++浅薄日記++


2004年7月の日記


2004年7月4日(日) 鹿島神宮参拝、木刀、北浦、筑波山考察など
 ボルボを駆って妻と鹿島神宮へ行き、参拝し、鹿に餌をやった後、鹿島新当流の焼銘の入った赤樫製の素振用木刀を買う。通常の木刀より素晴らしく太く重く、どこか天然理心流の木刀にも繋がるものを思わせる。これで素振りをしようと思う。
 地図を見ると判るのだが、銚子、あるいは霞ヶ浦〜現利根川河口のあたりから筑波山に向かって直線を引くと、そのラインには霞ヶ浦や北浦といった内海がまず広がり、それが太平洋に向かって集約されるちょうど袋の首のところを扼するように完璧な三角形を作って、北は鹿島神宮、南は香取神宮、そして中央に息栖神社がそれぞれ頂点に位置していることがわかる。これら三社はたぶん一体となって機能し、宗教的には日出(海)と日没(山)をコントロールして、同時に政治経済的には海と山の物産と交通商業権益とを支配したのだろう。
 鹿島の参拝を終えてから、北浦の湖岸沿いに一周する。鄙びた田舎で、北浦の水は澄んで青く光り美しい。
 しかし何より驚いたのは、北浦の北岸の町、鉾田へ向かっているときに次第に見えて行った筑波山の姿だ。
 夕日が沈む方角にほぼずっと位置しているその山影は、男岳と女岳が屹立して、まるで奈良飛鳥の二上山と見まがうばかりなのだ。
 そう、筑波山は、息栖・鹿島・香取地域にとっての「二上山」、あの世とこの世との境であったに違いない。
 玉造といい、鉾田といい、古い地名のようだし、この地域にはまだまだ豊かな謎が眠っているのではないだろうか。
No.128


2004年7月5日(月) 初ウォーキング
 妻とかねて計画のウォーキングに出かける。
 新選組関連の名所旧跡を巡っているうちに少しずつ面白くなったらしい妻が、ウォーキングをしたいと言い出した。
 高校時代はハイキング部に属していたし、歩くことは好きなので、関東に残る古道などのガイドブックを手がかりに、ではまず足慣らしから始めようと思った。
 渋谷のABCマートで二人ともホーキンズの靴を買い、台場のエーグルの店で妻用のリュックザックを購入して、まずは格好だけは揃った。自分のリュックはその内軍モノみたいなやつを選ぶことにして、とにかく靴をおろさなければならない。
 それで最初に選んだのが、高幡不動の丘陵繋がりのちょっと西、そして八王子の手前にある、淺川を見下ろす戦国豪族平山氏の山城跡、平山城址公園だ。
 小学校の遠足以来、ほぼ40年ぶりなので、なんの記憶もない。それにもう真下まで団地住宅が迫っていて、しかも向う側は東京農工大の敷地で立ち入り禁止と来ている。訪れる人も皆無に近く、整備もあまり行き届いてはいない。
 それでも軽いハイキングにはなり、帰りは川風に吹かれながら釣り人を見たりして、淺川の土手を歩いて隣の駅まで出て帰ったのだった。
 土手から見る河岸丘陵斜面はひたすら住宅、住宅、住宅。なかにテラス形式の、まるでフランク・ロイド・ライトが設計したかという風なちょっと洒落たマンションがあったのが目に付いた。高いだろうなと思う。だが、あれもまあチベット人から見れば、ラマ教のゴンパ(寺院)だなと、半分羨望、半分皮肉に考えた。
 室町から戦国にかけての多摩丘陵の豪族の盛衰の歴史はまったく当方の守備範囲を超えるが、当然のことながら北の狭山〜高麗〜毛呂山丘陵、そして南の相模原と有機的に繋がっているに相違なく、調べるとなにかと面白いことだろう。
No.129


2004年7月6日(火) 「新選組!」感想追加、古館と小泉
 久しぶりに日記を書く。前日、前々日の日記は、じつはこの日記の後で書いたもの。
「新選組!」コーナーの表紙をさらに手直し。WEB拍手のバナーもデザインしなおした。また感想メールおよび掲示板のバナーも付け足した。
 雑文の部分、色があまりに多すぎて読みにくい、という感想を、さる腐女子の方より戴いたので(読まれているのだなとわかってあらためて嬉しい)、さっそく原則単色に改めた。自分でもシンプルになったと思う。結局面白くなってあれこれ工夫をして、素人臭い失敗をするわけだ。
 それから、掲示板を初めて置いたので、新選組関連の分析や感想を書き込んでいただけるとありがたい。
 また雑文を2篇追加した。うちひとつは、第二十六回の感想。

