++書き込み処++


2003年10月の日記


2003年10月2日(木) 書き込み処新たに作成・立ち上げ
 どうにも日記がうまく行かない。日記に縛られるからだ。その割に、更新記録の方はうまく行く。それで、「日記」と考えることをやめて、更新記録と合体させることにした。考えてみれば、話題にしたいから更新しているのであり、更新すれば話題として書ける。
 そうしたら、とてものことに、そこに感想を書き込んでもらえばいいと心づいた。つまりゲストブックと合体させればいいのだ。
 これで三つが一つになり、容量も節約できるし、ホームページのデザインもすっきりする。ここしばらく、明るめにしたいと思っていたので、バナーも明るくしよう。
 さらには、各月ごとにまとめられて、しかもログとしてダウンロードできる。かといって、カレンダーまでは画面に現われてもらう必要は、まあない。
 ところがまさに、ちょうどそんな日記ソフトがあったのだ。それが、これだ。作成者は女性の方のようだが、なかなかCGIの骨太さは強硬だ。指示の書き方も厳しい。三日という苦難の日々を乗り越えて、こうしてやっと設置した。いまでも相対パスのところが謎なのだが、結果としてうまく立ち上がっているので、これ以上は考えないことにしよう。デザインは、御覧のとおり透明で美しいので、そのまま使う。というより、このデザインと配置が、構想していたところにぴったり合ったのだ。
 Sak様、ゲストブックCGIありがとうございました。HPサービス様、更新記録と日記CGIありがとうございました。いくつかまだ取り入れているCGIもあります。そしてこれから使うこの日記CGIの作者、shiromuku様に感謝します。
 なお昔の日記と更新記録は、「書き物」の欄外からリンクできる。
 どうか皆様、感想を書き込んで下さい。今後も御見捨てなきよう、よろしくお願い申し上げます。
No.1

kinu  2003/10/02/12:22:14   No.2
ok


kinu  2003/10/02/12:26:49   No.3
ますますOK



2003年10月2日(木) リンク追加
 リンクに、CGI作成者である、Mrs.Shiromukuのサイトを追加した。この日記のCGIの作成者だ。サイト登録も希望しておいた。登録してくれればよいのだが。
No.4

kokushi  2003/10/03/12:57:10   No.5
こちらでも読めます。



2003年10月5日(日) CGIだのいろいろいじっている
 CGIだのさっぱりわからないが、いじっていると面白い。自分のやったことが、画面にみんな反映される……というのは当たり前だが、単なるHTMLより、少うしばかりやりがいがあるような気がする。
 今回は、Text Formatter "RIDDLE SKIN"
http://www.edit.ne.jp/~deagle/
というプログラムをダウンロードして導入してみた。これはテキストファイルにスキン、つまりページのデザインの皮をかぶせるような形で、CGIによりブラウザにそのデザインを反映させるというものだ。つまり行間を取ったり、背景を変えたり、さまざまできるわけだ。
 とはいえ、要するにHP作成ソフトを買うか、タグを打てばいいのかもしれないが、何と言ってもMSFPEという、もっともお手軽なヤツを使っているし、システムは95だし、それに親切なフリーソフトがこうして沢山あるのだから、それを使う方が楽だ。それに、何となくCGIの入門にもなる。こうしてその面白さに取り憑かれ、のめりこんで、みずからCGIだのPerlだののプログラムを組んでいる人たちの、なんと多いことか。才能の発揮どころは、こんな風に、世の中にますます増えているのだ。積極的に攻めていく人びとは、その明るさと熱意で運命を引き寄せる。
 まあ、プログラムを組むというのは、MS−DOS時代以来、ほんとうの素人レベルだが、面白いということが少しはわかっている。これからアップするいくつかの「書き物」を、このCGIでやってみよう。
 今日はそれとともに、試験の採点をしていた。前期末の試験を、後期の学期始めに行なう、というシステムは、どれくらいの大学が採用しているのだろうか。受講者が600名を超えているというのは、採点するときにはちとつらい。昔の大学伝説に、「あの教授は研究室の床に答案を放り投げ、いちばん遠くに飛んだものには優、近いものには不可をつけているんだ」などというのがあったが、もちろんそんなことはしていない。というか、やっぱりそんなものは伝説に過ぎない、ということが、今回はじめてわかった。妻いわく、「そんなことをしたら、あとでまた、順番に並べ直さなければいけないでしょう」と。そのとおり、答案用紙は、すでに事務の方で綴じてくれてあるので、投げるためには、まずそれをばらさなければならない。そんな面倒臭いことをするくらいだったら、ちゃんと採点していった方が、ずっと早い。というわけで、採点はきちんと行なっている。
 ボルボのページの更新がずっと滞っているのだが、実はエアコンが死んでいて、まだ原因究明をしていない。夏の間、どうにもガレージに入れる気にすらならなくて、もっぱら父親のレガシー250Tに乗っていたのだった。朝山さんのアドバイスにしたがって、バッテリーのマイナス端子を外しておけばよかったものを、それすらさぼっていた。いよいよ涼しくなってきたので、そろそろ乗ろうか、と思ったら、案の定(当然だ)、バッテリーが上がっていた。
 しかしこうなるとむしろ、おかしなやる気が出る。まず20号線笹塚近くの日石のスタンドに行って、「例の強力な、あの赤いバッテリーでボルボに合うやつはないか」と尋ねると、ないという。しかし親切に、「環8高井戸にオートバックスがありますよ」と教えてくれたので、そこまで行って、オートバックス特約輸入の、アメリカ製の灰色ボディで強力そうなやつを手に入れた。明日はこれをつなぐつもりだ。前のは朝山さんがつけてくれたものだった。どうも自分でやらないと、いまいち大事にしない、これはきわめて悪い癖だ。お金もかかるのに、こうして自業自得という絶体絶命の境地にまでたどりつくまで、ぜったいに身に染みないのだ。
 これでまだ、エアコンの点検修理が残っている。嗚呼。
 他にもまだ、夏の間には文鳥騒動もあったのだが、それは文鳥ページに、いつかアップするつもりだ。
 
