旅の記録・ちょっと珍しいハワイ 2004年9月上旬、3たびハワイへ行きました。 |
レンタカーで、ノース・ショアへと出かけました。 しかしその前に、まず足を運んでおこうと思った場所がありました。 それは、アメリカ原潜グリーンビルと衝突して沈んだ、あの宇和島水産高校練習船「えひめ丸」の、殉難記念碑でした。 この記念碑は、ホノルル港とアラモアナ・ビーチ・パークの中間にある、カカアコ・ウォーターフロント・パークの、海を眺望する高台に作られています。 車を止め、少し探して歩いているうちに、ホノルル港の方から、軍艦がするするとすべり出て来ました。それがどうも、アメリカのフネらしくないのです。積んでいるヘリも白いし、もしかして……とレンズをズームにしてファインダーを覗くと、艦尾に翻る旭日旗が見えました。やはり日本の護衛艦だったのです。訓練か親善か、よくはわかりませんが、きっとこうして、頻繁に太平洋を往来しているのでしょう。 |
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ほどなく記念碑の場所を探し当てました。手を合わせて冥福を祈りました。やはり無念の思いが胸に迫るものがあります。 碑の中央に置かれている錨は、沈没したえひめ丸から引き上げられたものです。碑の中央には殉難した生徒と教員と乗組員の名が、また左右にはえひめ丸沈没の経緯が日本語と英語で、加えて沈没した地点の記録と、石碑から見たその方位が刻まれています。 石碑はまだ新しく、よく整備されています。この記念碑を建てることを、アメリカがよく応諾してくれたものだと思います。 錨の先の、その向うに、ちょうど護衛艦の姿が入りました。 |
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護衛艦は2隻の単縦陣でした。見ていると、ちょうどえひめ丸の沈んだと思しき地点のあたりで、しばらく停止しているようでした。 ホノルル港を出てからも、しばらくは登舷礼を解かなかったようだし、私が思うに、おそらくこの地点を通過する日本の船は、海の男として、かならずここで沈んだ殉難者たちの魂に対して敬礼をしていくのではないでしょうか。 そうして2隻の護衛艦は、水平線の彼方目指して、瞬く間に遠ざかって行きました。 真珠湾攻撃の時と思い合わせて、平和なればこそ、こうしてハワイで日本の軍艦を目にすることもできるのだと思いました。 |
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さてここは、オアフ島の東の突端に位置する、ハナウマ湾の景勝です。かなり写真の色を調整したのですが、ほんとうはもっとずっと美しい青色です。散文的な形容ながら、ちょうどおはじきかラムネの瓶のガラスのよう、としか言い表わせない風に感じました。 | ||||||
これは、東海岸のクアロア・リージョナル・パークから見た離れ小島、通称「チャイナマンズ・ハット」です。 9月に入ってもう海水浴シーズンも一段落し、海も澄んで静かでのんびりしたものでした。 |
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クアロア・ビーチの水際に打ち寄せられていた椰子の実です。 その昔、ピキ氏が柳田国男『海上の道』にとりつかれていたころ、波照間島の渚で撮ってきた椰子の実の写真をみんなに見せて大騒ぎしていたことを思い出し、その向こうを張って撮影してみました。 ちょうど波が来たところ、水泡がかぶさったところ、透明な水、白く輝く砂粒、いずれも我ながら狙いどおりによく撮れたものと、ひそかに思っています。 じつは、下の写真に示したパレードにおいて、私が扮したミルク神の杖として使用した木の枝を拾ったのは、ここのビーチでした。ホームセンターで建材を買って利用しようかと考えていたら、まったくあつらえたような太さと長さの、しかも適度に節があって曲がった枝が落ちていたのでした。 |
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クアロア・ビーチの駐車場に集まった、さまざまな鳥たちの写真。ハワイは野鳥の楽園です。人間もかれらのことをいじめないし、みなのびのびとしています。 とくにここにもたくさん見えている赤い頭のカーディナルは、人間の枢機卿並みに、なかなか気取って威張ったものでした。 面白いものです。 |
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日にちは変わって、ハワイ・オキナワン・フェスティバルのワイキキ・パレード当日の朝。 ワイキキ・ゲートウェイ・パークに集結したジョジョ沢渡、シーサーズ、ピキ氏、明治大学奴隊、それにミルク神に扮したきぬのみち、侍童に扮したひよこまめ(きぬのみち妻)、同じく侍童姿のきぬのみちの本務校学生たちの勇姿です。 *なおここから以下の写真は、きぬのみち本務校の学生が撮影したものです。 |
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ハワイ・オキナワン・フェスティバルは、もう22回を数える、伝統あるフェスティバルです。ハワイの日系人には沖縄移民の出身者が多く、むしろヤマト出身者の方がマイノリティー的なところもあるようです。したがって、ここではウチナー風とヤマト風とが交じり合って、独特のエスニシティを作り上げています。たとえば、エイサーやカチャーシも、「ボン(盆)・ダンス」と呼ぶように。 こうした混合ぶりを示すように、フェスティバルでは日系の各団体、沖縄からのエイサーや祭り太鼓隊、台湾系団体の龍舞、韓国系団体のサムルノリ、地元のハイスクールのブラスバンドなども、毎年ともにパレードします。 もっともワイキキ・ビーチでは、毎週なにかのパレードが、いつも行なわれているのですが。 いよいよパレードに乗り出したシーサーズとジョジョ沢渡、そしてマスコットの坊や。初めのうち、接触不良で音がスピーカから出ずに気を揉みました。 |
