☆「新選組!」第三十四回 山南を失った悲しみから一転し、桂を含む多摩試衛館オールスターキャストの腹を抱えるドタバタ劇によって、淋しさを忘れさせてやろうという意図の回。いうなれば今回は、葬式の後に親族一同が集って悲喜劇が繰り広げられる「お斎」という見立てなのだ。 こうした作劇は、三谷幸喜の最も得意とするところだろう。久々に「演劇」として観られるので嬉しい。 さて「お斎」で追悼する見立てと仮定すると、やはりドラマの背景には、山南の姿がずっと明滅していることがわかる。 それはかれがかつて竜馬に言った、「人と人との繋がり」というテーマだ。 まず山南は竜馬に「託す」という二文字の手紙を遺すが、寺田屋でくすぶっていた竜馬は、これに対して「人と人との繋がり」を「託された」ものと受けとめて、薩長連合(桂−坂本−西郷の「繋がり」だ)実現に対する熱意を蘇らせる。 また山南が明里という女性との「繋がり」を得たという事実は、京都に来てはや二年、心休まる「繋がり」を得たい、得てもいいのだ、というそれぞれの決心を後押しする(「それって罪でしょうか?」 by 源さん)。そこで永倉は小常を迎え(これは次週の松原事件のそれとない伏線かもしれない)、左之助はおまさに求婚し、ついでといってはなんだが、捨助のおりょうに対する気持も描かれる。 そして最大のものは、今回の劇の本筋となっている、近藤による深雪太夫の身請けである。しかもその結果、深雪とつねにも一種の繋がり(とりあえずの合意)すら生まれる。 こう考えてくると、結局「新選組!」では、新選組と幕末の動向のすべての種をまいたのは、誰あろう山南ということになるのである。 だからやはり今回は、抱腹絶倒のコメディでありながらも、歴然として山南に対するオマージュなのである。
ドラマそのものは、平助による山南の追憶という場面から始まり、近藤の身請け話にまつわるドタバタ→カタストロフ→将来への波乱の芽を含む一定の平衡状態という、起承転結の常道によって進行し、そこに薩長連合のサイドストーリーがからむ。つまり、オールスターで薩長連合という構成にするためには、どうしても舞台は寺田屋でなければならないというわけだ。 山南は千葉道場を離れるさいに、「ようやく居場所を見つけた、一から出直しです」と試衛館の門人となるが、壬生でふたたび「居場所がなくなった、一から出直しだ」ということになる。つまりかれは典型的な「つねに居場所を探す」人間なのだ。 *そのかれがついに主体性を発揮したのが自決という行動なのだが、このあたりの心理学的・社会学的分析は手に余るので触れない。 だがこのことは平助にもある程度当てはまるので、伊東道場から試衛館の寄子になり、沖田になりすまし、これからまた甲子太郎と同心することになるのだが、そうした点で平助が山南にシンパシーを持っていることは疑いないし、山南の死が将来の平助の離反になんらかの伏線となることもまた確かだろう。ただし今回の平助は、みつとつねを京都に連れてきて(これがかれが伊東一統よりさらに遅れて帰着した理由付けだろう)大混乱の原因を作った責任者として狼狽しきっており、いまだ居場所探しでふらついたり、近藤たちに反感を持ったりする暇はないだろう。 身請けの儀式の場所として新選組に縁浅からぬ寺田屋を選んだ近藤と源さんが去った後、別室に控えたみつとつねを見た沖田の驚愕から、ドタバタ劇の幕は上がる。「落ちつけ平助」と自分が焦る沖田。 みつが隊士に大演説をぶつ光景に辟易しながら障子を閉める沖田の姿は、もっと重大な心理機制から障子を閉ざす山南のパスティーシュ。 伏見へ行くとはしゃぐ二人の女性に「面白いんでないの?」と焚きつけ、そこはかとない意趣返しをする永倉と左之助。 「駕篭賃が高い」と言い抜けようとする沖田。そこに義理堅くかつての脱走用立て金を返しに現われる斎藤。沖田「余計なことを……」「オレのせいだ……」と羽織のひもをまさぐり落ち込む斎藤。この責任感表出も久しぶりだ。 密度の濃い展開。楽しき多摩時代のフラッシュバックでもある。