●古館・小泉
「報道ステーション」の古館のインタビューは、なぜああひっついて向き合うのだろう。ドーラン塗りまくりの古館の真っ白の顔が不健康でたまらない。
 インタビューそのものは小泉にやられっぱなし。おまけに「この番組を持ってからバッシングに直面し、小泉さんの気持もわかるようになった」と。
 こんな風に小泉と同レベルだから、「正当な批評」ではなく「バッシング」を受けるのだ。
 日曜日だか日テレでやっていたプロレス関連の番組の方が、よっぽど生き生きしていた。

No.127


2004年7月7日(水) 入谷朝顔まつり
 7月7日になってまもない深夜、思い立って車を出し、妻と入谷の朝顔まつりへ。
 6日から8日まで、これはいつも夜通しやる。朝顔だから朝開くので、夜通し露店を出しておくのも肯ける。
 去年までは入谷朝顔市だったと思うのだが。入谷は鬼子母神様なので、要するに縁日なわけで、縁日ならば「市」が立つのであって、なにもかにも「まつり」にしなくてもよいだろうに。「市」で十分華やかで賑やかな感じが出るではないか。
 それはともかく、食べ物の露店はほとんど仕舞っているが、朝顔の露店の方はけっこう客を呼んでいる。またちらほらと客もいて、こんな時間に朝顔を買っているのだ。
 今年の朝顔は、去年のよりも花の姿が典雅で、色合いも品がいいような印象を受ける。毎年改良をしているのかもしれない。あまり照明が明るいので、たまに勘違いをして開いてしまう花があるのはかわいそうな気もする。
 朝顔は生命力の強い草で、あっという間に盛って蔓が伸びてベランダ一杯に絡まるので、一度種から育てて閉口した覚えがある。
 そんなわけで、私と妻とは鬼子母神様に御参りをして(これもこの時間に境内を開けて、朝顔の鉢と御守りを売らんとて坊主が待ち構えている)、線香を上げて戻ってきた。
 軽い都内ドライブだった。
No.130


2004年7月11日(日) 「新選組!」コーナー手直し、選挙
☆「新選組!」コーナーを手直し
「新選組!」コーナーを手直しした。誠の旗のデザインを、記録に伝えられている縦横の割合に従って正確にし、見出しの上でイラストと雑文を分離した。また新選組関連のイラストはこれまで pictures の Men at arms のコーナーからリンクしていたのだが、これを歴史絵のコーナーからリンクするように改めた。
 今回、イラストに新たに「アルカディアの近藤勇」を加えたので、これで新選組イラストも4点となり、やや充実した。
「アルカディアの近藤」とはいささか奇妙かつ唐突な表題だが、じっさい江戸時代の武相多摩は、一種の別天地、桃源郷、つまりアルカディアのような田園丘陵だったに違いないのだ。たとえ幕末になって治安が悪くなったとしても、その果樹の緑多き農村の光景には変わりはなかっただろう。
 とくに調布から多摩川を渡った対岸の稲城から鶴川を通って町田へと至る鶴川街道は、三沢川の開析した小流域河谷沿いに、春は梅花、夏は濃緑、秋は梨や柿の実という風に果樹が四季折々美しく、諸処に社寺と豪農の屋敷が点在し、ここを通って小野路の小島家へと近藤が往復したのだと思うと、ひときわ感慨がある。その情景をまた子母澤寛が嫋嫋たる名文で描き出しており、すなわちそれを今回の近藤の絵の中に入れ込んでみた。
 それにしても多摩ニュータウンは、本来人の住まないところを強引に切り開き造成したのだから、まったく凄いものだと、通勤の往復のたびに感じる。私もまた、その一角にある巨大なホームセンター/フードセンターには、常日頃便利にお世話になっているのである。

☆選挙
 投票は済ませた。「新選組!」を見終わった後から、ゆっくり開票を見ることにしよう。
 考えてみると、年に一回あるかないかの選挙で投票権を行使するだけで、案外政治家を動揺させ、政局を揺るがすこともできる、と考えたら、民主主義とはけっこう便利なシステムではないか。
No.131


2004年7月12日(月) 選挙雑感
☆参議院選挙
 もう開票もほとんど終わり、幾足りか奇妙な人物も例によって当選したが、それ以外はまあ常識的な結果が出たのだと思うから、私の選挙区と比例区の雑感だけ書いておく。
●ある候補の政見放送はまず耳を疑い、次に蔽いたくなった。いきなり替え歌から始まって、あんな手法で共感が得られるといまだに思っているとは、老耄、老醜としか言いようがない。かつては歴とした放送作家で、しかもある自治体の首長までまがりなりに務めた人がだ。
●ある比例区候補は、まるで70年代の亡霊を見るような気がした。ジョン・レノンでもあるまいし、議場で楽器を弾くわけにもいかないだろう。要は赤絨毯を踏みたかったのか?
 いずれにせよ、どうかタイムカプセルの中にもう一度お戻りください、と、鄭重に申し上げたかった。
No.132


