++浅薄日記++


2004年1月の日記


2004年1月31日(土) 600億円
☆成功報酬600億円判決
 金がインセンティブになる世の中になったということか。
 研究開発の成果こそが、そしてそれによって人びとが豊かに幸せに便利になることこそが、インセンティブであり報酬であったのではなかったかなあ。
「おかねがもうかるから研究します、おかねをもうけるために研究します、目的はお金です」みたいなことになるわけだ。
 売国奴竹中平蔵もにたつきながら「経済教育を」とか言っているし、金をもうけない奴、もうける能力のない奴は逝ってよしという世の中にするつもりだな。
 モノポリーの世の中はほんとうに嫌だ。ひとを人でなしにさせる。人をおしのけ、排除して、心に楽しみを得るなんて。
 気づき、経験する、そのための世の中だ、とニールの神様は言っているが、なかなか厳しいね。
No.59


2004年1月28日(水) 文鳥アルバムアップ
 文鳥(java sparrows)コーナーに「文鳥アルバム・ねむい」をアップ。ほんとうに久しぶりだ。写真も少し溜まっているので、その他のコーナーも作りたい。
 今は定期試験と採点で大変。教師の職務。
 ゲストブックを分離しようか、と又ぞろ考えている。どうせ、誰も書き込んでくれるはずがないのに。
 日記も以前のやつにに戻そうかな、などあれこれ考えながら帰宅の車を走らす。htmlで装飾や強調などしたくなったのだ。「まちかど喫茶店」http://www8.plala.or.jp/kissaten/index.html
の日記を読んだせいかもしれない。良質優秀な道庁職員にとって、北海道活性化のための悩みは尽きないのだ。
No.58


2004年1月27日(火) 古賀議員、佐藤先遣隊長
☆古賀議員
 言い方は悪いが、そんなタイプの人だ。自分で作り上げている自分の像を自分で信じ込んでしまうタイプ。議員歳費を貰わなくても生活できるほど金持ちなのだな。だったらますますそんなタイプだ。顔を見ればわかるではないか。みっともない恥を掻いたのは、もちろん民主党の方だ。

☆佐藤先遣隊長
 このひとの口髯が、ずいぶん陸自派遣の印象を好意的なものにしたと思う。アニメの脇役の、ちょっとヘマだが温かみのある役どころのキャラという形でメディアに露出しているからだ。私の時代なら、鉄人の大塚署長、エイトマンの田中課長、みな口髭を生やしている。それ以後のアニメ世代にも、それぞれそうしたキャラクターがいるのだろう。
 そうしたキャラの人が指揮して、迷彩服を着込んで、てきぱきと動き、小学校を訪問するとなれば、やっぱり制服というのは義務感、責任感、そして格好良さを醸し出すものだから、それは国民におおいに安心感を与え、感情を好転させたことだろう。
 世論調査で派兵容認の割合が増えたのは、そうしたビジュアル要素が大きいと、私は踏んでいる。
 北清事変、いわゆる北京の五十五日の際、8ヶ国連合軍の一員として北京で義和団と戦ったときの日本軍、てなイメージと役どころを、サマワの陸自はとりあえず演じよう、としているかに見えるな。
 あとは陸自が、ふたたび「東洋鬼」とならぬことを祈る。歴史が繰り返さぬように。
No.57


2004年1月24日(土) 同窓会
 卒業以来、本格的、初めての高校同窓会が開かれた。
 1975年卒業だから、29年たっている。
 三々五々集まってきても、誰が誰やらわからない。わかるはずもないな。
 男はおじさん、場合によってはおじいさん、女も同様。
 まずは校舎をセンチメンタル・ジャーニー。取り壊しが決まっている。生徒数が減っているらしく、教室だったところを他の用途に使用している箇所もあるが、汚れた以外には、基本的には何も変わっていない。ロッカーももとの場所にある。「このあたりだったかなあ」と思う。3年間、国語の教科書を家に持って帰らなかったことが自慢だった。それでも国語は常に5だった。つまらない驕傲だ。
 生物室。生物部がりすと雀をいっしょに放し飼いにして、肩に止まったり実験机の上で鳴いたりしていたことを思い出す。廊下の棚には気味の悪い標本が今もいっぱいに詰まっている。恐ろしくて動かすこともできないのだろう。実物の骨格標本もあるのだ。覆いを被せられているが、たしかにそれだ。この因縁話を当時の生物の先生から聞いて覚えているのだが、だれももう記憶していないらしい。
 土曜日なので、部活その他の活動が行われているようだ。生徒はみなはきはきとして礼儀正しいのでやや驚く。土曜日に来るぐらいだから、もともとがそうした積極的な人間たちなのだろう。われわれは、30年後の君たちの姿だ、と思う。
 二次会は、新宿の会場で。百数十人集まっているので驚く。同期同窓生の三分の一という数だ。名札をつけなければわからない。当然で、在学中だって、一列に並んだ8クラスなのだから、AとHでは、クラブや選択クラス以外では、まるで他人だ。せいぜい両隣りというところだ。ほんとうに卒業以来の人間がたくさんいる。
恩師の先生も来られて懐かしい限りだ。
 三次会は、もうクラスごとに分かれて、そうして我がクラスは最後に、かんじゃーやーに流れて、そこでお開き。

