++浅薄日記++


2004年2月の日記


2004年2月6日(金) ゲストブック、更新記録復活
 また性懲りも無く、ゲストブックと更新記録を復活させた。
 試験の採点も終わり、少々コンピュータをいじりたくなったのだ。
 精神安定にもなるし。
No.60

国士  2004/02/06/04:25:46   No.61
毎日苦労が多いね。


kinu  2004/02/06/04:33:09   No.62
明日も一苦労だゾ。



2004年2月6日(金) 陸自派遣、ゲストブック作成、更新記録分離
☆陸自派遣
 どこの国の飛行機で装備が輸送されているか、御存知か。
 ロシアのです。あれだけの装備はアントノフでなければ運べない。それでチャーターしたのです。
 日本の軍隊の装備を、ロシアの飛行機で運ぶ。冷戦時代なら考えられないことだ。トム・クランシーの世界を目の当たりにしている思いだ。

☆ゲストブック作成
 性懲りも無く作りたくなった。どうしても何か書き込んでほしいのだ。反応が無いのはつまらない。「性懲りも無く苗床を拵えてもらったりしています。結局山だちは山で果てるというものでしょうか」……賢治の書簡だ。でも賢治は山だちではないぞ。どうしても、自分でそう思いたかったのだろうな。ゲストブックそのものは、また Mrs.Shiromuku の CGI をダウンロードさせてもらった。アイコンにもシルクロードにちなみ、一工夫凝らしてある。
http://www.t-okada.com/cgi/

☆更新記録分離
 これもまた性懲りも無く作った。純然たる記録としてのみ残すつもり。したがって更新内容の詳細は、日記や作品そのもののページで述べる。
 こちらの CGI は、CGI-LAND というサイトのものをダウンロードした。シンプルで見端が綺麗だが、設置が意外と曲者だった。
http://happy.honesto.net/cgi/download/privatebbs.html

 それぞれの作者で、説明方法が異なっているので、というのはそれぞれの作者が CGI を理解するに至った筋道が違うので、異なるのだ。また、懇切丁寧な作者もいれば、ある一定の理解水準に達した人が使ってくれればいい、という立場の作者もいる。
 それにしても、こうしたサイトは数多い。こちらも「素材屋」くらいにはなってみようかな。

 ということで、ひとつにまとめていた「書き込み処」を、またもや分離した顛末だった。
No.63


2004年2月8日(日) 陸自到着、新作アップ
☆陸自サマワ到着
 なんとのう力が入る。いかんいかん、こういう気分が危ないのだな、とあらためて思う。過ぎし日清日露、さらにはシベリア出兵くらいまでの日本人も感じたであろうこの気分を、「歴史を知る」という意味合いから、確実に経験だけはしておいて、それでこれに取り込まれることのないように、意識して距離感を保っておかねばならないだろう。でなければ、同じことの繰り返しだ。

