++浅薄日記++


2004年3月の日記


2004年3月1日(月) 縄文時代の夢
 文鳥が一羽ずつ両腕の上に止まっていて寝かけているので、キーボードが打ちにくくてしょうがない。こいつら換羽しかけであちらこちらに羽毛を散らし、汚いことこの上ない。
 
 今朝の夢を書いておく。

 縄文時代なのだが、同時に現代でもある。稲城のところを流れている小さな川(三沢川)の岸辺。時間は夜。私は綺麗な砂地(トビムシがいっぱい跳ねている)から松の粗朶を集め、こんなところで風向きとか大丈夫かな、と思いながら、新聞紙とライター(!)で火を起こす。私と妻の結婚式なのだ。集まってくれている人はみな友人なのだが、誰の顔にも覚えがない。
 火を前に、友人たちとわれわれ夫妻と向かい合って祝う。火影に笑顔が映える。私は上半身裸のようだ。頭から水をかけてくれる。洗礼のつもりだろうか。

 夢解釈:
 稲城、三沢川は、通勤の途中で通るところ。いまは丘の上は多摩ニュータウンになってしまったが、小さな開析流域平野を形成していて、かつては果樹栽培で知られる。由緒ありげな神社もあり、いかにも縄文人の住みそうなところ。多摩から埼玉西部にかけての山麓は、みなこんなアルカディアだったろう。天然理心流もまたここが舞台。
 縄文の夫婦は、たぶんこの間描いてアップした「亀ヶ岡」の記憶だろう。

 解釈にもなにもなっていないな。
No.78


2004年3月4日(木) ボルボ手入れ
 今日は久しぶりに学校へ行った。
 溜まっていた用事を済ましていて、ふと窓の外を見ると、黄色いというか黄褐色というか、窒素酸化物的な色に空全体が染まっている。えらいことになっているものだ、と思いながら仕事に戻り、また外を見ると、ひどい雨だ。止むまで仕方がない、と思っていたら、小やみにはなったが、今度は雪が降ってきた。三月に入って、もう多摩でも梅が満開なのに、季節は逆戻りだ。
 その雪も少し晴れて、青空が見えかける頃に出発する。帰り道は、かつて近藤勇が出稽古に汗をかきかき歩いた道だ、と思いながら車を走らせる。
 しかし「新選組!」も、京都へ行ってしまってから後は悲惨なことばかり、どうやってドラマを進行させるのだろう、と、他人事ながら心配する。
 
 稲城まで出て、そこのタイヤ館に寄る。ボルボのオイルが大分使い古しになっているので、交換しようと思ったのだ。外車だけに、適合するものがあるか、恐る恐る聞いたら、調べてくれて、あるという。ELFのヨーロッパ車仕様、エスプリというオイル4リットル、ついでにボッシュのエレメントも交換してもらうことにして、店内を見ていると、ふとパンフレットに目が止まる。なんだか、画期的なヒューズだというのだ。電流を整え、ノイズを減らし、伝導効率を良くして、エンジンは静かになってしかも燃費もよくなるという。
 どうせヒューズは消耗品のうちだし、それほど高い買い物でもない。ついでにそれもできるかと聞くと、できるという。とりあえず3本ほど換えて効果を見ましょう、というので、それもやってもらった。リッツスーパーヒューズという製品だ。
 石神井のタイヤ館もよかったが、稲城のタイヤ館も使えそうだ。親切で、気が利いて、てきぱきやる。職人的訓練が行き届いている感じ。なにより、スーパーオートバックスみたいに、バイト女の子の官僚的カウンターサービスがないのがシンプルでいいし、かえってコストダウンでもあるだろう。やはり親会社がブリジストンだから安定雇用で安心して働けるのだろうか、とも思った。
 
 すっかり終わって、店を出る。たしかにエンジン振動が静かになり、トルクが太く、回転がスムースに上がるようになって、オートマチックミッションの切り替わりのショックも小さくなったように感じる。