 一般的な話だと思うが、高校時代にけっこう「青春の引っ掛かり」などがあっても、こうやって30年ぐらい経つと脱色されて、棘とまでは言わないまでも、そうした引っ掛かりが抜ける思いがするから、これくらいの時期の同窓会というのは、ちょうどタイミングなのかもしれない。
No.56


2004年1月23日(金) 「文章」に作品アップ、定期試験
「文章」に「ピアノフォルテ」アップ。
 ピアノフォルテは、フォルテピアノともいい、またハンマーフリューゲルとか、ハンマークラヴィーアともいう。現代ピアノの先祖にあたる楽器で、チェンバロの音響ケースに、クラヴィコルドの打鍵メカニズムを合体させたようなもの。チェンバロが弦をはじくのに対して、クラヴィコルドはツィターやハンマーダルシマのように弦を叩く方の仲間だ(遊牧民繋がりで、モンゴルにもある)。そう考えれば、ピアノの由来も複雑だ。
 最初はイタリーで考案され、オーストリーで発展し(考えればトルコに近いので当然だ)、モーツァルトの時代には協奏曲の主要楽器になって、ベートーベンの頃からはついに独奏楽器にまでのし上がるが、その頃からイギリス式メカニズム(工業大量生産に向いていた)にしだいに取って代わられ、これが主流になって現代ピアノとなった。
 20世紀後半の古楽器による古典音楽演奏ブームに伴なって、このピアノフォルテも一躍脚光を浴び、レプリカ制作も盛んになって、モーツァルトなどは古楽器、つまりかれの同時代の音が出るもので弾かなければ、というくらいになったのだが、この頃はその熱気もさめ、あらためてそうした実績を踏まえて現代楽器で再解釈・再演奏が始まっている。
 以上、ミニミニピアノ史終わり。レコード店に行けばCDが山ほど出ているし、ネットで検索してもいい(しないか)。
 作品そのものは、夢の話だ。リストとショパンが出てきてピアノフォルテを弾く、という贅沢な話だ。

☆定期試験
 某大学で定期試験。10年前、札幌の某女子短大のときと同レベルの授業、同レベルの説明、同レベルの出題内容。明らかに出来が落ちる。
 学生一人一人の能力が10年前より落ちた、とは私には考えられない。他方、データ的には基礎体力が下降し、骨格や歯列も劣化していることは明確だという話だから、身体能力がそうならばそれに応じて頭脳能力も劣化している、という考え方も成立しないではないが、そんなことなら日本人はとっくにエスニカルに滅亡しつつあることになるだろう。
 だからそうではなくて、教育面でのトレーニング、ドリルの仕方が、10年前とはもう違うやり方になっていて、それで育った人たちが大学に入学している、と考えた方がいい。
 つまり、10年前と同様のレベルや質の試験をすることが、もう合っていないのだ。
 今回、あえて試してみたのだが、やはりそれが裏付けられたように思う。いい悪いとか、歎くとか、そういう文脈に乗せるべき話ではない。
 どんな状況であれ、人間は伸びるし、伸ばせる。それがこっちの仕事だろう。
 では、いかに伸びるか? いずこに伸びるか?
 それは21世紀的問題であり、21世紀が決めるだろう。
 