☆新作アップ
 pictures の「歴史絵」コーナーに、「亀ヶ丘」アップ。亀ヶ丘は、平凡社世界大百科事典によると、
「青森県西津軽郡木造町亀ヶ岡,潅風山から東につきでた標高20mの丘陵を中心としてその両側の標高5〜7mの低湿地におよぶ縄文時代晩期の大遺跡。この遺跡から〈奇代之焼物〉が出土することは江戸時代初期から知られており,〈瓶ヶ岡(かめがおか)〉と呼ばれるようになったという。」
とあり、縄文中期遺跡である三内丸山よりも遥かに早くから有名な場所だ。とはいえ、三内丸山も、戦前から、昔のものが出るということは知られていた。
 それはともかく、木造町は、例の遮光器土偶をまちづくりに利用しまくっているのは、旅行に行ったりネット検索をしたりすればすぐにわかる。マア縄文人にフィーは払う必要がないからね。あの遮光器土偶は一時期は宇宙人にされ、また10年ほど前には、これも有名な偽書『東日流(つがる)外三郡志』の中で「アラハバキ神」として利用されたし、迷惑なことではあったろう。
 史前の古代、とくに縄文というのはいちばん想像力が羽ばたけるところではあるが、同時になんだかルサンチマンの投影場所となりやすいのは、
「縄文人は弥生人にエリミネイトされて、その末裔はキコリやマタギや木地師やサンカなどの山人や門付けの漂泊民に零落した」
「ヤマトや京都の朝廷に虐げられた東国の文化には縄文的なものが残る」
「アテルイ、将門、安部、清原、藤原……シャクシャイン、コシャマイン、そして戊辰の戦役において官軍に虐げられし日高見の叛乱者の系譜」
「松平容保と白虎隊」
みたいなものがうんとあって、しかもそれが網野中世史観や文化多元主義とダイレクトに結びついて、その結果、「もののけ姫」みたいに、近現代欧米工業化モダニズムの招来した環境破壊に対するアンチテーゼとしての自然調和型先住民文化称揚イデオロギーになってしまうからだ。
 実は賢治ブームというのもそれと密接に関係していて、賢治だの東北だの沖縄だのとほざくエコロジストは結局、清浄大好き弥栄(いやさか)エコナチになってしまうというのは、大正デモクラシーとそれが辿った末路と、何ら変わりのない図式だ。
 話は戻って、縄文は、そんな神代アルカディアとしての役割を担わされて、じつに迷惑な話だ。
 屋久島も、奄美も、ウチナーも、みんなみんなそんなコンテクストの中に置かれて利用されていることに気づかねばならない。みんな、歴史や賢治を、憂さの捨て所にしているだけだ。
 大事なのは、批判だの非難だのルサンチマンだのを離れて、心持ち豊かに過ごすことだ。
 とんでもない方に話が脱線したが、今回の絵は、縄文晩期、亀ヶ岡のある日をイメージしたものだ。
 初夏の朝か夕べ、どちらでもいい、狩に行くか帰って来たかの若い夫と、その妻が家の横で話をしている、のどかな光景。夫の槍の穂先は和田峠の黒曜石、柄は赤漆塗りだ。妻は耳に赤漆塗りの耳飾をつけ、頚筋には糸魚川の翡翠を連ねた首飾りが掛っている。背後にはなだらかな里山、その手前には貝塚が盛り上がり、蕎麦畑や果樹が見えている。
 そんな感じだ。
 高度成長直前まで、どこにでもあった風景。
 でもやっぱりアルカディアか。

 ちなみに、絵の中に利用した亀ヶ岡式土器の写真は、「徹底歴史研究同盟」というサイトから引用した。使用させてもらったのであれこれ言いたくないが、一般的に、ネットには「淫している」サイトが多いなあ。リフレクションがないのだな。

 そんな点で、すごく面白いサイトに行き当たった。真言宗の若いお坊さんのサイトだが、ここの「北斗の拳」研究はすごい。宗教、ユング心理学を援用して「北斗の拳」の無意識的神話構造を解明している。それでいて、ちっともペダンティックではない、というのは、つまりリフレクションがあるからだ、と私は感じるのだ。
http://www.interq.or.jp/dragon/kangethu/
(ところがこのサイトは上の「徹底歴史研究同盟」にリンクしているし、「徹底歴師研究同盟」の管理者も「北斗の拳」マニアなのだそうだ。困りましたねえ。)
No.64


2004年2月11日(水) 結婚式列席、大鵬親方
 結婚式に列席した。
 私がいつもお世話になっている、鍼の先生のお嬢さんの結婚式だった。
 式はチャペルでカトリック式に行なったが、パンフレットにあった「恋愛でも見合いでも、神が引き合わせたものと考えるのです」ということばを見ていて、なぜだか涙が流れそうになった。一瞬の感動というか。なにとはなくありがたい、という気がして、チャペル全体に神の力がはたらいていてありがたいな、と思ったのだ。これをし、「気が弱くなった」と片づけるのだろうか。スピリチュアルに傾かないでおこう、と思う際は、そうなのだろうな。
 ともかく、結婚式で涙を流すとは思わなかった。
 披露宴はなごやか。「新郎の会社の同僚」とか「新婦の学校時代の友人」とかの、例によって例の如くの騒ぎがなかったのできわめて良かった。
 特筆すべきは、大鵬親方だ。
 先生が角界の治療に携わっておられるので、大鵬親方が列席しているのだ。
 大鵬といえば、「大鵬、長嶋、玉子焼」のあの大鵬ですぞ。
 あの日本一の大横綱大鵬さんが、私と同テーブル、正面に座っておられるのだ。
 お話をしました。日本の文化力の衰退について歎いておられた。
 話をしていただけて光栄です。一生のうち、もうないでしょう。

