++浅薄日記++


2004年5月の日記


2004年5月1日(土) モンゴル春祭り
 昼から、練馬光が丘公園で開催されている、モンゴル春祭りを見に行く。お蔭で、「新選組!」再放送を見損なったが仕方ない。
 わが本務校にもモンゴル人留学生がようやく増えてきたので、こういう情報にも接することができるようになった。
 プログラムは馬頭琴、ホーミー他、またモンゴル風スナックの屋台も出ている。駐日本モンゴル大使、横綱朝青龍、旭天鳳その他モンゴル出身力士も多数来ていたのには一驚を喫した。
 モンゴル人留学生や就学生たちは、ちょうど都会に出ている日本人の若者が盆や正月に帰省して久々に顔を合わせて久闊を叙するように、この春祭りを機会として集うらしい。
 後援はモンゴルにシンパシーとネットワークを持つ篤志家たちが集まった「フフテンゲル(モンゴル語で「青空」)会」、協賛は光が丘商店会、したがって屋台店にもモンゴル関係以外のものも出ているが、この日の儲けはすべて今日の活動費となるという。
 別の同様な会のことも知っているが、こうして篤志家ネットワークの奔走に頼らざるを得ないところに、現在の日本・モンゴル交流の歩みつつある姿があるわけだ。
 しかしこれもなまじ一元化とかレベルを上げた交流とかを目指すと、近藤調布vs.土方日野のような主導権争い、さらには利権争いになりかねないから注意を要する。粕谷新五郎も「新選組! 第十六回」の中で近藤に対して「そんなものはもう見たくない」と言っていたではないか。

 夜は妻と新宿中村屋のインドカレー、ここも「安曇野」つながりで日本近代の縮図だ。後、かんじゃーやーにちょっと顔を出して帰る。
No.100


2004年5月3日(月) 諏訪大社上社御柱祭里曳・立柱
 縁あって、上諏訪神社の御柱祭の見学調査に行った。
 七年に一度の大祭で、その準備と熱狂はたいへんなものだ。
 宗教学的、歴史学的、民俗学的調査や研究は山ほど行なわれていて、その象徴的意味合いもずいぶん判ってきている。
 とはいえ、百聞は一見に如かずであり、また現場の空気や雰囲気や光景、音声といったものは、やはり実地に体験すると、考えていたこととは大いに違うものだ。
 もっとも人口に膾炙している「木落とし」(山から柱用に切り出した巨木を、木落とし坂という崖の上から、柱の上に人が乗ったまま一気に滑り落とす。そのさい、怪我人や死人すら出ることもある)は一週間前に済んでいて、この3日と4日は、「里曳き」といって、街中を引いて柱をお宮にまで運び、そして「立て柱」といって、運んだ柱を神殿の四方に立てる儀式がある。
 わざわざ柱の上に何人もまたがり、しかも柱の前後に触角のような「メドデコ」というV字の枝柱を取り付けてそこにも大勢吊り下がって拍子を取り、気勢を上げる。
 まず木遣りが甲高い声で景気をつけ、すかさずラッパ隊が気分を盛り上げる。
 そうして「ヨテーコショーイ」「ヨイサ」の掛声で柱を曳いていくのだ。
 ただしこれも相撲の立ち合いと同じで、いくら木遣りを歌い、ラッパを吹いても、曳き手たちの気合がしっくり決まらない限り、いつまでたっても進まない。そのさいは、この木遣り〜ラッパを、際限なく繰り返して高揚させていくのだ。
 これは立て柱のときにも同じで、一本の柱につき、里引きでたっぷり4時間、立て柱で3時間はかかった。
 そうして柱が最終的に立ち上がったら、あとはラッパと太鼓に合わせて手を前に繰り出しながら、30分間は狂喜乱舞を続けるのである。
 端から見ていると阪神優勝みたいなもので狂気の沙汰としか思えないし、そもそも重い柱に何で人を乗せたりぶら下げたりしながら曳かねばならないのだ、と当然の疑問が湧く。
 しかし、これは悪意で言っているのではなくて、狂気でいいのだ。それが当たっているのだ。
 いやむしろ、これを「狂気」と見るひとの位相の方がずれているということなのだろう。
 宗教学的、社会学的、歴史学的、民俗学的に、いくらでも論じたり分析したり考察したりすることは可能だが、現地で実際に見た私の、まずはこれが生の感想だ。
 そして、この御柱祭が諏訪の人にとってなくてはならない当然の、日常の伝承であるということは、上諏訪神社前の博物館で、御柱祭関係の展示を見ていた若い母親が、まだ小学校に上がる前くらいの小さな子供に、「ほら○○ちゃん、ヨイテコショーイだね」と言っていた光景に、過不足なく表現されていたように思うのである。
「ヨイテコショーイ」。これが、御柱祭なのである。
No.101


2004年5月4日(火) 新選組! 第十七回
☆新選組! 第十七回
「始まりの死」という題がすべてを語っているわけだが、ありとあらゆる要素を含んでいるので複雑。一言では語りきれないらしく、腐女子サイトも更新に時間がかかっているようだ。まあひとつには、連休という事情もあったかもしれない。
 殿内は芹沢に殺され、それを告発しようとする勇は組織防衛を第一に考える土方に止められて、心を歪めてまで芹沢を庇う。それを非難して浪士組を脱退する粕谷新五郎と根岸友山。粕谷のことばはそのまま新選組の命運を語る。この役割のために、ここまで粕谷を引っ張っていたわけだ。もちろん、史実に抵触しないようにうまく組み込みながら。
 傷つく勇に慙愧に堪えない土方は、メンバーの前で「あいつに二度とこんな思いはさせない、悪役は今後ぜんぶ俺が引き受ける」と、こちらも傷つきながらうめく。
 傷つくのは近藤と土方だけではない。芹沢もまた近藤に自分の思い(「お前が殿内に騙されてると思ったんだよ!」)が通じないことに心を痛める。それでもなお自分を庇った近藤の姿を見て、芹沢はおそらく、近藤にそんな思いをさせたという贖罪のためならば、近藤に斬られても構わないと密かに覚悟を決めた、という演劇的伏線を、ここで張っておいたのではないだろうか。
 これで、近藤を先の見えない道に引っ張りこんだと思って自責と贖罪の念に駆られる山南に次いで、近藤、芹沢、土方も性格が変わっていくためのお膳立てができたわけだ。とくにこれで、土方と山南はいわばコインの裏表という設定が、より明確になった気がする。土方と山南にあまりいがみ合って欲しくない山南ファンのこちらとしては、だから逆に安心できるようにも思ったのだが……。つまり、土方は山南の自責を理解し、山南もまた土方の苦渋を理解するという風に。
 あとは無邪気一方だった藤堂平助にも、今回伏線を初めて張ったし、どうも今回はやや陰惨な将来の暗示の段めいていて、観ている方も胸苦しかったのは事実だ。
「始まりの死」というのは、だから当然、浪士組で最初に死んで、しかもその後の新選組の隊士たちの死に様の嚆矢かつ予告ともなった殿内のことでもあり、また一方では、牧歌的な多摩と夢多き江戸の楽しかった時代、そして希望に燃えた浪士組の門出が終わった=死んだということなのだ。
 ただひとつ救いのユーモアは、会津藩士の前では緊張して一言も出なかった山南や藤堂が、自分たちだけになるとリラックスして教養を思い出して披露するのに怒った土方が、「だから今話したって遅えんだよ!」と噛みつく場面。
 それ以外には、行き付けの甘味茶屋での、あっという間の乱闘シーン。まるでジョン・フォードの西部劇の酒場乱闘を見ているようだ。井上の源さんは、さしずめアンドリュー・マクラグレンといったところか。
 こうした場面を描かせたら、三谷幸喜の技は絶妙だ。
No.102


