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2003年11月の日記


2003年11月1日(土) ホームページデザインさらに微修正
 ホームページのデザインをさらに微修正した。
 上のフレームのタブを小さくした。理由は、リンクのタブを入れ忘れていて、それを加えると今度は寸法がはみ出て二段になってしまうからだ。ところが、今度は逆に寸詰まりの感じになってしまった。
 まあ、もう面倒だから、これでいく。体裁は整っていると思うから。
 しかしまだまだ微修正したいところは出てきそうだ。それもまたサイト作成の楽しみかも。
No.25


2003年11月1日(土) 一般描き物追加
 picturesのうち、一般描き物に、北海道紅葉・松前の夜 1・松前の夜 2を追加した。もうだいぶん前の作品だ。昔、札幌にあった女子大(いまは共学になっているといえば判る人もいるだろう)に勤務していたときに描いた。
 当時のマシンは Mac の Performa 5220 というもので、しばらく沈滞していたマックが、久々に打ち出した新機軸で、しかも PowerPC という、鳴り物入りの新機種だった。いや、「の筈」だった。ところがこれが存外に不安定で、すぐに爆弾は出るし、あたかも腫れ物に触るように扱わねばならず、MS-DOS のシンプルな堅牢さを思うたびに、あらためてマック使いになったことを後悔したものだった。マックエヴァンジェリストなどという輩がいるなどとは、とうてい信じられなかった。しかしお蔭で、マックのこともかなりわかるようになったのは収穫だった(とはいえ、理系の人たちのように、頑固にマック以外は信用しない、という風には、ついにならなかった。95以後の WIN ならたいていのことはできるし、こと日本語環境に関しては、圧倒的に WIN に分があると思う)。そのうちユードラとネットスケープを入れてなんとかまともに動くようになり、音楽も結構できたので、それなりに楽しんだ。とくにマルチメディア作成に関しては先進的だったと、いまでも思っている。
 それで、このマックに Art School Dabbler を入れて、初めてまともなCG製作というものを体験したのだった。今でも、これと Adobe PhotoDeluxe だけあれば、Painter も Adobe Photoshop もなくても、相当のことはできると思う。いやそれどころか、Win の附属ソフト、ペイントと Adobe PhotoDeluxe だけでも、かなりのことはできる、と自負している。もちろん怖いもの知らずの素人意見だということは重々承知の上だが。
 この三作品は、大学祭のときに、絵画コンクールがあったので出品してみたものだ。当時CGなど、まだ珍しい部類だったからかどうかはわからないが、「松前の夜 1」は多分お情けで、佳作に入選した。同時展示の「松前の夜 2」が選に入らなかったのは流石そのとおりだと、審査メンバーの見る目に対して、逆に感心したものだった。
No.26


2003年11月2日(日) writingsに追加・他
 writings(文章の部、昔は「書き物」といった)に、「F1グランプリ(別題・天安門)」を追加した。1991年6月の作とあるので、もう12年経った。文体は、徹頭徹尾内田百良だ。百鬼園魔法文章と言われたその雰囲気を、随所に生かしたつもりだ。
 しかし内容は百里里茲Δ北瓦里海箸任呂覆、まったく本当のことだ。私の北京での生活は、ほんとうに一挙に打ち切られ、馴化のいとまもなく日本に戻された。いうならば、文化的潜水病にかかったようなものだ。
 その年の暮には、パリにいた。従兄弟のアパルトマンで心理的リハビリをしていた。ところが今度は東欧革命だ。チャウシェスクの末路を見て多少は溜飲が下がったが、リハビリどころではない。次の年には母を連れてギリシャ、ウィーン、ベネチアなどに旅行だ。これも一種のリハビリだった。そうしたらクウェート陥落と湾岸危機だ。フセインに頭を撫でられてもにこりともしない人質のイギリス人の子供などを見ていては、リハビリなどとうてい覚束ない。ゴルバチョフ、ミッテラン、あのころは世界騒然だ。
 そうこうする内に湾岸戦争が始まり、アメリカが勝利して、新世界秩序の樹立とともに多少心の安寧が得られたかと思えば、ついにはソビエトが崩壊してしまった。しかもこの年の四月から、私は札幌で専任教員として初就職の一人暮しを始め、慌ただしさのなかで、天安門以後私が必要としたところの心理的リハビリは、結局奏功しなかったように思うのである。
 F1も、中嶋がやめ、セナが死んで、しだいに興味を失った。古館伊知郎の実況のけたたましさもそれに輪をかけた。アレジと後藤久美子がどうのといったころには、もはやほとんど他人事だった。
 そうして、ロシア最後の叛乱事件で、モスクワのホワイトハウス(市議会庁舎)が砲撃された画面は、私を完全にうちのめしたのだった。不満、憤懣、鬱憤、憎悪、憤怒、瞋恚、怨恨、ルサンチマン……。人間の本性が、受信アンテナのように過敏になった私の心に、増幅されて響いてきた。
 長い裁判が結審したあのカルトにまつわる一連の騒動、阪神淡路大震災、奥尻の大地震などはなおさらだ。
 暗い話になった。ここまでお読みいただいた方、申し訳ありません。タグ打ち勉強の話の方がよかったかもしれない。自分としてもいくぶんか気が紛れるし。
 今日は朝になれば明大祭、和泉校舎では、ピキ氏とそのゼミ学生による手踊り、シーサーズのライブ、ピキ氏とその兄上が中心となったバンド演奏など、盛り沢山の出し物があるそうだ。また取り残され気分にならねばよいが。
No.27