 人生凸凹だ。涙も出れば、大鵬さんにも会える。
 いつになったら、なにごとにも、「ありがたい」という心持ちに辿りつけるのだろうな。
 
 先生、お嬢さん、おめでとうございます。
 
No.65


2004年2月13日(金) 妻の見た夢
 妻が、見た夢の話をした。
 去年の秋に見て、その時にも話したというのだが、もう忘れていた。なにかのきっかけで、この話になったのだ。
 こんな内容だ。
 妻が女子大時代の同級生を追って歩いていくと、知らないマンションの植え込みのところに出る。その植え込みに、片方の目がつぶれているホームレスの老人が寝ていて、その人が見てくる。同級生もその植え込みに寝る……。
 ここで目が覚めたらしい。
「隻眼の放浪者といえば、オーディンじゃないか、えらい夢を見たもんだ」
と言ったが、どうもそれだけではないような気がして考えた。
 そこで、「目一つの神」を思い出した。ふいご、たたら、雷、風、火、製鉄の神格。オーディンとも合致する日本の神様。でもなかなか絞り込めない。
 もうひとつのキーポイントは、妻の同級生だ。その人の苗字が気になった。
 それでグーグルで調べてみた。見事に引っ掛かったではないか。三重県の多度神社。天の一目箇神を祭っていて、その人の苗字と関連する。
 創建は奈良時代以前に遡り、江戸時代には、お伊勢参りをしたら、多度神社にも参らないと片参りになる、といわれたほどの隆盛を誇ったという。
 しかし本来ならば、日本史や日本神話や日本民俗学の知識が少しでもあれば、この夢は「目一つ⇔苗字」と、5秒で解けたはずなのだ。
 こちらは西欧派なもので、まず連想が「オーディン」と来てしまった。二段階か三段階、余計な回り道をしたわけだ。
 ちなみに、マンションの植え込みは、神社の杜の象徴だろう。
 思えば、去年の秋ごろ、妻と伊勢神宮に行ったので、きっと多度神社の神様が、「こちらにも来なさい」と呼んだのだろう。ただし、夢なもので、イメージとヒントで。
 夢解きに半年もかかってしまった。「トロい奴だ」と神様は苦笑いしているだろうな。
 かならず参ります。 
No.66


2004年2月14日(土) 海自、雁の童子その他
☆今読んでいる本から
 加藤完治は、フィンドホーンに近いな、作物に対する態度として。

☆海自出発
 「軍艦マーチ」で出航するのはマアいいとして、ニュース画面からは、たしか「宇宙戦艦ヤマト」も流れていたぞ。しかしネイビーは気楽だな。
 途中でガミラスにやられなければいいのだが。

☆新作アップ
 pictures の、一般絵のコーナーに、「雁の童子」をアップした。
 もちろん賢治の「西域三部作」の一だ。
 イギリスのスタインが西域南道ミーラーンの廃寺で発掘したヘレニズム風の天人、天童子、供養者などの群像の壁画を、かれの報告書で見てその魅力に取り憑かれた賢治は、まず断片「みあげた。」で「私の天の子どもらよ出てこい」と呼びかけ、幻夢譚「インドラの網」では「私が発掘した」と宣言し、童話「雁の童子」に至ると、とうとう天童子の方から「私はあなたの子です」と呼びかけさせるまでに入れ込んでいる。
 その「雁の童子」の、最後の場面をイメージして描いた。まず構図のビジョンを心の中に得てから、2日で仕上げた。オアシスの外れの砂山、遠くの雪山、発掘現場に集まる人びと、しきりに説明する学者。そこに見物にやってくる須利耶圭と雁の童子……。あとのストーリー展開は一気呵成だ。「この天童子は、なんだかお前に似ているよ」と須利耶圭が言うと、雁の童子は「天のおじいさんがお迎えをよこしたのです」と答えて倒れかかる。じつは発掘された壁画の天童子は、前世において須利耶圭が描いた雁の童子の姿であり、それを打ち明けた雁の童子は天に帰っていくのである。ここで描いた絵は、その直前の光景だ。
 ちなみに、賢治作品成立過程に関する精緻な考証とはまったく別に、好悪のみで言うならば、私は十字屋版の「雁の童子」がいちばんぴったりくる。童子の天の恋も、恋人と隠れたりする話も、なにもない、まったくシンプルなクライマックスだから。十字屋版の編集が最高だなという作品は、他にもたくさんある。
 なお、絵について蛇足を付け加えるなら、雁の童子と須利耶圭の帽子はキルギス風、後ろの群衆は描いているうちにモンゴル風になってしまった。須利耶圭の剣はアラブ風で、マントはアフガン風、全体のイメージとしてはカルザイだ。雁の童子は「外道」の塾に通っているということなので、思いきって宣教師かなにかが開設している西欧式の学校という設定にして、服もオーバーを着せて革靴を履かせてみた。要はゴチャマゼということだ。
 そしてこの廃寺を発掘して、いましも見物人に説明しているのは、日本の学士で、地質学や考古学の専門家、青木晃ということにした。もちろんこれは、賢治へのささやかなオマージュだ。
 それから、ミーラーン壁画のミニチュア模写は、とても面白かった。
 こんな「雁の童子」のイラスト、他に描いている人がいるだろうか。
No.67