2004年5月6日(木) 江戸東京博物館「新選組!」展、流山探訪
☆江戸東京博物館「新選組!」展
 両国にある江戸東京博物館で開催中の、「新選組!」展に行った。木・金は、夜8時まで開けているので、午後からでもゆっくりゆとりを持って参観できる。
 展示は博物館らしく系統だってストーリーを組んでおり、また同様博物館らしく文献資料なども充実していた。
 その文献資料から感じ取れるのは、新選組(に限らず幕末人)の面々は、律儀で几帳面で、しかも心が優しいことだ。とくに土方は花鳥風月をも解する、温かい心の持ち主ではなかったか、とすら思う。かれの「豊玉(ほうぎょく、と読み、かれの名である義豊にかけた俳号だが、それだけではなく、豊多摩にもかけてあるのだろう)発句集」はなかなか大したもので、どことなく町人風の情趣が感じられるのは、かれが松坂屋に奉公をしたり、薬の行商をしたりしたところから来るのかもしれない。
 他方、近藤勇もつねに向上心を忘れなかったことは、かれの書簡からよく読み取れる。また、近藤が書簡の中で、自分はもちろん尊皇で、ただしその「体」が幕府なのだと述べているところが興味深い。つまり、私流に言えば、「天皇を触媒として立ち現われてくる日本国のすがたを実質的に実体としてあらしめるのが幕府なのだ」と近藤はここで言っているわけで、かれが公武合体派、佐幕派であるのも無理はない。
 それにしても、こうした高論卓説と、日常茶飯の報告、あるいは金の無心とが、同一の手紙の中に並存しているというのは、当時の人の常かもしれないが、面白いことだ。いやむしろ、「私はこうこうこうした偉いことをやっておりますので」と箔やら理由をつけておいて、それを金の無心の口実に使っているのではないか、とすら思われる。
 土方も無論そうではあるのだが、近藤の書簡の方が、やや虚勢虚飾の臭みがあるのに対して、土方のものはあくまでナイーブで温かいというのは、従来流布している土方イメージを修正するのに、大いに与って力があるのではないだろうか。
「土方イメージが大いによくなった」と妻も言っていたから、やはりそうなのだろう。

☆流山探訪
 博物館を出て、まだ外に明るさが残っていたので、思いきって流山まで足を伸ばすこととした。流山は御存知近藤勇こと大久保大和が土方と別れた後、官軍に包囲されて捕縛されたところだ。
 まず丘の上、市役所のところからアプローチする。下はすぐ、流山電鉄の駅だ。ここは官軍が、近藤が陣屋にして立てこもった酒屋や、そこに軒を並べる街道筋の商家の町並みを目の当たりに見下ろして布陣した場所で、我がボルボは、そこから下の街道筋、江戸川にすぐ沿った道へと降りたわけだ。
 近藤陣屋跡の前の道は本当に狭くて、車の擦れ違いは不能だ。誠の旗が翻り、流山もそうとう新選組で食っているな、と意地悪く考える。そんなこととは別に、やはり近藤の命運が決まった場所ではあり、夕闇も迫っていたこともあって少々気味悪く(しかもすぐ先は墓地だ)、もう車を降りずにそろそろと通過する。昼間明るいうちに再訪しようと思う。 旧街道沿いの福祉センターの扉には「新選組!」のポスターが貼られている。もちろん昔日の面影などまったくないが、それでも古い菓子屋は、相当由緒があるようだ。閉店間際だったが、ここに入って観光資料を手に入れ、「陣屋最中」を箱に詰めてもらう。見ると、「勇凧」という民芸品があり、その説明によれば、近藤は自分の身を犠牲にして商都流山を戦火より救った守護神であるということになっている。流山ではそう考えられているのか、と思う。
 帰宅してあらためて資料を見ると、流山は丘陵と江戸川(旧利根川河床流路)の狭間にできた集落地であって渡し場でもあり、江戸、武蔵、下総を結合する要衝の商都として栄えていて、たぶん綺麗な湧水もあったのだろう、醸造元や和菓子屋が今も隆盛だ。貝塚や集落墳遺跡も残り、その歴史の古さを物語る。江戸時代には利根川流路変更にともなって自然堤防下の低地における新田開発が飛躍的に発展した地域でもある。そのため、明治初期には「印旛県」や「葛飾県」の県庁所在地ともなった重要な拠点だった。神社も諏訪神社、赤城神社、浅間神社、香取神社、八坂神社、金刀比羅神社とオールスターだし、寺も各宗ひとわたりはあるようだ。
 俳人小林一茶のゆかりの地でもあり、つまりは豊かなところなので、じつに見所満載の、典型的な江戸近傍の河川流通経済で栄えた小都市なのだ。博物館では新選組資料も展示されているというし、一日掛かりでゆっくりと見学に訪れる必要があるだろう。
*なおこれらの知識は、主として市役所肝煎り「新選組流山隊」実行委員会発行のパンフレットおよび流山市観光協会発行のイラストマップによるものです。
http://www.at-town.com/snap
http://www.atn.co.jp/kanko
No.103


2004年5月7日(金) 御柱祭ビデオ、新選組! コーナー新設
☆御柱祭ビデオ
 授業で、早速御柱祭の取材ビデオを流す。「人間の環境理解、すなわち文化の一例としての御柱祭」と題す。この題を前提としてビデオを見せ、レポート課題として「なんでこんなことをやらねばならないのか考えよ」とする。実はこの疑問は、私が抱いたものだからだ。
 別に正答誤答などというものはない。論理的な解答をした学生もいれば、いささか分析の足りない答案もある。「地域振興の為」という解答は、授業、あるいは今回のテーマという「コンテクスト」に対する理解が足りないものとみなす。
 ほとんどが可もなく不可もない答案だったが、たまにはこちらに噛みつくだけが目的、といった風情のものもある。何かが、あるいは私も含めて何に対しても、我慢がならないというわけなのだろう。
 ありがちのことではあるのだが、ガラスの神経なもので、けっこう傷ついたりするのだ。今夜の番組で、今田耕司が、面白くもなさそうな顔をしている客は「見てみぬふりをする」と言っていたが、まさに人はさまざまだから。それぞれの事情も抱えているし。わが身に照らして、さまざまな意味合いをもって考えさせられたことばだった。