2004年7月13日(火) 梅雨明け、竹中、新選組!
☆関東梅雨明け
 梅雨らしい梅雨がなかった。したがって、梅雨明けらしい梅雨明けでもなかった。昔の梅雨明けは、ほんとうに気持が明るくなったものだ。期末試験のちょうど終盤くらいの頃だろうか、台風のような大嵐が去っていくのだ。急いで中学校の校舎の屋上に立つと、もう南の方からぐんぐん青空が広がって頭の上を越えていく、そのスピードが目に見える。と同時に、燦燦たる夏の太陽が照り付けるのだ。

☆竹中平蔵
「もう学者大臣と言わせない」だと。あの売国奴は、そんなことを考えていたのか。妙なコンプレックスだ。そう言えば、選挙応援をしていたTシャツの弟子たちは、まさに「弟子」の名に相応しく、カルトの目つきをしていたように見えた。

☆新選組! 第二十七回
 新選組! 第二十七回の感想を書いた。「新選組!」コーナーへどうぞ。
No.133


2004年7月14日(水) 新選組! エッセー、掲示板、フランス革命記念日
「新選組! 雑文コーナーその3」に、「アルカディアの近藤勇」イラスト関連のエッセーを掲載。前々日だったかの日記に書いた文章を充実させたもの。

「新選組! コーナー」に掲示板を設置したところ、ぽつりぽつりと書き込みがあって嬉しい。みな私が先方様の掲示板に書き込んだ御縁があって当方をご訪問下さったのだ。今後も腐女子に負けないよう……というか、そのような問題ではないだろう。そんな風に思って自縄自縛になるのではなく、自由に鋭く書く。そしてまた刺激を受ける。

☆フランス革命記念日
 こんなこと誰も考えもしなくなったろう。昔は「パリ祭」で知られ、テレビでシャンゼリゼパレードの中継までしていたものだ。
 かくいう私もまたかつてはフランス大好き、フランス革命大好き人間であって、そんな夢まで見たこともある。革命記念日にちなみ、いまそれを覚え書きにしておこう。

 大革命の時代にいる。私はサンキュロット。コール天のズボンを穿き、火縄銃を担いで、同志とともに「ラ・マルセイエーズ」を歌いながら行進していく。
 これから自由のために戦って死んでいくのだ、と考え、喜びと感激とで涙を滂沱と流しながら、歩いていく。

 もうずっと昔、大学生時代の夢だったろうか。
 そうそうそれから、ミッシェル・サルドゥーの歌った「ラ・マルセイエーズ」は素晴らしくいい。必聴です。
No.134


2004年7月16日(金) ボルボトラブル
☆ボルボトラブル
 急ブレーキの拍子に電動アンテナのラッチが外れて動かなくなったりとか、そんな小トラブルはあったものの、最近はリッツスーパーヒューズのお蔭か、大した故障もなく走っていたボルボ(定期点検も最少価格で済んだ)だが、突如玉切れ警告灯が点くようになった。それもブレーキペダルを踏むたびに点灯するのだから重大だ。
 後ろの車に反射させてチェックしてみたら、右側ブレーキランプがどうやらふらふらと点いたり点かなかったりしているようだ。
 まず疑うのはバルブ切れだから、仕事帰りにホームセンターで新しい玉を買い、駐車場で取り付けにかかる。
 ところがバルブを装着するバルブホルダーという部品が固くて外れない。反対側の方はすんなり取り外しできるのだが、そちらは無事な方。しかもおかしくなっている右側というのはすなわち左手でないと扱いにくいわけで、ますます困窮する。
 必死になっているとようやく外れたが、同時にホルダーのすぐ横にとまっている配線まで外れてしまう。反対側を参考にしてよく見ると、本来配線の先端の挿し込み金具には防護の覆いがついているはずなのに、こちらにはついていない。そのためぐらぐらになって抜けやすいのだ。
 しかもバルブを確かめると、フィラメントは切れていない。そのため、もしかすると原因は電球ではなくて、この配線の接触不良かもしれないと考え、そこでホームセンター店内に戻って同じ部品を探してみる。するとカー用品売り場にちゃんとあった。スリーブという小さなビニール製のものだ。たしかに「袖」の形とはいえる。工具部品用語をひとつ勉強した。
 これを購入して駐車場にとって返し、金具に被せて端子に装着し、さてバルブホルダーをもう一度枠にはめ込もうとしたところから悪戦苦闘が始まった。枠はプラスチック製なのだがその整形が悪く、切り欠き口にホルダーの突出部分がうまく合わさらないのだ。最初に外しにくかったのもそのためで、スリーブがなかったのも、案外そうしたことと関わりがあったのかもしれない。
 荷台に寝転び(ボルボエステートの荷台はそれくらい広く平らなのだ)、マイナスドライバーの先で枠のプラスチックを削りながら何度も切り欠き口の形を調整して、ようやく嵌まったところまでで、もう2時間弱が経過していた。駐車しに来た人をつかまえてブレーキランプをチェックしてもらい、両方とも点くということでやっと一安心。ワイシャツはもう汗びっしょり。
 ホームセンターを出て走り始め、1キロも行かないうちに、また警告灯が点灯する。これはもう素人の手には負えないとあきらめ、行き付けの稲城のタイヤ館に駆け込むことにする。リッツスーパーヒューズをいくつかつけてもらうついでにこちらの方も確かめてもらおうという目論見。
 目論見は当たり、快くやってくれる。その結果わかったことは、バルブの接触端子が磨り減っていて、それでホルダーの端子との間に接触不良を起こしていたということだった。
 素人思案であれこれ苦労したことが、ほとんど役に立たなかった。やっぱり生兵法はよくない。とはいえ、これで原因がわかったわけだから、今度同様な事例が発生した場合には対処が迅速になる。それにスリーブも装着してより安心になった。さらにホルダーの装着も前よりは楽になるだろう(二度としたくないが)。
 タイヤ館の担当者に、今後もボルボの面倒を見てくれるかと恐る恐る尋ねたら、「外車はなかなか見ることがないので勉強になるし、喜んでやります」と言ってくれる。
 なんでも吸収しようとするこの積極的な姿勢は、はるか以前のスーパーオートバックスでの不親切な対応とは雲泥の差だ。稲城のタイヤ館に感謝します。
 そうして最後に、スーパーヒューズ装着の件では帰宅後妻に睨まれ、また2時間もあれこれ力を込めたので腕がだるくなった、というおまけがついた、今度の騒動だった。
No.135