2004年2月15日(日) またもピキ氏の夢・吉野家
 またピキ氏が夢に出てきた。
 起毛してわりと上等に見える、ベージュ色の長袖のTシャツを広げて、「私の作ったTシャツです」と言う。左胸のところに、なにかシンボルらしい模様が、プリントではなく織り出しで入っている。それを指で示しながら、「これはP(ピキ)、つぎは@(アットマーク)、それからこれが「人」(字がさかさまになっている)です」という。つまり、「P@人」というロゴなのだろう。
「これを企画して販売するのです」と言う。まったく、どこまでも発展する人だ、とつくづく感心し、同時に、とても追いつけないな、と羨ましくも思う。

夢解釈:
 どうも、ピキ氏は私の夢の中では、ベージュ色とか卵色につながりがあるらしい。先だって、旅行会社を作っていたときも、たしかネームタグが卵色だった。

☆吉野家3000億円売上
 瞬間風速。御一新後百三十余年、日本人の味は、結局牛丼か。といえば怒られそうだな、あの味付けは奥が深いというのだろう。私が大学生の頃は、黒胡椒で匂いを消して食べたものだが。

No.68


2004年2月15日(日) 新選組第六回
☆NHK大河『新選組!』第六回。
 ヒュースケンが、自分のマントを羽織った土方歳三に「よくお似合いです」と言う場面。
 あれはつまり、土方の運命を暗示しているわけだ。土方は函館で戦死する直前、マントを羽織り、フランス式軍装で写真を撮っている(これが土方のイメージを決定づけていることは周知の通りで、五稜郭のミスター土方祭りは、必ずあの格好で登場する)。また、マントはつねに「死」のメタファーでもある。
 つまりヒュースケンは、死人が狂言回しとして登場したようなもので(わざわざ「今は助かったが、私はいずれ斬られる」と予言めいたセリフを言う)、いわば土方の死に様を予告する役回りとして、三谷幸喜が出したというわけだ。
 実は私にこのシーンの意味がなぜわかったかというと(「やっぱり猫が好き」以来の三谷ファンである妻はわからなかった)、アベル・ガンスの名作「ナポレオン」を思い出したからだ。
「ナポレオン」では、幼年学校においてコルシカ人ということで差別されいじめられる少年ナポレオンが、自分が可愛がっていた鷲(これがもう皇帝のメタファーで、子供が鷲を飼うという設定がもはや凄まじい)を逃がされて泣き崩れる。その背中に、同情した賄い頭がそっとマントを着せかける、蝋燭に照らされたそのシルエットが壁に大きく映ると、それは皇帝ナポレオンなのだ。そしてそこに鷲が戻ってくる。
 異国の貧乏貴族から身を立て、フランス皇帝にまで出世するナポレオンの一生を一瞬にして暗示(明示?)するこのシーンは、土方とは逆だが、作劇法としては同一だ。
 私はかつてNHKホールで「ナポレオン」が上映されたとき、このシーンのところで、映画を観て初めて滂沱と涙を流したことを覚えている。
 だからこの土方とヒュースケンのシーンで、ぴんと来たのだ。ははあ、これは三谷幸喜の、アベル・ガンスの本歌取り、オマージュだな、と。
 三谷幸喜、いまさら言うのもきっとなんなのだろうが、ただ者ではないぞ。