☆新選組! コーナー新設
 病膏肓に入ったらしく、ついに「新選組! コーナー」を独立新設してしまった。
 とはいえ、日記やイラストの中から、新選組関連のものを抜粋・コンパイルしただけなのだが。
 期間限定で、「新選組!」終了までは、さまざまな話題、イラストともに続けてみたい。
 ついでに素材にも、新選組関連のものを追加した。
 これをもって、腐女子サイトともリンクしたいのだが、はたして先方さんがOKしてくれるかどうか、はなはだ覚束ない。
 ま、高望みはやめておくか。
 考え中。 
No.104


2004年5月8日(土) 玉造町探訪
 天気もまずまずよさそうなので、思い立って探訪に出かける。
 流山を再訪しようか、それとも芹澤鴨の故郷玉造にしようかと迷ったのだが、結局、玉造にした。佐藤浩市の演ずる鴨が、なかなかニヒルで甘い哀れさがあってよいせいもある。
 出かける前にちょっとネットを検索したら、玉造町もやっぱり流山に負けず劣らず力を入れて、新選組で町おこしをしようとしている。
http://www.tamatsukuri.or.jp/shinsen-hp/index.htm
http://www.town.tamatsukuri.ibaraki.jp/
 首都高速湾岸線〜東関東自動車道というルートで、霞ヶ浦までたどる。ボルボはリッツスーパーヒューズのお蔭か、滑るように走るが、そのためかえってアクセルを踏み過ぎなのか、燃費がいま一つ伸びないので心配。
 玉造町に到着。ここのキャッチフレーズは、「新選組を創った男の町」。キャラクターはもちろん芹澤鴨(ハンサムに描いてある)、それから従者の平間重助(男らしく描いてある)。これでNHKの沖田風キャラ、日野の沖田(若い土方?)風キャラ、調布のイサミくん、そしてここの御両人とそろったわけだ。
 各地の新選組顕彰活動の資料も取り揃えてあり、中には調布宮川家から送られた月報まであって、別段昔のことを根に持っていがみあっている、というわけではなさそうで、まずは結構なことだ。
 まちおこしポスターの貼ってあったスーパーで道順を聞いてから、最初に「新選組水戸派史料館」へと向かう。近づくと、誠の旗が翻っているのがわかる。ここは玉造町観光協会肝煎りでJAの建物に設置したもので、地元の俳句協会のボランティアが詰めている手軽なものだが、それでも芹澤関連、石岡の伊東甲子太郎・鈴木三樹三郎関連の史料など展示している。ノートもおいてあり、中学生から老年まで書き込んでいる。「新選組への手紙」というコンクールもやっているらしく、老人が結構真摯に芹澤宛の手紙など書いているのには一驚。
 他には新選組グッズ、地元産品など置いてあり、当方は地元澤屋商店発売(製造は三重県度会郡伊勢萬)「芹澤鴨・平間重助ゆかりの地」という焼酎を求める。この澤屋商店は平間の子孫の店だということだ。ちなみに帰宅後味わってみたら、なかなか素直な味の焼酎だった。
 史料館でパンフレットを手に入れ、橋を渡ってさらに奥へ進むと小高い森があり、そこの中腹に芹澤の旧家、そして登りきった平地(現在は耕地)に芹澤城址がある。近くの家の人が親切で、道順など教えてくれる。
 芹澤一族は古く鎌倉〜南北朝時代に遡る常陸の豪族だが、芹澤と名乗るのは相模国高座に所領を持った時で、戦国末にここ玉造に芹澤城を築いたという。江戸時代には上席郷士であり、現在もなお、地域では非常に有力な一族であるようだ。また医術にも優れ、膏薬を作っていたというのは、多摩における同じく郷士である土方の一族との、面白い共通性を思わせる。
 これもちなみに、平間家は代々芹澤家に仕えた家柄で、出自は川崎大師の平間に遡るという。
 芹澤鴨はこんなお殿様の家柄に生まれ育った人だから、なかなか気ままに慣れていたものだろう。
 面白かったのは、この芹澤城の位置関係で、いまは欝蒼と樹が生い茂ったり、家が建て込んだりしているが、昔はきっと、館の上からは霞ヶ浦が指呼の間に望めたと思われ、それはちょうどミケーネやクノッソスや、沖縄のグスクと似たものを思わせる。つまり位置的には奥まっていても、易々と霞ヶ浦の舟運流通を支配できるということだ。
 城の丘の西側を巻いて梶無川という河川が幅1〜2キロくらいの流域開析谷を作りながら南へ流れ、霞ヶ浦へと注ぐ。この流域がすなわち、かつての芹澤城主の領域であろう。この川を使えば交通・流通は容易で、しかも霞ヶ浦〜利根川〜江戸川というラインで江戸へ直結する。玉造町の霞ヶ浦沿岸は、江戸時代、江戸の水戸藩屋敷を支える穀倉であったということだから、それやこれやを考え合わせると、幕末には一介の郷士の三男でしかない芹澤であっても、もし教育と自覚がありさえすれば、容易に江戸の、日本の、そして世界の情勢に触れることは可能だっただろう。そしてこれは河川流通の発達していた江戸期日本においては、全国津々浦々のちょっと繁栄した都市であれば、どこでも類似の条件下に置かれていたはずなのであって、それこそが全国各藩各有識者の行動とネットワークによって明治維新が可能になったという事実の、大きな一因でもあったに違いない。
 さて芹澤城の位置関係に戻るが、城址の丘の東端には村社大宮神社があり、西端には法眼寺という寺があって(ここの境内に今年芹澤鴨顕彰碑が建てられた)、そこには芹澤一族代々の墓がある。東に神社で朝日を拝み、西に寺で浄土に向かう。そして梶無川は丘の南からさらに南へと流れ、霞ヶ浦に注ぐ。
 とするとかつての館は、どう見ても南面していたと考えざるを得ないではないか。
 つまり芹澤城は、埼玉の高麗と同じく、風水的に完璧な条件を持っているのだ。だから、戦国末〜徳川一統までのころの芹澤氏は、まさにこの地の支配者、王であったといえよう。
 玉造という地名はどうも大和朝廷時代にまで遡るらしいし、じっさいにここには金冠(大月氏〜百済風)の出た古墳もあり、それ以外にも霞ヶ浦を見下ろす丘陵には多数の群集墳が発見されており、どうもここは筑波の山と霞ヶ浦とを控え、陸奥、東山道、東海道、そして総の国を結節する、ひどく豊かな地域であったようだ。
 水戸学を作り、天狗党のエネルギーを生むだけの経済生産力・文化力を備えた地域だったのだ。
 芹澤鴨も伊東甲子太郎も、そうした土地柄が、生むべくして生んだ人材だったのだ。
 さて帰りは、霞ヶ浦大橋を渡り、国道4号に出て、田植えの済んだばかりの田毎に映る町明かりを見ながら、そのまま東京まで戻ったのだった。
 