 
No.6

kokushi  2003/10/10/13:10:31   No.12
赤いエネオスのバッテリーは Victory Force、灰色のアメリカ製のは Exide というやつですね。エクサイドに関しては、いくつか記載のサイトがありますよ。



2003年10月5日(日) 「書き物」追加
「書き物」に「札幌でのはじめてのピアノフォルテ演奏会を聴いて」追加。ずいぶん昔に書いたものになったが、印象はなお鮮烈。演奏会の後、ステージに上がってヴァルターのコピー版ピアノフォルテに向かい、鍵盤に指を下ろして、恐る恐るモーツァルトのピアノ・ソナタK.525の出だしを弾いてみたときのタッチ、その音は、そう、なんと言うか、「モーツァルトになった」(大それてはいるが)気分だった。ちなみに、私は奇しくもモーツァルトととは同年の生まれなのだ。
No.7


2003年10月5日(日) 忙しかった
 今日はいろいろ忙しかった。
 明治神宮でお茶会があり、それに招待されていた。
 昼前に家を出て、代々木公園を突っ切る形で放射23号線を登っていく。明治神宮の入口にさしかかると、「ミッレ・ミリア……」とかいうタイトルで、クラシック・カーのパレードがあるらしく、大勢の人が蝟集している。ベレー帽にTシャツのガーディアン・エンジェルスまで交通整理をしているのには驚いた。名前も知らぬクラシック・カーがすでに何台も集合し、揃いのカーキ色のレースウェアに身を包んだドライバーたちを乗せた車が、北参道口の方から、まだまだやってくる。写真を撮る人はいるは、胸にVIPカードを吊るして得意げな顔の人はいるは、とんだ騒ぎと同日になったものだ。
 車は古い順からパレードするらしく、茶席に向かいがてら眺めていると、最後はどうやら60年代の流線型のレースカーのようだった。そこらへんまでが、「クラシック」となったということか。
 それはいいが、排気ガスの強烈な刺激臭にはあらためて参った。揮発性なので、あとあとまで喉や鼻に匂いと後味が残るのだ。それは、たまに通りすぎて行く現代の車が、変に優しく思えてくるほどのものなのだ。
 排ガス規制以前、こんな空気の中で、なんとも思わず少年時代を過ごしていたのかと考えると、とんでもないことだったのだなと、あらためて感じる。
 茶会の終わった後、明治神宮の本殿へ行ってみると、ここでは、「人形感謝まつり」が行なわれている。古い人形を、紙で作った「ひとがた」と引き換えて受け取り、外陣の境内におびただしく重ね並べて展示している。雛人形が主だが、こけし、西洋人形、ぬいぐるみ、はてははにわや仏像など、人形といえないようなものまで納められていた。なかには、ずいぶん古かったり、由緒ありげなものもあったようだということは、漏れ聞こえてきた係の人の「華族様……」という言の端からもうかがえた。
 しかし、夜になったら、ここの光景は、いくらお祓いがしてあっても、神官といえども、そうとうに怖いのではないか。髪が伸びたり、にっこり笑ったり、思いがこもった人形にはそういうことがある、というではないか。
 明治神宮(と、このまつりを企画した団体)は、うまいことを考えたものだ。環境問題などから、このごろはどこの神社仏閣でも引き取って処分してくれなくなった人形を、明治神道以来の一種精神的総本山としての権威のある明治神宮が受け入れるとなれば、みなこれで、どんなことがあっても魂が受け容れられ、鎮め清められると安心するだろう。それから、但し書きの張り紙にもあったように、もしその人形が、歴史的、学術的、芸術的、工芸的に非常な価値を持つ物であったならば、お祓いを済ませたあとで、資料として研究のために保存することができ、それは文化的な意義と価値を持つ。ついでに、自然環境や伝統文化に貢献しているということで明治神宮の声望もますます高まる、というわけで、まさしく一石三鳥くらいの効果があるだろう。
 帰りは、NHK放送センター側で開催されていた、北海道物産フェアに寄った。これだけ人が出て、ホタテ、カニ、ジャガイモ、ラーメンその他その他、いじましいほど食べまくっているのに、北海道経済の地盤沈下が止まらないというのは、どういう要因があるのか、それともこんなフェアと現地へ行くということとは必ずしも同期しないのか、それが問題だ。自分は、おいしいソフトクリームを食べて帰宅した。
 