 ところで、新選組を取り上げたサイトにも、たいがいと思うようなものがいくつかあって面白い。たとえば、「新選組はテロ集団だ、NHKは不見識の骨頂だ、9.11被害者が見たらなんと思うだろう」とか、「あれは新選組漫画執筆25年のプロである私から見たら、ただの絵のうまい同人誌作品、要するにプロのものではない」とか。
 要するに、新選組は、賢治と同じで、宗教的崇拝の対象なのだ。みな、自分の見たい新選組しか見ないのだ。それでもって、他人が表現したり解釈したりした新選組のことは反発し拒否する。するとこんどは、そうした崇拝対象あるいは崇拝現象を断固打倒粉砕せねば気が済まないやからも現われて……とどのつまりは、宗教戦争だ。
 だいたい、近藤勇と坂本竜馬が知り合いだなんて荒唐無稽を、だれが信じるというのだ。そんなこと承知の上で観ているのではないか。2ちゃんねる風に言えば、「ネタ」だ。少年ナポレオンが鷲を飼っているのと同じだ。鞍馬天狗をごろうじろ。
 史実は史実、ドラマはドラマだ。それより荒唐無稽を、どんどん引っ張って面白く見せてしまう三谷幸喜のドラマトゥルギーこそ大したものだ。俳優は手の内に入っていてうまく動いているし、大河ドラマなどというものを、久しぶりに面白く観ている。要は、早坂暁の「天下御免」や、それへのオマージュと思しき三谷幸喜自身の「竜馬におまかせ!」と同様に見ておけばいいのだ。
 ただし、ナショナリスティックなメッセージをずいぶん語っているなとは、たしかに思う。
 こんなに大っぴらに盛り込めるようになったとは、やはり時代ということなのだろうな。
 
 
No.69


2004年2月16日(月) 表紙修正、「賢治圏」設置、オレオレ詐欺
☆表紙デザイン修正。賢治荷札を去った。
 それから、 writings と pictures に分散している賢治関連作品を一挙にリンクできるように、「賢治圏」(ケンジ・スフィア)というページを新たに作った。表紙のバナーから行ける。このバナーは、賢治が東北砕石工場から出荷する石灰岩抹袋につけるようにデザインした荷札だ。こちらで生かした。
 この「賢治圏」を以って、宮澤賢治ウェブリングに参加しようとの目論み。しかし向うが受け入れてくれるかどうかは ? だ。
 なお従来のコーナーから賢治作品に行くのは、通常どおり。だから「賢治圏」から賢治関連作品にリンクして、「賢治圏」ページに戻るときは、ブラウザのバックボタンで戻っていただく。

☆オレオレ詐欺
キタ━━━(゜∀゜)━━━!!
母と居間にいるときだ。
 電話が鳴ったので、出る。
「こちら、千葉県警ですが、●●●●様の御宅ですか」と父の名を言う。背後ではいかにも事務室らしい音。
「●●様の車が追突事故を起こされて、相手の方が意識不明の重態になり、病院に運ばれました」
★もうこれで、出会い頭に3つショックを与えてこちらを受け身にさせる手口だということはわかりますね。1.警察 2.肉親の事故 3.おまけにこちらが加害者
「父は運転しませんが……」と言うこちらを「はあ?」と聞こえぬふりをして(ここらへん、電話で売り込みをする営業マンの手口と同一のテク)、「ともかく病院に向かわれました、それで、いま相手と示談の話が進行中で……」とたたみかける。
★警察は、示談など民事には介入しません。
 もうここらへんで、オレオレ詐欺だとほぼ確信。とはいえ一抹の不安を抱かせるのが詐欺の詐欺たる所以。だが心配なら、要はこちらから千葉県警に電話を掛け直して確認すればいいだけの話だ。そうしようと心を決めて、
「わかりました。ところで本当ですか? オレオレ詐欺じゃないでしょうね?」
というと、ただちに電話は切れた。
 ほんとうの警察なら、そう言われれば、そうでないことを証明するための手立てを教えるはずだ。
 これで、我が家に関しては一件落着。だがこれで引っ掛かる人が大勢いるわけで、笑ってはいられない。
 僕思うに、もうこれは、そこらのヤンキーが小遣い稼ぎの思いつきに、行き当たりばったりのバアさんを騙す、というレベルのものではなくなっているな。人名録とか、紳士録とか、流出名簿とか、そういうものからリストアップして狙っていると考えられる。つまり暴力団の資金源として、この犯罪は組織化されているのだろう。だから電話役は、その下っ端に使われて、いくらの金を貰えるわけでもないだろう。気持もすさむし、いいことはないだろうにな。それならまだしも、投資の勧誘電話でもバイトで掛けていろよ、と言いたい。
 ちょうど今夜のBS映画は、「スティング」。胸のすくサギ映画だ。現実のオレオレ詐欺に怒りながら、「スティング」の仕掛けに快哉を送る。
 フィクションと現実との、なんとも言えぬ苦渋。