No.105


2004年5月9日(日) 「新選組!」コーナー追加、新選組! 第十八回
 今日は久々に鍼に行って疲れた。いったい、いつになったら天気が安定するのか。

☆「新選組!」コーナーに、雑文その2を追加。流山、玉造探訪記など載せてある。日記の文章をだいぶん推敲した。雑文はさらに増やしていく予定。「尽忠報国の士、芹澤鴨」のロゴも作ってしまった。鴨の故郷はたいへんによいところのような気がする。

☆新選組! 第十八回
 今回も盛り沢山。伏線を張りまくった回のように思う。そこで感想は、ランダムに書いておく。
 鴨がどんどん大善人になっていく。とくにお梅に失恋する沖田を見ながら思わず吹き出すところ。「北斗の拳」でもそうだが、最初はこわもてで登場した大悪人(ラオウなど)が、最期は大善人になって死んでいく。物語を進めていく中で、登場人物も、作者自身も、自然に浄化されてしまうと言えばいいだろうか。
 藤堂平助が大役に選抜されて名を呼ばれたその一瞬に引き締まる顔の表情。これは歌舞伎役者勘太郎ならではだ。
 沖田役の藤原竜也もさすがにうまく、がっくりときた純な若者という演技の典型を見せて楽しませた。
 しかし今回の最高の場面は、やはり相撲大会でみなの気持がひとつになるところ、そして斉藤一の心が解けるところだろう。
 とはいえ、斉藤の依然引きずる影は、あるいはこれから鴨にも影響する伏線かも知れないのだ。
 平間重助、こちらが玉造を訪れた所為か、ぐっと親近感が増した。そこそこ活躍もするし。芹澤派で最後まで残る野口も、それを含んで上手に動かしてある。
 結局、今回いちばん顔つきが悪かったのは、近藤勇だ。土方は近藤を、そして皆がともに見る夢を守るために、確信犯的に偽悪者を演じているわけだが、近藤は気がついていない、というよりも、正しいことをやっていると思ったまま、疑問を持たない。
 まさに歴史的資料にあらわれたままの近藤と土方のキャラクターになりつつあるではないか。
 このままだと、近藤だけ reflection と katharsis がないまま突き進んで行きそうで、それでは芝居にならないのではないかと、素人ながら心配したりする。
 まあ三谷幸喜のことだから、そのあたりもちゃんと仕掛けがあって解決するのだろうが。
 
No.106


2004年5月10日(月) 菅辞任、皇太子発言、イラク捕虜虐待
 じつに天候不順。天は必ずしも人に味方していないと、古代人なら当然の如く解釈するだろう。

☆菅辞任
 年金未納に関しては、システム自体の難解さと不備とによるだろう。
 要するに、世間は残酷だから、bread and circus をつねに求めているというだけだ。天=世間に対する人身御供の数が、まだ足りないかも。

☆皇太子発言
 そうとうに思いきった発言と思う。戦前ならば、宮内庁長官はよくて辞任、場合によっては自殺というほどの責任となるだろう。総理大臣だって、たいがい恐懼しなければ。だからこそ皇室はめったと発言しないのに、それをここまで言わせるとは、皇室への尊崇の念の凋落傾廃も甚だしいものがある。
 事情はよくわからないので不謹慎なことは言えないが、これでは、政府が皇室に対して、まるである種の許認可権限のようなものを振りかざして、いわば家元「天皇流」だかなにか並の扱いをしているということになってしまうではないか。
 それだったらもう、いっそ皇室を憲法の規定から外して、「財団法人天皇家」とでもして、NPOやNGOをたばね、日本国の文化・平和活動の総元締になって大活躍してもらう方が、はるかに健全だ。平安から幕末まで続いた、本来の皇室の姿に返るわけだから。「宗教法人天皇家」をさらに分枝独立させてもいいだろう。参加したい神社は、靖国を筆頭に、全国から山ほど出るに決まっている。
 憲法で「国民統合の象徴」として規定していながら、うわべの体裁ばかり繕っているだけで、真に見合った内心からの敬意を払わない。
 このような、表層と実質の乖離という中途半端な状態が、日本社会の上から下まで、、大なり小なり、多かれ少なかれ、似たような形で存在しているわけだ。

☆イラク捕虜虐待
 ベトナムの二の舞になりそうな気がする。湾岸戦争の頃の誇らしげな米軍は、どこへ行ってしまったのだろう。
 それにつけても考えるのは、敗戦後の日本では、どうしてこのような事態にならなかったのかということだ。また往時のアメリカは、どのような統治を日本に対して行なったのかということだ。
 再検証した方がいいのではないかな。右とか左とかの立場を取っ払って。
No.107


2004年5月13日(木) 宮内庁長官会見
★宮内庁長官会見
「皇太子の真意を伺う」だと。
 つまり言い換えれば「事情を聞く」ということであり、このことばは「訊問する」の婉曲語法である。
 恐れ多くも皇太子に、国民統合の象徴である天皇の分身に、ということはつまり国民に、役人ばらが「真意」を「聞く」とは何事だ。皇室を、いくらでも首のすげ替えが利く、国権機関としか見なしていない明白な証拠だ。したがって、国権をコントロールする自分たち官僚の方が、皇室よりも偉いと考えていることが、よくわかる言辞だ。
 戦前に否定され、戦後も一学説でしかないはずの天皇機関説を、じつはもっとも信奉しているのが為政者たちだということが、ここではしなくも露呈したわけだ。それとも最終的には、「殿御乱心」とかで座敷牢にでも押し込めるつもりなのか。
 まったく不敬の極みだ。いったい何様のつもりか。思い上がりもはなはだしいのではないか。
 その意味では、すべてを宮内庁に丸投げした総理大臣小泉も同罪だ。皇室に対する尊崇の念がない。自分が天皇よりも偉いと思っているから、そんな行動が取れるのだ。
 あるいは小泉は、蘇我入鹿以来の逆賊ではないのか。逆賊、国賊、非国民筆頭が総理大臣で、宮内庁が獅子身中の虫だとなれば、この国は、つまり国民は、とんでもない主客転倒の中にあるということだ。
 私は皇室を国家的規定から外してもいっこうに構わないし、またそうしても皇室の日本歴史および文化に対する関係は毫も変化しないと考える者ではあるが、いやしくも憲法を遵守して生きる国民としては、皇室に関する見解とはまったく別に、国のこのような不誠実かつ無礼な対応は、よいこととはけっして思わない。なぜならば、それはつまり憲法に悖ることであって、国が国民に対して、ありとあらゆる局面で、同等同質の対応を取っているということに他ならないからだ。
 そういう意識の国家を、そしてこのニュースもまた短期間に消費するものとしてしか意識しないような国民を、戦後われわれは60年、営々として作り上げてきたわけだ。
 