No.8


2003年10月6日(月) 採点終了!
 一日かかって、やっと採点が終了した。500人を越す分だった。途中で鍼に行く時間を挟んで、ようやく仕上げた。でもまだ、これを採点簿に記入するという作業が残っている。しかもそれを、自分の出席簿にも転記しておかねばならないのだ……。現在、もう7日に入っている。しかし本日提出以外に時間的チャンスがないので、その予定に向けて、もうすこし気張るつもりだ。
 しかしどうして多くの学生は、紛争の紛の字を「粉」、弊害の弊の字を「幣」と間違い、そして枠組みの「枠」という字を書けないのだろう。えらい難しい漢字や熟語はきっちりと書くのに。ここの大学の学生は、たぶんそれはそれは優秀なレベルの人たちな筈なのだ。
 そのうち、学校では仕事、家ではHP作りをしたい、というのが今の夢なのだ。

・ニュースを観て:
藤井総裁という人は、なかなか一筋縄では行かないなと思う。解任までの期間を利用して、最後に一矢報いて小泉政権を揺さぶるつもりなのだろうか。こういう際の官僚の身の処し方というのは、じつに難しいものだ。ここまで逆らうと、漢代中国ではまず間違いなく鞭打ちの後、棄市(市場で公開処刑で斬首、のち死体は食肉用に売られる)されるか、その前に自殺するかだ。このあたりに関しては、濱田英作『中国漢代人物伝』(成文堂)を御覧下さい。
No.9


2003年10月8日(水) ボルボその他
 足掛け二日、延べ二時間の作業で、ボルボのバッテリー交換を済ませる。アマチュアとして、ぶっつけ本番で、この時間は、長いのか短いのか。ただはっきり言えることは、リハーサルをしなかったが故に、これだけ苦労したということだ。どのレンチを使う、どういう道具をそろえておく、寸法は、留め金具の形状は、現状回復の手順は、などなど、その準備が8割できていれば、きっとあと2割の労力で、時間も手間もうんと少なくてできたはずだ。またそれが当然の常識だ。こちらが非常識の素人生兵法をやったということは、これまた重々承知で、にもかかわらず、学ぶことなく、またあらためて思い知ったというわけだ。
 中央線の路線切り替えのトラブルでもそうだったが、なんでもリハーサルが極めて重要なのだ。品川駅はそれがうまく行ったので、スムーズに開業できたらしいではないか。アメリカ軍だって、実戦さながらの訓練を積んでいるから、世界無敵なのだ。イラク戦後統治だって、日本やドイツの経験があるから、自信満々で臨んだわけだ。それでもあれだけ悲惨な失敗を今もしているのだから、たかがバッテリー交換で大げさといわれるかもしれないが、プロジェクトをひとつこなす、というのは、なまなかなものではないのですね。
 授業の方はやっと2回目が済んだところで、導入はとりあえずうまく行ったようだ、と思っている。しかし勝負はこれからなので、学生の興味を引きつけていけるかどうかは、今後何回かの展開にかかっているわけだ。