 これで燃費も改善されていたらいいのだが。
 
No.79


2004年3月6日(土) 営団、電電公社
☆営団も、ついに4月から民営化されるそうで、ロゴその他一新されるらしい。すでに地下鉄の駅の標識も、旧ロゴの入った上貼りを剥がせばいいように準備されているようだ。
 新会社の名称は、東京地下鉄株式会社。
 戦時中、帝都高速度交通営団となるまで、「東京地下鉄道株式会社」があったから、なんとなくそれに戻った気もする。
 愛称は、東京メトロというそうだ。
 くだらない。
 今の制服も、昔のパリの警官風だし、営団の中にフランス好きがいるのだろう。新ロゴも、どことなくアールヌーボー風の「M」だ。
 まああの制服はサリン事件でけちがついているからゲン直しの変更もいいと思うが、それにしてもこうした変更コストは、バカにならないなどという範囲では収まりきらぬはずだ。
 なんで「サブウェイ─S」のまま、今のロゴじゃいけないのかね。
 だいたい、日本は、昔の優れたロゴや意匠を、まるで憎んでいるかのごとくに捨て去りすぎる。
 トヨタ然り、NTT然りだ。「トヨタ」の、あのスピード感溢れる美しい文字造形とそのメッセージ性を見よ。ワーゲンのロゴに遜色ない(しかもあれは全然変わっていない)。それに比して、いまのへんてこな輪模様はなんだ。「分かる人は分かってね」というデザイナーのひとりよがりではないか。
 電電公社の旧ロゴも、「テレフォン・アンド・テレグラム」で「世界を廻らす」、美しくかつ明快な造形表現だ。だいたい、見ていて心地よい。現今のNTTのロゴは、電話線のカールを象徴し、ネットワークを表現したそうだが、いまやネットとケータイの時代で、そのシンボルそのものが消え去りかけているではないか。どちらが通時性を持っていたかは、今となれば明白だ。
 営団のロゴも同様だ。「S」を図案化し、流麗でかつ鋭くスピード感もあり、他方では車輪すなわち鉄道のイメージも残して、どことなくロンドン地下鉄のマークも思わせる、うまいものだ。東京の地下鉄は、メトロよりははるかにサブウェイやアンダーグラウンドにその構想も似ているし、そもそもこうしたサインには万国共通性があっても、けっして不都合ではない。パリですら、郊外高速地下鉄(RER)のロゴははっきりとしてわかりやすい。それになにより、昔、相互乗り入れ区間で、あのマークをつけた電車が来ると、心が踊ったものだ。
 電電公社と営団のロゴが一見似ているのは面白いが、ああした優れたデザインを博物館入りさせてしまうというのは、いかにも日本人的だ。いまさらバブルの頃みたいに、CI戦略でもないだろうに。
No.80


2004年3月7日(日) メトロ雑考、江戸開府四百年
☆メトロ雑考
 地下鉄をなぜメトロと呼ぶかというと、パリのメトロポリタンからだろう。メトロポリタンは元来メトロ+ポリス「の」ということで、メトロとはギリシア語の「子宮」から派生して「母胎」「心髄」「中心」、ポリスは都市、だからメトロポリスで「首都、大都市」となるが、フランス語ではこれがメトロポール、その形容詞形メトロポリタンは「本国の、内地の」となる。
 http://bilhetes.no.sapo.pt/metropolitain.htm で調べると、もともとパリ地下鉄も、「パリ地下鉄会社(Compagnie du Métropolitain de Paris コンパニイ・デュ・メトロポリタン・ド・パリ)」として発足した歴史があるらしい。ここですでにメトロポリタンという言葉が出てくるので、つまり、このことばを当初から、パリ内部・心髄部、つまり「地下(鉄)」という意味の名詞として転用したのだろう。
 これがさらに縮約されて「メトロ」となり、東京地下鉄もこれを踏襲するというわけだ。
 じゃあ、「東京ウーバーン」で、なんでいけないんだ。クルト・ワイルみたいでいいじゃないか。
 アンダーグラウンドもサブウェイも、ウーバーンも然り、どこか日陰の裏道的なイメージが附随して、いやだというわけかもね。
「東京心髄」がいいということだ。
 それとも、だれかフランス崇拝派がいるんだな。

☆江戸開府四百年
 メトロ繋がりで連想かつ思い出したが、去年は、うちの近くの商店街にまで「江戸開府四百年」の幟がかかっていた。
 だいたい、代々幡村は、江戸ではないぞ。なにを勘違いしているのだろうと思う。
 このあたりは、百姓地、入会地、村が点在する中に、広大な大名の下屋敷が広がっていたところで、言ってみれば、パリ郊外のヴェルサイユとかサン・ジェルマン・アン・レーとかみたいに、王侯貴族のシャトーが点在していたのと、なんの変わりもない。そこでお大名たちは鷹狩だのを楽しんだので、それだから「目黒の秋刀魚」みたいな落語も成立の余地がある。
 明治神宮や代々木公園は井伊の下屋敷、松涛のあたりは鍋島の下屋敷だ。
 これはみんな、独歩の「武蔵野」よりも遥か昔の話だ。だからいかにも自然主義謳歌の独歩の筆に表現される武蔵野には、それよりももっと以前の姿があるのだ。
 江戸と明治には、こんなところをとっても、大きな断絶がある。というより、われわれは江戸以前の都市以外の日本の姿について、まだ知らなさ過ぎるという方が正確だろう。
 しかしまあ、譲歩すれば、徳川天下一統後、全国のお大名が入府して、江戸の回りに下屋敷の領地を戴いたのだろうから、その意味からすれば、代々幡村でも、江戸開府四百年を記念してもいいのかもしれない。