No.55


2004年1月21日(水) 「文章」に短篇アップ
「文章」コーナーに、短篇「あるオマージュ─マハーパリニルヴァーナ・スートラより─」をアップした。もうずっと昔の作品だ。賢治という存在をどう捉えるか、それはこちらの知識の増加、内面の変化により読みも変化し、それに応じて変転していく。要は賢治教信者(賢治狂信者?)にはならないことだ。賢治の存在、賢治の作品は、わたしたちひとりひとりが歩んでいくための、契機なのだ。国柱会にいようが、フォルケホイスコーレに入れ込もうが、賢治は賢治でいいではないか。
 とはいえ、もし20代だったら、したり顔のオッサンからこんなことを言われたら、ひどく腹を立てていたかもしれないとも思う。だから肝心のことは、やっぱり「不立文字」なのだ。
 
★国会紛糾
 強権主義者、ナチども。ワイマール末期って、いやな感じだったろうな。今は、階級とかイデオロギーとかいう、はっきりした対立軸が忘れられ、かつ忌避されている時代だから、簡単に比較はできないが。少なくとも、強権的暴力性をちらつかせるという点において、小泉はナチだ。
 いやな時代になりそうで、たまらない。
 
No.53


2004年1月20日(火) かんじゃーやー、ピキ氏、もんじゃ
 明治大学、今年度最後の授業。ほぼいつもの顔ぶれがそろって出席。明治の学生は素直だし、気がいい。おおむね授業と試験に関する質問の時間とするが、理解する人は理解してくれていたようだ。少なくとも、理解しようとする気持は持ってくれたようだ。
 法政大学の先生が、朝日の論壇で学生の質が落ちたことを歎いていた。その対応策として、推薦入試を止めよ、試験で厳密に取れ、というわけだ。そうしたら、法政は厳しい岐路に立つだろう。TOP30に入るか、それとも定員割れをするかだ。いや法政ならずとも、どの大学でも大なり小なりそういうことだ。語学や一般教養の先生たちは、ほんとうに歯噛みをする思いだろう。ビジネスマインドを持たない人間は逝ってよし! てな世の中だから。
 ま、ロビン・ウィリアムズ風に、「いまを生きる」「パッチ・アダムズ」と参りましょうよ。
 夜、今年初めてかんじゃーやーへ行く。ピキ氏すでに来店しており、いい調子。「今日まで授業ですか、休講があたりまえです、私は当然休講でした」と気炎を上げる。あのねえ、俺様は貴校の非常勤教員なのだ、まじめにやっとかないとまずいだろ、それに学生は来てくれたゾ、と抗弁した。
 かんじゃーやー世志恵さんに、高崎だるま市で求めただるまを進呈。ご祈祷済みだ。久しぶりに無駄話をして帰る。3月20日、イラク開戦1周年なので、新宿や六本木あたりはテロで危険だ、というと、その日は春分の日でかんじゃーやーは休むという。まあ安心。
 その後、駅まで妻を呼び出して、代々木上原のもんじゃの店「ごきらく亭」まで行く。ここはミュージシャンとか芸能人とかが結構来るらしいが、まあそれはいいとして、下町並みに味がいいのだ。もんじゃとお好み焼き、それにビールで仕上げて帰宅。
 
 
No.54


2004年1月17日(土) ホームページデザイン一新
★1月11日までの日記を一挙にアップしたので、併せて御覧下さい。(その後の一週間は風邪気味でダウン。従って書くべきこともなし。)

 ホームページ(表紙)のデザインを一新した。
 まずフレームを外した。どうしても主画面が小さくなるように思うのだ。もちろん、800*600だからそう見えるのだろう。しかしいずれにせよ、しばらくフレームを試してみて、別にそれほどの効果も発見できなかった。それどころか、メインのページ以外のページが、検索に引っ掛からなくなることがわかったので、断然外すこととした。
 デザインにはしばらく頭を絞った。色合いはほぼ頭にあったのだが、どう使うかが決まらなかった。ロゴを載せるベースのデザインが浮かんでからはスムースにいった。
 ベースのデザインは、わかる人ならすぐにわかる。晩年の宮澤賢治が、東北砕石工場から出荷する石灰岩抹の袋につけるべく提案した荷札だ。
 また背景は、きぬのみちらしく、生糸の写真を加工して作った。
 しばらくはこれでいくつもりだ。きぬのみち関わりで思い出したが、NHK「新選組」の出だしはなかなか好調だと思う。いきなり坂本竜馬と桂小五郎を、近藤勇と土方歳三にぶつけるのは乱暴だが、所詮オールスター総出演の素人バラエティと割りきってしまえばいい。三谷幸喜は40代だと思うが、それで若い役者どもをらしく動かすすべをわきまえているのだろう。土曜の昼の再放送に観るには害がない。
 ただひとつ面白かったのは、石坂浩二の佐久間象山が、ペリー艦隊を眺めながら、「まずは開国し、欧米と同等の力をつけ、それからあらためてケンカを売る、それが真の攘夷だ」というセリフだ。
 戦後60年、ナショナリズムがあらためて、澎湃として一般化しつつあるのだなあ。
No.46


