山南走り。
◆幹部の中ではもはや沖田だけダンダラ羽織(それもちょっと着崩して)着用。残された命を精一杯生きようとする沖田の、新選組に対する誠実さ、「誠」のあらわれという演出だろう。
◆山崎大活躍。
◆祝いの寿司を作る源さんと平助の場面、沖田と土方の会話の背後で、しっかりと演じていた。とくに寿司の具を入れる平助が、箸についた寿司の飯粒をちょっと取って味見/つまみ食いする芝居。
◆「オレはいつも中心だけど」酒盛りの喧騒中から左之助のアドリブをちゃんと拾っていた。
◆永倉は近藤も源さんもいなくなった後、さぞ土方にからんだことだろう。
No.169


2004年10月5日(火) イラスト「水戸派の二人、甲子太郎と鴨」アップ
 ひどい雨模様の天気。スーツがびしょ濡れ。今日は大学を二つ掛け持ちするので大変だった。授業はなんとかこなしたが、気分の落ち込み甚だし。ただ前期より受講者数が減っているのでそれだけは楽だ。

 先週の会議中に話題が非生産的となり、そういうときはもう落書きに限る、と題材を考えていると、鴨と甲子太郎が浮かぶ。ボールペンの先を紙に落とすと、下書もなしに二人の姿が描けた。ようやく鴨の容貌がそれらしくなったので喜ぶ。甲子太郎はもちろん北辰一刀流の達人だが、めったと刀は抜かなかったようで、この抜刀の姿は油小路の変のイメージが少しある。鴨は「尽忠報国……」の鉄扇を持っているが、少々風流な身振りになってしまった。ちなみに鴨の顔は、かかりつけの鍼の先生に似てしまった。
 そのボールペン描きを取り込んでペインターの水彩ブラシで色をつけたのが、今回アップした「水戸派の二人、甲子太郎と鴨」である。描きながら、初夏に訪れた玉造町の「新選組・水戸派資料館」を懐かしく思い出していた。
No.170


2004年10月11日(月) 「新選組!」第四十回
☆「新選組!」第四十回
「新選組!」も、ついに余すところ10回を切った。クランクアップもしたそうだし、あとはもう一瀉千里にクライマックスだ。平助も甲子太郎も、あとわずかしか登場しない。各地の新選組フェスタも残り一月くらいで、これからは秋の深まりとともに淋しくなる。
 さてもうお幸も死に(お孝は実の妹ではないのか?)、ドラマは御陵衛士の分裂を描く。ということは、甲子太郎と平助のドラマだということだ。
 この大河中の甲子太郎の人物像についてはさまざまな意見があるようで、こんな扱い方は不当だと烈火のごとく怒っているサイトも存在する。以前にも書いたが、新選組というのは賢治と同じく個人的思い入れの激しい対象だから、そうしたことが尖鋭に現れるのも当然だ。私としては、このドラマでは、甲子太郎は非常にストレートに表わされていると思う。何がかというと、それは、真摯であるが策士であるという性格設定だ。この二つの性質は、相容れないものではない。ただ頭があまりに回りすぎるため、その真摯さが、愚直な近藤の「誠」とは違ってきてしまうということだ。それが今回甲子太郎にいっぱい食わされて同士に加えられかけた永倉の、「(あなたは)己も信じていない!」という喝破に表わされているわけだ。
 ありとあらゆる事態に対応しようとすれば、そういう人間は、その時点その時点の自分の決断や自身の存在すら疑って対応せざるを得なくなる。「策士は策に溺る」というわけだ。だが「誠」の近藤はそんなことは関知するつもりもなく、不利なカードを引くことすら百も承知で、あえて甲子太郎に「言いくるめられる」。土方はもちろん我慢できないので、高台寺月真院に斎藤を送り込むが、それは他方では、渦に巻き込まれてしまった平助の身を慮ってのことでもある。ちなみに、分離の口論の場面での山本土方と谷原甲子太郎の目での演技の仕合いは、定石に嵌まったいい演出だった。
 要するにここしばらく、「新選組!」は、ごくごくまっとうに、というよりもこれまでのいかなるドラマにもなかったくらいに克明かつ正直に、人間群像を描き出しているのだ。幕末のほんのわずかな時間に盛衰した新選組を、土方の、近藤の、沖田の、吉村の、つまり従来のような個人のドラマではなく、そうした群像そのものを描き出すための最高の題材として捉えたところに、三谷幸喜の慧眼があるといえよう。