2003年11月3日(月) 明大祭
 昨日、明大祭に行った。早稲田と同じく、明治もさまざまな経緯から、何年も大学祭が中止されていたが、従来別々だった駿台祭と和泉祭とを合体させて、今年から明大祭として再出発したのだ。開催キャンパスは和泉校舎だ。
 私は専らピキ氏のゼミの活動を観に行ったので、他の催しについてはあまり知ることはなかったが、楽しく活気にあふれた一日だった。「こんなことしてなんになるの……」みたいな心の働きは、この頃の学生にはないようだ。「えーっ、やだなあ、たいへんだなあ」とかまず思って、しかしどうしようもなくやることになると、まじめに、それでしだいに面白くやるようだ。わが高校三無主義時代以来三十余年続いた「シラケ」心理機制が、とうとう忘れ去られる日が来つつあるのかもしれない。
 だからむしろ問題は、そうした風潮の中で育った教師側にあるかもしれない。
 その中であまりに出色なのが、ピキゼミなのだ。他の店がことごとくサークル出店な中、ゼミ出店をしたたった2つのゼミの内のひとつが、ピキゼミだ。それもハワイ調査の土産たる「スパムむすび」と、年来の調査フィールドたる沖縄の菓子「サーターアンダギー」を、わざわざ原料を仕入れて製作したのだから、それだけの行動力が学生についているということで、まったく教育の実が上がっている。
 しかしそれだけではなく、教師であるピキ氏自身が度外れていて、設営された三種類のステージ会場全部を使い、みずからもギターを執って自作曲を弾き、その中の二公演をこなしたのだ。しかもそのネットワーク力を使って、プロのミュージシャンをボランティアで呼んでバックバンドに据えるというおそろしさだ。メインステージではシーサーズが華やかに登場し、その演奏の最中に、紫サージ(エイサーのときに巻く鉢巻)を巻いたゼミ学生たちが、練習の成果として沖縄の踊りを披露するという趣向だ。聞くところによれば、この振りつけも、夏休み明け以後、シーサーズが学生たちに手弁当で教え込んだそうで、まったくピキ氏の人を動かすパワーには恐れ入る。
 半日のピキ氏デーが終わって夕闇の中を撤収し、打ち上げ会を開いた「かんじゃーやー」(シーサーズ宇野世志恵さんの店)で、学生たちの代表が突然あらたまってシーサーズにお礼の言葉を述べ、高価なクッキーの詰め合わせを差し出した。またその後にも、この日に誕生日の近い三人の学生に、ゼミとしてそれぞれプレゼントを準備していたし、ピキゼミの学生は知らぬ間に人間性まで涵養していたようだ(ピキ氏にそんなものを人に涵養させる能力があるなどとは、日頃の言動からとうてい信じ難いのだが)。
 やがてカンバン近くになり、ある学生の母親が真剣にビデオを撮っていたという話になると、ピキ氏が突然泣き出し、最後まで残っていた大学院生でピキ氏の弟子某君も涙声になる。無慈悲な宇野さん「ヤッダー! どうしたの!」と、三無主義世代の私とともに爆笑。でも別にふたりともかれらの気持がわかっていないというのではないのですよ。
 帰り道、某君がもう一人の大学院生に「いい学生たちですよね」と、たかが一歳か二歳も年の違わない学生のことをしみじみと述懐しているのが耳に入る。よほど万感胸に迫るものがあったのだろう。
 某君、君たちが踊っているとき、見物していた学生が傍らの友人に「うらやましいな、こんなゼミ」と話していたことを紹介しておこう。
 この教育状況下に、こうしたゼミを作り上げたピキ氏と学生たちに幸運がありますように。
 