2004年1月16日(金) 小泉出兵
 小泉出兵。戦後初めて自らの手を血で汚す首相として後代に汚名を残すだろう。「マクベスはもう眠れない」というだけの温かい血が、はたして彼にあるだろうか。経済的売国奴は竹中だし、殺人がしたい軍事オタクの石破は、こいつこそがニュールンベルク裁判で裁かれてガス室送りになればいいのだ。そして小泉は、その両方だ。一国平和主義? どこが悪い。世界中が戦争の巷になっているとき、ただ日本だけが平和というのは、貴重なことではないか。それとも世界中が戦争にならなければ、小泉は気が済まないのか。
No.47


2004年1月11日(日) 古代武器研究会
 7日から本格的に大学の授業も開始。といえば聞こえは好いが、実のところ、後期最後の授業。つまり年明けて始まって即終わり、という変なものである。すぐ補講や集中講義や定期試験になるし、2月になると入試があるので、こうしたことになるわけだ。だから、授業の総復習と質問の受けつけ、試験の予告くらいしかできない。年が明けて2回授業ができるのは、明治大学くらいのものだ。真面目でなかなか宜しい。
 10日と11日は泊りがけで、滋賀県立大学で開催される古代武器研究会に参加。もう5回を数える。もっぱら古墳時代に相当する東アジアの武器、武器組成、そこから読み取れる社会情勢などを発表のテーマとするわけだが、今年は弥生時代から古墳時代まで、鏃に関する発表が多く、なかなか濃かった。とくに今年は「もの」にどう語らせるか、つまり、ものそのものに即した分類分析をなおもしっかりとするか、それともこのあたりでその武器の当時における認知のされ方(スキーマ)についても少し考えようという認知考古学的な視点を入れるか、といった点について若干の応酬があり、門外漢の私には非常に面白かった。
 さらには漢代武器の専門であるK氏(この人、かつて私が北京大学に留学していた頃、日本人留学生の牢名主的存在だった)いわく、「みなさん武器は威信材(豪族や貴族が権勢を誇るための道具をあらわす考古学上の用語で、なんでこんなことをいうかといえば、つまりは三韓・古墳時代の朝鮮や日本からは、立派な武器武具の出土例があまりに少ないからなのだ)だとおっしゃるが、漢代軍事研究の立場から言えば、いちばん怖い威信材は最も実用的な兵器であって、漢兵のように国際戦役に従事し慣れたプロ兵士から見れば、ちゃらちゃらしたお飾り武器で見栄を張って出てきても、ぷっと吹き出してしまうだけです」と。
 これまた過激な意見で、みな鼻白んだわけだが、バッキンガムの近衛兵やバチカンのスイス衛兵の例もある。源平の馬鹿げた合戦例もあるわけで、システム立った大帝国と周辺の弱小地縁血縁国家では、組織論的比較も難しいだろう。
 私がこの何年か古代武器研究会に出て、いやましに受けつつある印象では、「古代って、ほとんど戦争なんかしなかったのではないでしょうか」という感じだ。多くてせいぜい10人も死ぬか死なないか、あとは威張りくさっているばかりで、漢代中国のように何万人も死屍累々なんてことは、どうもないように思うのだ。
 死ななくたって、戦争をしなくたって、政治経済が十分に成り立っていれば、それでいいわけだ。
No.51