 劇そのものの主眼と重点は、終盤のクライマックス、沖田と平助がお互いに心情を述べ合うダイアローグにもっぱらある。
 前回、周平を叱咤する沖田に向って「あなたは天才で常人とは違う、そのことをあなたはわからない」という意味のことを言った平助は、今回もまたそのコンプレックスを、天才沖田にしきりとぶつけ、打ち明ける。「私は伊東先生について来いとは言われていない、永倉さんや斎藤さんのことは策を弄してまで呼ぼうとした、それに較べて私は物の数に入っていないのだ」
 それに対して沖田は「甘いな、子供だな」と一蹴し、「伊東は平助のことを信じているから言葉に出しすらしないのだろう、近藤先生と私の間柄はそうだ、平助おまえは、いちいち言葉にしてもらわなければわからないのか!」と極めつける。
 ところがこれは、私が思うに沖田の希望的に過ぎる人間像の読み間違いで、甲子太郎こそ「言葉でしかものごとを解釈しない人間」なのだから、そう考えればやはり甲子太郎は、平助のことなど歯牙にもかけていないのだ。以心伝心で「信じている」のではなく、言葉で説明する必要すらないと「高を括っている」のだ。ここの沖田の台詞で、近藤と甲子太郎の違いがはっきり際立つことになる。
 とはいえまたもや一本取られた形となった平助は沖田に「私はあなたに勝ったと言えるその日をめざして来たが、あなたにはいつだって敵わない、あなたはいつも先にいる、うらやましい」とかこつ。劇中にはその仇名は一度も出てこなかったが、これは平助が「魁先生」と呼ばれたことを想起させる。かれは真っ先に、というより沖田よりも先に行きたかったという風に、このドラマでは解釈しているということだ。
 ところがこれは沖田にとっては、死ぬことまで自分が先に行くということを言われたような気がすることになる。そこで沖田は、「うらやましいのはこっちだ」と、自分が労咳であることを打ち明ける。「来年、再来年のおまえがうらやましい、だから私のことをうらやむのはやめてくれ」と。
 そこで二人は誠の旗を背景に、「せめて相打ちに」と手を重ねる。見えているようで見えていない運命、見えていないようで見えている運命を、お互いに生きるのだ。
 そうして最後は、「辛かったら戻って来い」という近藤の言葉で劇は締めくくられる。ところがそれは、加納と土方の話し合いで、じつは叶わぬこととなっている、という悲劇の余韻もまた残すのである。

蛇足:
●画面のこちらにいると思しき捨助を睨む近藤の目線。
●捨助がそれぞれの肩に置いた手を同時に外しながら「カエレ!」と叫ぶ土方と近藤の様式的演技。
●「カエレ!」と対応する甲子太郎の「プリーズ、ゴウ、ホウム」。平助のホームはどちらなのだろう。
●「なぜオレを誘わない」という左之助。かれなりに鬱屈するものがあるのだ。
No.171


2004年10月19日(火) 「新選組!」第四十一回
2004年10月19日(火)

 このところ、日記が一週ごとに飛び飛びになり、しかも「新選組!」のみ。
 チベットから戻って以来、いまだ本調子とはいえないのだ。日記に書くほどに心の踊ることも、取りたててないような気もするし。
 毎週毎週台風来襲というのも、きっと気圧の変化その他で、こちらの気分に多大な影響を及ぼしているに違いない。実際の被害も深刻なのは承知だが、精神にもかなりな害をもたらすとも思う。