 
No.108


2004年5月14日(金) 流山再訪、勇雑考
 午後から流山を再訪した。
 昼間だったこともあり、地形その他、ずいぶんとよく把握することができた。どこに官軍が布陣したか、ほぼつかめた。昔のことだから、家並の数も少なく、近藤陣屋は指呼の間に望めただろう。
 その官軍陣地のひとつであった丘の上に作られている、図書館・博物館を見学。後期旧石器から戦後の団地建設まで、一気に見ることができる。縄文〜弥生〜古墳まで、切れることなく人が住んでいるという事実は、河川・湖沼と丘陵とが調和し存在するというこの場所の立地の良好さを物語る。
 また復元ジオラマを見ると、霞ヶ浦〜利根川〜江戸川流域は、あたかも路線バスの停留所(by妻)のように町とその河岸とが並んでいて、航路はまるでそれらを縫い付ける糸のようであり、往時の河川交通の繁栄とその重要性とを、如実に知ることができる。
 要するに、江戸時代までの江戸川沿岸は、稲毛など東京湾岸と同様に、河岸も舟運も、ほとんど「海浜」の感覚だったろうと思われる。つまり極言すれば、東京湾から霞ヶ浦/北浦までは、ひとつの「海」だったのだ。
 他方流山は江戸時代にはみりん醸造で知られ、そのため近藤も、醸造元の広大な屋敷を陣屋として使用することができたわけだ。
 博物館で資料をいくつか入手する。7月からは、「新選組、流山に入る」と題して特別展があり、新資料も展示するらしい。その新資料のさわりだけ、ちらりと展示してあったが、それ(日記)によると、包囲された新選組は官軍と戦うもののすぐに惨敗し、指揮官たちはみなひっくくられてしまったと書かれているようで、あの嫋嫋たる余韻を残す名文によって感動を呼ぶ、子母澤寛記すところの近藤降伏の情景とはだいぶん違うドライな状況があったようだし、また近藤が流山を戦火から救うために、単身犠牲となったというわけでも、とくになさそうなのだ。
 7月の特別展も楽しみになった。

 博物館を辞して近藤陣屋跡やその周辺をひとわたり歩きながら、なぜ近藤勇は降伏したのか考えた。
 
 近藤は、助かると思っていたのだ。いやそれのみならず、官軍に迎えられるとすら考えていたのだろう。
 その理由はこうだ。
 近藤は尊皇攘夷の士であり、同時に将軍の忠良な家臣である。将軍と運命を共にし、その命令には無条件で従う。その将軍が天朝様の意を体現していると近藤が考えていたことについては、資料より明らかだ。
 だから、これまでは将軍の命を奉じて薩長に敵対してきたが、西軍が官軍になって将軍が恭順したからには、近藤もまた将軍と同様に官軍に恭順することについては、自らの中に、なんの疑問もない。
 賊軍扱いは不当であるから、攻撃に対しては抗戦という形でその意思表示をして、武士の一分は通す。しかしその(将軍に対しても自分に対しても)不当な賊軍としての誤解が解ければ、もはやそれでいいのであって、近藤自体は一貫して尽忠報国の士と自認しているし、また官軍側からもそう遇されると考えたのではないだろうか。
 近藤は「誠」の人である。至誠はかならず通じると信じていたに違いない。そしてその純朴な信念は、近藤の中においては、いくぶんかの出世欲と権威主義、つまり政治性とも、けっして矛盾することなく存在していたようにも思われる。
 だから流山時点での(場合によれば甲陽鎮撫隊のときからすでに)近藤は、むしろ官軍の忠実なる一員として(つまり将軍を裏切ったどころか引き続き忠良なる臣下として)、旧幕軍を取りまとめて新政権の秩序確立と維持とに尽力する、そうした存在となったというふうに己の中で理論展開をつけ、そのように理論武装をした上で説明をすれば官軍も納得し、あわよくば近藤のことを、官軍のなんらかの部署に任命するのではないか、とすら思ったかもしれない。
 
 現実がそうはいかなかったことは、その後の歴史が示しているとおりだ。


No.109


2004年5月15日(土) 浅草三社祭
 浅草三社祭に行った。
 山の手の人間なので、じつは生まれて初めて。
 表参道で銀座線に乗り換える。結構混んでいる。どうせ銀座や三越前で降りるものと踏んでいたら、上野に来ても減らないので、みんな三社祭見物の客なのだということにようやく気づいて驚く。
 地上に出ると、ちょうどみこしの渡御。立錐の余地なく見物人が詰め掛け、警察が声をからす中、雷門に向かって、あの狭い仲見世通りを、次から次へと神輿が担がれ揉んで来る。子供の囃子を乗せた山車が、その間に挟まって(つまり神輿の前駆として)曳かれてくる。勇壮さと小粋な優雅さ、動と静の好対照がめりはりをつけている。
 ひっきりなしに通るみこしと山車とを店の軒先にへばりついて除けながら、浅草寺にお参り、向かって右に降りると浅草神社。「下町太鼓道場」だったかという太鼓愛好団体が奉納する太鼓の曲をしばらく聞いて、それが終わったら今度は被官稲荷の前で、子供山車のお囃子に耳を傾ける。よく練習していて息も合い見事。
 
 このごろの子どもたちはいいな、と素直に思う。雅な色や小粋な模様の半被、腹掛け、股引、頭に可愛い飾りも載せて、小さい頃から地域と祭りの成員であるということを、なんの疑問も持たずに楽しむ。
 自分の少年時代は、祭りがもっとも式微したときだったと思う。中学の頃、たしか神田明神の祭礼すら次回はもう中止、などとニュースになったくらいだ。「神社の祭に行く? →国粋主義者、右翼、保守反動、国家神道信奉者、民主主義の敵!」てな目で睨まれるような雰囲気は、たしかにあった。
 だから祭を神と切り離してイベントにしてしまったのだろうが、それに対する考察と議論はここでは措く。
 そうして衰微した祭を断絶させずに続け、より華やかなものにして活性化させて、ついには近年の隆盛に導く原動力となったのは、今にしてつらつら考えるに、じつはその出現当時には各方面からさまざまな非難を浴びせられた、「まつりギャル」だったのではなかったろうか。
 恥知らず、礼儀知らず、仕来り破り、粗野、無教養、無批判、不良予備軍と罵られ、あるいは冷笑を以ってあしらわれていたまつりギャルは、しかしいつのまにか人を呼び寄せ、祭り衣装に新たな命を吹き込んで復活させたのだ。
 そしてそのまつりギャルたちは、今では若い母親となってさまざまな形で地域と祭りの維持伝承に貢献しており、その子供たちにまた、祭りに参加し伝承する契機を提供し続けている。
 そしてそれと相伴って、信心の対象として神社仏閣へ参詣し参拝する人も、年々増加しているのだ。
 日本人の信心や信仰とは、いったいどのようなものなのか。