No.81


2004年3月10日(水) 『般若心経の新世界』読了
☆宮坂宥洪師の『般若心経の新世界─インド仏教実践論の基調』(人文書院、1994)読了。もっと早く読んでいれば、とも思うが、ここは「機縁」と考えよう。
 さて、かなりぴったり来た。とはいえ祖述するというところまではいまだ咀嚼できていないので、そんな大それたことは控えるが、浅薄の謗りを恐れずに、しかも今風のことばで言えば、般若心経とはまさに「悟りのキモ」という意味で、もう少し詳しく言うならば、「悟りに通じるキモであるマントラおよびそのマントラによって達成されていく悟りの段階を示したスートラ」ということであり、その主眼はもちろんマントラそのもの、そしてそれを唱える実践にあるわけだ。
 このマントラとは、もちろん、「掲諦、掲諦、波羅掲諦、波羅僧掲諦、菩提、薩婆訶」のことだ。
 マントラを唱えることに大いなる意味と力を見出す。いやマントラを唱えることで、自分が意味になり、力になっていく。「ひとはことばになり、ことばはひとになる」。
 そう考えると、マントラとは、フィンドホーンの創始者アイリーン・キャディが言うところの「アファーメーション」そのものだ。
 逆にも言えよう。アファーメーションはマントラだ。
 ことばの力だ。祈りの力だ。祈りの力に覚醒し、驚喜し、確信するわけだ。それが戻ってきてまた自分となるわけだ。
No.82


2004年3月11日(木) 越生梅見、近藤と土方
☆越生梅林に梅を見に行く。
 もうかれこれ20年以上になるだろうか。
 たいがい着くのは夕方なので、梅林の賑やかな騒ぎには縁がない。その代わり、高い臨時駐車料金に悩む必要もない。
 こちらは梅林からさらに少々奥に入ったところにある、最勝寺という古刹の梅を毎年見るのだ。この寺も鎌倉時代創建というが、すっかり寂れてむしろいい感じを出していたが、最近はここもしだいに隆盛となって、梅の木の数も増え、庫裏などもなにやら立派になった。向かいにあった工場もすっかり取り払われてなくなっており、その内ここも寺の敷地となるのではないかと思われる。
 だいたい日本人は、年年歳歳、花見に狂奔し始めているように思う。至る所桜の木を植え、梅の木を植え、それはそれで結構だが、今度は猫も杓子もといった按配になるのだ。しかもどこか「これでまちづくり……」風のさもしさが見えるというのは、単にこちらの僻目だろうか。
 越生も例外ではなく、梅林以外に、新たに植えた梅の木がほんとうに多くなった。しかもひなびた山里だったのが、いまや人口も増え、小洒落た住宅も建ったりして、鶴ヶ島や毛呂山の延長のベッドタウンになりつつあるようだ。町を見下ろす山腹には、「プラムタウン(だったか?)」とか称する別荘建売地まで開かれかけている。驚くべきことだ。
 例のブランドリュック、丸帽子のジイバアともすれ違う。なんであの人たちは、ああ怒ったような顔をして歩くのだろう。まるで自分たちだけがその地の良さを理解している良識派で、他の人間はすべてそれを乱す悪人どもだとでもいわんばかり。
 まだ日があるので、明るいうちに、もう少し小川町寄りの山の上にある、坂東札所のやはり古刹である慈光寺に寄る。これも恒例だ。今日はもう行けないかと思っていたら、結局引き寄せられたような気もする。ずっと以前、ここのお堂の一つに祭られている修験道の神、蔵王権現のお像を見せてもらったことがあったが、そのすぐ直後、浮浪者の煙草の不始末で灰燼に帰してしまったことを思い出した。
 それから小川町に出て、そこの「忠七めし」(ここは山岡鉄舟ゆかりの店)か「女郎うなぎ」(江戸の女郎が伝えた味という)に寄ろうかと思っていたのだが、気が変わって、白石峠を越えて秩父に降り、さらに雁坂峠を越えて塩山に出ることとした。どうせ渋滞に巻き込まれるのだし、すこし時間を稼いで空いてから東京に戻ればよい。
 勝沼インターから中央道に入り、談合坂サービスエリアで夕食。新選組キャンペーンを打っていて驚く。高井戸から甲府までの間のSA、PAが、それぞれ趣向を凝らしているらしい。売店には新選組グッズのコーナーが特設され、壬生浪士にちなんで京都の名産や菓子なども置かれていた。レストランでも特別メニューがあり、私は「誠御膳」というセットを食べた。
 それでも新発見があり、甲陽鎮撫隊として甲府に向かう途中、新選組は犬目宿に泊まっていたことを知った。それにしても、そんなに悠々と泊まりを重ねて行っていれば、官軍との甲府入城競争に負けるのは、初めから判り切ったようなものだと思うのに。
 もう一つ用事があって、石川PAにも寄る。ここは日野、高幡不動の近く。そのためか、ここのグッズは、専ら土方に偏る。郷土自慢なのだろうか。可笑しなものだ。
 そういえば、今年の大河ドラマに合わせたイベント実施に際しても、日野(土方郷里)と調布(近藤出身地)は、それぞれの思惑から主導権争いをして、結局は別々にやることになったと聞く。市町村合併が叫ばれる時代だというのに、いまさらそんなつばぜり合いを、しかも同じ新選組の仲間内でしているとは、恐れ入る。
 いっそこのさい、甲州街道沿い、みないちどきにやれば、コストも安く、規模もずっと大きく、共存共栄でやれただろうに。
 ぜんたい、御一新後、何年経ったというのだ。いまだにそんな狭量な地域意識だとしたら、薩長土肥に負けたのも当然だと言われても、とうてい反論はできないぞ。
No.83