 
 
No.28


2003年11月4日(火) スーパー銭湯
 昨夜(もうそうなる)、夕食後思い立って、妻と東久留米のスーパー銭湯「おふろの王様」へ行く。なんでこんな場所を知ったかというと、この所沢街道は、昔の勤務先から家へ戻るルートだったので、それで覚えていたのだ。
 青梅街道を信号に悩まされながらのろのろ走る。ここへ行くのはこれで二回目だが、出発が夜8時半と少々遅かったので、あるいはもう閉館かと心配していたら、午前1時まで営業しているので安心する。駐車場には多数の車が止まり、大盛況だ。中はけっこう広くて露天風呂もサウナもあり、何よりいいのはジェットバスが充実していて、立つ、坐る、寝る、三つの姿勢をとってリラックスできることだ。
家族連れ、仕事帰りの人、たぶんサークル/部活帰りの学生風などで、遅い時間なのに満員でにぎやかだ。
 道々雨模様だったが、幸運にも露天風呂に入るときには上がっていた。私は上がり湯をした後、露天風呂のところで風に吹かれながら身体を拭くのが好きなので、今夜もそうすることができた。
 軽食も、夜11時半まで注文できるので便利だ。
 帰りは家まで40分。渋滞もなしで早かった。
 きっとこんな風に、近場で手軽にレジャーを楽しむ人も、相当数いるのではないだろうか。家族はホームセンターとフードセンターで買い物と軽食、子供はゲーム、お父さんはカーショップ、みんなで郊外レストランで食事の後、デラックススパでくつろいで、帰る。これが全部、車の行動半径15分くらいでかたがつくわけだから。

★ゲバラとビートルズのカレンダーを注文。研究室に飾るつもり。

☆星野パレード。毎度のことながら、「こんどはまた20年後か……」と、そればかりが脳裏に去来する。
No.29


2003年11月4日(火) 菅「内閣」揃い踏み
 今夜のニュースステーションで、菅が閣僚に起用しようと思っている人間が、かれとともに何人かスタジオに並んで出演している光景を見る。ぞっとする。
 こんなことをしたら、逆アナウンス効果になるだろうに。それでなくとも与党有利の世論調査も出ているのだから、よっぽどうまく立ち回らないと。それを、今日のようなパーフォーマンスで(しかも久米の番組で)人気が取れる、と思っているのだったら、菅ははなから首相の器ではない。
 いや、もとから首相の器ではない。だがそれについては小泉も似たようなものだ。
 それどころか、もう、今の日本人自体が、投票などという行為をできる器ではなくなってしまっているのである。

 私は今夜の光景を見て、しみじみ、「団塊世代が日本を滅ぼすのだな、団塊世代によって日本は滅ぼされるな」と思った。かれらはベビーブーマーであまりにも多勢であり、しかもその人口圧力のもとで、サバイバルと権力闘争のテクには長けている。かれらは日本国を、そして日本国にあるあらゆるシステムを、自分たちの権力奪取闘争の賭けものにしているのだ。
 でも仕方ないかもしれない。「負けて目覚める、それ以外にどうして日本が救われる道があるか」と、戦艦大和乗り組みの臼淵大尉も言っている。もう日本は、いったん滅びなければ再生しないだろう。
 ただし、私は「新生日本にさきがけて散る」のは、いまのところ御免蒙りたい。