 これをしいまだに、迷信への悲しむべき回帰、右傾化の恐るべき兆候と断じるのだろうか。アヘンたる宗教に騙され手玉にとられ、エネルギーを誤まった方向に発散させられることによって権力に利用され搾取され続ける哀れな人民を、前衛は断固指導して、その蒙昧の闇から目を覚まさせなければならないのか。
 伝統文化として確立され、注意深く自らをコントロールしてきた穏健な祭礼によって社会をメンテナンスするシステムを非難攻撃し、かえって危険な狂信を、人民の解放へのたたかいとして礼賛支援しているのは、いったいだれなのか。
 じつはそれこそ、権力奪取の手段としての浸透戦術以外のなにものでもないのに。

 ところで山の手育ちとはいえ、同じく東京、そして関東の人間であって、自分自身かつて渋谷金王八幡の氏子として子供みこしを担いだこともある、そうした地域性のコンテキストの中にある自分としては、どうもいくら諏訪御柱祭といえども、やっぱり規模といい、粋さといい、華やかさといい、洗練の度合といい、所詮はお膝元の三社祭の方がいいな、というのが正直なところだ。
 だがじつはこんなことは、御柱祭を取材するまではまったく気づきも感じもしなかったので、やはりそれだけでも、御柱祭に行った意義はあったといえるだろう。

 浅草からの帰りは吾妻橋から水上バスに乗り、お台場海浜公園に出て、そこで食事をして戻る。
 ここもまた隆盛。関西弁のカップルに、写真を撮ってくれと頼まれる。地方に新都心と称する施設やエリアは近年多数建設されているが、こうして地方から人が集まっているのだから(しかも日帰りできる)、いくら地域で何をやろうと、これではとうていかなうものではない。
No.110


2004年5月16日(日) 新選組! 第十九回
☆新選組! 第十九回
 今回もまた、鴨デーだった。
 純真な沖田や近藤の中に、なりたくてもなれなかった自分の姿を見つつ、照れ屋で人の反対にしかつねに出られないまま、心の深いところには悲しみを持ちながら自滅へと走っていくpicaroといった典型的役どころが、当然ながら鴨に対して振り当てられているわけで、それを佐藤浩市が巧みに演じているということだ。

 とくに今回の白眉は、通夜の席に乱入した久坂玄瑞に、「水戸の尊皇は格が違う、お前らはニセモンだ、自分たちがやりたいことをするために天子様に自分らの意見を押しつけているだけだろう」と啖呵を切って追い返すシーンだ。

 日本人は勝手なもので、狸親爺の家康は嫌いで、関ヶ原で負けた毛利侯や島津侯にはなんとなく同情するくせに、幕末以後はこんどは江戸っ子を中心に、薩長芋侍に対しては釈然としないまま、現代に至る。
 これらすべては、梅原猛も指摘する如く、明治以後の日本が、恨みを呑んで敗れた敵を鎮魂するというそれまでの文化伝統に反して、勝者側ばかりを同志殉難者として招魂社靖国で祭ったことに始まるのだが、いずれにせよ、薩長出身者を除いては、今回の鴨のセリフに、溜飲の下がる思いをした人も多かったのではないか。
 吉田松陰の愛弟子で弁舌文才ともに一流の久坂玄瑞が、ここまでぐうの音も出ないほど極めつけられる本を書くとは、三谷幸喜はひょっとして負けた側の人間か?

 それ以外には、沖田が必要以上の心の傷を鴨に負わされたり、左之助が疎外感を抱いたりと、ここらにも将来の伏線を張ってある。
 細かいところでは、提灯を持って通夜の案内をする、画面奥の勘太郎平助の一瞬の芝居は、さすが歌舞伎の技量だ。

 史実といわれるものを巧みに換骨奪胎しながら、今回も一場のドラマを作り上げてあった。
No.111


2004年5月22日(土) WEB拍手ボタン、小泉訪朝
 学校の一週間サイクルが始まってしまうと日記が滞る。授業でけっこう吐き出してしまっているから、書く契機がなくなる。他方、授業は体力を消耗するので、力尽きるというのも正直なところ。

☆WEB拍手ボタン
「新選組! サーチ」に登録してから、サイト閲覧者数が急増したのには驚いた。それだけ「新選組!」ファンが多いということだろう。「更新しなくては」と変に気が咎めたりもする。それでつい調子に乗って「WEB拍手ボタン」も設置した。はじめて励ましの書き込みをしてくださった方がいた。この場を借りて御礼申し上げます。「新選組!」関連イラストを近日掲載予定です。

★小泉訪朝
 この成果と意義とには毀誉褒貶があまりに喧しく、軽軽に論評はし難いだろう。おそらく何箇月か経ってから、「ああ、あのときのあれは、ああだったから、いまこうなのか」という具合にわかる、という類のイシューなのではないか、と思ったりもする。
 ただテレビ中継を観ていて感慨を催したのは、拉致被害者子女は、昨日までの環境、昨日までの友人、そういったものからいきなり断ち切られて、そうしてもう二度と(最善でも当分は)接することができなくなってしまったのだな、ということだ。いわば「コンテクストから切り取られたテキスト」だ。
 そうした境涯に置かれたときの人間とは、どういう存在となるのだろう。
 むしろそればかりを考えた。
 
No.112


2004年5月23日(日) 新選組! 第二十回、品川宿探訪
☆新選組! 第二十回
 久し振りに良質な青年ドラマを観ている感がある。
 舞台の大筋は、哀れなる鴨をめぐる群像劇。だからといって鴨はわがまま若様で、同情されれば反発するしかないのに、また近藤は最後に「私は好きですよ、この羽織」などと余計なことを言い、鴨を背中で泣かせる。まあ、鴨に関しては、このあたりの性格設定以外にはないのではないか。いずれ諸史料をよく読み込んだ上でのことだろう。
 前回で、通夜の線香と蝋燭を黙って替える近藤の姿はなかなか感動的で、かれの温かさと大きさを自然に出しており、また香取慎吾がそれをよく演じていたが、今回もそのあたりの近藤の「愚直な立派さ」とでもいうところが、うまく出ていたのではないだろうか。
 竜馬は土方にいちどやり込められているが、今回は鴨から一本取ったはずの桂のことを逆に見切る(もっとも桂も久坂のことは庇わざるを得まい)あたりが、江戸の仇を長崎で討つ感じで、一種の楽屋落ち。
 楽屋落ちといえば、宴会のシーンで、香取近藤が山本土方に「歌え」という場面。山本耕史はミュージカルスターなのだから、得意技披露とでもいったところで、さすがにうまい。
 他は河合と松原の採用にまつわるコミカルシーン。堺山南と中村藤堂は芸達者、オダギリ斉藤はめっきり明るくなった。また山南が枢要な機会から次第に外れていきそうな気配もそろそろある。
 内山彦次郎がささきいさおというのは、内山に出番を与えるということも含めて意表を突かれた。つまり次回は相撲取りとの喧嘩騒動なわけで、舞の海も登場するようだ。
 総じて言えば、演劇的に盛り沢山な回だった。贅沢なドラマだ。