ニュースより:
★シュワルツェネッガー当選。ローマ衰退期を見ているようだ。「パンとサーカス」での人気。アレック・ギネス主演の「ローマ帝国の滅亡」は名画だったと思う。
★落合監督就任。来シーズンの順位が、すべてを語るでしょう。
 いずれにせよ、文明衰退期のさまざまな現象が、身の回りに継起しているという印象は、免れ得ない。
No.10


2003年10月9日(木)  レガシー、宇宙の戦士など
★レガシー
 エアコン修理のため、ボルボを朝山さんに取られてしまったので、父親のレガシー250Tを借りて通勤。レガシーの方がエンジン2.5リッターで大きいのだが、ボルボに較べるとなんとも軽く感じる。
 いまのところ走行距離6万キロというところなのだが、吹け上がりも上々。バッテリーを換え、ATFもオイルも換えた効果が、やっと上がってきた(全部日石のもの。バッテリーは例の日石の、赤いいかにも凄い奴。良いものを入れて性能を上げたという心理的安定効果が実に大だ。もしかするとプラシーボかもしれないが、それでもいいではないか)。それと、ここのところ、高速走行中心だったので、エンジンの燃料噴射のタイミングがそれに合っているのだろう。燃費もリッター10キロというところ。
 あとはイリジウムプラグにしたいのだが、スバルのエンジンは水平対抗式シリンダーで、プラグが下の方についており、ちょっとやそっとでは交換ができない。カーショップでも数時間はかかると言われた。だから、予めプラグのみ買っておいて、定期整備のときに併せて取り付けてもらうよう頼むしかないだろう。

★宇宙の戦士
 学校で会議、そののち鍼に行く。鍼を打ってもらって寝ているときに、どういうわけかハインラインの『宇宙の戦士』のことが頭をよぎる。ハインラインは、ストーリーテリングにかけては、おそらく群を抜いているのではないか。初期の短篇などの皮肉な書きっぷり、構成の緻密さは、こういうことが得意な民族性を持つイギリス人の、アーサー・C・クラーク(『白鹿亭奇聞』などを思い起こしてもらいたい)ですら、ときには及ばないことがあると思う。P.K.ディックの世界などに類するものは、すでにハインラインが何回も練り直していて、それと対比すれば、ディックの作品は、まだまだ直接的で青臭いとすら言えよう。現にハインラインは無名時代のディックを買っていてタイプライターを与えたことがあり、そのことに対してディックはきちんと謝辞を述べている。
『宇宙の戦士』は毀誉褒貶があるが、一種の集団内成長物語として、またプラグマティカル人生論として面白い。小難しいしかめつらをしてものごとをわざと難解に論じたい人たちにとっては、おそらくとうてい我慢できないしろものだろうけれども。
 これと、晩年の大作『愛に時間を』の最終章あたり、第一次大戦時代のシーンとを重ね合わせると、軍隊、それもアメリカの軍隊、ないし実用的に生きる人の心が、どのようなエートスで形成されているのか、かなり理解できるような気がする。これにトム・クランシーを加えれば、おそらく文句なしだ。
 <スターシップ・トゥルーパーズ>の監督、ポール・バーホーベンは、そのあたりは百も承知で映画化しているのだろうから、たちが悪いといえば悪い。しかし、いいんです、そんなことは。あの映画は、昔のハリウッド映画への、やはりひとの悪いオマージュとしてのみ観ればいいのだから。だって、たとえば無機的な宇宙揚陸艦の操縦席のシーンは<2001年>の本歌取りだし、タフガイのアンチヒーロー、ズイム軍曹は、まるで<ここより永遠に>のバート・ランカスターを髣髴させるではないか。
 そうしたことどもとは別に、私にとって、『宇宙の戦士』の中の「歴史と道徳教育」の担任であるデュボワ先生の授業のシーンと、ロバート・シェクリイの『明日を越える旅』の主人公ジョーンズが大学で教えるシーンの描写は、教員としてつねに思い返すものとなっている。
 おしまいに、機動歩兵の強化服について。あれを一度、自分なりに描きたいと願っているのだが、スタジオぬえのイメージを超えることは、どうしてもできないだろうと、初めから弱気に思う。
 強化服のデザインには、あとは<スター・ウォーズ>の帝国軍のものがあり、あれは明らかに、骸骨を膨らませたスタイルですね。