 にもかかわらず、日本人の大多数は、「ぶっ壊す」主張にばかり血道を上げ、構築することにかけてはまったく定見のない政治的素人にのみ、ひたすら快哉を叫び、声援を送り続ける。
 青島はつまり、その期待を裏切ったから都民の支持を失い、それを勘付いたからこそ二期目の選挙から逃亡したのだ。戦後理想主義者として敗北の憂き目を味わいたくないばかりに。
 だが一方で、青島はもはや上の世代であり、それなりに良識もあったので、そうしたのだともいえる。かれがはしなくも言ったことばに、次のようなものがあったのを今も覚えている。「みなさんは、青島がちゃぶ台をひっくり返すのを期待しておられるかもしれないが、そうもいきませんのでね」
 ところがいまや日本人全体としては、閉塞状況のもとで、破壊的感情にだけ取り付かれてしまっているのである。

 これに関しては、福田和也が、『文芸春秋』01.3所収「ルサンチマン」ですでに周到に論じているので、それを抜粋しておけば足りるだろう。とはいえ、福田和也はこの後で石原慎太郎を賛美したりしていて、その論旨には首を傾げたいところが多々あるのだが、ともかくここの部分については、なかなか正鵠を射ていると思うのだ。

「(前略)……幼稚といえば幼稚なのでしょうが、この幼稚さはただの幼稚さではない。幼く、かつ無垢であることをよしとし続けているような、そんな幼さとは別種の、もっと歪んだなにものかです。成熟とか、大人らしさといったものに対する、かなり念の入った、攻撃であり、反逆、あるいは無視なのではないか。クリームパンを車中で食べること、そこには社会が存在するという事自体を認めることの拒否ではないでしょうか。女子高生の化粧などとも同じでしょうが、電車の中なり、あるいはその外においてでも、他者がいると言うこと、つまりはそれなりに他人の意志を尊重しつつ、自分の了見を何とか通そうと四苦八苦する大人の世間、社会というものがあるということを認めようとしない。つまりは、反社会というよりも、非社会的な行為なのです。しかも、この非社会的な子供たちは、社会にしっかりと依存していて、それを疑問としない、むしろ将来の権利と考えている。
(中略)
父に、母に、あるいは先行世代からの強いこだわりを持ちながら、現状にただ、破壊的な不満だけを持っている。怨恨と復讐感情から、今とりあえず機能し、人々の生活を支えているものを破壊してしまおうという愉快犯的な感情に憑かれている。
(中略)
 最初に申しましたように、なによりも大きな問題は、この……成熟を拒否しているがゆえの乱行を国民が、ほぼ全面的に認めていることです。
(中略)
それが承認されるのは、国民がそれを愉快に思っているからでしょう。父として、母として不様かつ不器用に負うこともできない責任を背負い込むことよりも、娘として、息子として、甘えの下で、現体制をとにかく壊せばいい、それによって、「父」や「母」が右往左往するのを見たいというのが、国民の要望なのだということになるのでしょうか。
 かくして、日本人全体が……不気味な集団になったのです。(後略)」

 ちかごろ喧伝されている「地方自治、地域の時代」といったことだって、こうした文脈構造裡に置いてみれば、ずいぶんと違った色彩を帯びて見えてくるのではないか。

 しかし、所詮は見世物だ。パンとサーカスだ。

No.30


2003年11月8日(土) おおばこ、中也、賢治
 昨日今日と蒸し暑くて嫌な日だ。僕思うに、季節が1ヶ月半ほど遅れている。
 思いついたことを、ランダムに覚え書きしておく。

★脱日入北の謎の女性:
 はや望郷らしき手紙をテレビで見てこんな歌を思い出した。

 「からくにの きのへにたちて おおばこは ひれふらすも」

 古墳時代とたいして変わらないぞ。

☆昨夜、中也の詩を読んでいて考えた。
 中也の詩に較べて賢治の詩は分かり易すぎる。たとえば、賢治の詩が、A+B=C だというならば、中也の詩は、A+B=さくら というようなもので、読者は ええっ? ととまどう。が、そこに新たなイメージ発想のエネルギーが生まれる。詩的言語とは、そのようなものではないか。
 だから、賢治が自分の詩のことを「心象スケッチ」「絵に対する幻燈」だと称したのもわかる話だ。
 ただし、ことばの扱い方、リズムと語感の繋がらせ方に関しては、その美しさと流麗さにおいて、賢治の右に出るものはないだろう。
 またそれだからこそ、分かり易すぎるともいえるのだ。心情があまりにストレートに響いてきてしまうので、共鳴もまた恐ろしく大きくなる。賢治教になってしまうのもむべなるかなだ。