☆品川宿探訪
 昼から出て、遠出のドライブのつもりだったが、たまたま山手通りを南下して湾岸道へいくルートを取っていて、旧品川宿と交叉するあたりで、突然気が変わり、そのまま品川宿探訪に変更する。
 ここは旧東海道が、八ツ山橋から鈴ヶ森までの間、道幅などもほぼそのままに通っていて、品川宿は京急北品川駅から青物横丁駅ぐらいの間に、目黒川を挟んで南北に長く伸びていた。旧東海道の東側家並の裏は直ちに東京湾の水際で、そのことを示す名残の石垣も家並裏の路地にいまだに残り、そこではたしかに土地の高低差も突然落ち込んだようになっていて、なるほど昔は海であったのだということが納得できて感慨深い。そしてその海は、落語「品川心中」にもある通りの遠浅、そのため旧目黒川河口は北に大きく湾曲して澪となって東京湾内に尻無川のように消え、その東側には砂洲が形成されて、そこに猟師町(この字で正しい)ができて、鯨塚で有名な利田神社がある。
 品川宿の南は鮫洲で、ここは江戸城御用の猟師町で網元の家もあって、つまり品川海岸は、宿場でもあり「江戸前」の漁師町でもあって、東京湾学会の高橋在久先生の御教示によれば、かつては木更津から「五大力(ゴデーリキ)船」が通っていたそうである。
 ちなみに、こうした河口の砂洲というのは、どこでも同じ機能を果たしているようで、私の知る限り、北海道の石狩河口には旧石狩場所以来の漁村があるし、手塩川の河口砂洲には続縄文期の住居遺跡が多数残り、またやはり手塩場所と北前船で栄え、他方また秋田雄物川河口は江戸時代に北前船海運で繁栄した土崎湊である。
 また、家並のすぐ裏がもう海で、船も着いていたというその風景は、たとえば江差、松前、三国港、そして北前船の着くところならたいがいどこでも似たようなものだったろう。一方では東海道由井宿や興津宿などの宿場もまた、こんな感じのたたずまいを今に残している。

 現在この品川宿については「旧東海道品川宿周辺まちづくり協議会」
http://www.japan-city.com/sina/
が地域振興を図っていてパンフレットも充実しており、それを手にして歩いた。日曜ということでほとんどの商店は休んでいて残念ながら町は静かだったが、来週は荏原神社の祭り、再来週は品川神社の祭りと目塞で、通りではその準備に余念がなく、提灯も下がって、どことなしに華やいでいた。海の神を迎える荏原神社、山(というか丘)の神を迎え海と接する品川神社と、役回りもきちんと揃っている。荏原神社は前九年の役頃にはすでに存在していたようで、それはつまり品川の地が、はるか昔から東京湾と内陸とを結ぶ(目黒川は当時としては大河に近い機能を果たしたはず)、ロジスティクス上の重要拠点として目されていたことを物語る。
 またこの地域は、本陣跡の公園、江戸時代から残る神社仏寺、明治時代の工業地域化の名残である煉瓦塀など、時代が複合した趣で、現在の超現代的な品川駅(ここは実際は高輪にあたり、しかも駅そのものは目黒区なのだ)周辺のすぐ南に、こうしたコミュニティがなお存在しているというわけだ。
 さてここにも新選組関連の旧跡はあり、それは南品川宿の「釜屋」だ。この旅篭には土方も泊まり、ここに上陸した新選組は、この釜屋にしばらく滞在した後、敗軍にもかかわらず深川で女郎を揚げて流連の大騒ぎをし、永倉などは酔いざましに一人の武士を斬ってしまい、後で土方に大目玉を食らったということになっている。ちなみにこのとき慌てず騒がず刀の手入れをしたのが、元武家の娘であるかしく女郎である、と子母沢寛は書いているのだが、これはかれの創作かもしれないとも言われているのも、また周知の事実だ。
 それにしても、女郎遊びなどさておいて、なにはともあれさっさと戦線の立て直しをしなければならないのではないか、とも思うのだが、ベトナム戦のことも考え合わせると、明日をも知れぬ敗軍で気持もすさみ、しかして懐だけは暖かい、というような状況のとき、兵隊というものはこんな風になるものなのだろうか。甲陽鎮撫隊といい、どうも新選組はあまり悠長すぎて負けたような気がしてならない。
 話を釜屋に戻すと、もちろん現在は存在せず、その場所はマンションになっていて、その前に説明版が立っている。これがこの品川宿で唯一「誠」とだんだら模様のついた説明版で、その「誠」の字は、土方の子孫の方が書いた字だと記されている。ここまで関わり進出しているというこのあたりにも、土方一族の新選組顕彰と土方歳三雪辱への、一種の執念のようなものを感じるところだ。
No.113


2004年5月24日(月) 拉致被害者子女
☆拉致被害者子女
 法的な解釈の問題はさておき、20年育って慣れ親しんだ環境からいきなり引き離されて、自己決定権などまるでないまま、まったく新たな境遇に放り込まれたという点では、かれらの両親の場合となにも変わらないだろう。両親だって、拉致された時は20代だったわけだから。
 ちょうど逆の因果がめぐっているわけで、このような星のもとに生きる人の運命というものを考える。
No.114


2004年5月29日(土) ボルボ定期点検、調布から流山まで
2004年5月29日

☆ボルボ定期点検
 定期点検に出していたボルボが上がってきたので、オート・ボルタの朝山さんのところへ取りに行く。エンジンオイルが汚れ、かつ少なかったとのことで、バルボリンのオイルに交換。どうやら、前に交換した時に、元々少なく入れていたらしい。これについては、なかなか専門のディーラーやガレージでなければわからない事情もあるようで、やむを得ない。ただこれはあくまで私の印象なのだが、バルボリンのオイルは元来アメ車用なのか、どうもエンジンの吹け上がりが重いのだ。BPのオイルに変えて、アクセルワークが軽くスムースになったと喜んでいたということも、正直なところ、じつはある。
 まあ少しなじませるしかないだろう。