☆フルタ食玩「世界勇者の肖像─GLADIATOR」の <カエサル> ゲット。2箱目で出たのだから運がいい。もう打ち止めにする。
No.11


2003年10月11日(土) 火曜まで外出
 これから「山形国際ドキュメンタリー映画祭2003」へ行く。戻るのは月曜夜。
 東北道は朝から渋滞のようだ。その場所もまた決まっている。
 しかたない。
No.13


2003年10月17日(金) リンク更新と追加・他
 リンクを1つ更新、2つ追加した。
 1つ目は、明治大学山内健治ゼミナールのURL変更。サイト製作担当の学生が交替し、あらたに立ち上げ始めている。大学ゼミというのは、3年生と4年生から構成されているという性格上、2年という短期間でメンバーが半分は入れ代っていくから、継続性を維持するのが難しい。とくに最近の学生は、あまり引き継ぎということもしないから、なおさらだ。だがともかく、今後の発展を期待したい。
 あとの2つは、新規リンク。いずれも沖縄関連。しかも先日行ってきた、山形国際ドキュメンタリー映画祭2003とも関わっている。つまり、ペンションゆめあ〜るの主人である比嘉豊光氏は、村山友江氏とともに「琉球弧を記録する会」の中心人物でもあり、今回の映画祭に「島クトゥバで語る戦世(いくさゆ)─百人の記録」なるドキュメンタリー映画を出品している、というわけである。しかも山内健治氏(別名ピキ氏)は、このペンションに毎夏ゼミ生を引き連れて滞在し、地域調査、また戦争記憶の調査を行なっていて、そうした関係から、今回の映画祭にも深くコミットしている。
 私? 私はただ、ピキ氏に連れられ、あれよあれよと観察し、考察しているのみである。アンガジュマンにかけては、ピキ氏はまさに天才なのだ。そして、かれに巻き込まれるなかから涌き出てくることどもの、なんと豊穣なことよ。

★山形国際ドキュメンタリー映画祭の印象については、日をあらためて、ここでまた。芋煮会も体験できた。

★上野アメ横に、沖縄物産ショップ「わした」オープン。16日初日オープンに、たまたま行き当たる(これはピキ氏も、まだ知らないだろう)。もう夜8時頃だというのに、かなりな人の入り。食品、菓子から焼き物、織物、CDまで盛り沢山。ジーマミーという豆腐があったので嬉しくなる。これは中国の豆腐と同じ製法のもので、ヤマトのものよりも固く、独特の匂いがあるが、実はこの方が、ゴーヤーチャンプルーなどに極めて合うのだ。もちろん中華にも、当然ながらぴったり。北京大学留学中、すっかりこの味に慣れたので、日本の豆腐では物足りないのだ。
 それと、カンカラ三線を新たに作って売っていたのには驚いた。これは戦後の物資不足の時、沖縄の被災民収容キャンプの中で、米軍レーションの空き缶を利用して作ったことにはじまる簡易三線だ。ふつうの三線が三万五千円とかするのに対してさすがに廉く、一万円を切る値段だ。組み立てキットなら、もっと廉い。
 こんなものが、いまさら、物珍しいものとして売れるのだ。ここでは、戦争経験が捨象され脱色され、ただ物珍しさと、新たな表現の可能性のみが強調されるのだ。しかつめらしい、あるいは賢しらげな批判的言説が、その中で、いったいどういった力を持ち、また発揮し得るだろうか。
 しかし欲しい、カンカラ三線……。
 沖縄物産販売は、このところ東京の地下鉄駅のコンコースなど、どこかしらで必ずやっているのだが、それだけ人気があるということなのだろう。昨夕帰宅途中の車の中で聴いたNHKラジオでも、オキナワン・ポップスの特集をやっていたし、まったく、海洋博の無残なる失敗は、いったいなんだったのかと思いたくなる。
 沖縄復帰も、橋龍も、関係ない。結論としては、時が恵む、ということなのだろう。
No.14


2003年10月17日(金) 学生面談
 今日は授業3コマ。それにゼミ学生との面談。けっこうきつい。学生が二人とも、昼のアポイントの時間に来なかったので、ゼミの後面談する。こちらのことばを一度では理解しない。というか、理解しようとしない。「○○っすかッ」と必ず聞き返すのが、近頃の流儀だ。たぶんその間合いに、なんとか身をすり抜けようとて逃げ道を探すのだろう。そうして会話ないし質問の矛先を逸らし、勢いを鈍らそうという算段だ。つまりそれほどまでに自我が敏感なので、ちょっとでも触れられたと思えばすぐいやな気分になるわけで、かれらはそれを恐れているのだろう。とはいえ、こちらが相手と同じ目線に立てるまっとうな人間であって、サディスト(もちろん向うにとってだ!)ではないということがかれらに理解されれば、かろうじて糸口はつかめる。
 と思う。
No.15