No.31


2003年11月10日(月) 衆議院議員選挙・<エンタープライズ>
 もう結果が出ているが、衆議院議員選挙の話。
 午前中、もちろん投票に行く(後で知ったが、投票率は戦後2番目くらいに悪いというではないか。曇り空で投票には最適な天候なのに)。その後買い物を済ましてから、恵比寿ガーデンプレイス(もうクリスマスの飾付けだ)で早い夕飯を食べ、三越で軽くつまみを買って帰宅。
 要するに選挙は祭だから、選挙速報とはハレで、つまり日常とは違う空間が現出する。だから、こんな面白い番組はない。しかも、そもそも本来的に非日常なのだから、ことさらショーアップする必要もない。したがって、NHKの、それもBSのものがいちばんいい。結果の速報だけを、淡々と、しかも確実にやるから。そのため、他のチャンネルは、たまにザッピングするだけで十分だ。真紀子ゴシップにも、田原の咆哮にも、ぜんぜん興味ない。
 妻がつまみや肴を整えてくれて、ビールのグラス片手にテレビの前に座って、午後8時、いよいよ選挙速報の開始だ。
 というところで、あとはいいでしょう。午前3時までたっぷり堪能した。ザッピングのおまけとして、ケーブルテレビの<エンタープライズ>シーズン最終回まで観てしまった。タイムトラベル話もからめて、まだまだ壮大なストーリー展開になりそうだ。
No.32


2003年11月10日(月) 岡田幹事長
 今夜のNHKスペシャルを観た。
 岡田幹事長の顔つきがすっかり変わったのに驚いた。自信が出たというか、根性が据わったというか、代表選挙の時から思うと、えらい違いだ。あの時はおどおどして、三白眼で、人当たりも悪く、いかにも人望が無さげだったのに、今夜はテレビカメラの前でも視線がしっかりして、表情も引き締まり、軽く笑みすら浮かべた。要するに男前に見えた、ということだ。政権が、手に届くところまで手繰り寄せられてきた、という気の持ちようだけで、こうも人間変わるものか。
 それは対面に座っていた安部幹事長もわかっていた様子で、この二人は、残りの政党の人間(公明含む)が何を発言しても、もはや歯牙にもかけない感じだった。まともに話ができるのはお互いだけだ、という暗黙の了解があったようにすら見えた。
 おそらく自民と民主の若い政治家たちには、二大政権政党並立時代が、もはや自明のこととして受け入れられているということなのだろう。
 そんな感慨を持った。
 どの政党も嫌だし、マニフェストなど付木の役にも立たないが、時代の流れだけは見ておきたい。
 その意味からは、小泉も、菅も、こうなったら早いところいなくなった方がいいかもね。
 
No.33


2003年11月12日(水) フランス革命の夢の話
 今朝見た夢。
 時代は現代だが、フランス革命のような革命が起きて、サンキュロットとおぼしき服装の女たちがたくさん我が家に入り込み、台所で我が物顔に調理をしたり、居間で処刑者のリスト? らしきものをつけていたりする。
 妻に「とんでもないことになったな」と言いながら自分の部屋に入り、明かりをつけると、何度か点滅してかろうじてともる。「まだ電気は来ているな」とつぶやく。
 いつこちらだって、リストに載るかもしれないという恐怖。これは夢なのか、夢でないのか。夢なら覚めてほしい。というところで、無理に抜け出るように目を覚ます。
 起きてから憮然とする。かつて学生時代には、自分がサンキュロットで、火縄銃を担いで《ラ・マルセイエーズ》を歌いながら、「ああ、これから自由のために戦って死ぬのだ」と思い、嬉しくて感激の涙を流す夢を見たりしたこともあったのに。それがいまや、ギロチンを恐れるプチブルの仲間入りか。生活や人生の変わりようが、こんなに浅ましく夢にも反映するのか。
 昨晩、「かんじゃーやー」でピキ氏と飲みながら、宇野さんに後者の夢の話をしたりしていたので、それがさっそく出てきたのだろう。しかし立場がこんなになっているとはね。
No.34