☆「新選組!」第四十一回
 自分の心の弱さが、どうしようもなく運命を引き寄せ動かしてしまう(「そいつが自ら播いた種だ」by 土方)、そんな男、武田観柳斎のドラマ。
 このドラマでは一貫して、武田はおべっか遣いの敵役ではけっしてない。三谷ドラマではおそらく真の悪人というものは存在せず、善に見える行為も悪に見える行為も、すべては人間の業の積み重なりのひとつでしかなく、目隠しをした運命の神の天秤しだいでその評価が定められるわけで、演劇とはまさにそうした人間像に対する感情移入と解放の営為なのだから、むしろそれでなくてはならないわけで、したがって武田もまたそうした業深い人間のひとりとして、いや絶好のキャラクターとして三谷幸喜に選ばれ、描かれることになるのだ。
 武田は武田なりに努力を重ねて上り詰めてきたのに、他の皆はそうした武田の所業を憎み、かれの格下げという、武田からすれば理不尽な処断をする。しかし武田とてプライドがあり、「一切を返上」して部屋に戻る。
 そこに、新選組が幕臣の地位を受けたことに納得できずに反発する四人が訪ねてくる。どうやら武田観柳斎はとうの昔に蚊帳の外に置かれていて、土方と加納が交わした、これ以上新選組と御陵衛士との間に人員交流を持たないという取り決めを知らされておらず、いまだ自分が両者の間を取り持てると考えているようだ。そのため武田はこの四人に、近藤に書置きをした上で伊東の許へ駆け込めとアドバイスするのだが、あまりにタイミングが悪すぎる。もちろんこの試みがうまく行くはずもなく、武田は加納に一蹴されて引き下がり、置き去りにされた四人は会津藩邸に走り、そこで自ら切腹する運命に追い込まれてしまうのだ。
 通説では伊東一派の間者として脱退という挙に出たと目されているかれら四人だが、三谷脚本ではもはやそうした時代考証的背景はまったく無視して、かれらのことは武田のちぐはぐな政治的行動による純然たる被害者として扱い、これまた武田の運命を狭めていくストーリー上の伏線として使うわけだ(だからもちろん、新選組による謀殺という説は採らない)。
 だが致し方ない、今回は武田のドラマなのだから。それに脚本があまりに巧みに結び合わさってできているので、観ている方は、よくまあこんな風に作るな、とただひたすら感心するばかりだ。
 また、たまたま近藤は、幕臣になったことをしおに、粛清のためにしかはたらかない内部的法度はもう止めたいと考えており、この四人についても「戻ってくれば水に流す」つもりだったのに、戻るどころか藩邸での自決という大騒ぎになったのは、これまた武田の無責任のせいであって、さすがの近藤にも「なぜどうして……」という怒りと悲しみが湧きあがる。土方はじめ他の隊士たちについては、いわずもがなだ。
 ついに脱走する武田。伊東のところでけんもほろろに扱われ、薩摩の西郷のもとでは「会津藩の機密を盗み出せば仲間にする」と条件をつけられる。小賢しい奴としてどこでも相手にされずに、ついに土方と沖田に捕らえられて近藤の前に引き出される武田。
「あなたのせいで何人の隊士が死んだと思っている」
「私だけのせいではない」
「ならばなぜ逃げた? 私はあなたを高く買っていたのに、あなたは心が弱く、ウソを吐き周りを振りまわす」
 限られた才能の中で懸命に這い上がろうとする観柳斎の姿に、どこか多摩以来の自分を重ね合わせていた近藤だが、観柳斎もまた持っているはずの「誠」は、かれの「心の弱さ」という影に覆い隠されてしまって、近藤にすら、もはや見えなくなりつつあるのだ。一方、土方と沖田にはそんなことは最初から見えるはずもなく、とくに沖田は、山南や河合に申し訳を立てるためにも、武田を斬るべきと思いつめる。
「説教はたくさんだ、切腹を早く申しつけてくれ」と言い放つ武田。しかし近藤は、それでもなおもう一度観柳斎に対して、「誠」を見せるためのチャンスを与える。
「生きることも償いだ、そう易々と死なせはせん」
「生きて誠の武士となれ」「一隊士として扱う」「もう一度這い上がって来い、武田観柳斎!」
 これで武田は回心し、生まれ変わるのだ。カタルシスは起こり、運命の秤はふたたびかれに傾くかに見える。三谷幸喜は、このまま武田の命を助けるのか……? しかし沖田は納得していない。