2003年10月26日(日) HP更新
 HPのデザイン更新で、この間からあくせくしている。フレームを導入しているが、いったんフレーム内でジャンプしたあと、ホーム画像をクリックして戻る際にどうすればいいかを考えて悩んだ。つまり同一フレームが現われないためにはどうすればいいか、だ。画像プロパティでの設定の時、ターゲットフレームのhtmlファイルにハイパーリンクして、しかもそのファイル画面がターゲットフレームそのものに現れるようにすればいいのだが、そうすると、外部からホーム以外のページに飛んできた人は、2つのフレームがセットとなっているindexページに戻れない、つまりホームページ以外のページに上部フレームのボタンからジャンプできない、という不都合が発生する。
 それを避けるためには、ハイパーリンク先はindex.htmにしておいて、ターゲットフレームは_blankにすればいいようなのだ。
 ただしこうすると、そのつど新たなページを開くことになるので、カウンターはどんどん回ってしまう。
 さまざま問題はあるものだ。
 こんなこと、素人じみていてバカらしい、と思う人もたくさんいることだろう。
No.16


2003年10月26日(日) いまのところうまく行っている
 この日記に関しても、細かく変えている。そのつど調整を取っている。
No.17

kinu  2003/10/26/13:59:17   No.18
多少うまく行っているようですが、まだ問題ありかな。



2003年10月26日(日) 松浦友久先生追悼
 わが国における漢詩研究および李白研究の第一人者であった、早稲田大学の松浦友久先生が亡くなられてから、はや一年が過ぎた。
 先月27日、一周忌に合わせた納骨式と偲ぶ会も終わり、このたび松浦先生の奥様からその時の記念写真をお送りいただいたのを機会に、松浦先生の思い出をこの場に記しておくことにする。
 東洋史専攻の学生であった私は、在学中に中国文学科の松浦先生の授業を受けたことはない。
 私が先生の謦咳に親しく接したのは、1988年、大学院交換留学生として北京大学に留学していた時のことであった。先生が交換教授として北京大学に赴任されるという情報は、前任者である商学部の横山先生よりすでに得ていたので、すでに留学して一年を経過し、中国生活の勝手も多少はわかるようになってきていた私は、義務感もあって、先生の着任直後から、親身にお世話をさせていただいたのだった。
 その中でひとつ覚えているのは、先生の宿舎の電気スタンドのプラグをつけ直したことである。当時の中国では、電気スタンドのような小さな電気器具は、別売りのプラグを自分で買ってコードと接続するか、もしついていたとしてもぐらぐらのそれを留め直し、確実に締めつけるのが当たり前だったのである。220ボルトという大電圧でもあり、スタンドを扱う先生の危なっかしい手許を見て、わたしはすぐに自分の部屋から工具を持ってきて、あらためてしっかりと装着したのだった。
 それ以来、すっかり先生と親しくなった私は、週に数度は先生の部屋を訪れて、日本の最新の情報や、北京大学の動静などを報告するのが慣わしとなった。
 先生は、はじめの頃こそ留学生宿舎の食堂で食事をしていたが、やがて料理を鍋に入れて部屋に持ちかえり、電熱器で温めなおして食べるようになった。それはひとつにはゆっくりしたかったことと、もうひとつには、食堂の料理は塩が利きすぎていたので、お湯で薄めていたという事情があった。「ここの料理は塩辛くてねえ」と口癖のようにいう先生の口調を、いまも懐かしく思い出す。
 宿舎での先生は、たいてい静かに読書をされていたように覚えているが、それでも部屋の中に、しだいに書籍の数が増えていったところをみると、ときには北京市内まで出て、書店で本を買っていたのだろう。
 そんな静かな読書の折に、私がいきなり部屋を訪ねても、先生はいやな顔ひとつせずに、いつもさまざまな話を聞かせてくださった。
 そうした話の中には、当時先生が研究し、考察した最新の成果がふんだんに含まれていたのだろうとは思うが、専門違いの私には、先生が「漢字の持つゲシュタルト効果」についていくら語っても、その内容の半分くらいしか頭に入らなかった。比較文化論などを教えている現在、もっとよく理解しておくのだったと、いまさらながら切実に思う。