2003年11月18日(火) 季節の変わり目
 何日か日記が飛んだ。金曜の夜は日本の笑いのプロデューサー王である澤田隆治氏率いる東阪企画設立30年記念パーティに出たり、土曜日は国立オリンピック記念青少年センターで開かれたモンゴル祭を見たり、その晩は山梨のリルケ氏のヒュッテに招かれてフォンデュを御馳走になり、翌日曜日はリルケ氏夫妻とともに木曾の妻篭、馬篭両宿場を訪ねたりと、考えてみれば非常に忙しかった。

 いささか気分がすぐれないというのは、よく晴れているにもかかわらず、どこか、たとえばベーリング海のかなたとかそういった遠くの方の空で、大気の状態が不安定なので、その影響を受けているのだと思う。紅葉の季節は動物も毛の生え変わるときだし、冬眠に入る動物もいて、その冬眠状態とは、生理的に見ると、人間でいうところのまさに「鬱」にあたるそうなので、要するに生物にとって非常に危険なバランス状態にあるので、精神面のストレスにはことに気をつけろ、と、鍼の先生が言っていた。

 そこでなのかはさだかでないが、夢を続けざまに見る。まあ忘れるものも多いので助かるが、それでも起きがけの夢はさすがに覚えている。
 今朝の夢はこんな風だった。
 これから、戦艦大和のような船に乗って出撃するらしい。自分は赴任したばかりの士官なのかそれとも軍属なのかはわからず。
 いる場所も陸なのか艦内なのかはっきりしない。先輩の士官が案内してくれている。酒保のような、あるいは学校の売店のような店。売店のおばさんたちは当然のことながら退艦するので忙しく立ち働いている。「しっかりやってくださいね」などとわれわれに言っている。
 店の中。1920年代か30年代風。とにかく昭和初期風のつくり。棚にアメリカの雑誌とか単行本とかレコードとか、とにかく洋物ばかり。かかっている曲も、アメリカの女性ヴォーカル。これから戦う相手国のものなのに。
 かたわらの先輩士官に、「海軍はずいぶん自由主義的ですね」というと、士官も「そうなんだ」とうなずく。思えば、艦長だの司令官だのも、みんなこうした気風の中で育ったのだろうから、こんなこともお構いなしなのだ、などと考える。
 廊下に出て歩いていると、向うから青い縦縞の、なんだかパジャマのようにも見える制服に身を包んだいがぐり頭の少年水兵たちが二、三人かたまって歩いてきて、こっちを見据えながら「敬礼!」といって手を上げる。そうだ、答礼しなくては、と思ってこちらも手を上げすれちがう。すぐにこそこそした雰囲気と、ばらばらっと駆け足の音がして、かれらはなにか心急ぐことがあって、上官とすれちがいざまに走り去ったものと気づく。
 生きて帰らぬことがわかっている出撃の前なのに、ひどくのどかでのんびりとした、うららかな雰囲気。
No.35


2003年11月19日(水) 学校帰り、文鳥、ボルボ
 学校の帰り、ホームセンターに寄って買い物をする。
 いつも買っているNPFの鳥餌を買おうとして棚を見ると、別の種類のものが置かれている。「最高級フード 文鳥」というもので、愛知県の「アラタ」という会社のもの。完全農薬除去と謳っていて、分量もNPFに較べて50グラム多いが、ドライ野菜とフルーツ・蜂蜜は入っていない。
 他の鳥用(カナリヤ、インコ等)のNPF製品はちゃんとあるのに、文鳥用のだけがない。在庫を切らしているのか、それとも生産が追い付いていないのだろうか。
 たいして気にする必要もないのかもしれないが、やはり慣れ親しんだものが急になくなっているというのは、気分を不安定にさせる。味が合わないのではないか、これまで取っていた栄養分が不足するのではないか……など、たかがトリのためにいらざる心労を背負い込む。
 とりあえず一袋だけ買って、また在庫が揃うまで待つ。もしもうこのままだったら、別のホームセンターに心当たりがあるので、そちらにする。
 ボルボのガソリンを、ハイオクに変えてみた。加速、クルージングのスムースさが、心なしかよくなったような気もする。アーシング、ハイオクと来て、あとはアンチスウェイバー、ピラミックの新製品などつけることを考えている。
No.36