 というわけで、ここから先はサスペンス仕立てとなる。「大部屋はイヤだ、恨みを持つ隊士に何をされるかわからない」という観柳斎の台詞に対し、「(まだそんな弱いことを言っているのか、)甘えるな!」と土方は大喝するし、観客もまた同様にそう見るのだが、じつはこれは、夜半こっそりと抜け出すための手立てでもあるのだ。
 そうして夜闇に紛れて出て行く武田の姿を見て、先の薩摩屋敷での西郷との遣り取りを思い起こしながら観客は、「あああれだけの近藤の温情にも関わらず、観柳斎はやっぱり裏切るのだな、そういう弱い奴として所詮描かれてしまうのだな、さきほど武田とともにわれわれも体験したカタルシスは、結局空しく終わるのだな」といささか失望めいたものを感じる。
 それを証明するかのように、武田の後をつける沖田。剣が一閃し、ぱらりと破れた武田の風呂敷包みから落ちたのは、はたして西郷に渡すため盗み出した会津の機密書類……と思いきや、どんでん返しが来る。武田の指し示す向こうには、ほの暗い石塔。武田は河合の墓に参りに来ていたのだ。自分との間に交わした貸借の約束の秘密を、たとえ命を奪われることになってもけっして明かさなかった河合(それは商人の一分でもあり、また同時に憧れの武士ともなった河合の武士としての「誠」の貫き方でもあったろう)に対して、武田はやはり「誠」の心で応え、詫びていたのだ。そして薩摩屋敷への内通の疑いについても武田は誘いがあったことを認めた上で、「私はそこまでクズではない」と否定する。
 ここでもまた人間の実相を見てしまった沖田が刀を納め、力なく戻って行った後で、もうひとつのどんでん返しが待っている。河合の墓を拝む武田の背中を、大石の剣が襲うのである。
 知らせを受けた沖田が駆け込むと、勇の部屋には武田の遺骸が横たわり、その顔に白布をかけながら近藤がつぶやく。「ここまでにしよう……」
 こうして結局はカタルシスがあるのだが、いずれにせよ、初めに述べたように、武田もまた、善人としていい死に方をさせてもらったと言えるだろう。
 そして最後は、翌日の晴天の光のもとお孝が登場して、今回の劇は明るい余韻を持って終わるのである。

 この大筋に、大政奉還・王政復古への竜馬の空しい動きがからんで、ドラマが進行する。伊東は竜馬と会って大強国大開国の持論(このあたり、三谷が伊東をけっして軽視した描き方をしていないことは明白だろう)を説くとともに平助を竜馬の護衛につけ、また佐々木只三郎は捨助に命令して竜馬の居所を探らせる。他方、西郷と大久保は、いまや倒幕の障害となりつつある竜馬の切り捨てに動く……。これら三つの動きが来週はひとつに収束し、しかもそこに勇が介入して、また途方もない三谷流「竜馬暗殺」ドラマが展開されることになるのだろう。

蛇足:
●幕臣に列せられた近藤と土方がのっけから抱き合うのは、腐女子へのサービス。
●お孝の背後に控える周平の、ちんとした座り方とその目配り。
No.172


2004年10月20日(水) 台風23号
☆台風23号

 学校へ行き、午前中のゼミを終了すると放送が入って、「5時限目以降は中止にします」というではないか。台風がまだ関東に来襲せず、また明るいうちに学生を帰らせようとの判断なのだと思うが、どうせなら、午後はすべて休講にしますくらいの弾力的決定ができなかったかね。場所は多摩の丘陵だし、雨風もきつく、川の増水だってありうる土地柄だ。こちらも気が抜けて、ほどほどに学校を出た。
 台風の雨風そのものは、少なくとも家のあるあたりは前回より遥かにましだった。東京は、22号の久しぶりの被害に素早く学んで対応したようだ。とくにNHKニュースで見た地下鉄職員は、今回は絶対麻布十番駅の二の舞を繰り返すまい、という心意気が表情にあらわれていた。鉄道というのはやはり男の職場だな、と羨ましく思った。
 それにしても、今年は何回、「ここ何年で最も……の危険が高まっています」というコメントを聞いたことだろう。台風の規模も「最大級」ばかりだ。
 ということは、かつての洞爺丸台風とか伊勢湾台風並みの大被害が生じても、けっしておかしくはないわけだ。
 しかしその当時と較べれば、被害ははるかに少なくて済んでいる。もちろん犠牲の軽重に違いがあるはずはないが、事例の数量ということに限れば、明らかに少なくなっている。これがバングラならば、すぐに何万というオーダーに達することだろう。現に私が大学生だったころ、神田川などはすぐに溢れて床上浸水していたものだが、そうしたこともさっぱり聞かなくなった。
 ならばそれはやはり、たとえ遅々としているにせよ、インフラ整備がそうしたところまで来たということだろう。
 教訓から学び、巧みに対応していく術を、日本はますます磨いていかねばならないだろう。