 
No.70


2004年2月18日(水) 「護衛艦いなづま」、「駅馬車」
 travels「旅の記録」コーナーに、「護衛艦いなづま」アップ。
 本当に久しぶりだ。「旅の記録」も、材料がかなりあるので、なんとかアップして行きたい。
 護衛艦「いなづま」については、ページそのものに詳しく書いてあるので、ここでは重複しては触れない。ただ、こういうフィールドワークは、一部軍事マニアだけの世界にしておいては、けっしていけないものだろう。『軍事研究』『丸』『世界の艦船』などにも、見るべき記事や論文は数多いのだ。どういう視点、どういう文脈でそれを考えるか、そこさえしっかりしておけば。

☆ジョン・フォード「駅馬車」
 BSで。いつ観ても、何回観てもいい。トム・クランシーが、エイゼンシュテインの映画の中でもデューク(つまりジョン・ウェイン)は似合う、と言っているが、つまりジョン・フォードとエイゼンシュテインは通じるところがある、と言っているわけだろう。筋書き通り、コンテしっかり、アクション。黒澤だって、ここから来るのでしょう。
 映画開始の前の解説部分で、誰か知らないが女性が「性格描写もあるし……」みたいなことを言ったら、江守徹がすかさず反論して、「そんなものは最初から決まったものとして出してあるんだ、水商売は水商売の女(ダラスのこと)としての性格設定、それ以上でも以下でもない、つまりジョン・フォードの映画は紙芝居と同じだ、話も筋も決まっていて読めても、やっぱり喜んで観るでしょう」あらましこういうことを熱弁していた。
 女の人は十分納得していないようではあったが、これは江守徹に分がある。ジョン・フォードの映画は、ヌーベルバーグ以降みたいに、変にひねくれてなんかいないのだもの。裏読みも、深読みも、必要ない。それでいて、何回観ても発見も学ぶものもあるのだから、ここは江守徹でいいなあ。
 妻は近頃の映画にばかり親しんでいる人間で、「駅馬車」は初めて観たようだったが、「面白かった」と言っていた。
 
No.71


2004年2月21日(土) 石原莞爾、中野正剛
 賢治、国柱会つながりで、石原莞爾や、それから中野正剛について、ネットサーフィンをかなりやってみた。
 素人研究家(昔はこれを、「郷土史家」と呼んだりしたわけだな)のサイトは、そのエネルギーだけでも恐ろしい。
 気持悪いというか、気味が悪いというか。
 ついていけない、というか、ついていきたくない。
 アカデミックな枠内で考えたい、と、こんな場合だけ、身勝手に思う。
 こきおろしか、熱烈賛美か。いずれにせよ郷土史家的に詳しい。
 永久自己革命闘争の弁証法無間地獄に落ちている全共闘老人*と、閉塞状況にいると思い込んで反米反中反韓ルサンチマンを抱く厨房的ヲタク、この2つのサイトの突出。
 みんな神経が図太いな。こちらが弱いのか。そうだろうな。
 まずは、じっくり、腰だめで、少しずつ。だな。
*現世しか意識の視野に入れない永久闘争、これはまさに修羅道ではないか。宮澤賢治が法華経に転向するきっかけを作った高橋勘太郎は、いみじくも「マルキシズム猶鬼畜の国土を阿修羅たらしめ」と書いているという。
 