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パレードは、ワイキキ・ビーチの目抜き通りであるカラカウア・ストリートを、西から東へと進んでいきます。この日の朝はちょっと雨もよいでしたが、逆にしのぎやすくて助かりました。 前に行くのはシーサーズ、垂れ幕を掲げたきぬのみち本務校学生、ピキ氏率いる明治大学奴隊、そしてきぬのみち扮するミルク神およびひよこまめ+きぬのみち本務校学生扮する侍童(傘持ちも含む)です。 パレードは前後の団体とペースを合わせるのがけっこう大変で、ぴたっと止まったり早足になったりとせわしなく、息が切れて汗びっしょりになりました。とくにきぬのみちはミルク神の面を被っているので正面しか見えず、侍童の助けを借りずには歩けませんでした。 |
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かつ踊り、かつ進む、明治大学奴隊。女性軍は鳴り物を手に持っています。 国頭やっこ踊りというのはけっこう複雑でむつかしく、かれらはこのパレードに備えて、夏休み前から猛練習を積んだそうです。振りつけはシーサーズ。はじめはぎくしゃくしていたようでしたが、パレードを続けている間に、見違えるほど上達していったと、帰国後シーサーズは感心していました。やはり本番という大舞台の凄さと威力というものでしょう。 ヤマトンチューのくせに、みんなウチナンチューのふりをして、それをさまざまなエスニシティを持ったハワイアンが見物する。 |
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やっこ踊りの後ろから進む、ミルク神。沖縄・先島諸島の八重山列島では、ニライカナイ(祖霊の住むあの世)から福を運ぶ神の信仰があり、それが中国やベトナムから伝わった弥勒信仰と合体しました。それゆえ「ミルク」と呼ばれ、なおかつその姿は、中国で弥勒の化身とされる布袋和尚のスタイルをしているのです。他方、南西諸島の人にとっては祖霊神でもあるので、単純に「ホトケ様」でもあります。 きぬのみちは、最初にピキ氏からこの話をもちかけられたとき、二つ返事で引き受けました。「弥勒様」になれるなんて、そうそうめったにあることではないからです。冥加だし、功徳です。ただ、勢いで妻までも巻き込んでしまったのは、少々気の毒なことをしたと思っています。 ただし、道具と衣装はすべて自前で整えねばならない、とのことでした。 さあどうするか。まずはネットで、じっさいのミルクの写真を検索です。すると、ありました。素晴らしい。 それを参考にしながら、準備の開始です。 (この話、下段へ続く) |
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まず足袋、草履、襦袢、帯、これらは新宿マイシティで簡単に入手できました。黄色一色の着物が難物で、これは浅草仲見世で見つけました。頭巾用の赤布は渋谷の生地屋マルナンで計り買いしました。腰に挿した大きな扇子は中華街です。 そして、どこにもないのが、ミルクの面と手に持つ軍配型の団扇、それに杖です。この中の杖については、クアロア・ビーチで拾った枝を細工した、ということはすでに述べました。 残るお面と団扇は、ネットで拾った写真を手がかりに、すべて手作りです。材料は、新聞紙、ヤマト糊、ダンボール、バルサ材、それから千葉ニュータウンのジョイフル本田で購入した和紙です。 この和紙がとても美しく、そして和紙というのは糊で湿らせると伸縮自在で無理がきき、それでいて乾くとピンと伸びて、仕上がりがじつに綺麗なのです。 お面と団扇の作成というこのクリエイティブな作業に、延べで6日くらいかかりました。まったく、何をしているのでしょうか。 |
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パレードもだいぶん進み、もうすぐマリオットホテルに近づきます。終点は、動物園もあるカピオラニ・パークで、歩く距離は全部で1.5キロメートル余りでしょうか。ショッピングなどでぶらぶら歩くとずいぶんあるようにも思えるのですが、パレードをしていると、あっという間に終わってしまったという印象でした。やはり無我夢中だったのでしょう。 きぬのみち本務校の学生が、垂れ幕を持って行進します。「アロハ〜、東京から来たシーサーズ、および明治大学奴隊」と書かれています。ぜんぶピキ氏のプロモートで、この人、ほんとうに大学の先生なのでしょうか? 垂れ幕の背後には、シーサーズの踊り子であるマタハリ・ダンサーズも続きます。 時間は午前中ながら、沿道の人々も次第に数を増し、写真を撮ったり手を叩いたりと楽しんでいたようでした。 |
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ワイキキの海をバックにした、ミルクのアップです。お面はボール紙の芯の上に新聞紙を十何層重ね、さらに和紙を三回貼り重ねました。目と鼻の穴も開けてあります。 ミルクの歩き方は、一歩ずつ歩いては左右を振り返って侍童を見守るのですが、パレードの都合上、そればかりもしていられません。しかし、できるかぎり沿道の人たちに顔を見せるようにしながら歩きました。左手に杖、右手に団扇を持って、なかなかしんどいものでしたが、福を授ける神様なのですから、いたしかたありません。 着物の合わせを逆にしたのは、ミルクはニライカナイから来た祖霊、つまりあの世のものだからです。 午後にカピオラニ・パークでシーサーズのコンサートがあって、それにもちょっと登場したのですが、それが終わった後、オキナワンの老婦人が近寄ってきて、その人に「ホトケ様ありがとうございます」と言われたときには、「ああやってよかったな、有難かったな」という思いと、「オレがこんなことやってよかったのかな」という思いとが綯い交ぜになって、なんとも複雑な気持ちでした。 |
これこそ、一生の思い出というものでしょう。