ドラマは伏見へ。太夫を迎えた源さんが振り向くと、そこには船に酔ったみつと、それを介抱するつねの姿がある。カートゥーンさながらの演出。 ここから舞台は池田屋の密室劇へと移り、太夫の身請け、事態糊塗の企て、桂と竜馬の三つの場面が、ときには同時に進行し、ときには絡み合いながら、カタストロフへと突き進む。 太夫の好物の大福を手に、お上り二人組の前で立ちすくむ勇。その大福を口の回りを真っ白にして詰めこむ源さん。一方みつは桂(捨助)と鉢合わせして桂を狼狽させるが、そのみつに勇の秘密を告げて江戸の仇を長崎で返し、してやったりとほくそ笑む桂。 こうしてついに事態は露見するが、お登勢の機転で、太夫を身請けするのは源さんということになって(「この年になって初めて恋をしました、これって罪ですか?」)一件落着かと思いきや、そこに駆けつけた歳三が飛び込んで、事態は再び混沌へ。あげくは源さんと歳三が取っ組み合って、殴られた歳三が鼻血を出した(捨助、寺田屋番頭についで三人目?)ところで事態はクライマックスに至り、ついに勇の 「それまで! もういい、みんな、それなりにありがと〜う!!!」 という大音声でカタルシスがくる。ここが序破急の急で、息もつかせぬスピーディな展開。今回は笑いの涙なのだ。
あとは静かな終局へ。深雪太夫とつねとが対話する一方では、風呂へ追いやられた(沖田と同じ)勇は竜馬と出会って友人として最後の会話を交わし、湯に濡れた手で顔を叩き、水面をじっと睨みつける。事態は根本では解決されず、なお近藤の悩みは残るのだ。 そして最後に観客は、山南テーマをもう一度想起する。 「人と人との繋がり」。たしかに多くの人が繋がった。つねと深雪太夫ですら一定の繋がりを得た。 けれども、竜馬と勇だけは「切れて」しまうのである。薩長連合と佐幕とがここではっきりと分岐し、二人の立場はもはや交わることはない(こんど会うときは、敵同士じゃ」)。 だが竜馬と勇との繋がり、それはつまり内戦のない日本の姿の象徴だが、それこそが、山南の最も望んだ繋がりであったかも知れないのである。
ということで、今回の劇もギリシア演劇や能の常道に従って、喜劇は幕間、本筋はやっぱり「悲劇」だったのである。 後は雑感。 ●山南は剣道シーンも含めサービスショット。 ●お登勢は鉄火女としていい役。筋としては勇を許さないが、キャラクターはしだいに気に入るというあたりをよく出していた。 ●「みんな、それなりにありがと〜う!!!」という近藤のことば(源さんの「それって罪ですか?」と双璧をなす途方もない現代セリフ)は、穿って考えると、すべての種を播いた山南に対しても言っているのだろうか? ●廓の老世話役に別れを告げて近藤と源さんが頭を下げ、顔を上げたらみつとつねの二人に変わっているというのは定石ながらスピーディで面白かった。 ●来週は松原忠司エピソードをやるらしい。これから先は、ずいぶん忙しくちりばめていくことになりそうだ。 ●ということは、本願寺引越しのさいの、八木さんに対する土方五両謝礼エピソードも入れるのだろうか。
◆今回は久々に演劇を語れて嬉しいのだが、しかしこれは、断じて「大河ドラマ」ではないなあ。橋田壽賀子の「おんな太閤記」でもこんなではなかった。というのも、今回の史実は深雪太夫の身請け話のみで、あとは歴史的人物を借りているだけで、じっさいは誰が誰でもかまわないのだから。まあその理由は、上に書いたとおりなのだが。
|
|
No.165
|
|