 当時私は、自分の研究の続け方について深く悩んでいた。自信を失い、方向性は見出せず、将来の目途も立たない中で、交換留学の話に飛びついたのも、そうした現状から少しでも逃れようという気持がはたらいたためでもあった。
 どういう話のきっかけからか、私はあるとき先生に、そうした悩みを、ぽつりぽつりと打ち明けたことがあった。先生はその場では何も言わずに黙って私の話を聞いていたが、それから数日してふたたび部屋を訪ねたさい、先生は問わず語りに、自分の研究メトードについて教えてくれたのであった。
 ノートのつけ方、収集した資料の整理の仕方、疑問点の解決と考察の筋道の立て方など、それはその時の私にとって、あたかも干天の慈雨のごときもののように感じられた。その方法は、先生が長年にわたってみずから見出し、練り上げてきた、いわば秘伝であり、企業秘密とでもいうべきものであろうことは疑いなかった。それを一介の大学院生、それも弟子でもない私に伝授してくれた、その先生の度量の大きさを、私は感動と驚きとともに、今なおありがたく思うばかりだ。私が先生のことを、恩師と仰ぐ所以である。
 それ以外にも先生の人間味に触れたと思う逸話としては、失恋沙汰で悩んでいる留学生のことを親身になって思いやった先生が、そのときしきりと、「時の神様というものが必ずいてね、時の神様が必ず解決してくれる」と言ったことである。苦しかったり悲しかったりするとき、私もまたこの先生のことばを、よく思い出す。
 私は古楽器の演奏によるモーツァルトが好きで、北京にもまたテープとCDを多数持ってきていた。その頃は、先生が熱狂的モーツァルト愛好者で、モーツァルト協会の会員番号まで持っていたことなどは、先生自身がちっとも話をなさらないので知る由もなかったが、告別式のときにそのことを知り、また偲ぶ会で「モーツァルト以外は音楽ではない」と先生が広言されていたという話を聞いて、もしその時にこうしたことを知っていれば、さぞかし含蓄溢れるモーツァルト談義を先生より聞けただろうにと思うと、これもまたあらためて悔やまれることのひとつである。
 先生が交換教授として滞在されていた1988年から1989年4月までの北京は、たとえ社会の底流に経済過熱による矛盾の増大という不気味なマグマの胎動があったとはいえ、表面上は天安門事件という嵐の直前の、共産中国の最後の幸福な無風状態とでもいうべき時期であっただろう。
 その中で先生は中国での充実した研究調査期間を終え、後任の牧田先生を迎えて、北京大学を去っていかれた。その際に、中文関係の北京大学日本人留学生を交えた歓送迎会を、大学近くのレストランで開くべくセッティングができたことは、今も私にとって誇らしく、かつ楽しかった思い出である。
 その後、私は札幌に勤務するようになって、先生とは年賀状を交換するだけのつながりになってしまったが、片時も先生のことは忘れることはなかった。最初の単独翻訳『シルクロードの伝説』にも、最近の著書『中国漢代人物伝』にも、先生への謝辞を入れた。そして私が年賀状、礼物、献本を送るごとに、先生は懇切丁寧なご返事をすばやく下さるのだった。その筆勢も文章も、最後まで変わることはなかったので、私は先生の闘病のことも臨終のことも何も知らないまま、新聞の訃報欄で青天の霹靂のように逝去の記事を見つけ、驚愕したのであった。

 松浦先生。先生は、早稲田大学の、最高の先生でした。
 先生の思い出として、この場に、北京大学での送別会のときの記念写真を掲載します。
No.19


2003年10月27日(月) ホームページ更新完了その他
 ホームページのリニューアルがやっと完了した。
 フレームをつけた結果、それぞれのページのHOME画像からジャンプしてホームページへ戻ると、新しいページとして開かれてしまう問題が発生しているが、これは前にも述べたように、検索とかして、どこかからいきなりそれぞれのページに飛んできたときにホームページに戻って、そこから別フレームのボタンをクリックして新たなページに行けるようにするための苦肉の策であり、しかたがない。
 その際はどちらかのページを閉じるか、さもなくば、ブラウザーの「戻る」ボタンで戻ってもらうやり方がいちばんいいと思う。
 なにかその他でよいやり方があったら、メール乃至この場にいお教えいただければ幸いです。
 山形の話、自衛隊観艦式の話など、他にもいくつか書くことがあるのだが、それはまた、次の機会に。と言っても、だんだん鮮度が落ちていくのがつらいところだ。