 それにしても、もう24号が背後に控えているようだし、鉄人じゃないのだから、いいかげんに季節も季節ということで、打ち止めにならないものか。
No.173


2004年10月23日(土) 世田谷・萩祭り、新潟地震、スタジオパーク
 今日は本務校のオープン・キャンパスの日。当方は「模擬授業」の担当で、世田谷校舎で終わったら直ちに小田急線に飛び乗り、鶴川校舎へと移動せねばならず、なかなか忙しかった。
 午前中、世田谷校舎へ着くと、学校の隣にある松陰神社で(これで私の本務校がどこかお分かりでしょう)、なにか縁日のような店を出す準備が始まっている。
 貼られているポスターを見ると、うろ覚えながら「第13回世田谷・萩祭り 幕末・維新祭」とある。ははあ、吉田松陰だし、萩ね、と思いながら眺めていると、萩焼きなどあちらの物産を売るようだ。時間があったら覗いてみたのに、と通りすぎようとしたら、「會」と染め抜いた幟が視界の片隅に入ったではないか。
 目を疑う思いで見直したが、やっぱり「會」だ。それも紛れもなく会津藩の使うロゴだ。
 驚愕して、いままさに店を出さんとしているおじさんに、「敵味方じゃないですか」と声をかけたら嬉しそうに笑って、「ええそうなんですよ」と応える。「しかも松陰神社でね」と言うと、ますます嬉しそうに「こうして一堂に会すなんて、戊辰以来でしょう」と返事をする。「でもよかったですね」としか言えない。
 ついこの間白虎隊記念館を見てきた身には、不倶戴天という形容のままのはずの両者が並んで物産の店を出すとは、呉越同舟と言う以上に、殆ど信じ難い光景。会津っぽの心も、ようやく鎮まったということか、それともこれも「新選組!」の予想外の効果か。だれがどこからどう声をかけて、どうしてどうやってこんな企画が成立したのか。ポスターを見ると「吉田松陰、会津を行く」というなにかのプログラムもあるようだし、こればかりは正直いって驚いたことだった。
 模擬授業は問題なくこなし、鶴川への移動も順調に行って、そちらでも模擬授業を行なう。当日は私の勤務する学部の学部祭でもあり、なかなか賑やかだった。
 さて学部祭も目出度く終了して、これから打ち上げの懇親会、というまさにその6時直前、研究室がぐらぐらと揺れだし、棚の本が落ちる。
 すぐにラジオをつけるが、揺れは収まりそうもない、たまりかねてドアを開けて廊下に飛び出す。そこでまあ揺れは弱まってくるが、依然止まりはしない。
 懇親会終了後の8時を過ぎても、まだこの多摩の地でも揺れていたわけで、帰宅してからテレビのニュースを見て、あらためてその重大さを認識した。
 
 しかしこれで、天が怒り(台風)、地が怒ったわけで、これはまちがいなく世の乱れ、人心の動揺に天地が感応したものであって、昔々、世が世なれば、いまごろ小泉は天命を失ったとみなされて処刑ものだったのだが。そうでない現代をきわめて遺憾に思う。

 ついでに、妻が録画してくれていた、本日午後のNHKスタジオパーク、三谷幸喜出演部分を観る。ビビる大木の菜っ葉隊姿、49話打ち上げ直後のスタジオシーンなど、万感胸に迫るものがある。鴨が死んだときもいやだったし、山南が死んだときもいやだったが、もうあと何話もないと思うと、気が重くなる。三谷幸喜は「あと二年くらい欲しかった」と言っていたが、まさにその通り、そうしてくれ。
 近藤も土方も死んだ後、舞台はふたたび多摩に戻り、石坂昌孝の自由民権ドラマを描く。板垣退助も登場できるし、佐藤家、土方家の苦労も描けるではないか。そして北村透谷あたりで終わらせる。つまり「獅子の時代」へのオマージュともなる。
 そんなことを妄想した。
No.174


2004年10月24日(日) 中越地震、明治神宮雑感
★中越地震
 つい何回か前の日記に「日本のインフラも徐々に改善されてきた」みたいな意味のことを書いたら、それが日本の自然かなにかを怒らせたのか、中越地震が起こり、一夜明けてその被害が明らかになってみると、新潟のライフラインと交通は途絶して、関越も上越新幹線も壊滅、17号国道も寸断と、完全に孤立状態ではないか。
 関連サイトを検索したら、1828年の大地震、1964年の大地震のときよりも、あるいは死傷者数は多いかもしれない。つまり総人口が基本的に少なく、神戸や東京のように密集しているわけではないので、結果的に少ないというだけで、被害の程度も質も、けっして減少したり改善されたりしているわけではないようなのだ。
 そうして、田中角栄の心血の結晶、東京とすべてを直結し得べき高速道路と新幹線とが、あの阪神淡路大震災のときとまったく同じように鉄筋を剥き出しにして壊れた光景は、新潟県民の希望をいかに打ち砕いたことであろうかと思う。
 この流通の途絶が、おそらくは日本の経済状態を、いずれ何らかの形で蝕んでいくことだろう。