2004年7月19日(月) ☆新選組! 第二十八回
☆新選組! 第二十八回
 私の意見としては、池田屋事件はこの程度にあっさりした方がよかったと思う。血腥さを表現するための役回りとして目撃者を配置するという演劇手法は穏健で適切だし、またそれをもっぱら浅野薫だけにまかせたというのも、後の制札事件のさいのかれの怯懦を想起すると、きわめて妥当だ。
 全体の流れとしても、妙な言いかただが、それほど「ドラマチック」な仕立てにしていなかったのがむしろよかったように思う。たとえば、祇園宵山のお囃子と交互に進行させる、というような陳腐なことだ。
 だからといって序破急がないかといえば、もちろんそんなことはなくてきちんと押さえてあり、それは捨助(トリックスターとして桂の命を救う)が「すっげえ!」と連呼する場面でスピーディに頂点に達していることで十分だ。
 そして終局は宮部鼎蔵と近藤との会話。時流に抗して、いやある意味では真の時流に棹さして「誠」の筋を通す近藤に、「愚かなり、近藤勇!」と言いながらもその最後の一瞬、さしもの宮部鼎蔵も惚れてしまい自ら斬られるという、そうした脚本の意図およびそれを生かした演出だったと考える。
 それ以外は全般に、紀実に則った経過を追う。だから亀弥太は、それまでの登場の経緯があるだけに、ひとしお気の毒だ。後の高台寺党ならば薩摩藩に助けてもらえるのだが、いまだ時勢はそこまで至っていないのだ。ここで近藤が亀を逃がすかと思ったが、さすがにそこまで甘い台本にはせずに、沖田に斬らせた。なお亀が斬られるさいにバックで鳴った効果音は、たぶん船の時鐘の音と思われ、これはかれが、海軍伝習所の嘱望された練習生だったことを象徴するのだろう。
 北添が「なんだなんだ」と階段を降りてくる有名な場面がないのは残念だが、これは三谷幸喜が『NHKウィークリー ステラ』7/23号(平成16年7月23日、財団法人NHKサービスセンター発行)8頁所載のインタビューで述べているごとく、その通説を採らなかったのだから仕方ない。近藤が鋭い気合をかけないことにも、したがって同様の演出上の主張があるはずだが、あるいは香取君には気合が出せなかったか?
 平助、永倉の負傷の場面はいずれも紀実どおりで、見ていて違和感のない自然な仕上がりだ。沖田の喀血のさいに、剣先で切られて散る紫陽花の萼片が血のしぶきと重なり、それがいわば飛蚊となって沖田の眼前を舞うことで沖田の乱れ動揺する心理を表わすというここの演出は、やや美しすぎてくどいところか。
「待たせたな!」と言って土方が不逞浪士をひとり斬ってこちらへ進むと、背後に倒れ込むその浪士をさらに後詰の原田が鑓で「ぶすっ」とやるのには、不謹慎ながら思わず失笑。左之助は、いつもとどめ役だ。斎藤は凄まじく、源さんは実直。
 池田屋の表の剣戟を見物する群集が、そちらへ斬り合いが及ぶと「わっ」と波のように引く演出も常套ながらなかなかよいし、また凱旋する新選組の隊列を格子戸のすきからそっと覗く婦人たちの描写も、激しい活劇のフィナーレとして定番でふさわしい。
 総長山南が、「留守」を預かるというのは、もし屯所をひとつの「城」と考えるならば、いわば「城代家老」の地位ということになるのだから、「いくさ」の制度やしきたりから見ても十分に説明がつくのだろう。つまり、こうした設定をしておいて、それを今後のドラマの展開につなげようという意図だ。
 さて感想の終わりに、今回の解説役である竜馬が、亀の悲運を聞いて怒り悲しみ、ばたんと畳に寝転んだときに埃が立ったのは、きっと腐女子の方面から厳しい突っ込みが入ることだろうと思った。妻もしっかりチェックをしていたし。
No.136