2004年3月12日(金) 腐女子(?)サイト?
 ここしばらく、新選組が面白くなっているので、子母澤寛の新選組三部作を全部読んでしまった。やっぱり多摩繋がりとか、ジェントリー階級を形成しきれなかった幕末郷士・豪農・豪商といった観点で見るのが面白い。土佐勤皇党もそんなものだろう。同じことを夢見ながら正反対に行ってしまった人びとだ。しかし結局、どちらも没落だ。民族社会全体主義が早く来すぎたのだ。
 ところで、「新選組!」とか出演俳優とかでグーグリングすると、男子禁制の「腐女子」サイト(こんな用語を初めて知った、センスあるなあ)が星の数ほど出てきて、山本歳三とか、堺敬助とかについて、熱く語っているのだ。それがまた、鋭く、光っていて、知識も愛情も皮肉もあり、結構冷静なところもあって、文章も面白いのだ。
No.84


2004年3月14日(日) 「新選組!」第十回
 京都へ行きたい沖田が月代を剃って近藤にアピールする。永倉が「京都で沖田の剣がどのくらいの働きをするかを見たい」と言うと、山南も「私も沖田君の剣がかならず役に立つときがあると思います」と言う。
 これは当然、山南の最期を暗示していることは、“腐女子”ならずとも直ちにわかるだろう。なぜなら、脱走した山南を大津の宿から連れ帰り、切腹の際に介錯を勤めるのは、ほかならぬ沖田だからだ。
 三谷幸喜も人が悪い。

☆picturesのMen at Armsのコーナーに、「ギリシア戦士、紀元前6世紀」をアップ。このコーナーの更新は、ほんとうに久しぶり。「宇宙戦艦ヤマト」のままで途絶えていたのは格好悪かったな。今度は本格だ。
 しかしペインターの機能など、使いこなせるものか。フローターだってマスクだって、使ったためしがない、というのはひどいと、我ながら思う。単に絵を描くように描いている、それだけ。
 それでも面白い。
No.85


2004年3月20日(土) 「土方歳三義豊」
 日記が途切れたのは、何も題材がないのと、天候の所為もあって精神的ダメージはなはだしき故。
「苦しめ。苦しみは不幸ではない」
「苦しむ自分を肯定せよ」
 こんなことばを感得する。
 好きなことを好きな風にしよう、と思う。