☆明治神宮雑感
 妻がお手前をするお茶会によばれるため、明治神宮桃林荘へ行き、その後文化館で開かれている特別展「孝明天皇展」を参観する。和宮へのかたみとなった「空蝉の袈裟」も展示されていて、子母澤寛の『新選組始末記』にも触れられているものなので、感慨深く見た。幕末工芸の水準にあらためて感嘆する。こうした水準に達していた日本民族文化を破壊したのは、まず明治初期の薩長土肥タリバーンたち、それから戦後民主主義文化タリバーンたちだろう。
 しかし芥川の「神々の微笑」ではないが、かれらもついに、神仏を滅ぼすことはできなかったのだ。芥川は頭でしか物事を考えられない人間だったが、それでもこの短篇は、上滑りながらも正鵠を射ている。
 年年歳歳神社仏閣に詣でる人の数は増え、現に今日の明治神宮には欧米人、中国人、韓国人などが訪れては楽しそうにさんざめいて写真やビデオを撮り、その中のだれひとりとして「軍国主義の亡霊がいまだ徘徊している」などと怒っている者はいなかった。それどころか、緑が多くてビルひとつ見えないこの環境を、みな楽しんでいるのだ。
 しかも甚だしきは、今日などは紋付羽織袴で、角隠しの日本花嫁と神前結婚式を挙げているガイジン新郎がいたではないか。しかもその新郎の両親(当然白人)も、また友人たちも、キモノ姿なのだ。
 帰り道は、明治神宮境内を出ると、とたんにホームレスのあばら家が目に付く。
 そこで考えた。公園と、神社と、いったいいずれが都市コンテクストとして優れているか。神社という清浄倫理領域には、森林は保存され、ホームレスはいないのだ。ところが、公園というこのマージナル無責任領域は異界であり、視界と安全を確保するために木木は根こそぎにされ、にもかかわらずそこには、若者バンドも含めてマイナスのベクトルを持った人々が蝟集する(それをしエネルギーの生成源だという人は、ただの面白がりのヴァンダリスト・ラッダイティストだと断じていいだろう)。
 もしも敗戦後、共産党が政権を取っていたら、明治神宮などもいまごろは「人民公園広場」(NHK周辺の代々木公園がさも似たりといったところだ、つまり戦後米軍に接収されて○○ハイツとなったところだ)かなにかにされ、治安と環境の悪化と破壊主義とに苦しんでいたことだろう。
No.175


2004年10月25日(月) 「新選組!」第四十二回
★中越地震、余震続く。東京でも揺れる。

 では「新選組!」感想。
「龍馬暗殺」。
[うまく作った!]

 上手い! お見事! としか言いようのない出来。
 龍馬暗殺にまつわる諸説を、ここまで巧みに取り入れて縒り合わせ、しかもどこにも破綻がないというのは見はじめだ。もしかすると、この龍馬暗殺のシーンとストーリーが、もともと三谷幸喜の脳裏にあって、じつは「新選組!」のドラマはそれに合わせて繋げられていっているのではないか、と思われるほどだ。のみならず、第一回で龍馬と近藤を引き合わせてあるという構成も、ここであらためて引き立って平仄がついてしまう。
 思えば三谷幸喜は「龍馬の妻とその夫と愛人」や「龍馬におまかせ!」からわかるように、龍馬に関しては豊富な知識と明確なイメージおよびビジョンを有しているはずだし、いわば今回は、三谷幸喜の龍馬ドラマの完成形、最終バージョンといったものなのではないだろうか。