2004年7月20日(火) 39.5度!
☆39.5度
 大手町の測定で39.5度を記録したという、妻の情報。
 昔留学した北京では、日中38度を越えると、学校もそれぞれの「単位」も、自動的に全面休業となっていた。
 日本は党独裁ではないので、逆にこういうときは困る。というよりも、だいたい39度などという気温は、フェーン現象でもない限り、わが国では想定すべからざる状態だったのだ。
 そのうち東京が沖縄並になり、札幌が東京並の気候になるという話は以前より聞いていたが、いよいよ現実のものになりはじめているわけだ。
No.137

kokushi  2004/07/21/13:53:12   No.138
 これでは日本がシルクロードになってしまいますね。
 昔、トルファンのアイディン湖へ行ったときのことを思い出しました。



2004年7月23日(金) ボルボまたもトラブル
☆ボルボまたもトラブル
 朝9時から定期試験の監督なので、ボルボに乗り、8時過ぎに家を出る。甲州街道松原交差点、首都高高井戸ランプの手前あたりにさしかかったところで、ABS警告灯が点く。あまりに暑いので接触不良を起こしたものと考え、路側に車を停めてエンジンを切る。
 スターターを回したが、もうかからない。バッテリー上がりとまったく同じ症状。なぜ? バッテリーはエクサイドの高級品、まだ装着して一年なのに……と思いながらボンネットを開けて中を見ると、インジケーターは黒。つまり上がっている。
 この時点で学校へはもう行けないものと覚悟を決めて電話をし、試験監督の応援を頼む。それから三角板を設置してJAFに連絡し、待つこと40分、ようやく救援車が現われる。
 係の若者はエンジン部を見てすぐに「ベルトがたるたるだなあ」と言ってオルタネータを触ると、驚いたことにぐらぐらと動く。
 発電機を支え取り付けているボルトが折損し、それで発電機がずれ、ベルトがたるんで発電しなくなり、バッテリーの電力だけで車が動いていたのだ。それでエンジンを止めたとたんに力尽きたということらしい。
 危ないところだった。あと少しで高速に乗っていたら、もっとひどい結果になっていたかもしれない。しかも車を止めたすぐ傍らに、クラシックな緑公衆電話があって、JAFのフリーコールカードを使うこともできた。不幸中の幸い、大難を小難に切り抜けた、ゲン落としと考えよう。だからもっと感謝の心を持て、と神仏から示されたのかも知れない。
 救援車に牽かれて調布のオート・ボルタまで行く。JAFの係は親切。道もさすがによく把握しているので、余計な口出しは控える。朝山さんにもすでに連絡しておいたので、すぐに出てきてくれて車を預ける。JAFレッカー代3千円也。
 朝山さん渋い顔で「こんな細いボルトでは欠陥だなあ」という。前にも1台、こうした事例があったそうだ。ともかくボルト交換、バッテリー充電しなおしということになるという。
 しばらく話し込み、それから代車を借りて出発。学校に着いたら皆心配していた。試験は何事もなく終了していたようなので、答案用紙を受けとって、ともかく一件落着。
 大事に乗るつもりだが、さすがにいろいろ考えも及ばないようなガタが出てくるものだ。
No.140


2004年7月24日(土) 胡弓公演、キング・アーサー
☆国立劇場小劇場平成16年7月特別企画公演「胡弓」
 シーサーズ持田さんからの案内でチケットを購入、妻と観賞に行く。 
 コンテクストからテクストを切り離して現前させたらどうなるかという見本のような企画。
 客の入りは7割といったところだろうか。
 尾張万歳と鳥取の円通寺人形芝居は田舎風でなかなかよかった。人形の動きが早く激しいのには驚く。
 中国の胡弓の演目のうち、京劇の唱の方は、ふだん表に出ない伴奏者をはっきり見られたのがよかった。完全に暗譜で合奏しているのだ。
 沖永良部島の島唄とその掛け合いは、島の衆ならではのユーモア。私の周囲は沖永良部出身の人たちが固まっていたので、指笛、手拍子などこの一角のみ起こる。
演目はいくつか「かんじゃーやー」で持田さんたちが練習している曲で、耳になじんだものだった。胡弓(コーチョー)がきわめて小さいことには一驚。胴が椰子の実だからかもしれない。
 最後の胡弓とバイオリンの共演は、これがおそらくこの企画のメインの位置づけなのだろうと思うが、どうも印象としては、明治時代の西洋医と漢方医とが頭を突き合わせて治療と処方の相談をしているような感じだったといえば近いだろうか。