2003年11月20日(木) 新規リンク
 リンク先をいくつか増やした。
 ひとつは「坊主な麻酔科医」。九州にある病院に勤める麻酔科医、白井洋一朗さんのサイト。この方も、ニール・ドナルド・ウォルシュの「神」シリーズによって大いに世界を変えられたひとりだ。あの神様は、現代アメリカ人に現われただけあって、いかにもアメリカ風の屈託無さがあり、その対話は、あたかもふたりで減らず口を叩き合っているような具合で、思わず引きつけられて読んでいくうちに、ぽんと膝を打つような感じで発想が転換されていく。悩み多き中にも、一瞬一瞬気が楽になる時間が訪れる。やがてはそれが、ずっと持続してくれればいいのだが。しかしそうしたら、それが「マスター」なのだろうな。
 それはともかく、白井さんのサイトは盛り沢山で、それぞれ誠実だし、しかも頻繁に更新されている。リンクフリーだというのでバナーをいただいてリンクし、メールで知らせたところ、速攻で返信が来た。賢治好きなのでよかった。当サイトを早速紹介してくださり、感謝している。しかし今度は更新のプレッシャーがかかるな。白井先生、よろしくお願いいたします。
 もうひとつは、中国史はじめ歴史全般に興味を持たれている、「きいわこ」さんのサイト。わが著書を御購入され、しかもサイトの中の書評欄で好意的に紹介して下さった。御礼のメールを出したところ、相互リンクして下さるとのこと、どうもありがとうございます。
 上記2サイトは、いずれも訪問者数莫大で、私のサイトなど比較にならない。それでも、私のサイトの方からも飛んで行ってくれる人がいてくれれば幸いだ。
No.37

白井洋一朗  [E-Mail] [URL]  2003/11/21/11:11:33   No.38
 坊主な麻酔科医でございます。
 中学の頃、文鳥を飼っておりました。チュンと名づけ、大事な友だちでしたが、猫に食われてしまいました。それ以来、猫が苦手です。猫に似た人も、苦手です(笑)
 宮沢賢治、大好きです。デクノボウが常不軽菩薩だということを、最近になって知りました。常不軽菩薩様のように、生きることが出来たらいいなと(できぬことを知りながら)考えております。
 今日は、絵を見せていただきました。どの絵も素敵ではないですか!!
 最近、中国に惹かれてやみません。漢詩を原音で読みたいと、ただそれだけで中国語の勉強を始めてしまいました。もう1カ月聞きつづけていますが、全く(笑)聞こえてまいりません。
 と、訳のわからん書き込みですみません。
 きぬのみち先生、こちらこそよろしくお願いいたします!



2003年11月22日(土) モンゴル行
 白井先生、書き込み感謝です。イラスト、いくつか温めています。賢治物のアイデアも今朝浮かびました。どうかお楽しみに。
 
 その他のコーナーにも材料はあるのだが、なかなか更新ができない。そうすると新鮮度が落ちるが、内田百里蓮峙行文というものは生の旅行記ではいけない。帰ってきて、あとで記憶の中で印象を綴り合わせる、それが本物の紀行文なのだ」と大意述べている。名作『阿房列車』も、そうしてできあがったものだ。あとはこちらに、それだけの構成力と表現力があるかどうかということだ。
 今日からモンゴル出張。月曜日に帰国。今ごろは零下20度の世界。脂でギトギトの羊肉の水餃子(ポーズ)を顔がてらてらになるくらい食べても、外に出ると5分くらいしかもたない。その中で、モンゴルの人はモンゴル相撲を観に体育館へ歩いて出かけて行く。
No.39