2004年1月6日(火) 高麗神社・高麗聖天院
 群馬県の赤城神社へ行こうか、それとも埼玉県の高麗神社へ行こうか迷っていたのだが、家を出るのが少し遅くなったので、高麗神社へ行くことにした。
 ここももう20年近く前から、飛び飛びではあるが訪れているところだ。亡国に際してこの地に渡来した高句麗人の指導者だった若光王を祭る出世明神として知られ、日韓併合時代から李王様や皇族の参詣もあり、近年では在日韓国人・朝鮮人の人たちも数多く詣でるところだ。
 ここもそんな由緒はそっちのけで御神籤ばかり引く若者たちが多い。ここから野道を5分も歩けば、若光王の墓所のある聖天院だ。ここはつい最近、五億円をかけて本堂を造営し、境内を大整備した。ここの住職が、「学者なんぞに何がわかる」と威張っているのは、かつて取材した経験から知っているが、ともかくやり手であることは疑いない。こうして在日の人たちから金を募って集めてしまうのだから。
 ふだんは境内参観料300円も取るのだが(しかも最近は本堂拝観だけでなく、寺の雷門をくぐったところからもう境内として整備してあって金を取るのだ! 昔を考えるとやり過ぎではありませんか!)、正月は無料で本堂まで拝観できるので、初めて上まで階段を上る。
 さすがに眺めは好い。本堂は、山を背にしてちょうど南面していて、正面に高麗川が巾着田を作って蛇行して流れ、風水的にも、まさに高麗の王が宮殿を構えた地にふさわしい。
 面白かったのは、本堂の向かって右横に、本堂を造営するため裏山を切り開いていたら露出した巨大な石灰岩塊があって、それを雪山、つまりヒマラヤ、須弥山に見立てていることで、ここはセメント採取で有名な秩父山塊の流れだから山が石灰岩質であるのは不思議ではないが、それにしても一種の神秘的有難味を感じさせないでもないし、また古代高句麗人なら、山師としての技術もあったことだろうし、やはり何らかの土地的なあたりをつけてこの地に入ったのだろうとも思われた。
 甘酒を戴いてお参りを終わり、車を停めてある高麗神社までふたたび歩いて、そして圏央道と中央道で家に戻った。

★埼玉県日高市、かつての奈良朝高麗郡はめずらしいところで、大きな寺院が三つもあった。ひとつは女影廃寺、これは茨城の筑波にある新治廃寺から運んだ瓦が使われていたことが判っていて、それはなぜかといえば、最初に高句麗人が入植した最大の拠点が新治にあり、それを奈良時代にこの地に集住させたときにこの寺も移ってきたからだと考えられるのである。これはまた、この寺が、朝廷政府が高句麗人を管理監督監視するための出先機関としての役割も果たしていたことを意味する。
 もうひとつは大寺廃寺、これは今の高麗神社よりもう少し北の山腹にあって、高麗氏の菩提寺として9世紀平安朝まで存続したらしい。
 最後の三つ目は高岡廃寺、これは若光王の侍僧勝楽の菩提を弔うために若光王の息子が建てたもので、これが現在の高麗聖天院勝楽寺の前身だろう。
 そして現勝楽寺は、きっとかつての宮殿址だったのではないだろうか。
No.52


2004年1月6日(火) 高崎だるま市
 この日の深夜、それでも日付の変わる前に、関越道を素っ飛ばして、高崎のだるま市へ行く。場所は高崎市の外れ、黄檗宗の少林山達磨寺で、この季節のだるま市で有名だ。高崎だるまは、江戸時代に農閑期の副業に作り始めたものだが、年初めの縁起物として今では欠かせない。それに何より、寒空の夜を徹して市が開かれ、御祈祷が行なわれるというのは、まことに風物詩的題材で、ここ何年か、必ず行くことにしている。
 12時前に着く。国道十八号線をはさんだ反対側の八幡宮近くにある小学校の校庭が駐車場となっており、地元の人が総出で交通整理にあたっている。御苦労なことだが、千円も取られる。昔はこの時間なら国道沿いに停めておくこともできたのだが、もうそうもいかない。
 露店の夜店を見ながら橋を渡って達磨寺へ向かう。達磨寺は山の上にあり、そこまで登る石段には煌煌と行燈が点いて、まるで夢のようだ。半ばまで登ると、もう盛んな御祈祷の節が聞こえてくる。境内には、本堂をぐるりと取り囲むようにだるまの露店が並び、お堂の中では大勢の坊さんが御祈祷し、あるいは買ったばかりのだるまに目を入れてくれている。0時過ぎのこの時間でも、人波の絶えることはない。もっともそろそろ、来る人間は、帰省中で久しぶりに出会って夜遊びをしようかという若い衆が主になり始め、夜店も明日の日中に向けて片づけを開始する。
 かんじゃーやーのために小さなだるまを買って目を入れてもらった後、大きな小屋掛けの店で軽くおでんなどを食べてあったまり(おじさんやおばさんもけっこうまだいたりして、こういう雰囲気は大好きだ)、夜店を見ながら山の中腹をぐるりと回りながら降り、ふたたび橋を渡って対岸に戻る。たった小一時間の内に、先ほどまで賑やかだった夜店はもうすっかり片づけ、若い不良どもはゲームセンターにたむろしている(何年か前まではここでもだるまを売っていたのに)。小学校の駐車場は、もう人気もなく真っ暗だ。
 帰路は藤岡まで国道を走り、そこから高速で帰ったのだった。
No.50