 ドラマは大政奉還という激動を背景に、目立たぬカラス二羽、大石と周平の試合という小さな波と、それが引き金となる沖田の病臥/戦線離脱の欠かせないエピソードを絡ませながら、大政奉還の発案者である龍馬の死を描く。不吉なカラスとその鳴声がBGMだ。お孝のときだけそれが鳩になるのも、またうまい。糸井重里なら、必ずここに着目することだろう。
 頭が良すぎて高転びに転ぶ慶喜将軍(「幕府など、もうイラン!」)を戴いた容保、佐々木、近藤の困惑。大政奉還で自分たちの基盤がただの幻影、砂上の楼閣となってしまうのだ。背後でこのアイデアを出した龍馬に、佐々木は直参旗本として、激しく怒る。「私は御公儀に命を捧げた者、その御公儀を無くした男を許すことはできない」これは佐々木様の「誠」だ。その「誠」を貫くべく、また土佐と戦になって御公儀に迷惑をかけぬように、佐々木は見廻組ではなく、徳川家臣としての個人的御奉公として、腹心とともに龍馬殺害に乗り出し、そのため龍馬の居所を探るべく捨助を動かす。捨助はもちろん、まだ龍馬に対して腹いせをし尽くしていないわけだ(と、ここで視聴者に思わせておく)。
 これでまずはうまく「見廻組実行説」とその曖昧さとを、ともに取り入れたことになる。
 一方、倒幕の目論見をまんまと外された形になった岩倉・西郷・大久保もまた、邪魔者の龍馬を消そうと考える。そのための道具として選ぶのが、佐々木只三郎なのだ。
 こうして「吉之助黒幕説」もまた、上手に取り込まれる。しかも実行役をあくまで見廻組に集約しておくとは、まったく巧みな筋運びではないか。
 それとは別に、永井の許へ時局を訊ねに行った近藤は、逆に永井によって龍馬を守ることを命ぜられる。天皇親政による新政権のもとで徳川家およびその家臣の運命を保証できるのは、むしろ佐々木が仇敵と見る龍馬だけなのだ。
 甲子太郎から贈られた鎖帷子を龍馬に渡しながら質問する形で、「船中八策」の解説役を務める平助。ちなみに大政奉還の解説役は、「お多福」での永倉、左之助、まさなのだが、永倉はここでも「こういうとき必ず解説してくれる人がいたのに」と山南を回想する。
 いきなり闖入する捨助。ところがあえなく佐々木の回し者であることを白状する。「斬りますか?」と聞く、用心棒役平助(これははじめは斎藤、このごろは沖田の台詞だ)。
「人は信じることから始める」という龍馬。この「信じる」が今回のキーワードともなっているが、それは同時に、龍馬にすべてを「託した」山南を、遠く思い出させもするのだ。考えれば捨助は、もともと土方に信用されずに騙されて多摩に残された心の傷があるのだが、ここではじめて捨助は龍馬に信じられたことで癒され、回心のきっかけをつかむわけだ。
 佐々木の許に戻り、「龍馬はすでに長州へ向った」と報告する捨助だが、同時に薩摩からの密書が届く。
「(私じゃなく)そっちを信じるんですね。わかりましたよ!」捨て台詞を吐いて去ろうとする捨助の背後を、佐々木の刀が襲う。しかし龍馬から与えられた鎖帷子が、捨助の命を救うのだ。
 どうも今回の龍馬は、すべての展開を読んでいるように描かれている感じだ。
 試合、周平の勝利、沖田の喀血による暗転、孝庵の宣告と舞台が目まぐるしく変転する間に、佐々木は向いの二階に潜み、甲子太郎は龍馬を訪ねていっぱし勤皇倒幕派を気取る。
「岩倉卿の許へ伺う」と得意げに語る甲子太郎に、龍馬は平助をつける。ところが甲子太郎はまったく平助を評価していない、つまりかれの熱心さやひたむきさを「信じて」いないのだ。そうして不承不承に、斎藤を龍馬の許に残して去っていく。
 残された斎藤に、龍馬は「(お前がいると)場が固うなってイカン」と追い返す。「(新選組の人斬りとして有名な斎藤よ、お前は)今まで何人殺した」「以蔵に似ている」次々に殺人者としての心理の図星を指される斎藤は、ついに「(殺人の呵責に堪えかねた)その先はどうなる」と問うが、「その先は以蔵も知らん。首を切られて死んだから」と言われ、顔をこわばらせて引き下がる。龍馬はこれで、斎藤の回心すら後押しする役目を果たすようだ。これは実は、もう一人の新選組の「人斬り」で、今回のサブ主人公ともなっている大石鍬次郎の運命も暗示することは確かだろう。
 沖田の病状を案ずる近藤の許を、龍馬の危急を知らせるため捨助が訪れる。「よく来てくれた捨助」という近藤に、「はじめてかっちゃんに褒められた(信じてもらえていたんだ)」と心が解ける捨助。ここで「手柄を見廻組にひとりじめさせるわけにはいかないからな」と力む実際家土方(「考えていることが違うだろう」by 勇)に対して、捨助は「そうじゃない、龍馬を助けてくれ」と言い、近藤もまた、永井に命じられていることもあるが、それだけではなく自分の判断からも「いま坂本さんを死なせるわけにはいかん」と応える。あっけにとられて「おまえら、どうかしてる」と言う土方。ここで従来「近藤&土方vs.捨助」であった図式が、一瞬にして「近藤&捨助vs.土方」と変化する妙味、多摩同士ならではの捨て難い場面が楽しめる。
 そうして土方は、龍馬の警護を秘密裏に永倉と左之助に命じる(「ワカンナイケド、ワカッタ!」by サノ)一方、自ら乗り出そうとする近藤を必死に押し止める。「近藤勇が坂本龍馬を助けるなんて、いくらなんでもそれはマズイだろう」という土方のこのセリフは、三谷幸喜からの視聴者への、「さすがに大河でそこまではしませんよ」という、楽屋落ちメッセージでもあるわけだ。
 以降は、「ホタエナ」という龍馬の言葉が無いのを除けば、ほぼ通説に則った展開。白刃を受けて倒れ伏す龍馬と中岡の許に、一足違いで間に合わなかった永倉と左之助がやってくる。惨劇の跡を見て左之助は、「(遅かった、)コナクソ!」と叫ぶ。
 これで「龍馬暗殺新選組左之助説」が生かされるわけだが、この有名な言葉をこうした逆転の発想で使うとは、なんと巧みな構成であることか。このあたりの三谷幸喜のドラマトゥルギーには、もはや兜を脱がざるを得ない。
 地球儀を見ながら息絶える龍馬の演出(そして流れ星)は通俗だが、その最後の耳に残った「コナクソ」という言葉、これを聞いた龍馬が、果たして「自分の眼鏡違いで、天命の然らしむるところ、捨助が自分を新選組(ないしそれ経由で見廻組)に売った」と思って死んだか、それとも「やはり捨助を信じて間違いではなく、捨助の知らせを受けた近藤が助けを寄越してくれた」と思って死んだかは結局不明なままで終わり、さすがに三谷脚本は楽天的なままではなく、「信じる」ということに対しても、無念の思いに歪む近藤の顔とともに、いささか苦い味を残して劇の幕を閉じるのである。