★松井4番─そんなの駄目なのは当たり前ではないか。松井の貢献度を減らして活躍の場を狭め、結果的にヤンキースを2連敗させた、これはトーリ監督の明らかな采配ミスだ。

★阪神3敗目─これも当然だ。リーグ優勝まであんなにかかったのだ。緊張しきっているのだから。これでダイエー有利だ。でももう、どっちが勝ってもいい。満足した。

☆ボルボ、エアコン直る。といってももうそこここが傷んでいる。今回はコンプレッサーを比較的状態のいい中古品に交換し、あとは騙し騙し使うことにする。いずれ、少しずつホースやエバポレーターに手をつけていかねばならないだろう。足回りもいじりたいし、ピラミックにも新製品が出ているし、まあ気長に楽しもう。
No.20


2003年10月30日(木) 日記・ゲスト書込み用アイコンアップロード
 日記・ゲスト書込み用アイコンをアップロードした。
 といっても、書込む人がいなければ意味がないのだが。
 10月はさまざま目まぐるしかった。校務もあるし、それ以外のことも多かった。
しかし落ち込むより、むしろうまくいっていると考えた方がいいかもしれない。乗り出すと案外簡単に運ぶのだが、それまでの腰が重いのだ。途方もなく重い。
No.21

kinu  2003/10/30/13:19:32   No.22
けっこうむずかしいものですね。



2003年10月30日(木) 夢の話
 二、三日前に見た夢の話を書いておく。
 鍼の先生は、夢を見るのはいいが覚えているのはよくない、というのだが、ときには覚えているときもある。それでも昔に較べて、だいぶん忘れるようになった。以前はありありと覚えていたものだ。しかしかつて新聞の日曜版読者バラエティ欄で夢が話題になり、三重や四重の夢、つまり醒めたと思ったらまだ夢……を繰り返した体験談がたくさん寄せられていたことを思い起こせば、夢を覚えている人はけっこう多いのだろう。フロイトもユングも夢から無意識研究に入っていったのだし、心理療法にも夢日記をつけろというものもある。漱石も百里睫款説を書いている。夢がセルフのメッセージだということは、私も疑っているわけではない。ただ、それを追い求めるようになってしまうと、危険水域に乗り入れることになるのだろう。
 先日の夢とは、このようなものだ。
 新幹線に乗りに行く。その新幹線は、ドアからではなく、先頭の丸い部分(旧型の新幹線ばかりに乗り慣れていたので)が貨物飛行機のようにぱっかりと開いて乗るようになっている。
 つぎつぎに乗客が乗り込んでいくが、私の番になると、車掌(かコンパニオン)が手を突き出して「満員です」という。ツアー客でちょうど満席になってしまったというのだ。無念とも腹立たしいともつかない気持で直前の乗客(百名山ブーム以来どこにでも跋扈しだした、あの丸帽子、小さなブランドリュック、ウォーキングシューズのちょこまか歩きのオバ、ありていに言えば70年代初頭のディスカバー・ジャパンブームの際にアンアン・ノンノを小脇に抱えて旅情をぶち壊しにした「ヤング」のゾンビだ)を見やると、バッグにつけた小判型でプラスチック製のツアータグが目に入る。
 ピンクがかったベージュ色のツアータグには、たまご色で「ピキけんじ」と彫り入れてある。それを見て私は、「ああピキ氏は、ついにツアー企画にまで手を出すようになったのか、なんと恐るべき行動力と実行力だ」と思った。
 というところで目が覚めた。
 思えば、ピキ氏はハワイ在外研究帰国以来精力的に活動し、山形国際ドキュメンタリー映画祭の沖縄関連活動のプロモート、文章執筆、明大祭でもバンド演奏にゼミ生を率いての手踊りと、止まるところを知らない活躍ぶりなので、それを見ている私は、いささか大人しくネットワークも狭い自らを省みて、途方もなく取り残されたような気分になったのだろう。それがこんな妙な夢となって現われたのに違いない。
 このあとも二日ほど連続で、シチュエーションはもう忘れたが、とにかく自分が仲間外れになっているという内容の夢を見たので、それほど自分の「取り残され」観念は強固なのか、とあらためて感じた。
 『賢治の心理学』という本に、賢治が持っていた「関係嗜癖」のことが出てくるが、こうした心理機制の保持者は他にもいることだろう。

*代々木上原「ルヴァン」のパンはやはりおいしい。トーストにしたらすぐわかる。
No.23

kokushi  2003/10/31/18:49:47   No.24
ピキ氏は明大祭でライブをやります。