 ☆キング・アーサー
 地下鉄の広告で見たのみ。衣裳の時代考証としては、なかなか面白い線を行っている感じ。史実上のアーサーの軍勢は、現地で徴集されたブリタニア・ローマ軍団が解体したのちの残存勢力が、地元首長のもとに再編成されたようなもので、映画はそのあたりのテイストを生かしているようだ。グイネヴィア王妃がまるでボーディッカ女王のようなのは、やり過ぎだと思う。
 しかしこの映画と「サンダーバード実写版」とを一緒に観ると、アングロ・サクソンの洗脳工作に引っかかりそうな気がする。
「キング・アーサー」では、きっとフランス騎士ラーンスロットは悪役だろうし、「サンダーバード」の悪役は東洋系だ。
 ここしばらくのアメリカ・ネオコンの世界観そのものではないか。
No.139


2004年7月25日(日) 土方イラスト描く
☆イラスト「函館の土方歳三」
「函館の土方歳三」を描く。
 舞台は冬の函館。津軽海峡は荒れ、垂れ込めた灰色の空の色は海に映り、ときに吹雪が混じる。五稜郭を陥落させ、やっと取ることのできた短い休息の時間を使って、函館の町に半舷上陸した土方だったが、そろそろ次の作戦である江差攻めの軍議の開催の時間が迫っている。沖の開陽丸は港の波浪のうねりの中、不吉に揺れている。
 土方は、前を合わせたフロックコートの中にナポレオンばりに手を入れて温め、片方の手で取り出した懐中時計の刻限を確かめた後、感慨深げに銀色の海を見やるのである。

 例によって会議中のボールペン描きをスキャナーで取り込み、ペインターと Adobe PhotoDeluxe で加工したものである。
 なお背後の開陽丸は、どこかのサイトが江差の博物館で撮ってきた当時の写真をダウンロードして一部を切り取り、 Adobe PhotoDeluxe で相当に加工した。
 ちなみに土方は、この時点では未だ陸軍奉行並になってはいないが、絵の構成上、この肩書を使用した。この肩書の英訳に関しては、
http://www.geocities.jp/irisio/bakumatu/entrance.htm
「天下大変・大鳥圭介と伝習隊」サイトを参考にした。ここには陸軍奉行の英訳があって、陸軍奉行並は訳語なしという記載になっているが、もしも徳川将軍が大将(マーシャルあるいはジェネラル)だとすれば、陸軍奉行=Lieutenant General (中将)なので、陸軍奉行並なら Major General (少将)にでも宛てようかと考えたわけである。
No.141


2004年7月25日(日) ☆新選組! 第二十九回
☆新選組! 第二十九回
「誠の心」同士のぶつかり合い。久坂は長州人だから仕方ないが、幕府に対する(関ヶ原以来の)私怨が入る分だけ、不純の不利があるかもしれない。桂はそのあたりを憂い、かれのために哀しむのだ。そして双方に答えを与えてくれるべき佐久間象山(ずいぶん温かい「志士たちの父親」として描いたものだ)は横死する。
 同じく誠を以て日本に仕えているはずなのに、「あの者たちは、なにがしたかったのか…?」と孝明帝は首をかしげ、それに対して真木和泉は、「いずれ、どちらが正しかったかわかる」と答えて自刃する。
 とはいえ、現在に至る歴史を考えるさい、薩長の佐幕のといくら問うても、なにが正しかったのかなど、わかるはずもない。私は個人的にはフランス派で小栗上野介に肩入れしたい方だが、もしナポレオン三世が阿呆でなかったなら、そしてビスマルクが巧妙でなかったなら、日本は昔のベトナムのようになっていたかもしれないし、それにきっと日本は植民地解放革命運動などという愚にもつかない意地張り行動などは起こさないに決まっているから、そうだとしたらいまごろ私たちはみなフランス語ペラペラで、世が世ならソルボンヌを卒業して国連で活躍しているか、それとも函館あたりでフランス人のご主人様の使用人をしているか、そのどちらかなわけだ。
 その点では、孝明帝の問いこそが、永遠に「正しい」のだ。
 