2003年11月26日(水) モンゴルより帰国
 モンゴルより帰国した。
 帰国した夜は、さすがに食事の後は起きていられず、早早に就寝した。去年はそんな事もなかったように思うので、なんか急に年をとった感じ。
 やはりそれぞれの空港に到着すると、それぞれのお国の匂いがする。なにがどうと具体的に指摘できるというわけでもないが、トランジットの地である北京に降りると、懐かしい留学中の匂いがして、さまざまの記憶が蘇る。目的地ウランバートルも曾遊の地だが、ちゃんと覚えたその匂いがする。機内は与圧してあるはずだが、それでも空気が取り込まれ入れ替わっているのだろう。もっとも、ウランバートルは火力発電と、最近とみに増えた自動車の排気ガスによる煤煙とスモッグとでだいぶん大気汚染がひどく、結局はその匂いなのだ。
 現代化と脱公害とをともに進めねばならぬ分、発展途上国の近代化は二重に困難だ。
 月曜日の夕方に帰宅して、火曜日、水曜日はさっそく大学で授業。背中がやたら痛いのは、零下20℃のモンゴルで、知らず知らずのうちに筋肉が縮まっていたからだろうと思う。

 今日の授業、ずいぶん調子よく進んで、学生も引き込まれて聞いていたと思うのに、終わりごろあくびをした奴がいて、ずいぶん雰囲気が壊れた。最後に呼んで叱責すると、にっこり素直に笑って謝罪する。

 していいことと悪いこととの区別が分かる契機を、これまでずっと欠いてきたのだろう、としか考えようがない。
 
No.40


2003年11月30日(日) リンク追加、一般絵に賢治テーマのもの追加
 久しぶりに描き下ろしの絵をひとつ掲載。〔雲影滑れる山のこなた〕という、賢治の文語詩の情景を絵にした。
 賢治は羅須地人協会の運動が挫折して病臥した後、東北砕石工場という怪しげな貧乏企業に名ばかりの技師として雇われ、実際は石灰岩抹肥料の売り込みのセールスマンとなって、青年期からの夢よもう一度と、例によって空しい奔走をするのである。
 どこの農家や問屋でもけんもほろろに断られ、屈辱の悲哀と自己憐憫の思いを噛み締める賢治の詩はいくつも残っているが、このあたりの賢治については、わたしはつねに青江舜二郎『宮沢賢治』(講談社現代新書)、矢幡洋『賢治の心理学』(彩流社)、吉田司『宮澤賢治殺人事件』を脳裏の片隅に置いている。
 これらの著作が、賢治教信者からは異端扱いされ黙殺されているというのは分からないでもないが、マアいいではないか。神格化された存在は「殺人」されて等身大に蘇らねばその生命力を回復し得ない、というのはエリアーデならずとも宗教学の常識だろう。そしてそうなってもやっぱり、賢治は「菩薩」だ、と思えるか思えないか。賢治の真価と、賢治読者の人間的進歩は、そこからふたたび始まるのだと私は思う。
 話を戻して、そうした営業活動の中のある春の一日、賢治は曾遊の地、小岩井農場を訪れる。ここの種畜牧場の牧草用肥料として、石灰岩抹を売り込もうというのである。うららかな晴天には柳絮が舞い、雪も消えて緑の山には白雲の影が濃く落ちる。渓流にかかる水車の音が響く中、事務所の外に応対に出てきた事務員とその妻の、ハイカラだが貧しげな格好と、それに対して自分の惨めさを自分自身に対して糊塗すべく、また多少の山気もあってあえて威勢を張ったスーツ姿で訪問した賢治。頭には当時の写真に残る築地帽を被っている。
 このときの光景を、ほぼ詩のままに描いてみた。これは第2バージョンで、第1バージョンは、むしろ自分の中のイメージだったが、詩の情景とは微妙に違うので描きなおした。
 とはいえ、これは自己分析の過ぎる人に特有の、優越感の屈折した現われだ、と突っ込まれても、賢治としてはしょうがないな。

 この絵のアップに合わせて、浜垣誠司さんのサイト「宮澤賢治の詩の世界」のバナーを貰ってリンクした。こうした精緻な作業の積み重ねが、多くの人を助け、また大きな成果を自然に生み出すのだ。手際がよく、御本人の頭の良さが如実に分かるので心地よい。
No.41