蛇足:
●どこにでもいる山崎。吉弥さんは、少し痩せたか?(by 妻)
●焼イカは何の象徴か?
●軍鶏を買いに出る近江屋若い衆峯吉の上手い演技。
●「おう」と平助を見下す、意外と粗野な甲子太郎。
●勇を翻弄するお孝(「(襖を)閉めて行って下さい……」)。優香はなかなかいいではないか。
●板倉槐堂が籠に乗って登場するところでは、一瞬近藤が山崎から聞いて駆けつけたのかと騙される。この人と岩倉の区別がつかなくて、二役かと思った。
●平助の演技と発声、滑舌冴えわたる。捨助との歌舞伎対決は秀逸。
No.176


2004年10月28日(木) 天皇陛下発言、香田さん事件と日本人の特性
☆天皇陛下
 天皇陛下、園遊会において「(日の丸・君が代は)強制しない方がいいですね」発言。
 いや、まさか天皇陛下がプ○市○とは思わなかった。(冗談)
 だいたい、たかが将棋指しのオッサンが変な風に紋付羽織袴なぞ一着に及び、いっぱし教育委員だかなんだか知らないが得意顔して「私の使命は日本全国すべての小・中・高に国旗掲揚・国家斉唱を行き渡らせることです」とか力んだので、陛下もカチンと来て、ならば一発お返しをかましてやれ、と思われたのではないか。
 いいなあ。今日でいっぺんに陛下のファンになりそうだ。
 少しみんな胸に手を当てて、大御心とはそもなにか、もう一遍考えた方がいいのではあるまいか。

☆香田さん事件、日本人の特性
 香田さんに限らず、ビグリー氏やその他人質の背後で覆面をしている奴らが、だんだんショッカーに見えてきた。
 それにしても、日本人はやっぱり、韓国人などにくらべれば淡々としているなあ。
 今度の中越地震でもそうだが、これがたとえば韓国とかイランとかトルコとかパレスチナだったら、胸をかきむしり、頭を抱えて「なんとかなんだよー、もうなんとかだー、ああー、うわー、きゃー」と大声で泣き叫び訴えるところだが、日本人はみな「なんとかですねえ、もうしょうがないです」と笑みさえ含みながら淡々と述べる。これが小泉八雲いうところの「日本人の微笑」だとすれば、そのときから百年、いまだに変わっていないということだ。
 他方、これがマイアミとかフロリダでハリケーンに襲われたアメリカ人だったら、泣き喚きはしないが、肩をすくめ、あるいは腕組みをして、首を振りながら、あきらめ顔で「なにもかも失った、なにもかも」とか述懐するところだ。
 これもやっぱり日本人とは違う。
No.177




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