☆調布から流山まで
「新選組!」再放送を見た後外出して、オート・ボルタで定期点検の終了したボルボを受け取り、試運転のつもりで、オート・ボルタのある調布を出発。志木を目指して北上するつもりである。
 志木というところは柳瀬川と新河岸川の合流点にあたり、またすぐ東北には荒川も流れている水運上の重要な中継地であり、また西埼玉の丘陵畑作地帯と東埼玉の流域稲作地帯とを結節する地点としても重要で、そうした意味からは、北関東にいくつかある「小江戸」のひとつであったわけで、ぜひ訪れてみたい場所だった。
 ところが大失敗で、どの道もどの道もみな二車線で狭く、右折車が出るたびに滞る。また悪名高い中央線の踏切をまず突破せねばならず、それを越えてもさらに東西にも南北にも西武電車の踏切があって、ますます渋滞に輪をかける。
 おかげでようやく志木にたどり着いたときには、もはや日暮れ。残念ではあるが、またの機会を待つこととする。いちどゆっくり歩いてみないといけない。それに小金井街道の途中には、なんだか小奇麗なイタリアンレストランもあるようだし。
 しかしながら、転んでもタダで起きるような人間の出来ではないので、気を取り直してさらに東へと進む。17号線つまり中仙道を越え、浦和の町も横切り、越谷で4号線つまり日光街道に出て春日部へとしばらく北上し、途中から東に折れて江戸川の左岸に渡り、野田へ向かう。
 もうお察しのとおり、官軍が大久保大和と内藤隼人の立篭もる流山へと向かったルートを、擬似体験しようというわけである。
 同乗の妻がこのことにいつ気づくかと期待していたのだが、「流山」の表示が出ても「結局流山へ出るのね」などとのんきなことしか言わない。これまでのフィールドワークによる教育の実が上がっていないことを示すわけで、なんともはや残念至極だ。
 夜にかかって交通量も減り、また松戸野田有料道路を通ったという事情もあったが、春日部〜流山の所用時間は30分弱。たとえ幕末の徒歩行軍であっても、さほどの時間もかからずに到着できたのではないか。
 背後の丘陵地から江戸川河畔の流山旧市街に降りて行くルートを走っていると、妻が突然、「近藤さん、早く逃げてくださーい」と言う。何を言っているのかと思うと、イラク戦争終末期、バグダッド・ホテル前で「アメリカ軍などいない」と大見得を切っていたサハフ情報相のことを思い出したとのこと。「サハフ、うしろうしろ!」というわけで、たしかに近藤軍は、「官軍などいない」と悠々としているうちに、あっという間に包囲されてしまったわけである。
 百三十余年後の世からこんなにも応援されるとは、近藤ももって瞑すべきかとも思った。
 そうして帰路は、そのまま江戸川沿いに松戸〜市川と下って、そこから東京へ戻った。
 現代の東京から見ると、春日部は東北線、流山(松戸)は常磐線、そして市川は総武線の沿線という風に、どうしても地理を放射状に考えてしまうから、各々がひどく遠く隔たって思えるのだが、こうして江戸川「沿岸」諸都市として捉えれば、三角形の二辺と一辺ではないが、じつは非常に近いのである。そして江戸時代のこれらの町々は、そのような関係性の上にあったということは言うまでもなく、だから官軍も春日部から流山へと、一気に殺到できたのだ。
 結局、イサミ君のふるさと調布と、最後の活躍の地である流山とを、ともに訪れたということになった一日だった。
No.115


2004年5月30日(日) シーサーズライブ情報
 この日記にもたまに登場し、またリンクもしている島唄ユニット、シーサーズ
の札幌ライブが決定したので、宣伝も兼ねてビラをアップした。ホームページからリンクしてある。
 前座は懲りない PIKI氏。本務校で要職に就かれているというのに、よく身体が持つものだと思う。

島唄ユニット・シーサーズ
6月27日 札幌ライブ情報

沖縄・奄美・小笠原の島唄から、ドコニモナイ・シマ唄まで。
唄はどこから来てどこへ行く?

シーサーズが歌い、マタハリ・ダンサーズが踊る!
札幌初のライブ

出演:
シーサーズ
持田明美(唄・三線)
宇野世志恵(唄・太鼓・三線)

マタハリ・ダンサーズ
鳴海宏基・針谷太一郎

前座/PIKIけんじ&はんせんタイガース
ゲスト/今井雅幸(元やぎら)

とき:
2004年6月27日(日曜日)
18時開場 19時開演

ところ:
Bar琉吉 電話011-219-2319
札幌市中央区南3条西1丁目セザールセンタービル3階

料金:
2500円(ワンドリンク・つまみ付)
前売り2000円(問合せ先:新月プロ singetsupro@hotmail.com)
No.116


2004年5月31日(月) 橋口夫妻、「新選組!」第二十一回
☆橋口夫妻
「報道ステーション」をちらりと見る。古館のセンス皆無のコメントはさておき。
 悲しみに笑みを絶やさぬ日本人、久しぶりに見た。夫人の年は50歳と出ていたが、私の世代帯域と共通。その上の世代とも下の世代とも違う、ある種の文化伝統(御一新後の公徳心)に根ざすモラル受け継ぎの世代だとの印象を、改めて強くした。
 他方、殉職した夫の方は、最後までビデオカメラを手にしたまま銃撃され焼死したようで、焼け焦げたその遺品も映っていた。「木口小平は死ぬまでラッパを口から放しませんでした」をすぐに想起した。この話、祖父からも親からも聞かされた。
 もっとも、こうしたことを、芥川は短篇「手巾」ですでに皮肉っているのだが。

☆新選組! 第二十一回
 鴨が手におえなくなってきているようだ。シナリオの中で、三谷幸喜のいうことを聞かずに暴れ始めているのではないか。優れた作品なら、ありがちのことだ。この後の展開は、新選組ファンならだれでも周知のことで、そのため沖田事件をはじめ、重苦しいドラマに終始した。
 内山彦次郎をあれだけ陰険な役どころ(相撲取を使嗾する)に当てていたのは、やや意外。子母澤寛によれば、なかなか気骨の士のようなのだが。また斉藤一の腹痛をあのような仕掛けとして使ったのも面白い工夫だ。
 だいたいこれはどの新選組サイトでも認めることのようだが、新選組のエピソードには「史実といわれる」ものが多いらしく、本人からの聞き書き口述といえどもはるか後年のものだったり、また複数の述作に食違いも多く、日時も場所も顛末もかなりあやふやなようなのだ。そのためドラマの上では、かなり自由にそれら逸話の断片を、伏線仕立で切り貼りできるわけで、だから視聴者としては、目くじらを立てるより、むしろそうした仕掛けを楽しんだ方がいいのだろう。

 他には、誠の旗の「誠」の字が、なびき方によっては試衛館の「試」に見える、というのは、確かな出典があるのか、それとも町人センスの土方に仮託した、三谷幸喜一流の慧眼なのか。
 舞の海は御愛嬌。親方の瑳川哲郎は懐かしい顔ではまり役。源さんは、実直さにプラスして、もう少し「田舎者のゆかしい上品さ」を出してもよかったかな。応仁の乱の後、地方に流れた室町風のゆかりを残す、とでもいった。

 そうそう、ようやくいまごろ気づいたのだが、「宇宙戦艦ヤマト」の乗員ユニフォームの袖と裾のデザインは、あれは新選組の羽織のダンダラ模様から来ているのだな。思えば、あれは「新選組とナチスドイツの戦い」なのだから。
 『宇宙戦艦ヤマト伝説』(安斎レオ編、フットワーク出版社、1999年7月)のインタビュー中でこのことを喝破している(「ヤマトは日本の侍とドイツ軍との戦いだからね」p.224)ささきいさお(テーマ曲歌唱および空間騎兵隊長斉藤始の声担当)が、今度のドラマでは新選組を見下す役どころというのもまた皮肉だが、三谷幸喜は、果たしてそこまで知っていてのことだろうか。
 だとしたら、ますます恐るべきだ。
No.117



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