 閑話休題。後は列挙。今回は比較的淡々と時間を追った。捨助は相変わらずトリックスター。しかしそれがため、桂は結局近藤に、それほど悪感情を抱かずに済んでいる。
 新選組はつねに後追い係。時流に追いつけないことを象徴する演出だ。歴史の現場に立ち合うときには、その事件はもはや終わっている。そこでのかれらの仕事は、つねに後始末だ。そして近藤も土方も旧幕府軍の後始末という最大の汚れ仕事を、自分の身を犠牲にして引き受けたのだ。
「これから俺たちの時代になるぜ」と言う土方の思いどおりに、はたして行くか否か。時代に追いつくために、新選組は、今後恐るべき犠牲を払うのではないか。予告編からもわかるように、これから土方はしばらく悪人を演じなければならない、そのつけは必ず廻ってくることを覚悟しつつ。
 ふだんあまり省みられることのない、禁門の変での京の町の被害というものを、画面で描写したのはよかった。ただし左之介は無断離隊「士道不覚悟」で処罰されねばいいが。
 寺田屋は、ストーリー進行上今回紹介しておかねばならなかったのだろうが、おみつさんとお登勢さんとをオーバーラップさせるのはなくもがなとも思う。それとも今後、なにか二人が出会ったり、さらには沖田が関わりを持ってきたりするのだろうか。
 宇梶剛史の西郷は意外にはまり役。昔、「竜馬におまかせ」の小倉久寛もなかなかよかったと思ったが。
 山南の不出陣は、あいかわらず「留守居役」という理由によるのだろうか。来週あたり明確になりそうだ。ともかく今回の山南はひでとともに情勢解説役、おまさは被害の惨状を一目で判らせるための役回り。すべてを失い、やはり無一物の左之助と、これから真心のみで通い合うわけだ。
No.142


2004年7月27日(火) 昭和館参観
☆昭和館
 どの大学も今ごろまで定期試験期間がある。小学生よりも夏の休みが短いとは、昔の大学に較べて天と地の違いだ。
 非常勤と非常勤の合間を縫って、九段下の「昭和館」を参観する。パンフレットの説明を引用すると、
「戦没者遺族をはじめとする国民が経験した戦中・戦後(昭和10年頃から昭和30年頃までを対象としています)の国民生活上の労苦に係る歴史的資料・情報を収集、保存、展示し、後世代にその労苦を知る機会を提供する国立の施設です。平成11年3月に開館し、財団法人日本遺族会が厚生労働省から委託を受け、その運営にあたっています。」
という施設である。
 前から行こうと思っていたのだが、ようやく機会ができた。
 七階建ての大きな建物で、展示室、AV資料室、図書室、研修室などが揃い、最新式の機器も備わっている、さすが国立の施設だ。その代わりやはり国立だけあって、売店も食堂もない。もっとも、こんな性格の施設には、独立行政法人の右往左往によるおためごかしサービスなど、いっそのことない方がいいのかもしれない。
 印象だけで言えば、フラット、無色、淡々というもので、事前に予想していたイデオロギッシュな色彩は皆無だったので大いに驚き、同時に遺族会の見識にあらためて感心もする。
 展示もまさに歴史的事実を事物によって語らせるという構成に徹していて、意識的なストーリー作成や、そちらへ持って行こうというような意図はまったく感じられない。そのあたりは遊就館と大違いだ。それはつまり、遺族会の立場を表わしているのだろう。「くらし」すなわち「銃後」に特化しているのだ。そしてこれをし「日本のアジア侵略を捨象する悪質なるトリックである」と非難することはできないだろう。
 私が最も強い印象を受けたのは、七階入口の、つまり参観冒頭で早くも目にするものだが、そこの立柱に展示されている、出征兵士と家族との遣り取りの書簡だった。
 わだつみインテリゲンツィアの観念的省察的文章でもない、ひめゆり教養子女の使命感的文章でもない、それは通常の義務教育のみを受けた、まったくの庶民の文章だ。
 これは涙なしには読むことも見ることもできない。
 そしてここから感じるのは、イデオロギーとも歴史分析ともまったく別に、単純に「軍部は許せない」ということだった。前線銃後、無辜の人々を犠牲にして恬として恥じないモロク、それが軍部だ。
 東京裁判は勝者が敗者を裁いたものではない、それは日本人が軍部を裁いたのだ。軍部はまったく、裁かれてしかるべきだった。
 そして裁かれようが裁かれまいが、みずから責任を取っていった軍部の人たちもいれば、知らぬ顔の半兵衛を決め込み通した人たちもいるだろう。
「昭和館」で私が感じたのは、そういうことだったのだ。施設設置者や委託管理者が中立に展示してくれたことが、私にそうした感懐をもたらしたのだった。
 
 
No.143


2004年7月28日(水) 吉田秀和休載インタビュー
☆吉田秀和休載インタビュー
 朝日新聞「音楽時評」執筆者吉田秀和の休載に関するインタビューを読む。
 夫人の死からいまだ立ち直れないことが非常に大きな割合を占めているようだ。
 当然だろう。夫人はいわば同時代人、いな時代そのものの象徴だったわけだ。
 ある時代が、どんどん終わりを告げていっているわけだ。
 そして次の時代には、吉田秀和はとうてい合わせられない。
 私だって合わせられないだろう。しからば坐して死を待つのみ、というのも悪くないかもしれない。それは無力感だ。
 