 それでというわけでもないが、函館撮影の土方の写真を見ているうちに、頭の中に絵のイメージが浮かんだ。
 それで描いたのが、今回の pictures の Men at Arms の中にアップした、「土方歳三義豊」だ。
 世に新選組愛好サイトは多いが、その末席の末席を汚すこととなろうとは思わなかった。
 だいたいは土方のあの有名な写真をもとにして、それ以外にも、リボルバー拳銃や、刀の下げ緒などについて調べることも、同時に楽しみながら描いた。こういうとき、ネットはまことに便利なものだ。お蔭で、拳銃は正確に描けた。下げ緒の方はわからない。函館の土方は洋装だから、刀もサーベル風に吊り下げさせたのだ。
 ポーズはどこかナポレオン風、しかしイメージとしては、映画「グローリー」の、マシュー・ブロデリック扮する若き北軍指揮官だ。これが突撃の前に記者会見をしたりして、なかなかよいのだ。最後は斃れてしまうのだが。だからなおさら土方イメージだ。
 絵にはまだ不満があるが、まあアップする。足が太すぎて前に出すぎて見えたり、手が短かったり。要するにデッサンとバランスが狂っているのだが、人間の目というのは必ずしもデッサンで見ているわけでもないので、つまり見たいところを強調して見るので、これでいいかとも思う。
「こりゃ違う!」と怒る人が多いことは、賢治の場合と同様だろう。とくに新選組は思い入れがあるだろうから。
No.86


2004年3月21日(日) 高幡不動、中華街
 昼から気が向いて、多摩と新選組のフィールドワークに乗り出す。

 まずは土方探索ということで、高幡不動からはじめる。
 小田急、井の頭、京王と乗り継いで、やっと高幡不動到着。多摩川の段丘崖、湧水のあるところに作られた、恐らく縄文期にまで遡る、古くからの宗教的聖地だと思う。今も参詣者多く、護摩供養を行い、一味違う霊地の雰囲気を持っている。
 もちろん今年は「新選組!」タイアップで、それでなくとも土方ファンは多いので、駅前から参道は、ここを先途とばかりに「誠」の幟をたなびかせているし、新選組グッズを売りまくっている。
 駅前の観光案内所でパンフレットを貰い、まず参詣。日曜日ということもあってか、古物の市が立って賑やか。門前の「開運蕎麦」で遅い昼食。それから歩いて万願寺というところに設けられた「新選組フェスタin日野」の会場へ。大河ドラマ館、「土方と写真」コーナー、土方資料館、グッズや食べ物売店、それからどういうわけかリトルホース触れ合い広場など(よく慣れた、人の腰ぐらいの高さの小さな馬。盲導馬、介護馬として役に立っているらしい)。大河ドラマ館を見ている間に、特設舞台でやっていた天然理心流演武が終わってしまい残念。
 とにかく日野は何から何まで土方、土方、土方一色。どこに行っても、あの肖像写真から逃れられない。きっとこれで調布へ行ったら、今度は近藤、近藤、近藤なのだろう。
 しかしこれだけ持ち上げられ、地元をも潤して、新選組も以って瞑すべきだろう。
 その後は、多摩モノレールに乗って南下。多摩センターで京王線に乗り換え、橋本から横浜線で新横浜、地下鉄で横浜、さらに長い乗り換え道を通って、みなとみらい線で中華街に出た。これはじつは、多摩から横浜へ通じていた、生糸生産輸出の、幕末「きぬのみち」を辿ったわけだ。
 中華街で食事の後、東横線直通で中目黒まで行き、それからタクシーで帰宅。

 ちょっとした小旅行となったが、収穫も多かった。
 今度は調布遠征かな……。
No.87


2004年3月24日(水) 魚釣島、擬似科学
★尖閣諸島魚釣島に中国人活動家上陸
 どうせなら共同所有、共同開発にして共栄を図ればいいのに、と思うが。
 しかし新選組イベントを考えても、最後まで同志だった近藤と土方のそれぞれの郷里である調布と日野が、結局共同開催できずに、それぞれでまったく同じような企画をやっているというこの現状を見れば、いったん金儲けが絡めば同じ多摩の近隣でさえ仲良くできないのだから、日中協力など夢のまた夢だろうということは、火を見るより明らかだ。

★擬似科学
 トンデモ商品や不思議グッズが沢山売れる。みな科学的用語を使い、その効能の信頼性を謳っている。
 これらは「擬似科学」と、一般に呼ばれる。
 実際、その通りなのだろう。効き目もたぶん、プラシーボ効果に近いのだろう。「鰯の頭も信心から」「病は気から」というやつだ。

 ところで科学者が擬似科学を眼の敵にするという心理は、ちょうど麻原が磔刑になっている絵を見たキリスト教徒の心持ちに近いのではないかなあ。
「装いだけパクりやがったインチキ野郎め」
と思うわけだ。
 だから、これを逆に考えれば、科学もまた belief,creed だということだ。
 科学だって one of them に過ぎない。
 科学ではない「世界の感得のしかた」もあるわけで、ただしわれわれはもはや「科学教」に洗脳・改宗させられて久しいから、科学の scheme と term が ex cathedra 的権威を持っていてそれに頼るしかないので、科学教の inquisitor にすぐさまつけ込まれ、厳しくやられてしまう、ということだ。
No.88



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