2004年1月5日(月) 初詣リスト
 この日は、もう夕方だったが、深川不動尊に参って、帰りはもんじゃ焼きでも食べて帰るつもりだったのだが、あいにく仕事始めにあたって、どの店もサラリーマンで満員、しかたなく近くのバーミヤンという情けないことになる。
 それにしても、最近の初詣ブームというのは、70年代あたりのことを知っている人間にとっては信じられない。あの頃の虚礼廃止とか呼号した無神論的、非信仰的時代は、いったい何だったのか、何の意義を持っていたのか。年賀葉書の発行部数は史上最高だそうだし、コンピュータだって毎年歳末には、そのために売れているわけだろう。
 それで初詣で何をしているかといえば、御神籤を引くだけで、正しい礼拝の作法も知らない。
 心構えもなく、イベント的・刹那的なだけだ。
 だから示す扁のないイベントなんぞに意味はない、と私は言うのだ。
 そうするとすぐ、それでもいいじゃん、とかふくれっ面をする輩もいるが。
No.49


2004年1月2日(金) 初詣リスト
 午前中から出て、毎年行く、茨城県の日立から西に鉱山の山を越えたところにある、御岩神社へ初詣。ここは賀毘礼の峯という霊峰があって、縄文遺跡もあり、神仏混淆時代は修験道の聖地でもあり、宿坊の集落も形成され、水戸藩の崇敬も篤かったところなのだが、すっかりさびれて片田舎になっていたところ、最近の初詣ブームの中で年年歳歳初詣客の人出が増え、いまや若い禰宜さんのもとで打って変わって手広くやるようになってきている。ことしも賑やかだ。
 例年のようにお札を戴いて、今度は福島県のかつての那須の国、八溝山のふもとの湯津上村にある、光丸山へ足を伸ばす。ここは天台宗の修験道のお寺で、日本一の天狗面があるところで有名だ。とはいっても、ここも7、8年前はひっそりと地元の人しか来なかったのだが、突然栄えるようになって、私が初めて行ったその翌年には、もう鐘楼には除夜の鐘を撞く人が列をなし、パトカーが警備に出ていたのには恐れ入ったが、いまや道も整備されて駐車場もでき、そこらに適当に車を停めておくというわけには行かなくなった。ここでは火防のお札を戴く。
 昔は浅草寺に大晦日にお参りして、大黒屋で天丼を食べ、そのまま高速に乗り、ゆっくりと行って、丁度真夜中に光丸山や、あるいは御岩神社に着けるように計算して走ったものだったが、両者とも隆盛になって御元日の夜に車で行くのも駐車その他大儀だろうと思われ、また日の出暴走族とすれ違うのもいやだし、もうそんな楽しいイベントもしなくなった。もう真っ暗な田舎の道の横にぽつんぽつんとある家々の明かりを見るたびに、「いまごろ紅白を観ているのだろうな」と思いながら車のアクセルを踏むのも、どことなく人恋しくていいものだった。
 あのころは、紅白を聴くのがいやで教育ラジオに合わせておくと、大晦日の午後7時くらいから、まず気象情報(天気図が記入できるやつ)を延々とやり、その次に一年のまとめのニュース特集(たぶん再放送)をやって、それから10時くらいになると、どういうわけか英語の時間となって、年の瀬なんぞまるで無視したように英語小説の読解などをやっていたものだが、それももう昔語りだろう。