 
No.72


2004年2月22日(日) 新選組第七回・般若心経
☆「新選組!」第七回。
 うまく役者を手の内に入れて動かしている。まあ三谷版「獅子の時代」(そういや、これにも加藤剛が出ていたな、文太も若かった)、男の愛の物語だ。ということは、つまり「若き獅子達」の本歌取り、なわけだな。マーロン・ブランドーとモントゴメリー・クリフト。まったくモンティは、可哀相な役しかやらない。
 しかし、「ここより永遠に」とか、こうした二次大戦ものを観ると、「プライベート・ライアン」なんかディズニー映画だな。

☆般若心経
 宮坂宥洪『般若心経の新世界─インド仏教実践論の基調』(人文書院、1994、敬称略)を、非常に遅ればせながら読んでいる。
 たいへん胸のすくような分析で、この論旨なら、悟りへのステップとその実践は、ニューエイジの言っていることと、ほとんど変わらなくなる。当然だが、般若心経は二千年先んじていたわけだ。ところが人間は、いつになってもステップを上がれない、と来ているのだ。あがり方も同じなら、つまづき方もまた同じ、ということだな。
 しかし文章から感じるに、この宮坂師はロマンチストだな。
 ロマンチストは往々にして狷介なことがあるので、お会いしたいものだが、怖い気もするな。

  
No.73


2004年2月23日(月) 「僕」
 pictures の「一般絵」コーナーに、「僕」をアップ。
 一人っ子は、家でも学校でも一人。で、なんとも思わない。
 一人で東鳩の棒パンを食べ、一人で「おはよー! こどもショー」を観て、学校へ行く。
 でも淋しさは積もり積もるもんだ。
 こんな人間、たくさんいたろうな。
No.74


2004年2月26日(木) 賢治と莞爾、オウム
☆賢治と莞爾、続く。(司馬遼太郎風)
 僕思うに、賢治教徒で賢治の足跡をそっくりたどりたかったり、巡礼したかったりする人なら、なぜ国柱会に入会して日蓮主義を体験しないのか。そこだけは、賢治の「気の迷い」だとか、「しだいに批判的になった」から重視しなくていいとか、まあ目を塞いでいる。しかし、賢治、莞爾、完治……。すごいことに踏み込んでしまうわけだが。

☆オウム麻原判決
 思い起こすに、麻原の悪事発覚以前、ニューアカインテリたちが叩いたのは、むしろ大川隆法だった。かれの幼児性、宗教学的誤謬などを、これでもかという風に暴き立てたものだった。
 ところが、幸福の科学は、抗議行動とファックス送り付け程度以外には、マスコミの好餌となるような反社会的スキャンダルの種に乏しかった。それで困り始めたところに、あれよあれよという間にオウムの方が馬脚(どころではないが)を顕わしていった。
 事態が明らかになってみれば、幼児性丸出しだったのはむしろ麻原の方で、大川隆法は逆に商社マンまで勤めた常識性で事無きを得たのだった。
 これを逆に見たのがニューアカインテリたちで、かれらがかくまで麻原を持ち上げたのは、麻原はゼロからの成り上がり這い上がり、大川隆法は東大エリートという、まずこの前提で目が曇ったのだ。ゼロから到達する方が、菩薩、グル、サードゥにふさわしく、東大卒など頭でっかちで信用ならない、というのは、かれらの逆コンプレックスのなせる逆妄想だ。
 だいたい、大乗仏教の成立の頃の、紀元1世紀ぐらいの北インドの仏教集団などの中にはオウムみたいな怪しい団体が山ほどあったはずで、だからぜったい胡散臭く見られて取り締まられていたに違いない。それが当時の実態だ。
 ニューアカ宗教学者だってそんな事は百も承知だろう。むしろそれだからこそ、かれらはオウムの中に、初期大乗仏教教団の姿を見たと思い込んで、二重映しにして喜んでしまったのではなかろうか。
 自分の研究し追い求めている対象が眼前に現われ、それに喜んでしまう。
 これこそ、研究者のもっとも忌むべき陥穽であるに違いない。
 偽書『東日流外三郡誌』を見てみずからの史観が証明されたと狂喜した某老学者、ゴッドハンドの「発掘」した前期旧石器にみずからの学説が証明されたとして狂喜した考古学者たち、みなこの落とし穴に掛ったのだ。
 事実は逆だった。対象の方が、研究者たちの「求める像、自分の研究から当然導かれるべき、あらまほしき像」に、みずからを合致させていたのだ。