 しかし昔は、すがすがしい左翼、という感じの人も、たしかにいたなあ。
No.144


2004年7月30日(金) ボルボ治らず
 オート・ボルタの朝山さんからボルボが治ったとの電話があり、代車を返しがてら取りに行く。
 ボンネットを開けてみると、発電機はしっかりと新しい金具に取り付けられて、母ベルトも新しくなっている。
 エンジンをかけて調子を見ながら、ついでに伸縮しなくなったままのアンテナを朝山さんが見ていたところ、排気ガスがしだいに白っぽくなり始めたのに気がつく。それとともに匂いもきつくなる。
「オイル焼けの匂いだな」と朝山さんが言い、整備工場に電話して社長に問い合わせる。原因はターボだろうとのこと。
 そういえば、この何箇月か、エンジンを止めた直後に、「キーン」という、ちょうどブレーキのきしるような音がするようになっていた。ウォーターポンプか何かの弁の関係かと考えていたのだが、それを朝山さんに言うと、「ターボの羽根車がゆるむかゆがむかして、それが回っているときはともかく独楽のように安定しているものの、エンジンを止めて回転が落ちていくとぐらぐらとふらつき始めてどこかに当たるのかもしれない」と言う。
 いずれにせよターボを点検しないといけない。火曜日に整備工場の社長さんが来てくれるというので、それまで引き続き待つしかない。
 代車はつぎの予約が入っているのでもう使えないので、朝山さんが家まで送ってくれる。
 まあ、車を受け取ってからおかしくなるよりは、ボルタにいるうちに異常が出た方が、結果としてははるかによかったわけだ。発電機のトラブルのさいも、高速に乗る直前だったわけで、なにか大きな力、神仏といってもよいが、なにかがはたらいて大事を小事に助けてくれている、と思える。
 あれが壊れると次はこれ、という連鎖反応が始まるのは大いに困る。修理費がかさむのはもっと困る。いまはこれもまた小事に終わることを祈るのみだ。
No.145


2004年7月31日(土) ハーバルライフカレッジ
 妻がアロマテラピーの講習を受けている関係で、飯能の「ハーバルライフカレッジ」へ行きたいというので、ハイキングがてら行ってみることにした。
 西武池袋線の急行は、所沢以遠は各駅停車になってしまう。まったくのローカルだ。土曜の午後だというのに人出はさっぱりの飯能に降りて吉野家に入り、豚丼で腹ごしらえ。牛丼でなくともなかなか美味。
 南口から美杉台というニュータウンへ向け歩く。名栗川を渡ってすぐ右側の丘陵が大きなニュータウンになっていて、かなり小洒落た家が立ち並び、フードマーケット、金融機関、コンビニ、また陶芸の店などもあり、さらには駿河台大学もここにある。空気もよく、さすが古代に渡来人が入植したところだと感じ入る。思えばいい場所を取り放題というようなものだったろう。
 さてこのニュータウンの一角に「ハーバルライフカレッジ」がある。ハーブ園、レストラン、売店などからなり、売店ではアロマテラピー関連製品、手作り石鹸など置いている。
 そこで「アーユルヴェーダ」トリートメントを実践してくれるコースがあり、夫婦でそれを受けてみることにした。
「アーユルヴェーダ」はサンスクリットでそのまま「生命科学」となるそうで、今のことばで言えば「QOL」をホリスティックに分析、考察、追及するといえそうだ。漢方やギリシア医学の源流を成すとも紹介されている。
 わが国に本格的に紹介されてもう20年は経つと思うが、私もかつて講談社現代新書で読んだだけで、詳しくは知らない。一般的にはオイルマッサージ療法を主として知られているだろう。
 このトリートメントも、オイルマッサージ、ハーバルサウナ、ハーブバスなどから成っている。最後にシャワーでオイルを洗い流し、ハーブティをいただいて、全体で約二時間の長丁場。
 感想としては、オイルマッサージは意外と強く行なうのだなと思った。さすがインド人の体質体格に合わせてあるので、モンゴロイドの日本人には、ややきついかもしれない。終わった後は、身体が軽くすっきりしたようにも感じる。やはりオイルマッサージで、一定の毒素や疲れが身体から出ていったのだろう。もちろん、本格的には、個々の症例に合わせた処方があるのだろう。ちなみに私はどうやら、大きく見れば「ピッタ」タイプに分類されるようだ。興味のおありの方は、ネットで検索すればたちどころだろう。
 トリートメントが終了して建物を出るともう日暮れ。歩いて戻った飯能の町はさびれきっている。プリンスホテルもPePeもあり、秩父を控えた西武の牙城のひとつのはずなのに、これではさっぱりだ。反対側の美杉台団地のニュータウナーたちはきっと車で郊外ホームセンターなどへ出てしまって、町へなど降りては来ないのだろう。
 特急に乗って池袋まで行き、東武デパートの屋上ビヤガーデンで夜風に吹かれながら軽く一杯、それからレストランで食事をして帰宅した。

 
No.146



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