 さてこの日の最後は、もう夕暮れとなったが、熊谷の次郎直実や齊藤の別当実盛の故郷、埼玉県妻沼にある聖天院にお参りして、そうして戻ってきた。
No.48


2004年1月1日(木) 初詣・ニューイヤーコンサート・小泉
 大晦日、いつものように車で出る。夕刻の浅草寺と仲見世を見て、大黒家の天丼を食べる。年々歳々混んできて、六時前に入ったのにもう満員、支店の方に回された。ここも混んでいた。新春の浅草など、行く勇気もないが、大晦日ならゆとりがある。しかしこれも六時で浅草寺の扉はいったん閉まってしまうので、それまでに行かないと面白くない。外国人もずいぶん多い。
 その後で、これは前年から始めたのだが、葛飾柴又帝釈天へ足を伸ばす。浅草の華やぎとはまったく趣の異なる、近郷近在の暮の風情。まだテキヤも店の縄張りをしているくらいの段階で、なかなか素朴でいいのだ。
 それでいったん戻って、妻を手伝っておせちを重箱に詰める。東急本店で、会津塗りの朱塗りの重箱を新調したのだ。安売りとはいえ、なんだか気分が豊かだ。
 曙が轟沈したのを観たりしているうちに、もう日付が変わりそうになる。これももう恒例になったが、代々木八幡に初詣に行く。代々木八幡も昔はさびれた神社だったと思ったが、このごろは参道の階段の中腹まで行列だ。地元の在の人だけでなく、明治神宮へ行こうと思って間違えたか、混んでて諦めたかという人まで流れてきているのではないか。後ろに並んでいたのは外人だった。
 境内も年々整備が進み、今年は真新しい「慶祝」提灯や神籬、輪潜りまで仕立てて、なんだか戦前みたいな気がする。もちろん戦前のことは知らないが。
 ここは縄文時代の住居址が発掘されたりしていて、恐ろしく古い頃からこのあたりの洪積台地の一大中心だったと思われるのだが、台地上で林に囲まれて回りのビルなどは見えず、冬枯れの黒い木の枝の合間から星などが見えると、明治時代の国木田独歩などが描写したところの武蔵野の雰囲気が髣髴する。ボーイスカウトも駆り出され、子どもたちはお神楽を奉納し、焚火はぱちぱち、甘酒も出て、けっこうコミュニティがしっかりしていることを伺わせる。お札を買って古いお札を返し、家に戻る。
 まだなんだか物足りないので、もう一度車で遠出をすることとして、高速に乗って香取神宮へ赴く。もう午前2時を回っているが、駐車スペースがないほどの人出。老若男女、とくに若者が多い。たぶん帰省していてたまに会ったのが嬉しいのだろう。露天の食べ物を焼く油の匂いで胸が悪くなる。ここも参道は大行列で、まともには参拝できないので、横合いからちょっと拝んで降りる。
 次は利根川を渡った対岸の息栖神社。香取、息栖、鹿島と合せて東国三社と称し、聖なる三角形を作っている。このあたりの網の目のような水運を統轄し、しかもその水運を通じて陸奥、東山道、東海道のまさに要の位置にある、たぶん縄文まで遡る、すくなくとも弥生以降の重要な拠点だったに違いない。
 息栖神社はいまでは規模も小さいし、露店もわずかしか出ていないが、しかしこの深夜でもやはり、参拝者は絶えない。境内では間伐材を勢いよく燃やして暖を取り、素朴なだけにかえって、海女族の古代にまで通じる澄んだ空気が感じられる。参道は突き当たりが水辺で、古代の瓶が水中に安置されていると伝えられる。水面から鳥居が立ち、いかにもこの地には、まだ強い神の力が働いている感じがした。深夜だけにとくにそうした感が強かった。
 そうして家に戻ったのが朝の5時だった。初詣のはしごを、今年もまたやってしまったというわけだ。
 元日の夜は恒例のウィーンフィル・ニューイヤーコンサート。今年の指揮者はリッカルド・ムーティ。悠悠と見事な演奏で、去年の小沢などとは大違いだ。音も分厚く鳴るし、やはり文化伝統というものだと思う。インタビューで、「前夜の年越しドンチャン騒ぎの翌日11時からの演奏というのはきついが、このコンサートで往く年の苦しみ悲しみを思い、来る年の喜びに希望を持つのだ」と言っていたのは偉い。
 それにくらべて小泉の愚挙のひどさには余りある。国賊、逆賊、非国民筆頭だ。初詣というものが、小泉によって汚されたような思いだ。
No.45



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