 信じたものに対して、スケプティカルに逆検証することの如何に困難なことか。
 マスコミの陰陰滅滅たるオウムレビューとは別に、私の感じたのは、大略こんなことだ。
No.75


2004年2月27日(金) オウム考察続く
 サリン殺人なんて、考えるだにおよそ忌まわしくおぞましい、ということは、もう大前提として、下のことを述べるのです。
 考察と言ったって、大したことではない。
 大正時代、誇大妄想の田中智学に、当時の名だたるインテリ文化人や著名人がころりと参ってしまったのと同様に、平成のニューアカインテリたちは、麻原にころりとやられてしまったのだろう。
 ただ、田中智学や大正インテリのスケールの大きさとその引き起こした歴史的結果(ここでは善い悪いは言っていません)に比して、麻原とニューアカインテリは、小粒な上にも小粒だ、という感は免れない。
No.76


2004年2月29日(日) チェンバロコンサート、君津
 高校時代の友人の紹介で、
「バッハ、モーツァルトを支えた響きを探る チェンバロ・レクチュア・コンサート」に行ってきた。
 レクチュア・コンサートだから、講師がいる。野村満男先生といって、わが国チェンバロ研究では最高峰で、みずから制作もする。ネットで検索すれば、ずらりと関連サイトが出てくる。それより、野村先生はかつて私の高校の音楽の先生で、坂本隆一を教えた人でもある。そういえば、坂本隆一が芸大在学中、教育実習でわれわれのクラスを教えに来たというのだが、「あれがそうだったのか」と思うばかりで、もはやおぼろげだ。
 野村先生の話と、その友人・門下の人たちの演奏とで進行する。私としては、通奏低音についての新たな知見が得られて有益だった。リズムを刻み、たまにはコードを開いて即興もする。
 そう聞いていくと、結局、完成され尽くした古典音楽の殻を破って、もういちど地下水脈が表に噴出したのが、モダンジャズなのだ、と相変わらず浅薄に、そんな発想しか出てこない。「だからジャック・ルーシェなどがありうるのだな」と。ジャック・ルーシェ・トリオは、かつて札幌にライブコンサートがあって聴いたことがあるが、途中で眠くなって寝た記憶がある。
 最後は、チェンバロをそうしたリズム先導的役割で生かした近代〜現代音楽演奏。アンコールは「朧月夜」をみなで合唱。この季節にふさわしい。でもあの編曲は少々難しすぎました、野村先生。
 
 さてこの演奏会は、千葉県の木更津のさらに南にある、君津という町の市民文化ホールで開かれた。
 午後2時開演というと、我が家を10時半に出発しないとならない。小田急、総武線、内房線と乗り継いで、最後は昔の横須賀線の電車のお古、111系(ところがこれがいちばん乗り心地がいい)に乗って到着。
 君津というのはたいした田舎で、町も閑散としており、駅前にあるのはパチンコ屋と、ラーメン屋、それに蕎麦屋くらいで、まともなレストランもない。
 そこからさらにタクシーで千三百円もかけて、千葉特有のあの洪積台地の丘をひと山越えた野原の中に、おそろしく立派な市民ホールが作られている。バブルハコモノ全盛時代の産物だろう。
 だいたい、こんなところに人が集まるのか?
 要するに、昔の新横浜や岐阜羽島のミニ版で、開発の青写真と皮算用だけはたっぷりとあるというわけだ。駐車場は広大だし、バスターミナルも作るらしいし、アクアライン直結の高速のインターも程近い。将来は、君津の「内陸新都心」とするつもりだろう。
 しかもここのホールに備え付けのチェンバロは、フランスのパスカル・タスカンのレプリカという豪奢なものだ。
 野村先生は、「チェンバロはリズムを刻むのに最適だから、オーケストラの第1・第2バイオリンの代わりになるので、こうした地方ホールにはいいものだ」とおっしゃっていたが、そもそもこのあたりに、使いこなせる人やメンテできる人がいるのか?
 千葉の発展に期待するしかない。

 帰りは、電車の窓から、富士山のシルエットが、大きく見えていた。
 家のあたりから見るより、ずっと大きい。
 思えば、房総と駿河は近いのだ。
 ヤマトタケルの時代から。


No.77



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